Tiny garden

幸せずくめの日々

「……隆宏さん、お話があるんです」
 俺が食卓に着いたのを見計らい、藍子がそう切り出した。
「どうした、改まって」
 聞き返した途端、可愛すぎる我が妻はもじもじしながら俯く。どういうわけか恥ずかしそうに目を逸らし、頬を赤らめている。
「えっと、あの……」
「何だ、何でも言え」
「あの、ですね……」
「夫婦の間で遠慮するこたないぞ、どーんと言え」
「その……」
「言いにくいことなのか?」
 俺の問いに、藍子はこくんと頷いた。
 改まっての『お話』、それも言いにくい話とは一体何だ。いい話なのか悪い話なのか、それだけでもまず聞かせて欲しいもんだが――その辺りはまあ、周囲の様子を観察すればおおよそ掴めることでもあった。
 結婚してから二ヶ月が経った夜、いつもより心もち早めに帰宅した俺を出迎えてくれたのはこの通り可愛い妻と夕食が並んだテーブルだ。今日の献立は秋らしくさんまの塩焼きだった。つけ合わせはほうれん草のごま和えに蓮根のきんぴら、味噌汁の具は俺の一番好きな大根だ。いつの間にやら手の込んだ料理も作れるようになり、藍子の主婦スキルは目覚ましく成長しつつある。もちろん可愛さだって日毎に磨きがかかっていて、もじもじと恥ずかしそうに俯く姿は思わず抱き締めたくなるほどだ。しかしまずは話を聞いてやらねばと食欲もその他もぐっと堪えているところだった。
 まさに順風満帆、幸せずくめの結婚生活において、改まって切り出さなければならない言いにくい話とはなんだろう。およそ察しがつかないが、悪い話ではないだろうとは思っている。
 でもいい話だとしても、これと言って心当たりがないんだが。
「実は、あの」
 藍子は深呼吸を三回繰り返した後、ようやく覚悟を決めたようだった。
 顔を上げ、俺の目を見て、また恥ずかしそうに俯いて、やはりもじもじしながら、
「隆宏さん、私もその……自信はないんですけど」
「お、おう」
 自信ないって何がだ。
「もしかしたら私の早とちりかもしれないんですけど……」
 早とちりって何がだ。
「でも、念の為にって言うか。一応、前もってお話しておきたくて」
 藍子が再び顔を上げる。
 目が合うと、勇気を精一杯振り絞った表情で続けた。
「私、子供が……」
「子供?」
「……できたかもしれないんです」
 その言葉の後、我が家の居間は水を打ったように静まり返った。
 俺もすぐには声が出せなかった。できた、子供が――って、まさかそういうことなのか。俺達のってことか。呑み込むまでに随分かかったが、把握した途端にじわじわと、驚きと喜びが湧き上がってきた。
「本当か、藍子!」
「え、えっと、まだ確定じゃないんですけど……」
 そこからがまた長かった。俺はすぐにでも喜びはしゃぎ回りたかったが、藍子によればぬか喜びの可能性もあるので待って欲しいとのことだった。
 というのも、やたら恥ずかしがる藍子からどうにかこうにか引き出した情報を精査するに、今はまだ検査をしてはっきり判定が出る段階ではないらしい。だから確定ではないそうだが、来るべきものが来ていないのは事実だそうだ。
「もしかしたらと思って、隆宏さんには話しておきたかったんです」
 ここまで来ても尚、藍子は言いにくそうにしていた。
 それは気恥ずかしさだけではなくて、自信のなさから来るものでもあるらしかった。
「もし違ったら、ごめんなさい」
「何で謝るんだよ、違ったらそれはそれで別にいいだろ」
「でも、言おうかどうか迷ったんです。はっきりしてないのに打ち明けても、心配かけるだけじゃないかなって……」
 消え入りそうな声を聞くといても立ってもいられなくなり、俺は立ち上がってテーブルの対岸に座る藍子の傍に膝をついた。黙って肩を抱くと、少し体温の高い藍子の身体が遠慮がちにもたれかかってきた。
