Tiny garden

痛みばかりが重なってく(4)

 それから俺たちはしばらくバッティングセンターを堪能した。
 小坂の前で二十年前の杵柄を披露して歓声と拍手を賜ったり、霧島や春名が空振りしてるところに野次を飛ばしに行ったり、四人でバーチャル映像の有名プロ選手に挑戦したりした。さすが百五十キロの剛速球は伊達じゃなく、どんなにバットを振ったところで引っかけるのがやっと、ヒット級の当たりはほとんど出なかった。小坂なんて球速の凄まじさにすっかり度肝を抜かれていて、あとで俺にこっそり尋ねてきた。
「プロの選手の方って、打席に立ってて怖くないんでしょうか……?」
 びびってる小坂も非常に可愛い。それも含めて、本日はかなり堪能した。

 遊んでいるうちに喉が渇いてきたので、帰る前にジュースでも飲んでいこうという話になった。
 そこで俺たちは飲食コーナーに移動したものの、夜遅い時間帯だというのに自販機の並ぶコーナーのテーブルはどこも客で埋まっていた。カップルやら学生っぽいグループやらが缶ジュース一本程度でだらだらと粘っている姿を見るに、待っていたところで席は空きそうにない。
 しょうがないから、四人で座れそうな場所を探すべく店内をうろうろした。そのうち春名が『ありましたよ!』と声を上げ、そちらへ行ってみたところ、どう見てもお子様向けの飲食スペースではあったが確かに空いていた。さすがにこの時間は子連れの客なんていないから、少しの間ならお邪魔しても問題ないだろう。
 幼児向けアニメキャラのメダルゲーム機やポップコーン製造機に囲まれて、何となく場違いな気はしつつも、運動の後でくたびれていた俺たちは一も二もなく席に着く。
 と、ここで三人しかいない事実に気づいた。
「霧島はどうした?」
 見慣れた眼鏡が見当たらない。俺の問いに、小坂は笑顔で答えた。
「霧島さんは、プライズの方を見てくるって仰ってました。ぬいぐるみを狙ってるんだそうです」
「きっと、奥さんへのお土産ですよね」
 春名がにやっとする。
 間違いないな、と俺も思う。
「実はちょっと気にしてたんだろうな、帰り遅くなるの」
 いくら奥さんに快く送り出してもらったとは言え、そこはちょっと気にしてしまうものなんだろう。手ぶらじゃ帰れないと考えてるのかもしれない。
 俺も、結婚したらそうなるんだろうか。そういうふうに、当たり前に考えるようになるのか。家に誰かがいて、俺の帰りを待っているって事実が、普通の日常になる日が来るのか。
「じゃあ私、ジュース買ってきます。主任と春名くん、何がいいですか?」
 席を確保したところで、真っ先に小坂が言った。
「あ、いいっすよ。俺が行きますよ」
 慌てて春名も腰を浮かせかけたが、そこで小坂は愛想よくかぶりを振る。
「いえ、これも運動ですから! 私が行きます!」
 そう言われたら俺としても断りにくい。消費カロリーにしてほんのささやかな運動じゃないかとも思うが、ダイエットにはこういう心がけも大事だよな。
 それに、小坂が相手なら安心して財布を預けられる。
「俺、スポーツドリンク系で。あとこれ、持ってけ」
 言いながら俺が財布を差し出すと、小坂は怪訝そうな顔をした。だから笑って説明を添える。
「この状況で俺が奢らないわけにいかないだろ。そこから全員分出してくれ」
「わ、わかりました。……ありがとうございます」
 小坂はおずおずと財布を受け取り、大事な資料でも持つみたいに胸元に抱きかかえた。どうやら大分奢られ慣れてきたようで、無駄な抵抗はしなくなったあたりが喜ばしい。もう二年目だもんな、成長もするよな。
「主任、ご馳走様です」
 こっちは一年目でもさほど遠慮はしない春名が、ちょこんと頭を下げる。それから同じようにスポーツドリンクを頼み、小坂はそれを記憶に刻み込むように頷いた後、俺の方に向き直った。
「霧島さんの分はどうしましょうか」
「あいつはいいだろ。いつ戻ってくるかわからんし、温くなったのやるわけにもいかない」
「そうですね。では、行ってきます!」
 俺の財布を抱えて、小坂は早足でキッズ向けコーナーを離れた。犬の尻尾みたいにぴょこぴょこ踊る髪が、背の高い筐体機たちの向こうに消え、やがて見えなくなる。ついつい見えなくなるまで見送ってしまう。
「……主任、ご結婚されるんですか」
 おかげで春名がそんなふうに切り出してきた時、ほんの少しだが驚いてしまった。
 思わず振り向けば、白い丸テーブルに両肘をついた春名が好奇心溢れる目でこっちを見ている。探りに来ているというよりは、もう真実の程をほぼ察していて、でも一応確認しておこうとしているそぶりだった。
 今すぐではないにせよそのうち職場にも報告しなければならないことだし、俺と小坂の仲は隠してきたわけでもないので、この件だって同じ課の人間相手なら隠しておくべきことでもないだろう。ちょっと早いが打ち明けておく。
「その予定だ。年内ではないがな」
 俺の答えを聞いた春名は、やっぱりという顔で息をついた。それから両腕を引っ込め背筋を伸ばし、さっきよりも丁寧に頭を下げてくる。
