Tiny garden

甘さのお裾分け

「これ、うちの『妻』からです」
 バレンタインデーの朝、俺は営業課に課員が揃ったところで切り出した。
 家から持参した紙袋からお菓子の箱を取り出し、皆に見えるよう机に置く。すると一同からは揃って半笑いの顔を向けられた。
「先輩、なんでそんなに得意げなんですか」
 中でも霧島は口元を引きつらせながら真っ先に絡んできた。
「何がだよ」
「『うちの妻』って言った時、超ドヤ顔だったじゃないですか」
「うちの妻を『うちの妻』と言って何が悪い?」
「悪くはないですけど、朝っぱらから自慢げに何やってるのかと」
 自慢するのだって何が悪い。何せうちの妻は誇れるだけの可愛さと心配りと可愛さと明るさと可愛さを有した俺の最愛の妻だ。もう四方八方に自慢しちゃうし聞かれなくても語っちゃうし事あるごとに『うちの妻が』って言いたくてたまらない。俺の中で声に出して読みたい日本語ランキング堂々の第一位だ。
「あんなに可愛い嫁貰っておいて慎ましく謙遜なんてできるか」
 俺は霧島にそう主張した。
「こうなったら俺はコロンボを見習って嫁さん自慢をしまくる所存だぜ」
「コロンボだって先輩ほどには言いません」
「そうだっけ? まあいいだろ、減るもんじゃなし」
「先輩が惚気る度に俺達の気力は減りますよ」
「歳だな霧島、若者の惚気が癇に障るのは老化現象だ」
「誰が歳で誰が若者ですか……いいですよもう、好きに惚気てください」
 霧島が脱力し、珍しく負けを認めたところで、今度は春名が食いついてきた。
「で、主任。奥様がくださったお菓子って何ですか?」
「ああ、これな。あとで遠慮なく食ってくれ」
 俺は夫の責任を果たすべく、箱の包装を剥がして蓋を開けておく。
 箱の中身は店売りのスコーンだ。味はプレーンとアールグレイの二種類だそうで、取引先からチョコをたくさん貰ってくる皆さんに配慮して甘くないものにしました、とうちの可愛い妻は言っていた。
「うわ、美味そう! どっちが奥様のお勧めですか?」
 春名は早速、個包装のスコーンを手に取ってためつすがめつし始めた。
 他の課員も興味深そうに箱を覗き込んできて、俺はそれをちょっと誇らしい気分で眺める。
 ただ一人、霧島だけは皆の輪から外れ、俺に近づいてきて声を落とした。
「奥様もお菓子を用意してくださってたんですね」
「まあな。お前の嫁さん、まだ調子悪いんじゃないかって心配してた」

 霧島夫人が体調を崩すようになったのは、今年に入って間もなくのことだった。
 それ自体は深刻な症状でもなくむしろめでたい話であって、また時期的なものらしいから今だけ乗り切ればいいらしいのだが、今月に入ってからも何日間か欠勤していたと聞いている。
 一方、二月に入るとバレンタインデーがある。去年までこの日には霧島夫人と藍子が共に出資しあって、営業課の為にお菓子を買ってきてくれるという素敵なイベントがあった。だが藍子は去年で退職し、霧島夫人は体調不良と来ている。今年も二人でお菓子を購入したそうだが、当日に夫人が出勤できない状況も考慮して、藍子は藍子で別にお菓子を用意しておいたらしい。
「隆宏さん、お手数ですけどこれを持っていってください」
 今朝方、うちの可愛い妻が出勤前の俺を呼び止め、そう持ちかけてきた。
「ゆきのさんと買ったお菓子とは被らないものにしておきました。ゆきのさんが無事にいらしてたら、それはそれで大丈夫なように」
 そして藍子は俺にスコーンの箱を手渡すと、にっこり笑って続けた。
「私も営業課の皆さんには大変お世話になったので、おまけの贈り物ということで……よろしくお伝えください!」
 その笑顔たるや、昇りたての朝日よりも眩しくそして可愛かった。
 いつも可愛いというのも事実ではあるが、さておき。

