Tiny garden

身の内に潜む(2)

 デートの際に待ち合わせをするのは久しぶりだ。
 近頃は二人で会うとなれば、俺が車で彼女の家まで迎えに行くのが当たり前となっていた。その方が手っ取り早いし、家族公認の仲って感じがするのもいい。
 だが待ち合わせ場所まで足を運びながら味わう高揚感みたいなものも、決して悪くはなかった。どっちが先に着くのか、そんな些細なことを予想するのも楽しかったし、彼女がどんな格好をしてくるのか想像するのもまた楽しい。俺が先に着いてたら、藍子はきっとそれが待ち合わせ時刻より大分早くてもぺこぺこ謝りながら駆け寄ってくるだろうし、反対に俺の方が後に着いたら、待ちきれないとばかりに尻尾振って、やっぱり駆け寄ってくるだろう。

 約束をしたのは午後五時半だった。
 夕方とは言え蒸し暑いはずだから駅舎の中で待ってろと言ったのに、駅舎の前で待ち構えているのが藍子らしかった。忠犬ハチ公という単語も脳裏を過ぎったが、それはさすがに、今日の彼女に対しては失礼な形容だろう。
 どんな店に連れて行くか事前に話しておいたおかげか、藍子は上品なお嬢さん風の装いでいた。白い半袖ブラウスにサンドベージュの膝丈スカート、靴は少し高めのヒールに見えた。デートの時は大抵、長い髪を高い位置に結わえていて、今日も毛先をロールケーキみたいに巻いたような可愛らしい髪型をしている。飲みに行くにしてはちょっと品よくまとめすぎじゃないかという気もするが、思えば彼女はいつもこういうおとなしい色合いの服装を好んでいた。服装で冒険する方ではないらしい。
 土曜の夕刻とあって、駅前通りには人が多かった。雑踏に紛れながら近づいていく俺にどの程度の距離で気づくだろうか。背後まで接近しても気づかれなかったら驚かしてやろう、そう思ってわくわくしながら藍子の立ち姿を観察していたら、目標地点まで残り十メートルの辺りでぱっとこっちを向かれた。
 途端に表情が明るくなり、高いヒールをものともせずに駆け寄ってくる。予想通りの行動だった。
「あっ、隆宏さん! こんばんは!」
 とびきりの笑顔で走ってくる彼女は可愛いが、迎える側としては転ぶんじゃないかって足元ばかり気になってしまうし、この暑いのに頑張らなくても……と苦笑したい気分にもなる。どうしたって犬キャラだよな、こいつ。
「走ってこなくていいって、俺がそっち行くから」
 俺が声をかけたところで彼女は止まらない。十メートルの距離なんてあっさり詰めてくる。
「もう、着いちゃいました!」
 よろけもせず目の前まで辿り着くと、藍子はどこか得意げに微笑んでみせる。俺がここに来るまでの間、ずっと胸躍らせてきたのと同じように、彼女もこの待ち時間を楽しんでいたのかもしれない。やっぱり、待ち合わせも悪くない。
「待たせて悪いな。結構早めに着いてたのか?」
「いいえ、そうでもないです。私が来たのも五、六分前ってところです」
「それならいいが……何で外で待ってた? 今日だって暑いだろ」
「外に出た方が早くお会いできるかなって……何か、待ち切れなかったんです」
 いかにもデートっぽい会話を交わしていたら、お互いに少し照れた。これも待ち合わせの醍醐味か。
 会話が一段落したところで、俺は改めて藍子の全身を眺めた。白いブラウスは近くで見るとスタンドカラーで、隙間から鎖骨が覗くのが何ともいいものだった。そして今日は細いチェーンのネックレスをしていて、先端に一粒だけ下がった真珠が、彼女が呼吸をする度にころころ揺れていた。
 藍子は、普段はあまりアクセサリーを身に着けない。腕時計のほかはせいぜい、服装に合う時だけチョーカーを着けてくる程度だった。イヤリングは肩が凝るので苦手なのだそうだ。指輪をしているところも見たことはなかったが、それは自分で買うものじゃなく、俺に買ってもらうものだと思っといて欲しい。
 ともあれ、俺の視線を察したんだろう。藍子は滑らかな鎖骨の下で揺れる真珠を自分でも見下ろし、それから表情を綻ばせた。
