Tiny garden

忘れられるはずもない(1)

 五月に入り、俺たちは会社に結婚の報告を済ませた。
 彼女の退職は九月の予定だから、まだ辞表を書く段階ではない。ただもう決まっていることだし、報告だけならある程度は早い方がいいだろう。そう思って行動に移した。
「でも、勉強だけは今から始めているんです」
 報告を終えた後で、小坂がふと、真剣な顔で打ち明けてきた。
「勉強って、辞表の書き方か?」
 聞き返すと彼女は深く頷く。
「そうです。立つ鳥跡を濁さずって言いますから、そういうところもちゃんとしないと」
「そのくらいなら俺が、手取り足取り教えてやるのに」
 一応は俺もそう言ったものの、ビジネスマナーについての教本はやたらと所有している彼女だ、きっと教えることもあまりないだろう。せいぜい書き上げた後の添削程度だ。
 彼女ももう社会人三年目だった。正直、俺から教えることなんてほとんどなくなってしまっている。戦力として失くすのが惜しい存在でもあった。だがその分のフォロー、穴埋めも、俺の仕事のうちだと思うべきだろう。
「辞表を出してからでいいが、得意先に挨拶状も忘れず送れよ」
「はいっ。その際は、我が社の末永いご愛顧をお願いしておきます」
 俺のアドバイスに、小坂はすかさずとびきりの笑顔を見せる。営業向きの、愛嬌のある笑い方だった。
 社内でこんな会話をすることも、もうじきなくなるんだな。俺は改めて感慨に耽る。
 ここまで来ておいて何だが、俺はまだ小坂が退職した後の営業課がどんな空気になるのか想像できない。確実に華はなくなるだろう。もしかしたら静かだと感じるようになるかもしれない。
 俺が一番乗りで出勤した後、二番乗りでやってくるのが彼女じゃないかとわくわくすることもなくなるだろうし、所用で地下駐車場へ下りた際、彼女の使ってる社用車が戻ってきているかどうかをいちいち確かめることもなくなる。社食へ足を運んだ時に、もしかしたら食べに帰ってきてないかと探す必要も、帰り際にちょっと引き止めて、至急仕事終わらせて送ってくから一緒に帰ろうと伝える必要も、全部なくなる。
 ――こうして振り返ってみれば、案外と俺は一日中、彼女のことを気にしていたらしい。
 ともあれ、楽しい社内恋愛でした。寂しさもあるにはあるが、きっとそれ以上に楽しい未来がやってくる。しかも遠い未来の話ではなく、もうじきのことだ。

 さて、会社への結婚報告を済ませた後、俺たちは営業課でも改めて報告をした。
 こちらもそろそろ頃合いだろうと思っていた。元々、付き合ってたことは隠してなかったわけだし、その上で俺たち二人がここ数ヶ月、式への準備だの何だのってやってりゃ半分バレてたようなもんだろう。まして営業課の皆々様をご招待しなければならない事情もあるわけで、スケジュールの確保の為にも事前報告は欠かせない。
 しかしながら、この報告において小坂と俺の扱いは明暗を分けた。
「結婚おめでとう小坂さん。幸せになるんだよ」
「いや、小坂さんの晴れ姿、楽しみだな。きっときれいだろうなあ」
「寂しくなるな……辞めてからでもいつでも遊びに来ていいからね」
 朝礼前の時間を利用して報告を済ませると、営業課のおっさんどもは小坂を囲んで、ちやほやと優しい言葉をかけ始めた。
 囲まれた小坂は大いに照れているようだった。一人ひとりに頭を下げて回り、お礼を述べている。
「すみません。退職することでご迷惑もおかけするのに、温かいお言葉までいただいて……」
 そう言うとおっさんどもは一斉にかぶりを振り、口々に言い募る。
「いいのいいの、そんなこと気にしないで! めでたい話じゃないか」
「そうだよ。小坂さんのフォローは人攫いの主任が責任持ってやってくれるだろうし」
「仕事でも家庭でも主任を尻に敷くくらいの気持ちでね! 遠慮なく行きなさい」
 皆様、いたいけな小坂に滅多なことを吹き込まないで欲しいんですが。
 大体尻に敷かれねーよ。どっちかって言うと亭主関白だよ。多分。
 この度の結婚はありがたいことに、職場でも歓迎してもらえているようだった。こういう状況下で反対意見を唱える人間もそうそういないだろうが、俺たちの関係が周知の事実だったおかげで、特に驚きもなくすんなり受け入れられたようだった。
 ただし手放しの祝福を受けているのは小坂だけ。俺の扱いなんてもう、冷やかし半分やっかみ半分祝福どこ行ったって感じだからな。
「いや本当、誘拐犯のように上手いことやりましたね主任!」
「ぶっちゃけ小坂さんの入社直後から、主任は油断ならないなって思ってました!」
「主任、小坂さん泣かせないでくださいよ! 我々が許しませんよ!」
 口々に浴びせかけられる言葉がいやに刺々しい。ついでに言うと俺を見る目も何か一物二物ありそうだし、顔なんて揃いも揃って半笑いだ。今日のこの日を皮切りに、俺の退職まであと数十年はこのネタでからかってやろう、と壮大な企てを立てているようにも見える。
 いや、可愛い彼女を断じて泣かせるつもりはないですが……何なんだよこの扱いの差は。格差社会だ! 男女差別だ!
「一言、おめでとうって言ってもらえるだけで十分だったんですがね」
 仕返しのつもりで嫌味を投げたら、皆にげらげら笑われた。

