Tiny garden

どうすれば返せるんだろう(3)

 ビールを飲み終えて水割りに移行し始める頃、藍子のお父さんとは真面目な話もぽつぽつとした。
 ご両親が最も気にしていたのは、やはり結婚の具体的時期についてだった。
「時期をいつ頃にするかは、もう二人で決めているのかな?」
 お父さんが問うと、藍子はすぐに答えた。
「うん。来年の、九月過ぎ頃がいいんじゃないかって話してたんだ。決算済んでからの方が立つ鳥跡を濁さず、って感じかなって」
 俺たちも結婚の時期については何度か話し合ってきた。職場結婚だけに、当の職場に迷惑をかけることは何よりも避けたい。加えて結婚式には多くの方に参列していただかなければいけないから、皆が忙しい時期、金のかかる時期は避けたい。そしてなるべくなら、暑すぎず寒すぎずな季節がいい。
 というわけで、俺たちの結婚は来年の九月を過ぎた頃にしようと思っていた。まだ先の話のように見えるが、地味にあと一年を切っている。これからはばたばたと慌しくなることだろうし、時もあっという間に過ぎていくだろう。それでも、藍子とだったらそういう忙しささえ楽しめるはずだ、という確信がある。
「秋か……。涼しくなってくる、一番いい時期だな」
 お父さんは納得したように唸る。
「藍子もきっといろいろ衣裳を着るんだろうし、それなら秋くらいがちょうどいいだろうな。夏場じゃ重装備は辛いだろうからな」
 そう言われて、藍子ははにかんだ。
「それもあるけど、重装備なのは来てくださる方々だって同じだから。そういうのを踏まえても、やっぱり秋頃かなって隆宏さんが言ってたの」
 そして彼女がこっちを見たから、俺は黙って頷いておく。
 数々の披露宴に出席してきた経験は、こういう時にこそものを言うのだ。大切なのはもてなしの心だ。結婚式を挙げるにあたって、俺たちは参列者の皆様をおもてなししなくてはならない。せっかく晴れの日の衣裳をかっちり着込んできてくれる皆々様に、感動の涙ではなく滝のような汗を流させるようではいけない。
 もっとも感動だって、してくれるのはせいぜい身内くらいのもんだろうがな。他人の式じゃそこまで気持ちが動くまい。と言うか俺自身、自分の結婚式で感動できるかどうかすら怪しい。そりゃあ藍子の美しい晴れ姿にはお色直しの度に感動に打ち震えるであろうと思ってはいるが、それ以外の儀礼的な部分は、案外淡々と終えてしまいそうな気がする。
 藍子はどうだろうな。こんなお父さんお母さんに大事に大事に育てられたお嬢さんが、親元を離れお嫁に行くっていう日に平然としていられるとは思えないが……。
 やっぱり、泣いたりするんだろうか。
「どんな式にするかはもう決めてるの? ほら、神前とかチャペルとかあるでしょう」
 お母さんの質問に、藍子は面映そうな顔で答えている。
「一応、神前式にしようかなって話してたんだけど……ですよね、隆宏さん」
 そうして同意を求めてきた彼女は、実に屈託のない笑顔を浮かべていた。今のところはまだ、結婚式を楽しみにしてくれているらしい。
 俺としては、結婚式そのものよりもその後に続くめくるめく日々の方が一層楽しみであります。
「神前式にするの? 今時ならかえって新鮮でいいかもね」
 お母さんまで目を輝かせている。こういう時の表情は本当に藍子によく似ている。
 すかさずお父さんも微笑んで、俺に向かって告げてきた。
「我々としては、まあ、度を越さない程度であればいいと思っておりますし、藍子と隆宏さんの希望に口を挟むことはしません。そちらのご両親のご意向もあるでしょうし」
「ありがとうございます」
 俺は頭を下げる。それから続けた。
「私の両親もこの度の件に関しては、あれこれ口を挟むつもりはないと申しておりました。もう私も三十過ぎですし、一社会人として責任を果たせと言われた程度です」
