Tiny garden

どうすれば返せるんだろう(4)

 二十分後、部屋に戻ってきた藍子は今度こそちゃんと着替えていた。
 青いギンガムチェックのパジャマはシャツが右前で、俺が着ているものとは色合いとサイズが小さめなこと以外は何の違いもなかった。麦茶の入ったグラスを二つと、個包装のチョコ菓子を載せたお盆をラグマットの上に置き、自分もぺたんと座ってみせる。
 俺はそんな彼女をしばらく黙って眺めていた。
 藍子はすっかり化粧も落とし、髪も下ろしていて、しかも念願のパジャマ姿だ。話に聞いていたほどよれよれな印象はなく、むしろ糊が利いていて新品のように襟がしっかりしている。彼女は細い方では決してないが、ゆとりを持たせて作られたパジャマがすとんと肩から落ちたようになっているのとか、手の甲まですっぽり隠れそうな袖の長さとか、女の子座りをするとようやくくるぶしが覗く程度の裾丈とか、どれをとっても女の子らしくて可愛い。寝る前だからか裸足になって、白くて滑らかそうな足と、その指先の小さなピンク色の爪がちゃんと見えるのもポイント高い。
 今となっては、この姿を写真に納めて送ってもらわなかったのも正解だったと言わざるを得ない。お付き合いする前にこんな写真貰ってたら堪らんわ。爆発してたわ。

「……どうかしたんですか?」
 藍子が俺の視線と沈黙を不思議がっている。
 それでもどういう目で見られているかはすぐに気づけたらしい。両腕で前を隠すようにして、すぐに抗議の声を上げた。
「あんまり見ないでください」
「嫌です」
 俺は彼女の要請を断固として拒んだ。それで彼女はますます訝しそうに、そして恥ずかしそうにする。
「ただのパジャマですよ。しかもこんな、無難なデザインですし」
「いや十分可愛いって。お前が着てたらな」
 女の子向けのパジャマは男用のよりも遥かに種類が豊富だ。藍子が初めて俺の部屋に泊まりに来た晩、わざわざその為に買ってきたという新品のパジャマはいかにも女の子らしいデザインで確かにそれはそれは可愛かった。
 しかしこういう無難なデザインも、女の子が着るならなかなかいいものだ。完全にプライベート用の姿という趣が自然で、隙だらけで非常にそそる。いつもこんな格好で俺と電話やメールをしたり、部屋でくつろいだりしてるのかと想像するのも大変楽しい。
 誉められたからか、藍子はほんのわずかに微笑んだ。それから俺に言ってくれた。
「隆宏さんも素敵ですよ。よくお似合いです、そのパジャマ」
「お、ありがとな。お前と全く同じデザインだけどな」
 俺自身はそれほど似合ってるとは思わないが――と言うか本当にチェックの色とサイズが違うだけだから、藍子一人を眺めている分にはいいものの、同じのを俺も着ていると思うと若干萎える。ギンガムチェックは三十路男には可愛すぎないか。
 しかもよくよく考えたら今の俺たち、お揃いだからな。
「何か、何気にペアルックだ」
 俺が照れながら言うと、藍子もおかしそうに答える。
「そうですね。ペアって言うか、うちの両親も色違いの着てますから、言うなればカルテットですけど」
 まあ、そういう現実もあるようではありますが、その辺は聞こえなかったことにしておいて。
 今日一日、俺は『藍子と結婚したらこんな感じかな』という気分をたっぷり味わってきたわけで、その締めくくりがこうして同じデザインのパジャマで迎えた夜だ。幸福感と未来への希望や期待ではち切れんばかりの胸が、さっきからいやに騒がしい。いち早く新婚さん気分でこの夜を過ごしたい、という気持ちにすっかり取りつかれている。
 しかしながらここは彼女の実家、狼藉を働いたらどうなるかは想像するのも恐ろしい。せっかくあれだけ寛容に、寛大に受け入れていただいたというのに、その信用に傷をつけるようなことがあっては全てが台無しだ。俺だって藍子を貰い受ける身、ご両親には娘を預けても問題ない男だと思われたいし、今日お二人から受けた様々なお心遣いには本当に感謝している。ご恩を返す為にも、今日ばかりは彼女に手を出すわけにはいかない。
