Tiny garden

どうすれば返せるんだろう(1)

 小坂家へご挨拶に伺うのは、なるべく年内のうちに済ませようと思っていた。
 というのも、俺の実家へ帰れそうな日取りが年末年始くらいしかないからで、それを逃すとあとはもう来年のゴールデンウィーク頃までまとまった休みがない。
 既に藍子のことはお盆の帰省でうちの親にも紹介しているから、うちへの挨拶だけなら『結婚するから』の一言でも済むんだが、互いの親への挨拶が済んだらその次には両家顔合わせをしなくちゃいけない。もちろん礼儀として、うちの両親にこちらへ出向いてもらって、藍子のご両親と会ってもらわなきゃならない。そうなるとこっちだけ適当に挨拶ってわけにもいかないし、藍子とも話し合って、今年の年末年始にはまた俺の実家へ一緒に帰省してもらうことにした。
 だから藍子のご両親には、その前に時間を取っていただいた。
 結果、十一月の連休なら大丈夫という話になったので、その辺りでお邪魔する約束を取りつけた。

「うちの父が、隆宏さんとじっくりお酒を飲みたいと言っていました」
 藍子は俺にそう話しつつ、どことなく気遣わしげな顔を覗かせる。
「でも、前のでご存知でしょうけど、うちの父は緊張すると結構酔っ払っちゃう方なので……」
「それはしょうがないな。誰だってそんなもんだ」
 娘が彼氏を家に連れてきた、なんて状況下で酔っ払わずにいられる父親がいるだろうか。少なくとも誰もが冷静じゃいられないだろうし、緊張だってするだろう。
 俺も、まだ遠い未来の話ではあるが、仮に藍子似の娘ができたらそれはもうやきもきするに違いない。男の影がちらついただけで動揺し、彼氏を家に連れてくるとなったら大いにうろたえ、そして結婚するともなれば寂しくて泣いてしまうかもしれない。それ以前の問題で、俺なら娘に悪い虫がつかないように一人一人潰して回る、くらいのことはしたくなるかもしれん。なってみなきゃわからないがな。
 ともかくも娘が就職したあかつきには言ってやろう、企業の新人指導担当の男は得てして親切丁寧なもので、仮に格好よく見えてしまったとしたらそれはお前の目にフィルターがかかっているだけである。いきなりデートに誘われたからってのこのこついていくんじゃないぞ、と――その時、母となった藍子がどんなツッコミをくれるかが見物だ。
 例によって逞しい妄想力を働かせる俺に、今の藍子はきらきらした真っ直ぐな目を向けてくれる。
「だから今回は、隆宏さんにも我が家に泊まっていっていただいたらどうかって、母が言ってました」
「お前の家に? 俺はいいけど……迷惑じゃないのか?」
「ちっともです。前から話してたんですよ、次来ていただく時は是非泊まっていってもらわないとって」
 薄々、そうなるかもしれないとは思っていた。一番最初にお邪魔した時にも藍子のお母さんにそう言ってもらっていたし、今回もどうやら大いに酒を飲む席になりそうだし。そして今回は俺もプレッシャーのあまり酔っ払わないよう、細心の注意を払わなくてはならない。
 何と言ってもこの度は結婚の許可を貰いに行くわけだから、些細な失態だって許されない。藍子のご両親に不安や不信感を持たれるような真似は絶対にできない。そして無事に、立派に、挨拶をやり遂げてみせよう。
「さすがに今度のは緊張するな。失敗しないよう気をつけないと」
 俺が本音を打ち明けると、藍子は励ますみたいににこっとした。
「隆宏さんなら大丈夫ですよ。いつでもちゃんとしてますし、格好いいですもん」
 彼女の目のフィルターもそろそろ外れてもいい頃のはずだが、相変わらず藍子は俺を大盤振る舞いだろってくらいに誉めてくれる。そしてこういう時は、正直満更でもない。
 でも、誰もが藍子みたいに受け止めてくれるわけじゃないしな。
「お前がそう思ってても、お前のご両親がどう思うかだろ」
 こちらは可愛い可愛いお嬢さんを攫っていく身分なのだから、例えば些細な瑕瑾が大きく響くことだってあるだろうし、向こうだってちょっとでも不安のある相手には愛娘をやりたくないと思うだろう。
