Tiny garden

誰かの幸せな日に(2)

 こじんまりしたバーの店内は、ウイスキーのような琥珀色の光に満たされていた。
 元営業の安井さんはこういった店をたくさん知っていて、用途別に使い分けているようだった。
 さしずめ今夜は内緒話用のセレクトといったところだろうか。テーブル席が三つ、あとはカウンター席という小さな店だった。カウンター席には二人連れのお客さんがいたものの、テーブルはどれも空いていた。
 店員さんに待ち合わせしていることを告げると、奥のテーブル席へ通された。
 コートを脱いで席に着き、まずはホットワインを注文しておく。雪のちらつく二月の夜はただでさえ寒いのに、パーティドレスの足元はストッキングで素足と大差ない。タクシーを降りてちょっと歩いただけで身体が冷えてしまったから、温かい物が欲しかった。

 頼んだワインが運ばれてきて、一人でちびちびと半分くらい飲んだ辺りで、ようやく安井さんが店に現れた。
 隅の方に一人で座る私を見つけて、申し訳なさそうにしながら近づいてくる。目が合うと少しだけ笑んで歩みを速めるその姿が、妙に懐かしく感じられた。
 こんなふうに待ち合わせをするのも久し振りだった。
「悪い、遅くなった」
「ううん。私もごめん、先に飲んでたよ」
 中身の減った耐熱グラスを掲げると、安井さんもそこに目を留める。
「何飲んでた?」
「ホットワイン。身体温まるし、美味しいよ」
「じゃあ俺も、それにしよう」
 彼はコートを脱ぎ、式場で見たブラックスーツ姿で向かい合わせの席に座る。
 すぐにホットワインを注文してから、私に向き直って軽く笑んだ。静かな視線が私の顔から、パーティドレスを着た上半身へと移る。
 たっぷり十秒間ほど眺めた後で言われた。
「しかし、ドレスって本当に雰囲気変わるな。今夜はすごくきれいだ」
「まあ、こういう日だからね。ちゃんとした格好しないと」
 私が肩を竦めると、尚もこちらに見入りながら不服そうな顔をされたけど。
「誉めてるのに、ちっとも嬉しそうじゃないな」
「それはそうだよ……」
 そんなあからさまに『いつもと違う、意外だ』って顔をしながらしげしげ見られて、素直に喜んでだけいられるものだろうか。
「安井さんの顔に、馬子にも衣裳って書いてあるように見えるから」
 もちろんそれはこの人が、私の普段着をよく知っているからということでもあるんだろうけど。
 にしてもだ。そこまで物珍しげに、この機会を逃したらもうしばらくは見られないぞってな具合にじろじろ見ることはないんじゃないだろうか。しかも私の顔と鎖骨を交互に見ていらっしゃる。
「思ってもないよ、そんなこと」
 心外そうに苦笑した後で、安井さんは睫毛を伏せる。長すぎず短すぎない黒い睫毛の下に、今更遠慮がちに視線を落とす黒い瞳が覗いていた。
「これでもじろじろ見ないよう気をつけてるのにな」
「へえ、そうなんだ。気を遣わせてごめんね」
「もっと心を込めて言え。俺の言葉を信じてないだろ」
「気をつけてる割に結構見てるよね。わかるよ」
 私の指摘に安井さんはあっさり開き直ったようで、すぐに視線を上げて改めて私を見る。食い入るように見る。
 そして、社内では『真面目な人事課長さん』で通っている凛々しい顔つきでのたまう。
「ばれてるなら仕方ない。堂々と鑑賞させてもらおう」
「相変わらずだね、安井さんは」
 私は呆れて溜息をつく。
 真面目そうに見えて、仕事以外の局面では大して真面目じゃないのがこの人だ。女の子に向ける視線はものすごくわかりやすいし遠慮がない。
 もしかして安井さんが今現在、特定の彼女もいないまま寂しい思いをしてるのも、ともすればセクハラ紛いのこの視線及び言動のせいじゃないだろうか。私の知らないところでも一度や二度、やらかしている可能性は十分にある。
 そんな憶測が私の顔にも出ていたのかもしれない。
 ふと安井さんが眉を顰めた。
「園田、俺のこと誤解してないか」
「してないよ。私、安井さんのことは結構よくわかってると思う」
「ならいいけど……何でかわいそうな人でも見るような目をするんだ」
「気のせいじゃない?」
 久々に外で会うのに、一緒にお酒を飲もうとしているのに、私達はなんて微妙な会話をしているんだろう。恋愛関係にない男女なんてこんなものなのかもしれない。軽口ばかり叩き合うのも楽しいといえば楽しいけど。
 でも実際、かわいそうだとは思ってる。
 この人が今夜、寂しい思いをしているのだけは紛れもない事実だからだ。

