Tiny garden

身の内に潜む(3)

 噛んだのはむしろ彼女の方だった。
「な……何、なんで……あの、何でってこともないでしょうけど……」
 震える唇をどうにかして抑えようとしたのか、そう言うと藍子は両手を頬に当てた。
 そしてすぐ、左手の薬指に今まではなかった感触が存在していることを思い出したようだ。左手だけを頬から外し、贈られたばかりの指輪を見つめ、その後で俺を困惑した目で見上げてくる。その目に店内のオレンジ色をした明かりが映り込み、水面みたいにゆらゆら揺れていた。
「何でってことはないな」
 俺が呆れたふりで同意を示すと、済まなそうに言い添えてくる。
「ごめんなさい。でも……正直、こういう形で言ってもらえるなんて、ちっとも思ってなかったから……」
 視線が落ち着きなくさまよい始めたのは、一生懸命考えている証拠だろう。既にショート寸前の彼女の脳内回路は、それでもこの現実をどうにか呑み込むべく必死に動き続けている。
「思ってなかったと言いますか、むしろそういう段階はもう過ぎてたのかなって思って……」
 たどたどしくそう述べると、藍子は女の子らしい長さの睫毛をさっと伏せた。考えることに集中する為、ひとまず視覚情報を遮断してみた、ってところだろうか。両手を膝の上に置き、ぎゅっと握ってでもいるのか、肩まで小刻みに震え出していた。
「だからその、私、すごく驚いてしまって……いえ、もう、現在進行形で大変驚いてます。どうしよう……」
 それは、見ればわかる。
 俺だってどうせなら驚かせてやろうと思ってた。彼女の言う通り、そういう段階は過ぎてた頃合いでもあった。今のうちに言っておかないと、どんどんタイミングを逃してしまいそうな気もしていたから、こうして不意を打ってみたわけだ。
「でも、はっきり言わないのも物足りないだろ? お互いに」
 尋ねてみれば、彼女はやけに慎重なそぶりでこちらへ視線を戻す。怯えているように見えるのは気のせいだろうか。
「そ、それは……その、言ってもらえたのは、すごく嬉しいです」
 彼女の方もとりあえずは喜んでくれたようなので、少しばかり安心した。
「結婚してから、後で思い出振り返った時、『そういえばプロポーズはされてなかったなー』なんて思わせるのは悪い気がしたんだよ。それでこういう場を設けてみた」
「そうだったんですか……」
 答えながら藍子は深く息をつく。気持ちを落ち着けようとしているようだった。
 そのおかげで平静さは取り戻せたか、今度は真っ直ぐに俺を見て、ぎこちなくではあったが微笑んでくれた。
「隆宏さんはすごいですね。いろんなこと考えられて」
「このくらいは普通だろ。お前の為なら何でもする」
「嬉しいです、本当に」
 藍子は心から満ち足りた様子だった。もうこれ以上は何も要らない、そう言いたげに微笑む顔は、泣き出す直前のようにも見えた。
 その顔を俺はじっくりと眺め入り、記憶のうちに留めてはおけないかと試みる。今日のことを思い出す時、彼女が浮かべた表情の一つ一つまで鮮明に再生できたらいい。これから生涯、ずっと一緒にいる相手ではあるが、だからこそどんな表情も覚えておきたかった。
 ただ、俺の方は『何も要らない』というわけにはいかない。
 目下のところ、肝心なものをいただいていない。
「何か、いいですよね、そういうの」
 一通りの狼狽を終えたからか、藍子は今度はぼんやりし始めた。ぽわんと夢見がちな表情になり、幸せそうに語る。
「今日、プロポーズしてもらったことを、何年、何十年経ってから二人で思い出せたらいいですね。これから一緒に歳を取って、一緒におじいちゃんおばあちゃんになるのも素敵だな、なんて……」
 可愛いことを仰る。藍子ちゃんもなかなかのロマンチストである。
 だがしかし、このプロポーズがまだ完結していないことを彼女はわかっているだろうか。結婚を申し込まれたら、申し込まれた側にだってすべきことがある。それを藍子は失念しているようだ。
 俺もかつてはノーベル忍耐賞を貰えるかもと自負した男、ここまで気長に待ってみたつもりだったが、彼女の可愛い口から一向にそれらしい言葉が出てこないので結局、ずばっと切り込んでみた。
「浸るのはいいが、藍子、何か忘れてないか?」
 案の定、彼女は子供みたいにきょとんとした。どうやら何を失念しているかも把握していない顔だ。
「返事」
 一言、単語で教えてやる。
 わずかな沈黙の後で彼女の顔色が変わる。またしても慌て出す。
「そ、そうでした! すみません、さっきからすっかりOKした気になってました」
 それも、見ればわかる。