 となると俺にはどんな些細な失敗も許されない――と言うより、ご両親にひとかけらでも不安を与えるような真似はできない、と言うべきだろうか。藍子を大切に、そして幸せにできる相手だと捉えていただけるように挨拶を済ませなければ。
「それも平気です。うちの両親は隆宏さんのこと、すごく気に入ってくれてますし」
 藍子が言って、俺の手を軽く握ってくる。俺のよりも細くて小さな手は、秋ともなると少しひんやりしていた。
「今回のことだって、隆宏さんには何てお礼を言おうかって考えてるくらいなんですよ」
「お礼って……言われるような立場じゃないぞ、こっちは」
「そんなことないです。私を貰ってくれるのは、隆宏さんくらいですから」
 またまたそんなご謙遜を。こっちは結構、何度かやきもきさせられてるんですがね。
 もっとも、彼女にそういう自覚がないのもいいことではあるかもしれない。俺だけだと思っていて欲しい。お前を幸せにするのも、誰より深く愛するのだって俺だけだ。
「きっとうちの父の方が緊張してると思いますから、むしろ笑わないように気をつけてください」
 藍子が種明かしをしてくれたおかげで、俺の気持ちもかなり楽になった。
 にしても、藍子のご両親は俺に対して寛容だ。これは是が非でも信頼に応えなくてはならない。
 そしていつか、俺と藍子が同じ立場に立った際も、こんなふうに寛容でありたいものだと思う。言うは易く行なうは難しだが、果たしてどうなるだろうな。

 十一月初めの連休、第一日目。
 俺は約束通りの時間に小坂家へと足を運んだ。
 前に伺った時からまだ半年も経っていなかったが、居間の内装はさほど変わっていなかった。これから冬に向かう季節とあってか、カーペットやカーテンの材質が暖かそうなものに変わっていた程度だ。広い居間に置かれた立派な食器棚にはやはり大判のフォトスタンドが飾られていたが、その中の写真は以前来た時と違うものになっていた。藍子のご両親と藍子と妹さんが夏服姿で写真に納まっている――そういえば八月に妹さんが帰省したと聞いていたから、その時に撮ったものなのかもしれない。
 本日は改まった席とあって、俺だけじゃなく藍子のお父さんもスーツにネクタイというフォーマルな姿だった。お母さんはモスグリーンのツーピースを着て、お父さんの隣に座っていた。
 一方、藍子は俺の隣に座っている。ブラウスにスカートといういでたちは普段のデートと変わらないが、今日は秋らしいオレンジのカーディガンを羽織っている。そして左手の薬指にはあのピンクダイヤモンドの指輪をはめていて、俺がさりげなくそこへ視線を向けると、俯きながらも幸せそうに微笑んでいた。
「本日はお時間をとっていただき、ありがとうございます」
 俺が頭を下げると、藍子のお父さんは慌てたようにかぶりを振る。
「いえいえ! こちらこそお忙しい中、ご丁寧にありがとうございます」
 たったそれだけ言い終わった後で、早くもくたびれたような溜息をついていた。隣に並んだお母さんがくすくす笑っている。どうやら大変緊張なさっておいでらしい。
 これは早めに本題に入って、お互いにとってプレッシャーになっている事柄を片づけてしまう方がよさそうだ。
 俺はタイミングを見計らい、切り出した。
「今日はお願いがあって参りました」
 途端にお父さんの喉が上下する。ごくり、と鳴る音が聞こえたような気がした。居間の空気は張り詰めていて、高い位置にある壁掛け時計だけが平常運転を続けている。
 藍子が生真面目に背筋を伸ばす。それを視界の端で確かめてから、俺は続けた。
「私は、藍子さんと結婚したいと思っております。先日プロポーズをして、藍子さんからは承諾をいただきました」
「お、おお、そうらしいですね。娘から聞いております」
 お父さんが相槌を打つ。
 するとお母さんがその膝を諌めるみたいに軽く叩いた。それでお父さんは唇を引き結び、俺に対して話の続きを促すように目礼してきた。