 程なくして、ホットワインのグラスがもう一つ運ばれてきた。
 その頃には私のグラスも残り三分の一というところだったけど、形式的に乾杯はしておく。
「園田もまだ飲むだろ? 次は何にする?」
 私のグラスが空きそうだと見て、安井さんが尋ねてきた。
「そうだね。何にしよっかな」
 私はバックバーに並ぶ種類豊富な酒瓶に目をやりながら考える。身体も温まったことだし、二杯目は冷たいのでもいいかもしれない。炭酸系がいいなと思い、モスコーミュールをお願いした。
 そして私は冷めてしまった残りのワインを、安井さんはまだ湯気の立つワインを飲みながら話をした。
 もちろん話題は今夜の結婚式についてだ。
「花嫁さん、ものすごくきれいだったね。見とれちゃったよ」
 長谷さんの晴れ姿はすっかり目に焼きついている。私がまた思い出してしみじみすると、安井さんは複雑そうな顔で頷いた。
「ああ。花婿も、それなりに立派だったな」
「それなりどころか、めちゃくちゃ格好よかったじゃない。いいよね、幸せいっぱいで」
「まあな。ああいうの見てると祝ってやりたい反面、羨ましすぎて辛いな」
 安井さんがグラス片手に溜息をつく。
 言葉通り、その顔には羨望の色がありありと浮かんでいた。
「後輩に先を越されて、仲間だと思ってた同期にも彼女ができて。俺だけ独りぼっちだよ」
 先を越されるのは今回が初めてじゃないはずだけど、親しくしていた相手とあっては余計に羨ましいのかもしれない。最後の呟きは本当に寂しげだった。
 私はしょげる安井さんを励まそうか、もう少し黙って話を聞いていようか、一瞬迷った。
 その迷いが伝わってしまったのだろうか。
「霧島やその奥さんとは休日、たまに一緒に飲むんだ」
 安井さんが口調をがらりと明るくして、自ら語を継いだ。
「そういう時はまず間違いなく石田もいるんだけどな」
「じゃあ、霧島さんご夫婦とも結構仲いいんだね」
 新郎新婦とはプライベートでも親交があると聞いていたけど、そんなにしょっちゅう会っているとは知らなかった。私が驚くと、安井さんも涼しげな目を瞬かせた。
「言ってなかったか?」
「うん、多分。そこまでとは知らなかったよ」
「そうか……。そうだったかもな」
 銅のタンカードになみなみ注がれたモスコーミュールが運ばれてきた。ここのはライムの櫛切りがそのままお酒の中に浸かっているみたいだ。それを私が一口飲むと、仕切り直しみたいに安井さんが口を開く。
「霧島と長谷さんと、それから俺と石田。四人で会うのは楽しかった。あの夫婦は結婚前から仲睦まじくて目の毒だったけど、こっちはこっちで女性の前でも馬鹿話して、それを寛容的に受け入れてもらっていたから、おあいこだと思ってた」
 安井さんがちょっと笑う。
 私は、長谷さんは結構大変だったんじゃないかなと思ってみる。彼氏と彼氏の友達と楽しく過ごすって、意外と難易度高いはずだ。まして安井さんと石田さんの『馬鹿話』は本当に十代男子のノリだから、ぼやぼやしてたらツッコミが追い着かない。
 それもあの、ふわっとして優しい長谷さんだからこそできたことなのかもしれない。私は彼女の笑顔を思い浮かべていた。
「でも今年の初め、また皆で集まる機会があってさ。その時石田が、彼女を連れてきたんだ」
 そこでも安井さんは笑った。今度は苦笑に近かった。
「俺も石田には、『一度彼女を連れてこい』って嗾けたりしてたんだよ。でもいざ連れてきたのを見たら、無性に寂しくなったんだよな。俺だけ一人で、何やってるんだろうって」
「それは寂しいね」
 私が相槌を打つと、安井さんはどこかほっとしたみたいにこちらを見る。
「そう思うだろ? 急に連中から取り残されたような気がして、とにかく堪えたんだよ」
 こういう話は、幸せな式の後にはあまりすべきじゃないのかもしれない。
 だけど誰かの幸せな日に、他の誰もが同じように幸せだとは限らない。不幸だとまではいかなくても、感傷的になったり、寂しい気持ちになったりする人もいて当然だった。安井さんがそういう気分でいるなら、それは仕方のないことだと思う。
「安井さんも幸せになれたらいいのにね」
