Tiny garden

どうすれば返せるんだろう(2)

 本日も小坂家の食卓は豪勢で、そして賑やかだった。
 藍子のお母さんが腕によりをかけた料理の皿を次々に運んでくる。俺の実家の晴れの日メニューがちらし寿司であるように、小坂家の晴れの日メニューはまずたけのこや里芋やさつま揚げで煮しめを作ると決まっているのかもしれない。
 その他は秋らしいメニューが揃っている。サーモンとキノコのマリネ、カボチャのサラダ、ナスの揚げびたし、それに焼きサンマだ。
「隆宏さんは腸を取らない方が好きだって聞いていたので、そうしました」
 俺の前にサンマの載った角皿を置きながら、藍子が意気揚々と語る。
「覚えててくれたのか」
「はい。大事なことですもんね」
 得意げな彼女の言葉も嬉しかったが、それ以上に嬉しいのはご両親の前で普通に名前呼びしてくれた点だった。最初の訪問時は指摘されるまでずっと『主任』呼びだったからな。しかもそう口にした時の藍子は特別気負った様子もなく、ごく自然な口調だったし、それを見守るお父さんもにこにこと穏やかな笑みを浮かべている。
 もしかすると彼女と彼女のご両親の中で、俺の名前が浸透したということでもあるのかもしれない。日常会話においても『今日、主任がね……』とかじゃなく、『隆宏さんがね……』なんて話してたりすんのかな。そういう藍子を想像すると可愛すぎて身悶える。いやもう想像だけじゃ我慢できん、いっぺんでいいので物陰から彼女の家庭での様子を覗いてみたい。藍子の日常を完全網羅したい。そういうDVDとか出ないかな、そしたら俺が十枚は買うのにな。
 そうこうしている間にも藍子はてきぱきと酒席の支度を整えている。箸や取り皿や醤油差しを並べ終えると、見守る俺に向かって明るい笑顔で尋ねてきた。
「隆宏さん、乾杯はビールでいいですか?」
「ああ、ありがとう」
「お父さんもビールにするよね?」
 藍子が尋ねた時、お父さんはスーツの上着を脱いでソファーの上に置き、さらにはネクタイまで緩めようとしていた。それを見咎めて藍子が呆れたように苦笑する。
「もう脱いじゃうの?」
「だって、これからお酒飲もうっていうのに、堅苦しい格好はしたくない」
 お父さんは照れたように笑んだ。そして俺に対しても、
「石田さんもどうぞ楽にしてください。上脱いで、ほら、足も崩していいですから」
 と勧めてくる。
 せっかくなのでお言葉に甘え、上着を脱ぐことにした。すると藍子がすかさず上着を受け取り、丁寧な手つきでハンガーに掛けてくれた。その指に指輪がきらめくのを、俺は今更のようにくすぐったい気持ちで盗み見ている。
 何かこういうのって新婚さんみたいじゃないか、的なことを思ったりもする。
 いや『みたい』も何も、プロポーズやご挨拶は無事済んだし、そのうち名実共に新婚さんになっちゃうんだけどな。そうなったら例えば上着を掛けてもらう機会なんて毎日のようにあるだろうし、その度にときめいてたら心臓が持たないだろうに。
 でも、ときめいちゃうんですよね。藍子が俺の為にしてくれる行動の全てが、俺の幸せに直結している。つまり結婚して一緒に暮らすようになったら、俺は彼女と過ごす毎秒毎分毎時間、息もできないようなときめきと幸せに埋もれることとなるだろう。
 望むところだ。
「じゃあ乾杯しましょうか」
 料理をあらかた運び終えたところでお母さんが言った。
 以前と同様、お母さん用のコップは二口分入ればいい程度の小さなもので、そこにお父さんが缶からビールを注いであげていた。俺と藍子と藍子のお父さんはそれぞれ冷えたグラスにビールを注ぎ、乾杯の後に口をつける。
 小さなコップをちょうど二口で空にした後、お母さんが俺に向かって言った。
「今日もたくさん作りましたから、どんどん食べていってくださいね」
「ありがとうございます」
 俺が礼を述べると、隣にちょこんと座った藍子がすかさず申し出た。
「でしたら私、取りますよ!」
「お……おお、悪いな。ありがとう」
 そのサービスのよさには若干面食らった。が、悪い気もしなかったので快く承諾しておく。
 すると彼女は取り皿と菜箸を持ち、意気盛んに煮しめを盛りつけ始めた。具材を各種一通り皿に取り分けると、満面の笑みを浮かべて俺に差し出してくる。