 実際にはもっとくだけたやり取りだったが、電話でプロポーズの成功を報告した際、似たようなことは言われていた。うちの両親は一度会っただけですっかり可愛い藍子にめろめろになってしまっていたようで、あんたの意向なんてどうでもいいからとにかく藍子ちゃんの為にいい式を挙げてやりなさい、としつこいくらい繰り返された。何でもうちの母さん曰く、『結婚式の記憶は正も負も倍になって後々まで残る』ものらしい。そこで下手を打とうものなら、一生言われ続けるのだそうだ。
 となれば藍子にはプラスの記憶だけ残しておいてもらえるような、そんな式を挙げてみせたい。
「藍子さんとも話していたのですが」
 俺は更に続ける。時々彼女の顔を見ながら、二人で決めたことをご両親に報告する。
「私も藍子さんもお互い、派手なことはしたくないと考えていまして、ささやかながらも形式に則った式を挙げるつもりでいます」
 もちろん俺は藍子の為なら何だってできるつもりだったから、彼女が望むならどんな派手な式でもいいと思っていた。でも彼女は誓いのキスが恥ずかしいという理由で神前式を選んだわけで――神前を希望した根拠はそれだけではないにせよ、それも理由の一つとして挙げる程度には恥ずかしがりやさんなので、なるべく慎ましやかにやりたいと言っていた。俺が雑誌で見たガータートスに興味を持ち、彼女に冗談半分で提案したら、ものすごい勢いで反対されたほどだ。
「二人で話し合って決めたことでしたら、それが一番いいでしょう」
 お父さんが満足げに言って、水割りのグラスを傾ける。
 俺はもう一度頭を下げ、寛容なお言葉に礼を述べてから、今後の話についても切り出した。
「後日また、私の両親と共にご挨拶の機会をいただきたいです。本日もお忙しい中をお時間作っていただいたので、恐縮なのですが……」
「ええ、もちろん。我々からも是非ご挨拶させていただきたいですし」
 そこでお父さんは、酔いのせいか丸まりかけていた背をぴしっと伸ばした。でも俺たちを眺める顔はすっかり相好を崩していて、幸せそうに見えた。
「口を挟まないとは言いましたが、何かこちらの手助けが必要な時は、いつでも言ってください」
 そして幸せそうな顔つきのまま、俺たちに優しく語りかけてくる。
「これからはもう、隆宏さんもうちの息子みたいなものですから。どうぞ遠慮なさらず」
「お父さん、それは逆でしょう。藍子を向こう方のお嫁にもらっていただくんですよ」
 お母さんが慌てたように指摘していたけど、お父さんは既に酔っているのかどうか、ふわふわした笑い方で応じた。
「なあに、似たようなもんだよ」
 当の藍子はきょとんとしている。俺と結婚して夫婦になるってビジョンは多少あっても、互いの両親がそれぞれ親類同士になるっていうのはまだぴんとこないのかもしれない。それは俺も同じことだ。
 とりあえずは、歓迎していただいているのがとても嬉しい。普通なら、娘を掻っ攫う大悪党だって思われてても仕方ないくらいなのにな。それもこれも、藍子がずっと前から俺の話をご両親にしてくれていたおかげだろう。そして藍子をそういうふうに育ててくださった、ご両親の優しさのおかげでもあることだろう。
「息子だと思っていただけるなら、大変光栄です」
 だから俺は素直にそう告げた。
 たちまち藍子のお父さんが目を細め、上機嫌で声を上げた。
「もちろんです! こんなに立派な息子ができて、私も鼻が高いですよ」
 お父さんのそのご機嫌っぷりを、お母さんは苦笑しつつ見守っている。
「さあ、今日はどんどん飲んでいってください。ほら藍子、隆宏さんのグラスが空になるところだぞ。次に何を飲むか聞いてあげなさい」