 励ますつもりで私は言った。
 すると安井さんは徐々に冷めてきたワインをぐいっと呷って、それから苦笑いを見せる。
「それができたら、こんなにやさぐれてないよ」
「できると思うけどな、安井さんなら。すごく格好いいし」
「……だから、簡単に言うなって」
 面食らったように安井さんが息を呑むから、私は今日見たばかりの光景を伝えてあげることにする。
「いいこと教えてあげる。安井さんが今日の式で歌を歌った時、うちの課の子たちが一斉に写真撮ってたんだよ」
 それはもう、アイドルみたいな人気ぶりだった。
 だから彼女がいない寂しい人には朗報だと思ったのに、なぜか、安井さんの反応は鈍かった。
「へえ、写真をな」
 私の言葉を反芻するみたいに繰り返して、じっと私を見つめてくる。
 もっと喜べばいいのにと思いながら、私は続けた。
「うん。それってやっぱり関心があるからでしょ? もてるんだよ、安井さんは」
「そうかもな。面白半分でなけりゃ、好意があるからこそ撮るんだよな」
 言葉では納得しているふうなのに、心なしか瞳が暗い。
 じとっとした恨めしげな視線に、私はまあまあと宥めるつもりで応じた。
「だから安井さんならその気になれば彼女くらいできるよ。頑張ってみればいいのに」
 更にそう続けると、安井さんはまるで思い立ったように、グラスに半分くらい残っていたワインを一息に飲み干した。
 そして息をつきながら言った。
「確かに、頑張れば彼女くらい作るのは簡単かもしれない」
 もてるという事実を否定するつもりはないらしい。まあ、謙遜されても話が進まないからいいけど。
 私がにやっとしかけると、安井さんはそれを咎めるみたいに顔を顰めた。
「でも、俺が求めてるのはそういうことだけじゃないって、最近は思い始めてる」
「……どういうこと?」
 思わず聞き返したものの、どうやら安井さんの中でもはっきりした答えが出ている話ではなかったようだ。ためらうような沈黙があった。
「何と言うか……。もっと地道にやりたいのかもしれない」
 考え考え、彼はそう口にした。
「地道って? 恋愛をってこと?」
「ああ」
 安井さんが真面目な顔で頷く。
 それで私も地道な恋愛を自分なりに考えてみて、
「例えば、まずは交換日記から始めますみたいな?」
 たちまち安井さんが呆れたようにバーの天井を仰ぐ。
「いつの時代の恋愛だよ……。今時幼稚園児だってそんなのしないだろ」
「じゃあ、付き合うにしても結婚前提で、将来を見据えた交際をしますってこと?」
「……そっちの方がまだ近い」
 どうやらこれも正答ではなかったようだけど、ともあれ安井さんは肩を竦める。
「もっとも、単に隣の芝生が青く見えてるだけかもしれないけどな」
 心なしか自嘲気味に呟いていた。
「そういう恋愛をしてる連中を見て、ちょっと羨ましくなってるだけとも言えるからな」

 隣の芝生なんていつだって青く見えるものだ。
 それは恋愛に限らず、何だってそうだ。誰かを羨むのも、自分もまた同じようになりたいと思うのも仕方のないことで、そういう気持ちを持て余したり、折り合いをつけながら誰もが生きている。
 それなら安井さんが、誰かのしているような恋愛に憧れるのも仕方ないのかもしれない。
 ちょうど結婚式に出席してきたばかりだ。幸せな新郎新婦にあてられたとしても不思議ではない。

 すっかり感傷的になってしまった安井さんを、私はしばらくなす術もなく見つめていた。
 だけどふと、手にしたグラスが空なことに気づいて、声をかけた。
「まだ何か飲む?」
 安井さんも自らのグラスに視線を落とす。
「園田はまだ付き合えるのか?」
「いいよ。私ももうちょっと飲みたいし」
 私はかぶりを振って、既に半分近くまで減っているモスコーミュールを飲む。
 このペースだともう一杯くらい注文するかもしれないな、と思っている。
 どうせ予定があるわけでもなし。思い出話からは遠ざかりつつあるけど、もう少し付き合ってあげよう。
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