 だからまあ、ぎりぎり許される範囲内でこの夜を楽しまなくてはならないだろう。とりあえず一緒の布団で寝るくらいはいけるか。彼女のベッドに入れてもらうのはアリだろうか、せっかくだからそのくらいは果たしておきたい。
「あ、お茶をどうぞ。お酒飲んだ後だから、喉渇きますよね」
 藍子が両手で麦茶のグラスを手渡してくる。
「悪いな。いただくよ」
 俺はそれを受け取り、一口飲んだ。さすがに今日はそれほどたくさん飲めなかったし、酔いも回っていない。ただ思ったよりくたびれたかな、という自覚が今更のように頭をもたげてきた。
 それもそうか。何と言っても今日の俺は、人生で初めてのことをやり遂げた。
 ひとまずは無難に。もしかすると、藍子に惚れ直してもらえるくらいに。
 こういうのは自分じゃわからない。いくら自画自賛したところで彼女がどう思うのかはまた別の話だ。早速、彼女の感想を聞いてやろうと思った。
「挨拶、上手くいったみたいだな」
 俺がそう切り出した時、藍子はチョコレートの袋をばりっと開けたところだった。そのままの体勢で俺の顔をじっと見た後、にっこりして顎を引いた。
「そうですね。今日の隆宏さんは頼もしくて、特別格好よかったです!」
 例によって藍子ちゃんは俺を誉めすぎってくらい誉めてくれる。曇りないきらきらした眼差しも全幅の信頼も俺にはいっそ眩しいくらいだが、こうして人生の節目を迎える局面では、彼女のそういう真摯な心情こそが俺を支えてくれるのだと思う。
 そしてこれから先もきっと、何かある度に俺は、藍子の存在をを何よりの支えにして生きていくことになるだろう。
「そうか、嬉しいよ。実は結構緊張してたからな」
 俺も正直に告白しておいた。
 もっとも隣で見てたんだからその辺は多少なりともばれてただろう、と思いきや、藍子は思いもよらないというように目を瞠っていた。
「そんなふうにはちっとも見えませんでした。勤務中と一緒で、さすがしっかりしていて、立派だなって思ってましたよ」
「いやいや、それほどでもないですが」
「それほどでもあります。私も隆宏さんを見習いたいです」
 生真面目に言って、藍子はパジャマ姿で背筋を伸ばした。
「次は私の番ですから。隆宏さんのご両親に、きちんとご挨拶ができるようになっておかないと!」
「うちのは、別に適当でもいいよ。お前の挨拶なら何でもいいって言うに決まってる」
 俺は冗談でもなくそう言った。
 そういうところまで俺とうちの両親とはよく似ている。何かこう、ツボが同じなんだろうな。
「嬉しいです。それならせめて、あまりあがらないように頑張らないと」
 藍子は半ば自分に言い聞かせるように宣言すると、さっき空けた袋からチョコ菓子の包みを二つ取り出した。そのうち一つを手のひらに乗せ、俺に差し出してくる。
「隆宏さん、どうぞ。疲れた時は甘いものですよ」
「……そうかもな。一つ貰っとく」
「どうぞ。たくさんありますから」
 微笑んだ藍子は、俺がチョコの包みを開けて口に放り込むまで、優しく見守ってくれていた。その後でほんのちょっとだけ気遣わしげに、こう言った。
「今日はあんまり食べられなかったんじゃないかなって思ってたんです。父の方が浮かれてて、すごくいっぱい話しかけられてたから……大変でしたよね、ごめんなさい」
 彼女の言う通り、今回はあまり食べている余裕もなかった。せっかくの藍子の手作りメニューである煮しめはたくさんいただいたが、それでも総合的に見れば食は進まなかった。酒も、自発的にセーブしていたところがあったとはいえ、酔うほどの量を飲めなかったというのも事実だ。別にそれは藍子のお父さんのせいじゃなく、俺が思いのほか緊張していたせいに違いないが。
「お父さん、はしゃぎすぎなんだから……」
 藍子が年頃の娘さんらしい口調でぼやく。