「はーい」
 藍子も笑いを噛み殺しつつ、俺が空けたグラスを受け取った。そしてすっかり慣れた手つきで水割りを作ってくれた。
 彼女の作り方は例によってやや薄めで、俺が酔っ払わないようにと配慮してくれたようだった。でも俺はこの幸せにすっかり酔いしれていたから、せっかく配慮してもらったのにだらしなく緩んだ顔ばかりしていたかもしれない。

 午後九時を過ぎた辺りで、今夜も藍子のお父さんが舟を漕ぎ出した。その為、酒席もそこでお開きとなった。
「お先に失礼してすみません。隆宏さんはどうぞ、ゆっくりなさってください」
 お父さんはそう言い残し、更に、今回は泊まりなんだからまた明日の昼にでも飲み直しましょうとも言ってくれたが、それはお母さんと藍子の反対にあったので実現はされない見込みのようだった。
 俺もそろそろ酒は止めておこうと思っていたところに、藍子が提案してきた。
「隆宏さんも楽な格好をしてはどうですか? ずっとスーツだと疲れちゃいますよね」
「ああ、そういえばそうだな」
 さも今思い当たったというそぶりで俺は応じたが、実際は大分前から着替えたいと思っていた。上着は脱いでいたし、足も崩してくださいと勧めてもらったのでそうしていたものの、さすがに藍子のご両親の前でネクタイは外せない。楽な格好なら今すぐしたい気分だ。
 すると藍子のお母さんが言った。
「でしたら、よければ藍子の部屋にあるパジャマをお使いください。新しいのを買っておいたんです」
「えっ、あ……ありがとうございます」
 意外な申し出に俺は戸惑う。
 わざわざ俺の為にパジャマを買っておいてくださったとは。何か、申し訳なくなるくらいの歓待ぶりだ。泊まりの予定は事前に聞いていたから、無難なTシャツとジャージを一応持参してはいたが、そういうことならお言葉に甘えるべきだろう。
「藍子、お部屋に連れて行って差し上げて」
 お母さんの言葉を受けて、藍子は俺を自分の部屋へと案内してくれ、俺は恐縮しながらその後に続いた。

 数ヶ月ぶりに入った藍子の部屋は、リビングよりもずっと変化がなかった。アイボリーのカーテンも木枠のベッドも灰がかった薄青のラグマットも、記憶にある通りのままだった。室内は相変わらずきれいに整頓されていたし、そして相変わらずほんのりといい匂いがしていた。
 ベッドカバーの上には折り畳まれたパジャマがあり、それを拾い上げた藍子が俺に手渡してくる。
「これ、よかったら着てください。新品ですからどうぞ遠慮なく」
「何か悪いな。ここまでしてもらって」
 俺の言葉に藍子はにこにことかぶりを振る。
 せっかくなので着てみようとパジャマを広げてみる。生地は紺のギンガムチェックで、前でボタンを止めるシャツタイプのパジャマだった。見た感じサイズは合っているようだ。念の為ズボンの方も広げてみたが、特に大きすぎることも小さすぎることもない。
「うち、パジャマと言ったらギンガムなんです」
 藍子が、パジャマを広げる俺の手元を覗き込むようにしながら話しかけてくる。
「なぜかはわからないんですけど、うちの母が家族全員分そうするんです。おかげで外でギンガムチェックを見かけると、時々妙に眠くなっちゃうんですよね」
 その話で俺も思い出した。
 彼女とまだお付き合いを始める前のこと、メールのやり取りで教えてくれたパジャマの柄は確かに青のギンガムチェックだったはずだ。ちなみにお父さんのパジャマは緑ギンガムとのことだった。ということは、お母さんも恐らく何らかのギンガムなんだろう。
 つまり――今夜、ついに藍子の例のパジャマ姿を拝めるってことにならないだろうか。あの! 俺がメールで画像を催促した! でも決して見せてはもらえなかったので想像で補うより他なかったあのパジャマ姿を!