「そんなの気にする仲じゃねえだろ、俺達は夫婦だぞ」
 俺はあえて明るく、藍子の懸念を笑い飛ばした。
「むしろちょっとしたことでもためらわず言え。その方が俺も安心する」
「隆宏さん……ありがとうございます」
 藍子はそこで、やっと少しだけ微笑んだ。それから、気を取り直したように屈託なく尋ねてきた。
「隆宏さんは、子供ができてたら嬉しいですか?」
「そりゃそうだろ。俺と藍子の子供だぞ? 絶対可愛いに決まってる」
 できれば藍子似の女の子がいい。こんな感じでにこにこ笑ってる可愛くて明るくてちょっと天然入ってる娘――きっとお母さんに似てほっぺたがぷくぷくしていることだろう。そんな娘が生まれたらもう、嫁にはやらん絶対に。
 しかし男の子というのも捨てがたい。藍子似の男の子は優しくて、人の痛みがわかる気持ちの強い子になることだろう。俺には別に似なくていいが、何かスポーツをやりたいって言い出したらアドバイスはしてやれるな。近頃の俺達は二人揃ってサイクリングにハマっており、割とスポーツ大好き夫婦なのである。
 でも、妊娠してたら自転車には乗れないよな。
 それだけじゃない。これからの藍子には、男の俺には想像もつかないような苦労がたくさんあることだろう。もし本当に子供ができていたら、能天気に喜ぶだけじゃなく心身共に気遣ってやらなければならない。子供ができてめでたしめでたし、なんて簡単な話じゃないことくらいは俺にだってわかってる。
「藍子はどうなんだ。不安なのか?」
 俺が質問を返すと、藍子は数秒間黙ってから答えた。
「不安って言うか……心配だったんです。隆宏さんが何て言うか」
「何言ってんだ。俺なら大喜びするに決まってんだろ」
 嫁の妊娠を喜ばないような薄情な男じゃない。それどころか今や脳内お祭り状態だ。幸せのあまり顔が緩むのを抑えきれなくて、とりあえず諦めて緩むがままにしている。
「でも、私達、結婚してから二ヶ月しか経ってないじゃないですか」
 藍子は伏し目がちになって続けた。
「は、早すぎないかなって……」
 まあ、そう思う向きもいるかもしれん。
 だがこっちはもう既に結婚してる身、筋はきっちり通してある。何を言われる謂れもあるまい。
 俺の気分としても、いずれはという思いはありつつまだ先のことだろうと思ってはいたが――ちょっと予定が早まっただけのことだ。残念だとか困るとか、そういう気持ちは微塵もなかった。
「もうちょっと二人きりでいたかったか?」
 俺の問いに、藍子はまたしばらく黙ってから、
「……ちょっとだけ」
 と頷いた。
 その後で慌ててかぶりを振る。
「あっ、でも別に嫌だとかじゃないです! 十分幸せです!」
「わかってる」
 俺は藍子を抱き締め直して応じた。
「俺も、すごく幸せだ」
 結婚してからというもの、俺達の暮らしは幸せずくめだった。
 要は、それが更にもう一つ増えるかもしれないってことだ。

 翌朝、俺は玄関まで出ようとする藍子を制し、居間で見送ってもらうことにした。
「最近冷えるだろ。ここでいい」
「だ、大丈夫ですよ、ちゃんと着てますから」
 藍子はカーディガンを羽織っていたが、十一月半ばの朝は思いのほか冷える。大事な身体に差し障りがあっては困るので、玄関での見送りは断った。
「何かあったらすぐ連絡しろよ、遠慮なんかすんな」
「わかりました」
「もし俺が出られなかったらお義母さんに頼めよ」
「はい」
「くれぐれも身体冷やさないようにな。無理もしないこと」
「大丈夫です」
「あと、食べ物とかも身体冷やすやつとかあるし――」
「大丈夫ですって」
 そこで、藍子が声を立てて笑った。
「隆宏さんこそ、あんまり心配しすぎないでください」
