Tiny garden

小さな記憶(3)

 夜道を二人で歩くのは、久し振りだった。
 付き合い始めて間もない頃、こうして会社帰りに、駅までの道を辿ったことが何度かあった。普段は自転車通勤の私も、安井さんと一緒の時は自転車を押して歩いた。駅まで行くのも大した距離ではなかったけど、短い時間でもいいからあの頃はとにかく一緒にいたかった。
 もちろんその気持ちも含めて、昔の話だ。
 なかったことになっているからといって、私の中で過去の恋愛に対する記憶まで消えてしまったわけじゃない。それでもあの頃のどきどきするような気持ちや噛み締めた幸せ、好きな人と一緒にいられなかった寂しさ切なさが、そのままそっくり残っているわけでもない。何せもう三年も経っているのだから、原形を留めているのはごくわずかな思い出だけだ。
 そんな頃もあったなと懐かしく思えるような、小さな記憶だけが存在していた。

「話って何? 相談事?」
 元気そうではない安井さんに、私は早々に尋ねた。
 彼は隣を歩きつつ、複雑な顔で夜空を見上げている。微かな星の光を睨んでいるようだった。
「そんなとこ。――園田」
「何?」
「霧島達の結婚式の後、何か予定あるのか?」
「二次会やろうかって、課の皆で話してはいたんだけどね」
 私は彼の問いに軽く笑った。
「でも主役不在で集まってもどうかって話になって、今のところ白紙。披露宴の後だと遅くなるし、もしかしたら何にもしないかも」
 長谷さんも、それから結婚相手である霧島さんも、ご実家はこの辺りではないと聞いている。今回の結婚式でははるばる遠方からご両親やご親戚、お友達が訪ねてくるとのことで、披露宴後の二次会はそういった身近な人達だけの出席となるらしい。
 職場でやる二次会の話を長谷さんにしたら、
「中抜けしてちょっと顔出せるようにしようか?」
 と言ってくれたけど、ただでさえ忙しい結婚式当日にそんな無理はさせられない。そんなわけでこちらの二次会は開催しないことになりそうだった。
「安井さんはどうするの? 営業課の皆さんと二次会やったりする?」
 私が聞き返すと安井さんはかぶりを振り、
「こっちもそういう話にはなってない」
 と言ってから、急に顔を顰めて、大きすぎる溜息をついた。
「それより石田だよ。あいつが俺を裏切りやがった」
「石田さんが? どういうこと?」
 裏切ったとは穏やかじゃない言葉だ。
 安井さんが私をちらりと見た。なぜか恨めしげな目をしていた。
「石田に彼女ができたって話、聞いてるだろ?」
 そう言われて、私は少し考える。そんな噂、あっただろうか。
「彼女ができたとは聞いてないけど、何か、新人さんにぞっこんだって噂にはなってたね」
「そう。それだよ」
 安井さんは首が外れそうな勢いで頷く。
「あいつ、自分で仕事教えたルーキーに手を出したんだ。社会人としてあるまじき行為だ」
 何でも、今年度営業課に配属された新人さんがそれはそれは溌剌とした可愛らしい子で、営業課主任である石田さんがもうめろめろだって噂が社内に広まっていた。