 そして予想はしていたが、あいつもまた手放しでは祝福してくれなかった。
「あーあ、小坂さんがいなくなるなんて寂しいな。きっと静かになっちゃうんでしょうね」
 霧島が聞こえよがしにそんなことを言う。
 またその言葉が冗談でもないらしく、以前にも同じように告げられていたものだから、こっちとしてもリアクションしづらい。同じことを言い返してやろうにも、霧島の奥さんは結婚を期に退職ということもなかったし、現在でも明るく元気に勤務を続けている。それももしかしたら、今年度いっぱいかもしれない、という話ではあったが。
「お前は俺が結婚しなけりゃしないで、無責任だの不誠実だのって言うんだろ」
 皆にもぼこぼこにされ、精神的に打ちのめされている俺がようやく言い返すと、霧島はあっさり頷いた。
「ええ、言いますよ」
「何だよ。結局文句言いたいだけじゃねーか!」
「言いたくもなります。うちの課の可愛い子が、新人指導に託けて持ってかれるんですから」
 わざとらしく溜息までつきやがる。
「もしかしたら来年度以降、うちの課には女性の新人さんが来ないかもしれないですね」
「そうなったら俺のせいだって?」
「そりゃそうでしょう。せっかく入社させても悪いオオカミに捕まっちゃうんじゃかわいそうです」
 まあ霧島くんたら人聞きの悪い。
 そこまで言われちゃ、こっちだって言い返さずにはいられない。
「しねーよ! 誰彼構わずそういうことするんじゃないし、今回が特例なんだよ!」
 毎年女子の新入社員に手を出してるとかいうならそこまで言われてもしょうがないですが、俺はそんなに不品行じゃないですし。つかこれから嫁貰う身分なんでそんなことは金輪際、絶対しませんし!
 小坂のことだって、初っ端から手を出してやろうとか思ってたわけじゃない。向こうがこっちを好きですみたいな光線出してたから、そして俺を追っかけてくる彼女が可愛かったから、こっちも流れでその気になったってだけだ。捕まったって言うのなら、結果的にはむしろ俺が小坂に捕まったんだろう。
 すると霧島は、そこで意味ありげににやっとした。
「特例……そうでしたね。先輩にとってはあくまで、小坂さんだけが特別な女性なんですもんね」
「……馬鹿。職場で何言わせんだ」
 言葉尻を掴まれた格好の俺は反論の材料もなく、人格攻撃に走るより他ない。
「霧島、お前年々性格悪くなってるよな」
 この指摘は事実でもあると思う。現に霧島は眉一つ動かさずに応じた。
「先輩の傍にいるからですね。影響されちゃうんですよ」
「そりゃ違うだろ。お前の歪みは俺じゃなく、安井の影響だ」
「安井先輩に聞いたら、全く逆の答えが返ってくるでしょうね」
 だろうな。こればかりは異論なしだ。
 霧島の性格的歪みの要因はともかく、俺に対する誤解が広まるのはご勘弁いただきたい。この先どんな絶世の美女が現われようと、新人指導に託けてどうのこうのってことは決してありません。やっぱり俺にとっての小坂は少しばかり特別だったのだと、今なら思う。
「俺を責めるだけじゃなく、ちょっとはいい方に考えろよ」
 まるで宥めるが如く、俺は霧島に言い聞かせておく。
「この先うちの課に、すんごい美人が入ってくるとするだろ? そうなっても俺はもう小坂と結婚した身だから、件の美女が俺に取られる心配は絶対にないってことになる。皆も安心、課内も平和でいいことじゃないか」
「それ、前提条件からしてむちゃくちゃ無理のある話じゃないですか」
 霧島がまた、わざとらしく息をついた。
「この先、美人が入社してきてしかもうちの課に配属されるって可能性はどのくらいあるんですか?」
「さあ。そこまでは俺の知ったこっちゃない」
「だったら小坂さんみたいないい子を攫っていく先輩は、やはり重罪だと思います」
「でも、お前だってああいう子には幸せになって欲しいだろ? 俺が仮に人攫いだとしても、その点だけは保証できる」