「これ、妹に選んでもらったんです。デートの時はもうちょっと華やかにした方がいいよって言われて……」
 言いながらはにかんだのは、妹さんについての話題だからか、あるいはデートだってはっきり明言したからだろうか。どちらにしても微笑ましい。
「よく似合ってる。それに可愛い」
 誉めてやれば、藍子は途端にどぎまぎし始めて目を逸らす。
 こんだけ一緒にいるのに、まだ誉められ慣れてないのか。ちょっとからかってやりたくもなったが、今夜はこれからいくらでもどぎまぎさせる機会がある。お楽しみは後に取っておいてもいいだろう。
 俺は彼女を促し、二人で駅を離れて歩き始める。
 混み合う駅前通りを、はぐれないよう手を繋いで、のんびりと話もしながら。
「妹さん、こっちに帰ってきてたのか」
「はい、夏休みの間に一週間だけ。思ってたよりすぐに向こう戻っちゃいましたけど」
「それはあれだな、あっちでの生活が充実してて、よっぽど楽しいんだと見た」
「私もそう思います。帰省して三日目には『早めに戻ろうかな』って言ってましたし」
 優しいお姉さんの表情で藍子が笑う。
 妹さんの大学生活はどうやらすこぶる楽しいもののようだ。そしてそのことが、お姉さんにとっては何より嬉しく、安心するものなんだろう。つくづく俺もこんなお姉さんが欲しかった……と、隣の芝生にかぶりついててもしょうがない。
 ゆっくり歩いていても、彼女の胸元では真珠が揺れる。鈍い光を放つつるりとした球体を、俺は逸る心を抑えながら横目で眺めていた。
 妹さんに見立ててもらった、デート用のアクセサリー。それを買いに行った先で、小坂姉妹の間にはどんな会話があったんだろう。
 少しは俺の話もしてくれてんのかな。堂々と惚気る藍子はちっとも想像できないから、姉妹間の会話もやはり想像できなかった。でもデートに行く相手がいて、そいつと会うのに華やかなアクセサリーが必要だって思ってもらえる程度には、ちゃんと話ができているのかもしれない。

 俺たちが足を運んだのはビルの二階にある、落ち着いた雰囲気のカフェバーだった。
 店内はさほど広くはないが、カウンター席の他はテーブルが五卓しかなく、席数自体が少ないので狭い印象はなかった。淡いオレンジの照明が点る空間には先客が二人しかおらず、時が止まってしまったように穏やかだった。
 店の奥、二人掛けのテーブルに、藍子と差し向かいで座る。こういう店に来ると面白いくらい雰囲気に呑まれてしまうのが彼女で、注文を済ませてからそわそわと落ち着かない様子で店内を見回し始めた。あまり高くない天井を見上げ、カウンターの向こうにある色とりどりの酒瓶を眺め、そして自分のすぐ目の前にある、つやつやした小さな木のテーブルをじいっと見下ろしてから、俺に対して恐る恐る口を開く。
「大人っぽいお店ですね」
 そう話す彼女も十分大人だし、場違いだということは断じてない。いつも通りにしてればいいのにと思いつつも、そうやって空気に酔わされてる姿も可愛いので、じっくり観賞させてもらった。
「たまにはいいだろ、静かに飲むのも」
 俺はじっと藍子に視線を定めたまま、そう告げてみた。
「結構好きな店なんだよ。雰囲気いいし、落ち着くし、料理も美味い」
 そこで彼女が、意外そうに瞬きをする。
「来たことあるんですか、隆宏さん」
「そりゃあるよ。お前を連れてくるのに、一度も下見なしってのもな」
 素直に答えてから、ああ、もしかしたらそういう意味で聞いてんのかと思い直し、すぐに付け足した。
「来たことあるって言っても、安井とだからな」
 俺も安井もそれぞれ仕事絡みでこの手の店には詳しくなってしまい、だが去年辺りまでは他に誘う相手もいないような惨状だったので、ちょくちょくこういう店にも二人で出かけていた。名目上、『いつかの時に備えての下見』として。
 そのおかげで本日は、可愛い子をまんまと連れ込むことができました。
「あ、別に、女の人と来たのかなって思ったわけじゃないですよ」