 そんなこと言ったって心配しちゃうのが人情ってもんだろ。もしかしたら藍子のお腹に俺達の子供がいるかもしれないと思うと気になってしょうがない。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。お仕事頑張ってください」
 行ってきますのキスの後、俺は藍子のお腹に手のひらで触れてみた。ふわふわと柔らかいそこに別の命があるのかどうか、手で撫でただけじゃわからない。でも着衣越しの体温がほんのり伝わってきて、それだけでも俺を幸せな気分にさせた。

 藍子からの衝撃の告白から一夜明け、俺の頭の中は『もしかしたら』の展望でいっぱいになっていた。
 果たして生まれてくるのは男か女か、そもそも一人きりって決まったわけでもないしな。名前はどうするか。俺は親父から一文字取って『隆宏』という由緒があるんだかないんだかわからん名づけをされていたが、別にそういうのにはこだわんなくてもいいよな。女の子だったら可愛い名前にしたいな。でもって一発で読める名前な。『藍子』みたいな。
 家族が増えるとなったら今度こそ引っ越しも検討しなきゃならないだろう。車はどうすっかな、藍子が運転しやすいのに乗り換えるか。安井と霧島はどんな反応するかな。あいつらならまず『石田に似ないことを祈ってるよ』『奥さんに似るといいですね』などと口を揃えて言うだろうな。全く失礼な連中だ。

 社食で昼休憩を取る間も、俺は生まれてくるかもしれない子供について妄想をふくらませていた。藍子お手製の弁当を美味しく味わった後、一息つきながらケータイでネット見つつ、検索しているのは育児書のレビューだったりする。さすがに気が早いか。
 育児書の手前、出産についての書籍もついでに漁っておく。これまで一切関心を持たなかったそれらの本のうち、一番評判のよさそうなやつをチェックしておく。いざとなったら俺も勉強しなきゃならない。何にも知らない夫じゃ、藍子を支えてやれないからな。
「……何をにやにやしてんだ、気色悪い」
 ネット上でウィンドウショッピングを楽しむ俺に、たまたま現れた安井が声をかけてきた。
「気色悪いって何だ」
「あまりにも緩みきった顔してるから言ったまでだよ」
「お前に言われたかねえな」
「何かいいことあったんだろ、奥さんと」
 安井はものの見事に言い当ててみせたが、別に奴の洞察力が優れているわけじゃない。俺がだだ漏れなだけだ。
 例の件について、確定するまでは誰にも知らせないでおこうと藍子と二人で決めていた。安井や霧島はもちろん、藍子のご両親にもはっきりするまでは話さない。ぬか喜びや要らぬ気遣いをさせたくはないからだ。
「あいにくだが、結婚してからというもの『いいこと』しかないもんで」
 正直にはまだ言えない俺が代わりに惚気ると、安井は乾いた笑い声を立てた。
「お前の惚気も日毎に磨きがかかってるな」
「新婚さんだからな!」
「何だろうな。石田はあと五年くらい新婚さん名乗ってそうな気さえするよ」
 安井は溜息まじりに言う。
 だが、子供ができたとなればいつまでも新婚気分ってわけにはいかないだろう。その時俺と藍子はどんな夫婦になっているんだろうか。落ち着いた熟年夫婦みたいになるのか、それとも揃ってルーキーパパママぶりを発揮しちゃっているのか。あるいは――。
「だから、目の前でにやにやするなよ」
 妄想の世界に浸る俺を、安井の声が現実へと呼び戻す。
「悪いな安井。幸せすぎるとついつい外に溢れ出るもんなんだよ」
 俺の答えに、奴はまたしても深く溜息をつきやがる。
「こうはなりたくないな……俺は結婚しても落ち着いてたい」
「何だとこの野郎」
 いや、なる。お前も絶対なる。賭けてもいいぜ安井。