 今の言葉からだってどんな返事が来るかは予想できる。元々、断られる不安なんてこれっぽっちもなかった。だが、こちらがこれだけはっきり言ってやったんだ、俺の方にだってはっきり言葉にして伝えてもらう権利があるだろう。
 思い出の一つとして、彼女の口から聞いておきたい。
 藍子はあたふたと居住まいを正した。俯き加減で前髪を整え、二度ほどこちらを見てから、しっかり顔を上げた。見つめられる方が眩しくなるような、きらきらした目で俺を見据える。
 震えるのを止めた唇が、控えめな笑みの形を作る。
「あの……不束者ですけど、どうぞよろしくお願いいたします」
 最近あんまり聞かない感じの挨拶をされた。割かし古風なのかもしれないな、と俺は思う。放っておいたらこの場で三つ指つきかねない。
「そんなに不束でもないと俺は思うがな」
「そうでしょうか……。でも私、もっと覚えなきゃいけないと思うんです、お料理とか」
「ああ、それは期待してる。こないだのも美味かった」
「実は先日、隆宏さんのご実家へ伺った際、お母様からお礼を言われてしまったんです」
 そっと打ち明けられた内容は、もちろん初耳だった。
「礼って? うちの親、何か言ってたのか?」
「はい。お母様は、隆宏さんが常日頃から健康で、お仕事も頑張れているのは、私が料理を作りに行ってるからではないかと思っておいでだったようで……あの、そんなことは全然ないですとは申し上げておいたんですけど」
 恥じ入る藍子の姿から、その時のやり取りは十分想像がついた。またうちの母さんもそこそこ思い込み激しい方だから、藍子の否定を謙遜と受け取っててもおかしくない。
「それでということもないんですが、これからは私が隆宏さんのお身体を守っているのだと、他の人からは思われるようになるんだ、って気づいたんです。もちろん、本当に守れるようにもならなくちゃいけない、とも」
 だからか、と俺は思う。弁当作ってくれたのも、料理作りに来てくれたのも――それが可能になるほど料理の練習をして、レパートリーを増やしてくれたのも。
 藍子は藍子で、本当に前向きに考えてくれていたみたいだ。
「何か、悪いな。うちの親がプレッシャーかけたようで」
「いえ、そんなことないです。私もやらなくちゃと思ってたとこですし、むしろいいきっかけをいただきました」
 大きくかぶりを振る彼女に、だったら俺も礼を述べる。
「それなら、ありがとう。お前に支えてもらったら、俺もいくらでも頑張れる気がする」
「はい。私も頑張ります。頑張って、いい妻になります」
 藍子はいつもの彼女らしく意気込むと、深々と頭を下げてきた。
「なので……こちらこそ、是非結婚してください!」
 プロポーズの返事は、まるっきり逆プロポーズでした。
 でもこういうところも、藍子っぽくて可愛いと言うか何と言うか……俺と結婚したいという強い意思が感じられたので、個人的には最高に、いい返事だ。

 それから俺たちは、未来について話し合った。
 軽く酒が入り始めたのもあって、お互いにいつも以上に饒舌だった。俺は浮つきすぎて食があまり進まなかったが、それは藍子も同じだったらしい。胸いっぱいの気分で、ひたすら話をした。
「今の部屋、二人で住むとなるとちょっと手狭だよな。引っ越してもいいかもな」
「引っ越しちゃうんですか? あのお部屋、私は好きです。秘密基地みたいで」
「気に入ってくれてんのは嬉しいが、お前も持ってきたい家具とかあるだろ?」
「それなら私、なるべく身軽にして行きます!」
「いや、そこまでしなくていいから。必要なら素直に広い部屋探そうぜ」
 箱入りお嬢さんの結婚ともなれば、ご両親だって持たせたい家具なり何なりあるだろうし、その辺の検討も始めなくてはいけないようだ。
「でも引っ越すの、ちょっとだけ寂しいですね。あのお部屋にもたくさん思い出がありますし」
 藍子がしみじみ言うから、俺もあの部屋で二人過ごした数々の記憶をよみがえらせてみる。今思うと少々甘酸っぱくてくすぐったい、でも幸せな時間ばかりの思い出だった。彼女が寂しいという気持ちもわからなくはない。
「それなら次の部屋でも楽しい思い出作ればいいよ。どっちにしたって、ずっとあの部屋には住めないだろうしな。子供ができたらもっと広いとこ探さなきゃならない」
 俺は当然その可能性も想定していたが、藍子はそうでもなかったらしい。今初めて気づいたという態度で目を丸くしてから、妙にもじもじしていた。
「そっか……結婚するとなると私、お母さんになるかもしれないんですね」
 そして嬉しそうだった。子供好きみたいだし、そう遠くないうちに欲しいと言い出すかもしれない。