 藍子は再び意外そうにして、両手を軽く振ってみせた。
「先日誘ってもらった時に『行きたい店がある』って言ってたから、隆宏さんも初めて行くお店なのかと勝手に思い込んでたんです。お仕事用の下見なのかなって」
 否定されてほっとしたのが半分、若干残念な気がしたのも半分だった。やきもち焼かせてやろうなんて思ったことはないが、たまーに、軽くでいいから妬いてくれないかなと思ったりはする。俺の行動を気にする程度のことはしてくれてもいいのに。俺の方が気にしまくりなので余計そう思う。
 もっとも、以前の藍子なら俺の説明からその意図を察するのさえ難しかったはずで、『安井課長とですか? わあ、本当に仲いいんですね!』とか何とか言い出しそうなほどだったので、そこはいくらか成長したのかなと前向きに捉えておく。
 付き合い始めてから、半年がとうに過ぎていた。それだけの年月を経れば藍子だって変わる。近頃は俺の機微に触れるような言動も増えてきたし、それに伴ってか今までにないような愛情表現も見せてくれるようになってきた。
 藍子はこの先、更にどんなふうに変わっていくんだろう。
 いい奥さんになることは間違いないだろうが、いい奥さん、いい嫁と一口に言ったってピンからキリまであるものだ。努力家で、ポテンシャルは無限大に持っている彼女なら、きっと俺が驚くような成長ぶりも見せてくれることだろう。
 俺は、これからも変わっていくであろうお前を、ずっと見ていたい。
 そして、お前の未来が全部欲しい。
「……あ」
 オーダーした飲み物や料理を店員が運んでくるのを見つけて、藍子がわかりやすく顔を輝かせた。
 色気よりも食い気なところだけは、一生変わんないのかもしれないな……。いや、俺はそういうお前も好きだが、熱心に何か食べてる時の美味しそうな顔も可愛いが、こう見えてもこっちは嫉妬深く、独占欲も強い性質だ。食べ物にだって妬きたくもなる。
 いつ渡そうか、考えていた。本来ならばそれ自体はメインじゃなく、口火を切るアイテムにすぎない。形式に則る為に必要だと思い、一応買ってきたまでだ。それも彼女の好みを聞いたわけでもなく、俺が勝手に見立てて用意した品だ。渡した後には俺から告げなくてはならないこともあるし、二人でよく話し合わなければならないこともある。だから早い方がいいのは間違いない。
 でも、何だかんだで早く渡してしまいたいと思っていた。彼女の喜ぶ顔が見たかったし――多分、喜ぶどころか動揺しまくってえらいことになりそうな気がするが――、今夜は何よりも一番に、俺のことを考えていて欲しかった。
 そこで、乾杯を済ませた直後に切り出した。
「これ、お前にプレゼントだ」
 手のひらに乗るサイズの箱を彼女に向かって差し出してみる。
 藍子は大きく目を瞠り、
「プレゼント……? あ、あの、ありがとうございます……えっと」
 まず礼は言いつつも、どこか釈然としない様子でいた。その間、彼女の脳内回路でどんな処理が行われていたかは定かじゃないが、なぜプレゼントをされるのかを必死に考えていただろうことは想像に難くない。
 やがてやんわりと言われた。
「この間のお弁当のことでしたら、私が好きでしたことですから、気にしないでください」
 どうやら弁当の礼として用意したものだと思われたらしい。
 しかし気にしないでくださいと言われても、もう買ってきたんだから仕方ない。とりあえず一度は受け取ってもらって、中身を見てもらわなければならない。
「中身、何だと思う?」
 俺はクイズ出題者の気分で尋ねる。
 すると藍子はプレゼントの箱をじっと見つめた。こんな箱を、妹さんと買い物に出た先でも見かけたりはしなかっただろうか。中身をずばり当てることはできなくても、おおよその察しはつくものじゃないだろうか。
 と、そこで彼女の表情がさっと変わった。恐れをなしたような硬い顔つきになり、そのくせ見るからに柔らかそうな頬には赤みが差している。瞠った目を震わせながら、彼女はこわごわ言ってきた。
