Tiny garden

小さな記憶(2)

 そもそも、なかったことになるのも当然だった。
 私と安井さんは、半年しか付き合っていなかったからだ。

 しかもその半年間だって、頻繁に会ったり連絡を取り合っていたわけじゃない。
 本当に恋人同士っぽいことをしていたのは、はじめの三ヶ月だけだ。後半はお互い仕事が忙しくて、ほとんど自然消滅しかかっていたようなものだった。けじめはつけたかったから、私の方から頭を下げて、別れようと言った。だけど私が何も言わなくても、なかったことになっていたかもしれない。
 安井さんは何も悪くなかった。付き合っている間はすごく優しくしてくれたし、私がけじめをつけたくて話がしたいと切り出した時は、ちゃんと時間を作って私の話を聞いてくれた。私も嫌いになって別れようと思ったわけではないから、その後しばらくは落ち込んだ。でもその落ち込んだ気持ちすら、忙しい時期の仕事に呑み込まれてしまった。
 安井さんとも別れた後何ヶ月間かは気まずくて、会社でも顔を合わせづらかったけど、時が経つにつれ挨拶も世間話もするようになって――三年が過ぎた今ではこんな調子だ。

 正直、社内恋愛が拗れて破綻したら、もっとどろどろするんじゃないかと思っていた。
 お互いに相手のことを引きずって、社内で気まずいオーラを放ち合っては周囲を凍りつかせ、やがて二時間ドラマも真っ青の泥沼愛憎劇に――なんてそんな経験、二十八年生きてて一度としてなかったけど、そのくらいのリスクはあるものだと認識していた。こんな適当お気楽主義の私だって、何の覚悟もなく『好きです』と告げたわけじゃない。
 でも終わってみれば案外平和というか、すっきりさっぱりというか、むしろ何にもなくなったというか。
 短期間で終わる恋だから、こんなものなんだろうか。
 もちろん不満はない。今は同期で同僚って立ち位置で接してくれる安井さんに、感謝しているくらいだ。

 朝、コンビニで買ったショートケーキを、お昼に社員食堂で食べた。
 コンビニの商品とは言え、たまに食べる私にとってはなかなか悪くない味に思えた。またしばらくは甘い物断ちの日々が続くのだから、ここは一口一口丁寧に味わっておきたい。
「あ、園田さん。お昼ご飯はケーキ?」
 ちょうど休憩が一緒だった長谷さんが、私の隣に座った。
「うん。ダイエット中だからお昼ご飯にケーキ食べようと思って。合理的でしょ?」
 私が笑って答えたら、そうだね、と言ってころころ笑っていた。
 彼女は秘書課の二年後輩だけど、私とは同い年になる。そして同い年という観点から見ると、私よりずっと大人っぽい。今日は結婚式の為に伸ばしているという髪をたおやかに束ねていて、きれいだな、私も髪伸ばそうかな、などと思ってしまう。
 私は伸ばしたところで使いでもないし、自転車乗るのに邪魔だから、結局切りたくなるのが目に見えている。いつも思うだけで終わってしまうのが私だ。
 私が長谷さんの髪を見ている間、長谷さんは私のケーキを見ていた。それからふと思い出したように微笑んで、言った。
「園田さん、今日お誕生日なんですよね? おめでとう」
 私はプラスチックのフォークの先に突き刺したいちごを、危うくころりと落とすところだった。
 だって、言ってくれる人がいるとは思わなかったから。
 慌ててフォークを一旦置いてから、聞き返した。
「……今日、誕生日だって言ったっけ?」
「うん。私が入社してすぐの歓迎会で、自己紹介の時に」
「覚えててくれたんだ!」
「もうすっかり園田さんの持ちネタですもん、覚えてますよ」
 一月十日生まれだから、園田伊都。これは私の、小学校時代からの自己紹介の際の定番ネタだった。社会人になっても引っ張ってる辺り芸のないことこの上ないけど、お酒の席の話でも、こうして覚えててくれる人がいるなら嬉しいものだ。
「長谷さん優しい! 祝ってくれて感激だよ!」
 思わず声を上げると、長谷さんは社内でも評判の、とびきりの笑顔を私に向けてくれた。
「おめでとう、園田さん」
 笑顔のまま、長谷さんは深く頷く。
 元々きれいな人だからというのもあるんだけど、長谷さんの笑顔は本当に素晴らしい。ふわっとしているのに輝いている、とでも言えばいいのか。かつては社内の男性社員が挙って長谷さんの笑顔を見に受付まで通っていたという話で、社内にお付き合いしている相手がいると発覚した際は、多くの人が嘆き悲しんだそうな。私の知っている限り、安井さんと石田さんもそうだった。
 でもこうして長谷さんの笑顔を見ていると、彼らの悲嘆もわかる。
「もうこの歳になると、なかなか祝ってくれる人いなくて。本当にありがとね」
 私は可愛い後輩にお礼を言った。親に祝ってもらうような歳でもないし、姉は結婚していて妹を構う暇もない。おまけに彼氏もいないとあっては、おめでとうを言われる機会なんてなかなかないものだ。
「お礼に来月の式では私がめいっぱいお祝いするからね!」
 そう告げたら、長谷さんは可愛らしくはにかんで、頬を赤くしていた。
「ありがとう。でも社内で式の話するの、ちょっと照れます」
「そういう可愛いこと言われると、もっと照れさせてやろうかって気になるね!」
「園田さん!」
 長谷さんが私の肩を必死に揺するから、私はうひひと笑ってしまう。
 しかしまあ何から何まで女の子らしい人だ。そりゃこんなに可愛かったらもてるだろうし、こんなに優しい人なら素敵なご縁だってあるよね。
 私は後輩に先を越されるのもこれが初めてではないし、そもそも先を越されることに大して焦りもないくらいだ。うちの親はたまに探りを入れてくるけど、姉は結婚しているし孫もいるし、娘の片方が生涯独身でも何ら問題はないはず。私は一人の生活を満喫していて、このままずっと一人でもいいかな、なんて思っている。
 それでもやっぱり、誕生日を祝ってもらえるのは嬉しい。
 祝われながら食べるケーキは、一段と美味しく感じられた。おめでたい日の味がした。