「隆宏さん、どうぞ!」
 何だか本気でリアル新婚さんみたいになってきた。
 こうやって何も頼まないうちから皿に取り分けてくれる甲斐甲斐しさとか、まさに夫婦の肖像じゃないか。あれか、結婚に向けてのリハーサルってやつか。今のうちからこういう夫婦っぽさに慣れておこうって腹づもりか。それはそれで全く悪い気がしないが、締まりのない顔になってそうでその点だけが非常に困る。幸せ噛み締めすぎていち早くお腹いっぱいになりそうだ。
 しかし特上大盛りの幸せのせいでせっかくのご馳走が入らなくなるのも問題だろう。ひとまずいただきますを言い、煮しめを口に運んでみる。だしがよく染みた上品な味わいが後を引く美味さだ。
 初めてお邪魔した際も、俺はこの煮しめが非常に気に入って一人でどんどんいただいてしまった。一人暮らしだとこういう献立には全く縁がないし、かと言って煮物の類は買って食べるのもなんか違うんだよな。それに、よその家のご飯がここまで口に合うというのもなかなかないし、ありがたいことだ。
「美味しいですか?」
 俺が食べてる傍から、藍子が食いつくように尋ねてくる。そう聞く自分は乾杯の後、まだ何も手をつけていないようだ。気にしてくれるのは嬉しいが、せっかくだからお前も食べたらいいのに。
「ああ、美味しいよ。味つけがすごく好みだ」
 だから安心させようと俺が答えた途端、テーブルを挟んで向かい側にいた藍子のお母さんがふふっと軽い笑い声を零した。
「石田さんのお口に合ってよかったじゃない、藍子」
「うん……」
 藍子が柔らかくはにかむ。
 とっさにその会話の意味を理解して、俺は思わず藍子の顔をまじまじと見た。しかし種明かしをしてきたのは、彼女のお母さんの方だった。
「今日の煮しめは藍子が作ったんですよ。前の時に石田さんが気に入っていらっしゃったから、作れるようになりたいって」
「作った、ってほどじゃないよ」
 照れ隠しなのかどうか、藍子は即座に反論した。それから俺にもまるで弁解するように打ち明けてくる。
「ほとんど母に傍に立っててもらって、アドバイスを貰っていたようなものなので、私が作ったと言い切れるものじゃ到底ないんですけど……」
「よくできてるよ。アドバイス貰ったってこれだけ作れるんなら、随分な成長じゃないか」
 俺はここぞとばかりに彼女の腕前を誉めた。
 実際、藍子の成長ぶりと言ったら手放しで誉めても問題ないくらいだった。この春までレパートリーが二つ、それもカレーと豚汁だった女の子が、とうとうこんな家庭的な献立にまで手を出すようになっていたなんて大変にすごいことだろう。しかも俺の為ですよ。他でもない俺の! 気に入った献立だからという理由で! ああもうやばい、幸せすぎて心がどこかへふわふわ飛んでいきそうだ。ここは胃袋ごと藍子にがっちり掴まえといてもらわないとな。
 それならこの間の西京焼きとか、南蛮漬けとかも、お母さんから習ったメニューだったのかもしれないな。あんまり若い子が作りたがるような品じゃない気がするし。それはそれで萌える。
「気に入ってもらえたならよかったです」
 藍子が俯き加減でもじもじしている。非常に可愛い。
 そこへお父さんがいい笑顔を浮かべて口を開いた。
「藍子は石田さんの為ならいくらでも頑張るんだもんなあ。ダイエットだって珍しく長続きしてるし」
「……それは別に、そういう意味でしてるんじゃないもん。健康の為にと思って、それだけ!」
 恥ずかしそうに応じた藍子は、十一月に入ってもまだ順調にダイエットを続けていた。成果の程は目覚しいというほどではないらしいが、今のところはどうにかマイナス三キロまで到達したようだ。犬のように尻尾を振りながらわざわざ報告をくれたのも先週の話だった。見た目にはそれほど大きな変化もなかったものの、太腿はためしに触ってみた感じ、そこそこ引き締まってきたようだった。
「何言ってるんだ。ダイエットも結局は石田さんの為にしてるんだろうに」
 お父さんは冷やかすように言った後、ほんの少し心配そうな顔をした。
「しかしな、あんまり細くなったらせっかくいただいた指輪のサイズが合わなくなるだろう。程々にするんだぞ」
「うん……」
 藍子もその言葉には迷うようなそぶりを見せた。左手の薬指に填まった指輪は、今のところはまだジャストサイズだ。