「調子、どうなんだ」
 今朝見たばかりの妻の顔を思い出しつつ、俺は霧島に尋ねた。
 霧島も何か、もしくは誰かを思い出すようにうっすら笑んだ。
「ええ、今日は出勤してます。あんまり長く休んでもいられないからと」
「そうか。少しでも復調したなら何よりだ」
 それなら俺も安心だし、藍子を安心させてやることもできるだろう。俺の報告にほっと安堵する表情がたやすく目に浮かぶ。
「『何かあったら飛んでいきます!』ってうちの妻も言ってたぜ」
 伝言を告げると、霧島はもう少し表情を和らげる。
「頼もしいですね。藍子さんには先月もお世話になっちゃいましたけど」
 先月は先月で、安井にめでたい話があった。
 あいつも元とは言え営業課員、いいことがあればうちの課でも祝ってやらなければなるまい。しかし藍子が退職して以降、営業課はむさくるしい男所帯に逆戻りしており、例えばお祝い事にはどんな花を選ぶかなんて話はさっぱりわからない。
 そこで藍子に助けを求めたところ、彼女は二つ返事で引き受けて見るも可憐な花束を都合し、わざわざ会社まで届けてくれた。
 淡いオレンジが美しい、スカシユリの花束だった。
「うちの妻は頼りになるんだよ」
 俺が胸を張ると、こればかりは霧島も認めざるを得ないという顔で笑んだ。
「全くその通りですね」
「おまけに可愛いし」
「それも、確かにそうですね」
「気立てもよくて優しいし」
「まあ、そうですけど」
「それに可愛いし」
「……可愛い可愛いって、何回言えば気が済むんですか先輩は!」
 何回言っても言い足りない。そのくらい可愛いのがうちの妻だ。
 これもまた声に出して読みたい日本語の一つである。

 霧島の横槍はさておき、スコーンは飛ぶように売れて、朝のうちには箱も空になってしまった。
 代わりにというわけではないが、その日の俺は営業に出向いた客先でチョコレートをいくつかいただくことができた。
 バレンタインデーと言えば俺達にとっては相も変わらず営業用チョコが飛び交う日であり、俺個人にとっては藍子へのお土産が増える嬉しい日でもある。悪しき慣習め滅びてしまえなどと思ったこともあるにはあったが、今ではありがたいくらいだった。
「ありがとうございます、うちの妻が喜びます」
 チョコレートを貰った時は、必ずそう言うようにしている。
 なぜかと言えば、単に言いたいからである。
 気のいい担当者だと『では奥様の分も』などと余分にもう一つくれたりするし、そうでなくとも藍子の話ができると俺の気分がいい。さすがにそれを言って今更がっかりする人はいないだろうが、余計なトラブルの防止にもなると言えばなる。
 結婚してしまえば、バレンタインデーとは夫婦の為のイベントになるのかもしれない。
 少なくとも俺は結構楽しんでいる。うちの妻が、って何度も言えるしな。