 いつだったか、当の霧島が言ってなかったか。小坂のような子がいつも笑顔で、幸せでいられるような世界じゃないと駄目だって。俺には世界を変える力なんてあるわけじゃないが、霧島の唱える理想の一つを、ごく小規模な、一家庭レベルではあるがちゃんと叶えることはできる。
「そうですね」
 肩を竦めて霧島は言う。
「小坂さんには幸せになって欲しいですから。先輩、本当に責任重大ですからね」
「わかってるよ」
「この先、若くて可愛い子が配属されてきても、昔みたいにはしゃいだりしないでくださいよ」
「……それ、小坂には黙っててくれよ。恥ずかしいから」
 口止めしたところでどこまで効果があるかは疑問だが、二年前、二十三歳! 女子大生! って騒いでた頃の自分を顧みれば、そこは小坂にはずっと秘密でいいかな……と思えてくる。思い返すも恥ずかしい記憶だ。
 微妙な気分でいる俺を見て、霧島が何か言いたそうにした時だった。
「若くて可愛い子が配属される予定、あるんですか!?」
 聞こえていたのか、春名が首を突っ込んできた。
 今年で二年目、まだ課内で一番若手のこいつは、そういう立ち位置だからか唯一まともに俺の結婚を祝福してくれた存在だった。屈託のない笑顔で『おめでとうございまーす!』と言ってもらった時は不覚にもほろりと来たが、しかしその春名でさえ俺と小坂の祝福に若干の差をつける始末だった。
『ご結婚おめでとうございます小坂さん! 絶対幸せになってくださいね! あとご結婚後も是非うちの課に遊びにいらしてください! 俺たち、勤務中でも大歓迎しますから!』
 小坂に向かって熱心に祝福を送る春名を横目に、俺は例によって格差社会の根深さを痛感していた。
 閑話休題、春名が目を輝かせているからか、霧島は大慌てでかぶりを振る。
「いえ、違うんですよ。もし来たら、という仮定の下に話をしてただけなんです」
 たちまち春名も落胆してみせる。
「あ、そうなんすか……。ちょっと期待しちゃいました」
「まるで雲を掴むような話をする人なんです、石田先輩は」
「そこは夢とロマンを解する男だと言って欲しいもんだな」
 俺がいかにもキザったらしいことを言うと、霧島は実に冷ややかな一瞥をくれた。
「そんなにきれいなもんじゃないでしょう。先輩の妄想力は入社してからこの方、身に染みて理解してます」
「あんまり誉めんなって照れるだろ」
「誉めてないですよ!」
 でしょうねー。
 結婚するからと言って人間、劇的に変わるもんじゃなし。俺と霧島のやり取りもまた相変わらずである。
「それだけ長い付き合いなら、きっとスピーチもばっちりっすね」
 春名が霧島に期待のこもった眼差しを向ける。
「俺、何気に主任の結婚式、霧島さんのスピーチが一番の泣きどころじゃないかって思ってるんすよ」
「えっ……。泣くとこなんてないと思いますよ」
 当惑した様子で霧島が答える。ちらっと俺を見て、
「俺は頼まれたからしょうがなくやるだけですし。やるなら、先輩はまあいいとしても、小坂さんには恥を描かせたくないと思ってますんで」
 可愛くないことをのたまう。

 俺としても別に、霧島に泣かせどころを期待してスピーチを頼んだわけじゃない。
 ただうちの上司には主賓挨拶やら乾杯挨拶やらをお願いしなきゃいけないから、そうなると必然的に霧島へお鉢が回った、というだけのことだ。
 俺にとっても小坂にとっても縁深い相手ではあるし、プライベートでの付き合いも一応ある。そして当の本人が思いのほかあっさり、『いいですよやりましょう』と請け負ってくれたので、俺たちも安心して任せることにした。
 ありがたいとは思ってる。ただ、泣かせどころはないよな、とも思ってる。
 ってかそういうのいいですから。霧島にそういうことされたら、何か、照れるだけだと思うんで。
PREV← →NEXT 目次
▲top