 あの頃から既に一年が過ぎ、俺は彼女の寝巻き姿も寝姿も存分に眺めてきてはいた。しかしあの頃見たいという気持ちを募らせていた例のパジャマ姿を拝見できるというのは、何だか新鮮な気持ちになる。テンションだって上がる。あの頃の、今振り返ると空回りも甚だしかった自分と彼女を思い出し、こそばゆくもなる。
 ふつふつと様々な感情を滾らせている俺の傍ら、まだブラウスにスカートのおめかしスタイルでいる藍子が、無邪気な声で言ってきた。
「どうぞ着てみてください。サイズ合ってるといいんですけど……」
 そう言われて俺は我に返り、思わず聞き返す。
「いいのか。今、お前の目の前で脱いでも」
 途端に藍子がびくりと固まった。
「あ! だ、駄目です! 私、すぐ出て行きますから!」
「いや、俺は別にいいけどな。お前もさすがに見慣れただろ?」
「慣れてないですっ!」
 一声叫んだ彼女は慌しく自室を出て行った。
 俺は彼女の可愛さ、未だ失われない初々しさににやにやしつつ、ようやくネクタイを解いて着替えを始める。パジャマはフリーサイズで仕立てられているらしく、ぴったりというほどではなくても問題なく着られた。おろしたての生地はいかにも新品らしい、よそゆきの匂いがした。
 着替えを済ませ、脱いだ服を畳んで持参したバッグにしまったところで、俺は改めて彼女の部屋を見回した。
 ベッドは一つきりしかない。彼女の一人部屋だから当たり前だ。
 特に何か言われたわけじゃないが、俺用のパジャマがここにあったということは、もしかするともしかしちゃうんだろうか。
 いや、普通に考えたらプロポーズしたとは言えまだ結婚前。彼女の部屋の彼女のベッドで一緒に寝る、なんてことが推奨されるはずもない。恐らく他の部屋で寝るように言われることだろう。でも俺としてはせっかくだから、今夜はこの部屋でお泊りしたいです。藍子に言ったらどうにかしてくれたりしないかな。きっと楽しい夜になるに違いないのにな。
 と、妄想及び策謀を膨らませる俺の背後で、さっき藍子が出ていったきり閉ざされていたドアに何かがぶつかった。ぼすんと重い音がした。
「隆宏さん、お着替え終わりました? 終わってたらドア開けてくれると嬉しいです!」
 ドアの向こうからは藍子の声がする。
 俺が言われた通りにドアを開けると、戸口には彼女の姿よりも先に、積み上げた布団一式が現われた。最上段の枕の脇に彼女の可愛い顔がぴょこんと覗いている。
「ありがとうございます。お布団持ってきたから、手が塞がっちゃってて」
「……部屋の中に運ぶのか? じゃあ、俺が持つから」
「すみません、お願いします」
 俺は彼女から布団一式を受け取り、それを戸口から引き抜くように彼女の部屋へと持ち込んだ。
 恐らくこの布団は、俺用だと思われる。
 つまり――。
「隆宏さん、まだ眠くないですよね?」
 布団を床に置いた時、部屋の外から藍子が尋ねてきた。振り向けばまだ着替えていない彼女が戸口から身を乗り出すようにこっちを見ている。
「もう少し起きてるなら、せっかくですからお菓子でも持ってきましょうか」
「お菓子? お前、夜遅くに食べないんじゃなかったのか」
 俺のツッコミに彼女は少し慌てた。
「きょ、今日は特別です! だってせっかく、隆宏さんにお泊まりしてもらうんですから」
「はいはい。お前がいいならいいよ」
 その言い訳が可愛かったので、思いっきり甘い顔をしてやった。ダイエットもほどほどにってお父さんにも言われてたもんな。
「あと、飲み物も持ってきますね。何がいいですか? 紅茶かコーヒーか……あ、麦茶もありますよ」
「麦茶がいい」
「わかりました。じゃあ持ってくるついでに着替えてきますから、ちょっと待っててくださいね」
 藍子はどこかはしゃいでるような調子で言い残すと、再びドアを閉めた。廊下を歩く微かな足音はすぐに聞こえなくなり、彼女の部屋には俺一人。
 足元にはまだ畳まれた状態の布団がある。

 これはつまり、『俺は藍子の部屋に泊めてもらえるが、寝床は別』という解釈でいいんだろうか。
 そして着替えてくると言っていた彼女――ついに、ついにあのパジャマが見られるのかと俺まで浮かれそうになった。
 が、藍子のはしゃぎようを見るに、楽しい夜を通り越してパジャマパーティになるんじゃないかという予感も、ふと胸を過ぎった。
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