「おめでとうございます、主任」
「ありがとな。まあ、まだちょっと早い話だ」
「でも、そろそろなんだろうなって思ってたんですよ」
 春名があまりにも自信ありげに言うので、こっちとしても興味が湧いてきた。何だ、どういう理由でそう思われたんだ? そんなにだだ漏れだったか、俺。
「何でわかった?」
 笑いながら聞いてみたら、春名もおかしそうにしてみせた。
「小坂さんが、長期計画でダイエットするって仰ってましたよね。それでです」
「ああ……よく考えてみりゃ、それっぽいな、確かに」
「普通、女の子って短期集中でってやるじゃないですか。長期計画って、滅多にないなと」
 となると、もしかして課内の連中全員にばれてる可能性もあるわけだよな……。別に困りはしないが、苦笑はしたくなる。だだ漏れなのは俺じゃなくて彼女の方でした。
 まさか、それでなのか。今日の飲み会で小坂がダイエットしてるって告白した際、俺へと向けられた皆の冷ややかな視線の理由が今頃わかった。どうりで俺が睨まれちゃうわけだわ。
「小坂さんはお仕事続けられないんですよね?」
 更に春名が聞いてきた。
 俺は曖昧に頷き、その後で、きっと奴からは言いにくかろうと代わりに言っておいてやる。
「それはそれで寂しくなるよな。俺が言っていいことじゃないが」
 その言葉をどう受け取ったか、春名はちょっと首を竦めた。
「本当、寂しくなりますね」
 普通ならここで、辺りの空気がしんみりしたように思えてくるものだが、いかんせんここはゲーセン内、しかもキッズコーナーである。会話が途切れてもアニメキャラの甲高い声がゲーム内容の説明を始めたり、おなじみの主題歌がひっきりなしにリピートされたりと賑々しいことこの上ない。
 そのせいなのかもしれない。やがて、春名が明るく口を開いた。
「正直、主任が羨ましいっすよ。小坂さんみたいな人と結婚できるなんて」
 随分率直に言うもんだ、と俺は奴を軽く睨んだ。すると春名はいくらか慌てたように片手を振り、
「いや、別に惚れてたとかじゃないですよ。ただ……」
 何やら思いを巡らせるみたいに語り始める。
「営業やってる女の人って、強そうってか、厳しい人多いのかなって思ってたんですよ。だから、小坂さんみたいにおっとりした優しい女の人もいるんだなと驚いたんです」
 営業職は人と会い、そして契約をとってくるのが仕事だ。人当たりもよくなくちゃ駄目だが、一方で積極的に前へ出て行く強さも求められる。我が社はそこまででもないが、営業課員の競争心を煽りに煽るような方針の企業もあるらしい。就活を終えたての新人がイメージする営業職の女性像は、男社会という戦場を潜り抜ける為にまるで戦車並みの装甲を備えた鉄の女、ってなやつだったのかもしれない。
 そこ行くと小坂はそのイメージから少しずれてる。真面目で仕事熱心ではあるが、およそ争いごとには向いてない性格をしているし、他人の悪意や下心には鈍感だ。それでも持ち前のひたむきさと見た目からは想像つかないようなタフさでここまでやってきた。入社二年目を迎える頃には、あのまんまの性格で、でも真面目に働く営業課の立派な一員になってた。
 そんな彼女が入社したての春名の目にはどう映ったか、想像するのはたやすい。
「俺も、あんな先輩になりたいっすね」
 らしくもなく、春名は照れくさそうに言った。
 間髪入れずに俺も口を開く。
「なれるよ。その気持ちさえあればな」
 それで春名は若者らしい笑顔を浮かべて、自信ありげに頷いた。
 多分、それだって心がけ次第でどうにかなるものだ。でも当の心がけを、慌しく過ぎていく日々の中で保ち続けるのが難しい。ある意味、きれいになる為の努力やら、ダイエットをするのにも似ている。
 その心がけを、きっかけになる萌芽を、彼女は残していくのだろう。たとえ他人から見れば短い期間だったとしても、その間に出会い、言葉を交わし、少しばかりでも感情を動かされた人間の数は計り知れない。春名がたった今口にしたように、彼女の行動が誰かの意識を変えたことだってあるかもしれない。
 俺もせめて、残り少ない時間のうちに、彼女が残していくものを少しでも多く見つけてやりたい、見届けたいと思う。
「……あ、戻ってきましたね」
 ふと春名が声を上げた時、乱立するゲーム機の隙間に小坂と、霧島の姿が見えた。
 二人、一緒に歩いてくる。小坂は缶ジュースを抱え、霧島は枕並みの大きさがある茶色いクマのぬいぐるみを抱えている。
「取ったのか」
 俺の言葉に、霧島より早く小坂が答える。
「すごいですよね霧島さん! 五百円で取れたんだそうです!」
 それは確かにすごい。でも霧島がのんきな顔のクマなんか抱えてるところがシュールで、俺はにやにや笑いを噛み殺さずにはいられない。
「奥さんへのお土産ですよね?」
 春名が突っ込むと、クマを抱え直した霧島はどこか居心地悪そうに言った。
「そうです。帰りが遅くなったので、手ぶらで帰るわけにはいかないなと……」
 動機まで全く予想通りだ。とりあえず、いいお土産ができてよかったな。