 そうして終業後には紙袋いっぱいのチョコを携えて家路に着くことができた。
 ついでに俺の個人的お土産も購入した後、意気揚々と帰宅する。
「お帰りなさい!」
 玄関のドアを開ければ、藍子が奥から犬みたいな勢いのよさで駆けてきた。そして俺の顔を見るなり、少し心配そうに尋ねてくる。
「ゆきのさん、今日いらしてましたか?」
「ああ、来てた」
 霧島夫人は終業後に営業課へ現れて、俺達にお菓子を振る舞ってくれた。まだ本調子ではないようで階段を上がるのも辛そうだったが、以前よりはずっとよくなったらしい。
「普通に話もしてたし、前よりは顔色もよくなってたな」
「そうですか、よかった……!」
 俺の報告に藍子は胸を撫で下ろし、それから俺に向かって微笑む。
「隆宏さんもお仕事、お疲れ様です! スコーン、どうでした?」
「お蔭様で売れ行き好調だった。値段つけたら儲かっただろうな」
「それじゃバレンタインデーにならないですよ」
「確かにな。とりあえず皆も喜んでたし、奥様によろしくって言われたよ」
 それから俺は提げてきた紙袋をまず差し出す。
「これはお土産な。得意先から貰ってきたチョコだ」
「わあ、今年もいっぱいですね!」
 藍子は紙袋を覗き込んで驚きの声を上げた。
「『うちの嫁が喜びます』って言うといっぱいくれるんだよな」
「そういうものなんですか」
「ああ。俺もここぞとばかりに藍子の話をしまくった」
 営業課でも得意先でも、何回『うちの嫁が』って語っただろう。
「そんなに私のこと話したんですか?」
 チョコの紙袋を手に、藍子はちょっと慌てていた。
「恥ずかしいですよ、私のことなんて全然関係ないのに……」
「そんなことないだろ。スコーンを持たせたのはお前だし、チョコを貰ってくるのはお前の為だ」
 バレンタインデーは俺だけの為にあるものじゃない。俺と、俺の大切で可愛い妻の為のものだ。
 だから俺は事あるごとに藍子の話をする。
 一番は話したいから。それとお菓子を配り、チョコを貰う理由として。あとはまあバレンタインらしく、甘さのお裾分けってとこかな。
「そのチョコ、全部食べていいからな」
 俺が言うと、藍子はぱちぱちと目を瞬かせた。
「いいんですか? すごくいっぱいありますよ」
「いいって、全部お前のものだ」
「ありがとうございます、隆宏さん! 美味しくいただきます!」
 甘いもの大好きな藍子ちゃんはもう大喜びだ。嬉しそうに紙袋の中身を覗く姿が、美味しいものを目の前にした犬のようで大変可愛い。
「でも、食べきれるかな……隆宏さんも食べますよね?」
「ちょっとはな。食べきれなかったらカレーにぶちこむとかすればいい」
「いいですね! 隠し味にします」
「あるいはとろとろに溶かして、お前にかけるとかでもいいな」
 思い浮かんだいたずらをついでに口にしてみたら、
「それは、何の意味があるんですか?」
 めちゃくちゃ真っ直ぐな目で聞き返された。さすが、ピュアだな藍子ちゃん。
 まあその辺は機会があればと言うことで。
「あとこっちは俺から」
 次は、俺からのお土産を手渡した。
「チョコレートリキュールだ」
 説明を添えたら、藍子は瓶のラベルを見た後、俺をおずおずと見上げてくる。
「バレンタインと言えばこれだろ、あとで飲もうぜ」
 そう告げたら、藍子はほんのり赤くなってすぐに頷いた。
「な、懐かしいです……」
「だよな。思い出すだろ、俺達が初めて――」
「い、いいです口にしなくて! それよりご飯、ご飯にしてください!」
 あたふたと懇願してくる藍子がとてつもなく可愛い。
 藍子なら全部可愛いんだろって突っ込まれたら、そうだとしか言えんが。可愛いです。
「ところで今日の夕飯、何?」
 俺が尋ねると、彼女はえへへと笑って答える。
「今夜はバレンタインデーっぽいメニューにしてみたんです」
「バレンタインデーっぽいメニューって何だ」
「何だと思いますか? ヒントは隆宏さんの好きなもの!」
「藍子か!」
「ち、違いますっ。私はご飯にならないですよ!」
 いや俺は藍子なら夕飯代わりに美味しくいただいちゃいますが――ということを言い続けると藍子が困ってしまうので、困っておろおろしてる藍子もそれはそれで可愛くて大変よろしいのだが、俺も若干腹が減ってるのでちゃんと答えることにする。
「魚?」
 あんまりバレンタインっぽくはないよなと思ったが、どうやら正解を引き当てたらしい。
 藍子はぱっと表情を輝かせて頷く。
「そうです! バレンタインなので、今日はちらし寿司です!」

 彼女お手製のちらし寿司は、なんと可愛いハートの形をしていた。
 ハート型で抜いたご飯の上に小さな角切りにした卵焼き、きゅうり、サーモンやまぐろ、それに宝石の粒のようないくらが飾られた見た目にも豪勢な一品だ。
「なるほどな、バレンタインだ」
 食卓でちらし寿司を眺めながら納得する俺に、向かいに座る藍子がもじもじと切り出す。
「あ、あの、喜んでもらえましたか」
「もちろんだ。すげえよ藍子、美味そうだしめちゃくちゃ出来いいし」
「そうですか、あの……」
 藍子はつむじしか見えないくらいに深く俯いてから、震える声で語を継いだ。
「わ、私なりに、その、愛を、込めてみました……なんて……」
「藍子……」
 その瞬間、胸がきゅんとした。
 おっさんが何を言うかと自分でも思うが事実なのだからやむを得まい。三十過ぎていようが何だろうがこういう時はきゅんとしてしまうものなのだ。それはもうしょうがない自然の摂理というやつだ。それもこれも藍子が可愛すぎるからに尽きる。
「ありがとな、俺も愛してる」
 彼女を真っ直ぐ見つめて言ってはみたが、俺の目には彼女のつむじしか見えなかった。
 そしてその可愛いつむじの持ち主が、蚊の鳴くような声で答える。
「わ、わわ、私も……あ、あの、愛して、ます……」
 リスニングには相当の集中力と経験を要したが、間違いなくそう言ってくれた。

 いや全く、うちの妻って、なんでこんなに可愛いんだろうな。
 これはもう自慢しちゃうだろしょうがないだろ。事あるごとに妻のこと語りたくなっちゃうだろ。謙遜なんかしてられない、もう世界中に惚気て回りたい。
 結果的に、甘さのお裾分けになっちゃうのも仕方ないってもんだ。
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