 もちろんある程度ならサイズ直しもできるものだし、そもそもこの指輪は婚約の一歩手前リングという立ち位置なので、結婚までに藍子のサイズが変わってしまおうとも特に問題はない。改めてちゃんとしたやつを買いに行けばいいだけの話だった。
 だが、俺としても藍子の健康は心配だし、現状のマイナス三キロくらいで満足してもいいんじゃないかと密かに思っている。と言うか本人にはそう伝えたが、『それだとまたすぐ増えてプラマイゼロになっちゃいそうですから!』と返された。この三キロは藍子にとっては成果ではなく、ほんの些細な油断からいつ打ち消されてもおかしくない不確定要素のようだった。難しいんだな、ダイエットって。
 俺からすれば、藍子がちょっとだけ痩せて、でも見た目にはそれほど変化がなくて、どこが変わったんだよちょっと触らせろよって自然な流れで脚や腰を撫で回せてしまえる今くらいの増減具合がちょうどいい。まあもっと痩せたら痩せたで、似たようなこと言ってやっぱり撫で回すんですがね。
「石田さん、どうですか。うちの娘、そんなに痩せる必要はないでしょう」
 お父さんもうちの営業課の連中と同様、若い子のダイエットには否定的なようだ。そして同じように、彼女のダイエットの理由が俺にあると思っている。後者に関してはほぼ事実なので何とも言いがたいが、どちらにせよ答えにくい質問だった。
「そんなことないですよね?」
 一方、藍子も俺に尋ねてきた。煮しめの中でもたけのこに昆布といったヘルシー食材ばかり選んで口に運んでいるようだった。
「お父さんは何かって言うとすぐ、ダイエットしなくていいって言うんだから。女心がわかってないよね」
 まだ二十代そこそこの娘に女心を説かれるお父さんは、いかにも微笑ましげな顔つきをしていた。娘が大人になってしまって寂しさ半分、嬉しさ半分ってところなんだろう。ここはお父さんの肩を持つべきか。
 俺は少し考えてから、藍子に向かって言葉を選びつつ告げた。
「確かに、今でも十分すぎるくらい可愛いからな」
 だからどうしろ、とまでは言及しなかったが、それでも藍子にはきちんと伝わったようだった。みるみるうちに真っ赤になっていく可愛い顔が何よりも内心の動揺を表している。もういい加減言われ慣れていそうな言葉だろうに、告げる度にこうして照れてみせるのがまた可愛い。だからこっちもついつい言わずにはいられなくなる。
「そんなこと……ないですけど……」
 しまいには俯いた藍子が、小声で呟く。
 それを見たお母さんは微笑みながら肩を竦めた。
「藍子は石田さんの言うことならちゃんと聞くのかしらね」
「きっとそうだ。全く、お父さんの言うことはちっとも聞かないくせになあ」
 続いて嘆いたお父さんは、その後で手を打ち鳴らす。
「なら、今度からは何でも石田さんを通してお願いしようか。その方が藍子も素直に聞くだろうし」
 その言葉に俺はつい笑ってしまったが、藍子はあまり笑い事でもなかったらしい。すごく恥ずかしそうにしながら俺を軽く睨んだ。
「もうっ、隆宏さんまで……!」
 藍子になら睨まれても全然怖くないどころか、かえって可愛く見えてしまう。
 本当に何してても可愛いなあ。お父さんお母さんにも感謝しないとな、こんなに可愛く育ててくださってありがとうございます。
「ああ、そうだ。それで思い出した」
 そこでふと、お父さんが居住まいを正した。ビールのグラスを一度置き、俺に向き直る。
「気の早い話だと思うんですが、私たちが『石田さん』とお呼びするのも、何だか他人行儀かもしれないなと妻と話していたんです」
 お父さんがちらりとお母さんの方を見る。
 目が合うとお母さんは黙って頷き、やはりそれだけで夫婦間の意思疎通が済んでしまったようだ。お父さんが自ら語を継いだ。
「差し支えなければ今後は、藍子と同じように、隆宏さんとお呼びしても構いませんか?」
「もちろんです。是非、そうしてください」
 俺は即答した。
 それから隣に座る藍子の方を見てみれば、彼女はまるでお母さんの真似をするみたいに黙って、微笑みながらこくんと頷く。

 本当に、まるで一足先に夫婦になったみたいだ、と柄にもなく俺は照れた。
PREV← →NEXT 目次
▲top