 今日が誕生日だろうと仕事には何の関係もなく、私は夜九時まで残業をした。
 そしてモッズコートをもさもさ言わせながら着込み、寒さに身を竦めながら帰途に就く。

 通用口まで下りる為にエレベーターホールへ向かうと、操作パネルの下降ボタンは既に点灯していて、エレベーターを待つ先客がいた。
 見たことのあるチェスターコートを着た後ろ姿に、私は声をかける。
「安井さん、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様――」
 安井さんは振り返ったものの、こちらを見るなりぎょっとしてみせた。
「園田? まだ帰ってなかったのか?」
 目を瞠る顔は、ここにいるはずのない人でも見たかのようだ。
 そりゃこんな時間だし、エレベーターホールに続く廊下は不気味なくらい静まり返っていたし、急に人が現われたら驚くのも無理ないのかもしれないけど。何でそこまでびっくりするのか。私がお化けか何かにでも見えたのか。
「何で? 私が残業してちゃおかしい?」
 私は不審に思いながら聞き返す。
「おかしくはない、随分遅いなと思っただけだよ」
 安井さんは歯切れ悪そうに答えた。
 変な感じがするなと思いつつ、私はすっかり凝り固まった肩を竦める。
「知ってると思うけど、私、春から異動だから。引き継ぎの資料作ってたんだ」
「ああ、知ってる」
 人事課長殿が知らないはずはない。彼は当然のように頷く。
「だから遅くなるのも仕方ないの。別に残業大好き! 残業したくてしょうがない! って気持ちでしてるわけじゃないんだよ」
 むしろ残業なんて好きじゃない。しなくてもいいならしたくない。
 でも異動が決まったからと言ってすぐさま今の部署での仕事がなくなるわけではないし、むしろぎりぎりまであるっぽいし、その上で引き継ぎにも取り組まなくてはならないから大変だ。帰りが遅くなるのも、嫌だけどやむなしだ。
 安井さんはどういうわけか、まだ納得がいかないという顔をしていた。何の納得かはわからない。
 でも彼が口を開きかけたちょうどその時、エレベーターが到着してゆっくりと扉が開く。安井さんが扉を開けておいてくれたので、頭を下げながら乗り込んだ。