「あ、あの……ももも、もしかすると、これってつまり、もしかしますか」
「何がだよ。お前の言う、もしかって何だ」
「いえ、あの、こういうのって、自分の身に起きるとは思ってなかったので……」
 開ける前から動揺してる。しょうがないな。
 俺は手にした箱をそっと揺すり、開けるように促す。
「とりあえず、開けてみろよ。確認してからいくらでもうろたえればいい」
「そ、それもそうですね! じゃあ……」
 深々と頭を下げ、藍子が箱を受け取った。それはまるで殿様から褒美を賜る家臣のような恭しさだった。
 そして一度深呼吸をしてから、箱の蓋を開けていく。しつこいようだが小さな箱なので、蓋が開き切るまでに時間はほとんどかからなかった。店内が静かだから、中身が現われた瞬間、彼女が息を呑むのが聞こえた。
「指輪……!」
 品物の名前を溜息交じりに呟き、その後で藍子は顔を上げる。すっかり動揺しきって潤んだ瞳と、上気した頬と、震える唇が何とも可愛い。
「ありがとうございます、あの……これはその……」
 どぎまぎしている藍子を見ているのは本当に楽しく、愉快だった。この部分だけ録画してエンドレス再生したいくらいだ。俺がわざと黙っていれば、彼女は覚悟を決めたように言葉を続ける。
「つまりこの指輪は……エンゲージリング、なんですか?」
「その一歩手前の指輪ってとこだ」
 俺は正直に答えた。それで藍子が怪訝そうにするから、打ち明けておく。
「ちゃんとした婚約指輪は、また別の機会に二人で買いに行こう。お前の好みも聞きたいしな。だからこれは、婚約の約束をする指輪だ。俺がお前に贈りたくて勝手に買ってきたものだ。気軽に、それこそデートの時用に着けてきてくれたら嬉しい」
 婚約指輪は結納の頃でもいいと言うし、急ぐ必要はなかった。でもプロポーズするぞって日に手ぶらなのもどうかと考えた。だったらまずは、俺が彼女に似合う指輪を見立ててプレゼントするのが適当じゃないだろうか。そう思って、買ってきた。
 小さなピンクダイヤモンドのついた指輪を箱から外し、半ば呆然としている彼女の左手を取って、薬指にはめてみる。サイズは上手い具合にぴったりで、柔らかく関節の目立たない手にすんなり収まった。とてもよく似合う。
 藍子はまだぼんやりと、夢でも見てるみたいな目つきで自分の左手を見る。そしてほうっと息をつく。
「子供の頃はピンクが好きだった、って聞いてたから」
 その指輪を選んだ理由も、しっかり打ち明けておく。
「それなら大人になったお前に似合うピンクを、プレゼントしようと思った」
 俺の言葉に、彼女は自分の左手と俺の顔とを見比べる。そして恥ずかしそうに微笑む。
「隆宏さんは、私がちょっと言ったくらいのことでも覚えていてくれるんですね」
「すごいだろ。お前のことにかけては録画再生機能ばっちりだ」
「すごく嬉しいです。可愛い色ですけど、服で着るにはもう似合わないかと思ってたから……」
 彼女の私服が落ち着いた色合いなのは、自分で似合う色を選んでのことなんだろう。でもピンクだって身に着け方によってはこんなにもしっくり馴染んでる。気に入ってくれたなら、俺も嬉しい。
「似合ってる。サイズもぴったりだな」
 誉めてやれば彼女はくすぐったそうにして、
「本当にありがとうございます。サイズも……測ったみたいにぴったりですね。号数とか、わかっちゃうものなんですか?」
 後半はなぜか恐る恐る聞いてきたが、俺がなぜ彼女の指輪のサイズを知っているのかはお察しください。ある程度付き合ってれば、本人の知らぬ間に測るチャンスなんていくらでもあるものなのです。
 彼女の疑問を封じる為にも、俺は、指輪よりもっと肝心な言葉を口にする。
「ところで、藍子。聞いてくれ」
「はい、何ですか?」
「結婚しよう」

 安井がかけてきた呪いなんぞ全く効力を発揮せず、全く噛まずに、むしろあっさりとその言葉を告げることができた。
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