 かくして、二次会と称したバッティングセンター探訪、及び小坂の飲み会カロリー消費活動は和やかに幕を閉じた。
 あとは特に語ることもない、いつも通りの出来事ばかりだ。解散後、バス通勤の霧島、春名と別れた俺は自動的に小坂と二人きりになり、週末ということで俺は実に自然な流れで彼女を連れ帰ろうと誘いをかけた。
「私、今日は汗かいちゃってますから……」
 彼女は困ったように軽い抵抗を見せたものの、
「うちにも風呂はあるし。着替えだってあるぞ、お前が置いてったやつ」
 と言ったら、少し迷った末に恥ずかしそうについてきた。
 そうして俺たちはいつも通り、幸せな夜を過ごしたわけだが――。

 翌朝、目覚めた俺が見たものは、隣で寝ていた藍子が肩を押さえて身悶える姿だった。
 起き抜けに真横でぷるぷる震えられてたら、そりゃあびっくりする。
「どうした?」
 挨拶もさておいて尋ねると、彼女はぎこちない動きで身体を、横向きから仰向けの姿勢に直した。そして自らの肩を抱いたまま、首だけ動かして俺の方を見る。
「き、筋肉痛、みたいです……いたたた……」
 まあ、これはこれで予想のつく出来事だ。
「運動不足だな」
 俺は辛そうな藍子の頭を撫でてやる。そこくらいしか筋肉痛になってなさそうな部位が思いつかなかったからだ。藍子は一瞬目をつむってから、どことなく恨めしそうな顔になった。
「ダイエットの道のりって、果てしなく遠いですね」
「そりゃあな。……でも時間はあるし、のんびりやればいいだろ」
 大事なのは結果だけじゃない。心がけだってそうだ。
 これからの長い人生、何があっても、お互いにすれ違うことがあったとしたって、今の心がけさえ忘れずにいられたらきっと大丈夫だろう。俺たちなら。
「また運動したくなったら、いくらでも付き合ってやるから」
 俺は彼女の頭を撫でながら語りかけた。
「とりあえず今日は無理せず、少し休んどけ。軽く身体ほぐすとか、湯船浸かるとかしてな」
「そうします」
 藍子は小さな子みたいに無邪気に微笑んだ。
「よかった……無理したから、叱られるかと思っちゃった……」
「叱れるか。何の為にダイエットしてるか、こっちは知ってんだし」
「そんな、私の意思でやってることですよ」
 慌てて弁解でもしようとしたのか、藍子はとっさに両腕を動かそうとして、次の瞬間痛みに顔を顰めた。
「いたた……筋肉痛も久々かもしれないです」
「いいからのんびりしてろって」
 宥めるように、俺は彼女の頭を撫で続ける。藍子は犬みたいに心地よさそうに目をつむり、それから満足げに呟いた。
「隆宏さんが優しいから、私、幸せです」
 それはこっちの台詞。俺だってお前がいるから幸せです。
 藍子でよかった、って何度も思ってるし、これからも何度も、何十年先でも思うことだろう。
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