 正直な話、藍子とお父さん、藍子とお母さんはそれぞれ実によく似た親子だなと俺は思っているが、それはどうやらこの場では素直に言わない方がいいだろう。言うならまた別の機会にしよう。
 代わりに、存分に誉めておく。
「でも、すごく優しい人だ。あんなに歓迎してくれるとは思わなかった」
 今日の挨拶は俺にとっても人生で初めてのことで、どんなに予習してきたところで至らない点はあっただろうし、藍子は全面的に誉めてくれたけど、みっともない部分も確実にあったことだろう。三十一歳なんて所詮若輩者、藍子のご両親から見たら俺なんて、まだまだ若くて未熟な人間には違いないはずだった。
 なのに、藍子のご両親は俺を歓迎し、寛大に接してくれた。娘の想いを尊重し、彼女が信頼している俺を、やはり信頼してくれている。
 ああいうご両親だからこそ、藍子のような心優しくまっすぐなお嬢さんを育てられたんだろうな。今日また、その確信を深めるに至った。
「ありがたいよ。本来ならそれこそ、一発殴られても何ら不思議じゃないくらいなのに」
 俺が口にしたのはかつて藍子のお父さんが語った本音だった。現実には俺を殴るどころか言葉の暴力すら全く振るわない温厚篤実なお父上だが、それでも手塩にかけて育てた娘のうちの一人が嫁に行くともなれば、相手の男を恨みたくもなるものだろう。それをあえて温かく歓迎し、更には息子のようなものだとまで言ってくださった。
「殴るって言ってたのは多分、父のポーズ的なものだと思いますけど」
 と、藍子は恥ずかしそうに弁明した。
「でも私も、嬉しかったです。両親がすんなり受け入れてくれて」
「そうだな、ありがたいよ。俺も藍子のご両親が優しい人たちでよかったって思ってる」
「いえ、それほどでも……。自分の親のことだと、ちょっと照れますね」
 藍子が言葉通りに照れていたようなので、もっともじもじさせてやろうと俺は付け加えた。
「あとお前が、入社してからというもの、俺の話をご両親にたくさんしておいてくれたおかげでもあるよな」
「……それはあの、も、もう忘れてください。覚えてなくていいです」
 あたふたと言われてしまったが、あいにく忘れられるようなネタじゃない。とうに俺の心のアルバムに刻み込まれてしまった。時々思い出してにやにやしたくなるくらいには嬉しい話だった。
「こういう家庭を築きたいな、って思ったよ」
 俺は思う。理想はまさに小坂家だ。優しくて温かくて、家族の中でも会話が豊富で。常に笑顔の絶えない明るい家庭を目指したい。
 俺たちならできるはずだ。藍子となら、必ずできるはずだ。
「藍子。俺たちも、いい夫婦になろうな」
 そう言いながら俺は手を伸ばし、下ろした彼女の長い髪を撫でてみる。指先にさらさらした感触があって、それがすごく心地いい。
 くすぐったそうにした身じろぎをした藍子が、それでも俺を見ながら小さな声で答えた。
「はい、隆宏さん」

 ひとしきり互いを労い、チョコレートもいくつか食べた頃、時刻は十一時を回っていた。
「そろそろ歯磨きして寝ましょうか」
 藍子が切り出してきた時、既に彼女の方が眠そうだった。今日は彼女だって緊張しただろうし、いろいろと気を揉んでもくれていたみたいだった。きっとくたびれたに違いない。あんまり夜更かしさせたら悪いから、俺もその提案には従った。
「そうだな、寝るか」
「なら、お布団敷きますね。隆宏さんはこちらで休んでください」
 すかさず彼女は立ち上がり、空のグラスが載ったお盆を一旦机の上に避難させ、布団を敷こうとしたようだ。
 しかしそれは、あえて押し留めてみる。
「せっかくお前の部屋に泊めてもらうんだから、一緒に寝たい」
「い、一緒にですか? でも……」
 窓際に置かれた木枠のベッドを見てから、藍子は苦笑気味に答える。
「狭いですよ? 隆宏さんにはちょっと窮屈じゃないかなって」
「俺は気にしない。と言うかお前と密着して寝られるならむしろありがたい」
「えっ……もう、何を言ってるんですか!」