 緊張しているお父さんには申し訳ないが、おかげでこっちは大分気持ちがほぐれてきた。次の言葉もすんなり口にできそうだ。
「藍子さんは必ず、私が幸せにします。どうぞ結婚をお許しください」
 そう言ってもう一度頭を下げると、頭上からはまたも溜息が――今度は安堵したらしい吐息が聞こえてきた。
 少ししてから、
「そ……うですね。藍子も、石田さんと一緒にいるのが一番幸せなようですし」
 お父さんが言葉を継いだので面を上げると、ちょうどご両親が視線を交わし合ったところだった。
 お母さんが小さく頷く。それでお父さんもこちらを向き、穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、甘やかして育てたので不束な娘ですが、どうぞ末永く、よろしくお願いいたします」
 その言葉を合図にするように、居間に張り詰めていた空気がふっと解けた。四人でほぼ同時に息をつき、その後で俺は藍子の方を見る。
 藍子も俺を見て笑っている。不束なんて単語が到底結びつかない、優しくて可愛くてとてもいい子だ。俺も彼女と一緒にいると幸せになれるから、彼女もそう思っているなら嬉しいし、何を差し置いてでも俺たちは一緒にいるべきだと思う。
「そういえば、石田さん。藍子に指輪を買ってくださったそうで」
 今度は遠慮がちに、藍子のお父さんが言った。それを話題に出すべきか、出さざるべきか迷っていたようで、お母さんの方をちらちら見ている。お母さんも迷うような顔つきでいる。
「プロポーズというのは二人でするものですし、親が口を挟むようなことでもないと思うのですが、高価な品を買っていただいたのに黙っているというのもどうかなと……」
 お父さんは言いながら、整髪料できっちり固めた頭を掻いた。照れ笑いを浮かべている。
「すみません、何分こういうことが初めてなもので、どうすれば失礼でないのかわからないんですよ」
 俺もプロポーズは初めてだったから自信はないが、こればかりはご両親にお礼を言っていただくようなことでもないと思う。
 あの指輪は形式的なものだ。そしてあの局面では、形式に則る必要があると考えたからこそ買って贈った。それだけだ。
「指輪のことでしたら、私が必要だと思って藍子さんに差し上げたものですから」
 結局、俺はそう告げて、恐縮しているご様子のお父さんからのお礼をやんわり遠慮した。
 それでご両親は迷いが晴れたような表情をした。藍子のご両親だけあって、そういうところは真面目でとてもしっかりしている。娘が高価な品を贈られたりしたらどうしても気になってしまうんだろう。つくづく、彼女がこの家でとても大事に、きめ細やかに育てられたんだってことがよくわかる。
 お母さんが藍子に向かって言った。
「せっかくいただいたんだから、大切にするのよ、藍子」
「はい」
 間髪入れず、藍子は頷く。
 その後で俺の方をしっかり見て、誓いを立てるようにはきはきと続けた。
「大切にします」
 彼女の今の誓いと、真っ直ぐな眼差しに恥じない自分でありたいと、俺は思う。
 そういう意味で、今日の挨拶はそこそこ上手くいった方じゃないだろうか。お父さんに助けていただいた部分も相当あるが、何はともあれ無事にやり遂げてみせた。立派だったかどうかは自己評価では微妙なところなんで、あとで採点の甘いことには定評のある藍子に、存分に誉めてもらうことにしよう。今日ばかりは誉めすぎってくらい誉められたい。
「じゃあ、改まったのはこのくらいにして……」
 お父さんがそわそわと言い、直後、お母さんと藍子が揃って立ち上がった。二人が台所へ飛び込んでいくのを見送ってから、お父さんは俺に言う。
「今日は泊まっていってくださるんでしょう? せっかくですからじっくり飲み明かしましょう」
「お言葉に甘えて、お付き合いさせていただきます」
 もちろん、俺は快諾した。
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