 我が社は社内恋愛には比較的おおらかで、仕事に影響さえなければ咎められたりはしないから、石田さんについての噂も割と好意的――と言うか、『あれはもう駄目だ手遅れだ恋の病だ治しようがない』的な見方をされて温かく見守られてきたらしいと聞いている。
 私は件の新人さんとは直接の接点もなく、出退勤時に行き会った時何度か挨拶をした程度だったけど、確かにフレッシュな印象の可愛い子だった。
 確か、小坂さんって言ったっけ。
「じゃあ噂通り、付き合うことになったんだ?」
 私が確かめると安井さんは苦虫をごりごり噛み潰した顔で、
「ああ。もう石田の浮かれっぷりと言ったら酷すぎだ。事あるごとに惚気るし、あの子にすっかり骨抜きにされてるし」
「へえ、何か微笑ましくていいね」
 男の人が彼女ができて浮かれるって、それこそ中高生くらいまでの特権なのかと思ってた。石田さんも可愛いとこあるんだ。是非一度、浮かれているところを見てみたい。
 もっとも私と安井さんの評価は正反対のようだ。
「微笑ましいもんか。あいつに惚気られて見せつけられてあてられる俺の身にもなってくれ」
「友達の幸せでしょ? 素直に喜んであげればいいのに」
「嫌だ。そりゃ俺だって破局を望んでいたわけではないよ。けどな」
 安井さんは鼻息も荒く続ける。
「あいつ、霧島の結婚式に出た後は彼女と二人で飲みに行くって言うんだよ」
「駄目なの?」
「むかつくだろ! 後輩に先を越されて、同期の奴も彼女と一緒で、俺だけが寂しい独り身だ。華やかな披露宴の後、寒空の下を背中を丸めてとぼとぼ歩く自分の姿が思い浮かぶようだ!」
 芝居がかった口調で嘆く安井さんの姿に、私は失礼ながら笑いを堪えるのがやっとだった。
 なるほど、それで裏切ったなんて穏やかじゃないことを言ってたのか。友達の幸せなんだから、よかったねって受け入れてあげればいいのに。
 もっとも口ではそう言いつつも、石田さんが上手くいってなかったら安井さんはむちゃくちゃ心配するに決まっている。その辺りは複雑な男心というやつなんだろう。
「そっか。石田さんに振られちゃったんだね」
 私はおかしいのを我慢しながら、慰めのつもりで勧めた。
「じゃあ安井さんも、誰か可愛い女の子を誘って飲みに行けばいいじゃない」
 安井さんは途端にはっとしたようだ。目鼻立ちのすっきりした顔に浮かんでいた怒りや苛立ちや嘆きの表情が一瞬で引っ込んだかと思うと、冷めたような眼差しを向けられた。
「園田も結構残酷なこと言うよな」
「残酷かな? それが一番手っ取り早い解決法だと思うんだけど」
 石田さんに彼女ができたのが寂しいなら、安井さんだって彼女を作ればいいんじゃないだろうか。安井さんならそれほど無理難題というわけでもないはずだ。
 むしろ現在誰とも付き合っていないことに、私は少し驚いている。私と同じで、別に一人でもいいかって気分にでもなっているんだろうか。
「と言うか、そんなこと言われたらこっちが切り出しにくくなるだろ」
 物思いに耽りかけた私に安井さんはそう言って、ふと道の途中で立ち止まる。
 私が二歩先で同じように足を止め、振り返ると、彼は実際言いにくそうに言葉を継いだ。
「園田」
「何?」
「来月の結婚式の後、俺と一緒に、飲みに行ってくれないか?」