 藍子は真っ赤な顔で俺を睨んだ。彼女の睨みというのは怖さも迫力もない拗ねてるみたいな雰囲気のもので、そうして見つめられるとむしろ俺のテンションが上がる。
 その上彼女は俺を睨みながらも、一応は満更でもないと言うか、やぶさかでもない感じらしい。やがておずおずと念を押された。
「本当に狭いですから、寝違えたりしないでくださいね。窮屈だと思ったらお布団に移ってください」
「大丈夫だ。このひと時の為なら、俺は首の痛みくらい耐えてみせる」
「隆宏さんって時々、変なことに真剣になりますよね」
 一周回って彼女には感心されたようだ。
 もちろん俺は、藍子に関わる事柄ならいつだって真剣だ。当然、本日の添い寝も真剣かつ真摯に、そして丁寧にやらせていただきます。

 お互い歯を磨いてきてから、藍子が部屋の明かりを消し、薄暗がりの中でベッドに潜り込む。むしろ暗いのをいいことに彼女を不意打ちで抱き締めつつ、なだれ込むようにベッドに押し倒す。
「わ、隆宏さん! もう……!」
 藍子は俺に抱き締められつつも懸命に手を動かし、布団を引っ張り上げようとしている。その動作にはしがみついてる俺が邪魔だと察すると、やんわり声をかけてくる。
「入らないと寒いですよ」
「お前を抱いてれば寒くない」
「駄目です。肩までお布団かけてください」
 彼女が言い張るので、俺は渋々従い、身体の下にあった布団を引きずり出すとお互いの上にずるずる引っ張った。でも温かいのは本当で、くっついた彼女の体温がパジャマの布地越しに伝わってくる。温かくて柔らかくて、もう一度抱き締め直して首の付け根に顔を埋めたら、彼女らしいいい匂いがした。
 このベッドも何だかすごくいい匂いがしていた。安心するような、どきどきするような不思議な匂い。こんなところで毎晩寝られる藍子が羨ましくなるし、でも一緒に暮らして、毎晩一緒に寝るようになったら、俺たちの家もこんないい匂いでいっぱいになるのかもしれない、とも思う。
 暗がりに慣れない目で、すぐ眼前にある藍子の顔を眺める。藍子は目を閉じていて、でも寝入ってはいないようで、俺の視線に気づくと軽く笑った。
「ちゃんと寝てくださいね、隆宏さん」
「何か寝られる気がしないんだが、どうしたらいい?」
「とりあえず目を閉じてみたらいいと思います。そうすると案外寝つけますよ」
 藍子のアドバイスを受けて俺は目を閉じた。ついでに、すぐ傍にあった彼女の唇に、目を閉じる前の記憶を頼りにキスしてみた。身体と同じく柔らかで、でも少し冷たい感触は記憶通りにそこにあり、重ねた唇からは微かな笑いが漏れる。
「何で笑うんだよ」
 俺が尋ねたら、彼女は恥じ入る声で言った。
「い、いいじゃないですか。何だか幸せだな、って思ったんです」
 その通り、俺たちは幸せだ。結婚に当たって目下大した障害もなく、今日、また一つ大きな山を越えた。愛し合う気持ちは今や疑いようもないところにあり、信頼もしていて、そしてこうして抱き合ってるだけでとてつもなく幸せだった。
 俺たちはいい夫婦になれると思う。
 藍子のご両親みたいに、きっとなれると思う。
 根拠はない。でも確信は持っている。俺も藍子もお互いの為には努力ができるし、お互いにまつわる事柄にも共に真剣だ。そして同じことに、同じ状況に、幸せを感じている。これだけ揃ってれば問題なく、いい夫婦になれるんじゃないだろうか。
 俺が目を閉じたままぼんやりしているうち、藍子はあっさり寝ついてしまったようだ。直に可愛い寝息が聞こえてきた。目を開けたら薄闇の中、ぼんやりと彼女のあどけない寝顔が見えた。
 軽く開いた唇にもう一回キスしても、彼女はもう笑わなかった。起きることもなくすやすや寝ていた。代わりに俺が笑ってしまう。
 幸せだ、と思った。
 今夜は思っていた以上に、平和で静かで何も起こらない夜だ。でもまあ、平和なのが一番だよな。

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