 だって結婚生活は幸せずくめなんだからな。

 その日の仕事を終え、帰宅した俺を、少し沈んだ様子の藍子が出迎えた。
「あ、あの……隆宏さん……」
 言い出しにくそうな口調に、俺は何となく事情を察した。だがまずは彼女の言葉を聞くことにする。
「赤ちゃん、できてなかったんです。心配かけてごめんなさい……」
 藍子はおずおずと、だが昨日のように恥ずかしがることはなく続けた。要は、いつもより遅れていただけということだったらしい。
「打ち明けるの早いかなって思ってたら、本当に早とちりになっちゃいましたね」
 そう話す藍子は、昨日よりも落ち着いて見えた。
 やっぱり不安がっていたのは彼女の方だったんだろう。そりゃそうだ、何よりもまず自分自身の身体のことなんだからな。不安も、怖さだってきっとあっただろう。幸せだけというわけにはいかないはずだ。
「気にすんな。それでも俺は言ってもらえて嬉しかった」
 俺は藍子を慰めるべく、抱き締めて頭を撫でてやる。
 それで彼女もほっとしたのか、苦笑しながら俺を見上げてきた。
「隆宏さん、楽しみにしてましたよね。がっかりしましたか?」
「そりゃ、楽しみにはしてたよ。でもな」
 一ミリも落胆しなかったと言えば嘘になる。
 男にせよ女にせよ、家族が一人増えた未来のことを、この一日の間に随分と考えた。
「俺はどっちでもいいって思ってたんだ、お前さえいれば」
 その言葉の後で、誤解のないよう言い添えておく。
「どっちでもいいってのは、『どうでもいい』とは違うからな」
 藍子は、わかっていますというように黙って頷く。
「お前と結婚してからこの二ヶ月、いいことしかなかった。幸せずくめだった。だから子供がいても、いなくても、どっちにしたって俺は幸せだ」
 実際に子供ができたら、もっと違う感想が生まれるのかもしれない。この世にはまだ俺の知らない幸せが存在しているのかもしれない。
 だとしても俺は今の幸せに何の不満も不足もないと、胸を張って言える。
「だから落ち込むことはないぜ。元気出せ」
 俺に抱き締められた藍子は、そこで少し申し訳なさそうにした。
「ありがとうございます。でも私……正直に言うと」
 唇を震わせながら、こう言った。
「がっかりした一方で、ちょっとだけ安心しちゃったんです」
 それは俺にもわかっていた。そういうものだ、と思う。
「そんなもんだろ。欲しくてできた、ってのとは違うもんな」
「優しいですね、隆宏さん」
 藍子が俺の胸に顔をうずめる。生真面目な彼女のつむじを見下ろしつつ、俺はその頭を撫でる。
「まあな。俺はお前より七つも年上なんだ、こういう時こそ存分に甘えりゃいい」
「……そうします」
 珍しく俺にぎゅっとしがみついてきた藍子が、やがてくぐもった声で言った。
「隆宏さんは絶対、いいお父さんになると思います」
「どうだかなあ……それを確かめるのは、もうちょい先でいいけどな」
 いつかは、知ることになるのかもしれない。俺がどんな父親になるか、藍子がどんなお母さんになるのか。
 でも俺達は急ぐ必要なんてない。しばらくは新婚さんのままでいい。必要になるその時まで、のんびりやっていけばいい。大人になるのと同じで、父親も母親も、急いでなるもんじゃないだろう。
「私も幸せずくめです。隆宏さんといると、いつだって……」
 藍子が腕の中で呟くのを、俺も目をつむって聞いていた。
 抱き締めた身体は柔らかくて、いい匂いがして、少し体温が高く感じた。俺達は温もりを、あるいはその内側にある気持ちを分け合うみたいにしばらく、そうしていた。
 今日もまた、幸せずくめの一日だった。そう思う。
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