 俺も、自分に子供ができるっていうのはこの豊かな想像力を持ってしてもなかなかイメージしがたい事象だったりするが、藍子によく似た女の子だったらいいなあ、くらいは考えている。あと先に生まれたのが長女の場合、藍子みたいに優しく穏やかなお姉さんになるよう育てたいです。
 でもしばらく夫婦二人きりの生活ってのも憧れるよな。そっちを堪能しきってからでもいいかな……いやしかし、贅沢極まりない悩みだな、これ。
「いっそのこと、野球チームでも作るか」
 からかい半分で言ってやったら、藍子はまんまと慌てふためいていた。
「そ、そんなにですか!?」
「じゃあサッカーでもいい」
「増えてるじゃないですか! そんなに大家族だと、きっと名づけからして大変ですよ」
 名前考えるよりもっと大変なことがあると思うんだがな。それらの現実的な問題に頭が向かわない辺り、藍子にとってもまだ想像力だけではカバーしきれない事象なのかもしれない。こういうのは当事者になってみないとわからないものだ。今は、当事者になる可能性を得たという事実を喜び、受け止めておくべきだろう。
「お前に似た子に囲まれる生活、きっと幸せだろうな」
 そして喜びのままに呟けば、藍子は照れ笑いを浮かべた。
「私に似たら、すごくうっかり屋さんになっちゃいますよ」
「それはまあ……、悪いな、あえて否定はしない」
「い、いえ、私なりに自覚もありますので……」
「可愛けりゃいいよ。お前に似たら、たとえうっかり屋でも天然でも可愛いに決まってる」
 俺の言葉に彼女はますます照れたようだ。ほろ酔い加減のせいもあり、とろんとした目つきになる。
「そんな……いつも思うんですけど、隆宏さんは私を誉めすぎです」
「本気なんだからいいだろ。お前だって悪い気はしないくせに」
「……それはそうですけど」
 藍子は素直に認めた。
 とは言え、否定されたところでばればれだけどな。彼女の目は口ほどに物を言う。俺を見るきらきらした眼差しはいつでも変わらないが、そこに映り込む感情は長い時間をかけて変容してきた。もうただの憧れでもなく、純粋な恋心だけでもなく、俺を必要としてくれているのが、求めてくれているのがよくわかる。
 俺も、彼女の期待に応えられる男でありたいものだ。
 何を差し置いても守らなくてはならないものを得た。
「部屋の更新は三月だから、引っ越すとしたらその辺を目安に考えるつもりだが」
 なるべく何気ない調子で切り出そうと思った。
「……お前は、いつがいい?」
 だが、いざ口にしてみればそこそこ重い口調になった。
 こればかりは気楽にもしていられない懸案事項だ。俺たちの結婚の前には、まず彼女の仕事をどうするかという問題が待っている。藍子だって中途半端にして辞めたくはないだろうし、ここはじっくり話し合わなければならない。
 途端に藍子も生真面目な顔になる。
「いつ、になるのかな……お仕事のこともありますし、すぐというわけにはいかないです」
「確かに時期を見る必要はあるな」
「会社にはなるべく迷惑をおかけしないようにしたいです。とてもお世話になりましたし……」
 難しげに眉根を寄せる藍子を、俺は複雑な思いで見守る。この話をするのはやっぱり少し寂しかった。
「わかんないことあったら、ちゃんと上司に相談しろよ。お前の上司は可愛い子からの相談だったらいくらでも乗るからな」
 だからつい、冗談っぽい物言いにもなる。
 藍子もそれでふふっと笑い、
「あ、そうですね。主任ともじっくり相談して、それから決めたいと思います」
「そうしろそうしろ。お前も遠慮しなくていい相手で、話しやすいだろ」
「本当ですね。……本当に頼りになる、とっても素敵な主任です」
 誉めすぎと言うならそっちの方がよっぽど、という気もするが、とにかく藍子はそう言ってから背筋を伸ばした。
「だから私、お世話になった主任にご恩を返したいです。残された時間はもう、そんなに多くないかもしれませんけど、精一杯やれたらなって思います」
 いよいよ、カウントダウンが始まった。
 残り時間は多いようで少ない。早く過ぎ去ってしまえという気持ちと、ゆっくりでもいいのにという気持ちの両方が胸の中にある。だがこの気持ちもいつかは変容して、ひたすら幸せだという思いに変わるに違いなかった。

 その日、二人でする未来の話は尽きることがなく、俺と藍子は長い間飽きもせずに話し続けていた。
 藍子はよく喋り、朗らかに笑い、そして時々幸せそうに左手の薬指を見ていた。そんな彼女を見ていられるのが、この上なく嬉しかった。
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