 二人を乗せたエレベーターの扉が閉まり、緩やかな速度で下降し始めた。
 するとパネルの前に立つ安井さんが、このタイミングを待っていたみたいにぽつりと言った。
「今日、誕生日だろ」
 壁を背にして立つ私は、今は多分ものすごく間抜けな顔をしていると思う。
 現に、
「なのにこんな遅くまで残ってて、いいのかと思ったんだよ」
 そう言ってから振り向いた安井さんは、ぽかんとしている私を見るなり思いっきり吹き出した。
「園田、何その顔! 魂抜けたような顔してる」
 実際抜けかかっていたので慌てて引き戻して、私はとりあえず愛想笑いを浮かべる。
「だって、覚えてると思ってなかったから」
「忘れようにも忘れられないよ。名前で全力アピールしてるんだから」
 安井さんはまだ笑っている。くくくく、と喉を鳴らして肩を震わせているから、私は彼との温度差を感じて溜息をついた。
 こっちとしても持ちネタにしているくらいだから、誕生日を覚えてもらえているのはわかる。でも安井さんは一昨年去年と特に何も言ってこなかったから、てっきり忘れてしまっているのだと思っていた。
 普通に考えたら、ただの同僚の誕生日にいちいち言及してくる方がおかしいか。
「誕生日に残業なんてするなよ。かわいそうに」
 同情めいた口調で安井さんが言った時、エレベーターが再び停止して、また扉が開く。
 先に降りた私は、横目で安井さんが降りてくるのを見届けてから答えた。
「誕生日だからって仕事が減るわけじゃないからね。仕方ないよ」
「どこか出かける用事とかなかったのか?」
「ないよ。帰ってお風呂入って寝るだけだよ。明日も早いしね」
 私は一足先に通用口から外へ出た。たちまち冬の身を切るような夜風が襲いかかってきて、顔を顰めてしまいたくなる。雪はもう降っていなかったけど、だからと言って暖かくなっているというわけでもない。アスファルトの路面は霜が降りたようにうっすら白くなっていた。
 私の後から安井さんが表へ出てきて、寒さに首を竦めた。
「寒っ。これは堪えるな」
「本当だね。カイロでも買っておくんだった」
 そう相槌を打った後、私の方から切り出した。
「じゃあ私、今日は電車で帰るから、ここで――」
 間髪入れず、安井さんが私のおいとまを遮る。
「俺も今日は電車だよ。駅まで一緒に行こう」
「え、安井さんと?」
 思わず聞き返してしまうと、彼は苦笑いを浮かべた。
「駄目? 都合が悪いならまたにするけど」
「悪くないけど……人に見られたらあらぬ噂を立てられそうじゃない?」
「ないよ。中高生じゃあるまいし、同期と一緒に帰ってたくらいでうるさく言われないだろ」
 安井さんは私の懸念を一刀両断すると、呆れたように眉を顰める。
「大体、何だよあらぬ噂って」
 何だよと言われても、今この場で具体例を挙げるのは若干気まずい。
 こんな時間だし、そう大勢に目撃される心配はないだろうと思っておくことにする。
「安井さんが気にしないって言うなら、いいよ。駅まで一緒でも」
「気にしないよ」
 即答した安井さんは、寒そうに一度身震いしてから私を促した。
「とりあえず、行こう。ここに突っ立ってると喋れなくなりそうだ」
 それで私達は通用口を離れ、会社前の通りを駅の方向へと歩き出す。

 いくらも歩かないうちに安井さんが、真っ白い息と共に呟いた。
「話したいことがあったんだよ。結婚式のことで」
「あ、そうだったんだ。最初からそう言ってくれればよかったのに」
 用があるならその旨を先に言って欲しいものだ。私が笑うと、安井さんは心なしか神妙な顔つきで言った。
「用件の方を先に言ったら、ダシにしてるみたいだろ」
「そう? 私はそうは思わないけど」
 私は隣を歩く安井さんの顔を軽く見上げる。
 その時、彼は物憂げな表情で冬の夜空を見ていた。雪が止んだ空にはまだ白い雲がちらほらと残っている。その隙間に微かな星の光が浮かんでいるのが、目を凝らすとかろうじてわかった。
「今年は特に、寒さが身に堪えるな」
 不意に安井さんがぼやいて、瞬間的に、何かあったんだろうなと察した。
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