 歩きながら話すのに夢中になっていたせいか、いつの間にか駅がすぐ近くに見えていた。
 道の向こうで明るい光を放っている駅舎と、道の途中で立ち止まっていやに真剣な顔をしている安井さんとを、私は何度か見比べた。
 そうすることに深い意味があったわけじゃない。
 ただものすごく、動揺していた。

 冬の風は頬が痛くなるほど冷たいけど、空気は清々しく澄んでいる。深く息を吸い込むと肺までしんと冷え込んで、目が覚めていくようだった。
 私は深呼吸を何度か繰り返してから、ようやく口を開いた。
「何で私と?」
「……お前、その素っ気ない答え方はないだろ」
 安井さんはがっかりしたように白い息をつく。
「いや、だってどう考えてもそうじゃない。誘う相手を間違ってるよ」
「他に誘える相手もいないんだよ」
「いないって断言するのどうかと思うよ。安井さんなら頑張れば結果はついてくるって」
「そんなに俺と飲みに行くのが嫌か」
 やんわり断ろうとしたら睨まれた。
 嫌かと聞かれると、私も反応に困るわけなんだけど。寒さで唇が震えそうになるのを隠す為、私は更に口を開く。
「あのさ、嫌か嫌じゃないかって問題じゃなくて――」
「わかってるよ。どうかと思うって言いたいんだろ」
 安井さんのその発言は、ともすれば現在の均衡を崩しかねないすれすれの言葉だった。
 私だって、別れた者同士が友達として二人で会う、という状況自体が悪いことだとは思っていない。そういう関係だってあるものだろうし、それを不潔だと断罪するほど潔癖症でもないつもりだった。
 でも私達はあれ以来、約半年の交際期間をないものとしてきたわけだ。
 その上で同期、同僚として安定した関係を築いてきた。
 今更、二人で会う必要なんてあるだろうか。
 もしかすると安井さんは、なかったことにした上で、同期として誘ってきたつもりなのかもしれないけど。
「結婚式の後は感傷的な気分になる気がするんだ。きっと、思い出話をしたくなる」
 そう言った安井さんは、今から既に寂しげだった。
「園田には思い出話に付き合って欲しい。そういう話ができる相手は、俺にはお前しかいないんだよ」
 縋る口調でせがまれて、私もさすがに断ったことへの罪悪感を抱いた。
 私を誘ってきたことをどうかと思っているのは事実だ。でもそこまで素っ気なくすることでもなかったかもしれない。
 安井さんは後輩である霧島さんに先に結婚されて、同期の石田さんは彼女にめろめろで、きっとものすごく寂しくなっているんだろう。親交のある二人を祝いたいという気持ちの裏側で、二人を羨む気持ちもあって、意外と打ちのめされていたのかもしれない。朝に会った時口にしていた疎外感という言葉も、実はこのことを指していたのか。
 私だってそれほど嫌なわけではない。むしろ断固として拒む方が昔のことを引きずっているみたいで、よくない気もしてきた。
 何より今の安井さんは、誕生日に残業した私より、遥かにかわいそうだ。
「同期のよしみで誘ってくれた、ってとこ?」
 確認のつもりで聞いてみた。
 安井さんが薄く笑う。
「もちろん。下心があって誘ってるわけじゃない」
 それならいいか、と私も思う。
 別に下心を疑っていたわけではないけど、私を誘う理由はちゃんと知っておきたかった。それに安井さんの言う通り、同期の私なら、結婚式後の感傷にも付き合える。
「そういうことならいいよ、付き合う」
 私は彼の誘いを了承した。
 安井さんは見るからにほっとしたようだ。
「ありがとう、園田。正直言うと寂しくてたまらなかった」
 正直に言ってもらわなくてもわかってたけど、私も笑顔を返しておく。
「ううん。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
「迷惑だったんじゃないのか」
 安井さんが微妙に訝しげだったから、私は首を横に振る。
「迷惑じゃないよ。言ったけど、嫌かどうかが問題だったわけじゃないから」
「そうか。本当にありがとう」
 よほど安心したんだろうか。安井さんはもう一度感謝を口にした後、寒そうに軽く足踏みをしながら言った。
「寒いのに引き止めて悪い。そろそろ行こうか」
「そうだね。駅、もうすぐそこだよ」
 新年早々風邪なんて引いていられない。おまけに今日は誕生日なんだから。
 私と安井さんはすぐそこに見えていた駅の明かり目指して、早足になって歩き出す。

 冷たい向かい風を切って進み、駅舎の中へ飛び込むと、ぱたりと風が止んで暖かくなった。
 私達は揃って改札をくぐり、それから上り階段の手前で一旦足を止める。私と安井さんは反対方向へ帰るので、上がるホームも別だった。
「じゃあまた会社で。ばいばい」
 私が軽く手を振ると、安井さんも手を挙げながら、
「園田。誕生日おめでとう」
 と言った。
 そう言ってもらったのは、三年ぶりだった。
「……あ、ありがとう。覚えててくれて」
 一瞬遅れてお礼を言うと、安井さんも懐かしむような笑みを浮かべた。
「忘れないよ。名前を見ればわかるんだからな」

 ホームへの階段を駆け上がりながら、私の気持ちは弾んでいた。
 誰かに誕生日を祝ってもらうのもいいものだ。
 安井さんとはいろいろあったけど、そういうことが何もなかったことになっていたけど、ようやくこれで普通になれるのかもしれない。
 なかったことと言いながらも、別れてからの私達は一定の距離を保ってきた。その距離がある意味、私の中に残っていた小さな記憶を消さずに留めてきたのだと思う。
 でも、何かが変わりそうな予感があった。
 もしかしたら安井さんと、いい友達になれるかもしれない。最後に残った小さな記憶も消し去って、初めからずっといい同僚だったみたいに付き合える日がやってくるかもしれない。
 二十八歳の誕生日、そんな予感で胸がいっぱいになっていた。

 ホームに出た私より数秒遅れて、安井さんも反対側のホームへ出た。
 ちょうど向こうに電車が来たところで、その姿はちらりとしか見えなかったけど――こっちを見て、笑っていたようだった。
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