Tiny garden

身の内に潜む(1)

 本当なら安井と霧島には、一席設けて報告しとくべきなのかもしれない。
 でもこの時期は誰だって忙しいし、それだけの為に二人を呼びつけるのは気が引けた。それに、こんなことであんまり大げさにするのもちょっと気恥ずかしい。別に一世一代の大勝負に打って出るわけでもなく、百パーセント確実に成功するってわかった上で、あくまで形式的に執り行うってだけだ。
 むしろ、いっそ事後報告でもいいか、とも一旦は思った。
 だが結局は、浮かれた勢いで電話をかけてしまった。

「藍子に、プロポーズしようと思う」
 俺の報告に対し、電話の向こうでは安井が声を上げる。
『まだしてなかったのか!?』
 何でそんなに驚くのかと、こっちが逆にびっくりした。
 しかしよくよく考えれば俺も歳が歳だし、もっと早くに言い出しててもおかしくなかったのかもしれない。まして安井たちには以前から結婚したいとぶっちゃけてたわけだし、遅いと思われてもしょうがないか。
『石田ならもうとっくに済ませてるかと思った。息を吐くように、日常的にプロポーズしてそうだと』
 安井は俺をそんなふうに評した。きっと誉め言葉だな。
「そりゃあ日常的に匂わせてはしてたよ。結婚後についての話題が普通に出るようにもなってたし、お互いの親にも会ったし。藍子だって以前、『将来的には』ってはっきり言ってたの、お前も聞いてただろ」
 あれは七月、俺の誕生日の翌日だった。俺と藍子、安井、それに霧島夫妻で食事会をした時の話だ。あれからまだ二ヶ月も経ってない。
『聞いてたから、まだだっていうのに驚いたんだよ。でも、そうか。話自体はちゃんと進んでるんだな』
 何事か得心したようなそぶりの後、安井はからかうように笑った。
『だったら逆に、今更なんじゃないのか。そういう形式的なプロポーズなんて』
「甘いな安井。あえて形式的なことをする方が、女の子ってのは喜ぶもんなんだよ」
『……確かにそうだ』
 今更かもしれない、とは俺も思った。大体、三十になってからの交際スタートで結婚を視野に入れてない、なんてことはありえないだろう。そういう話は藍子にも付き合う前からしていたし、あの初心で箱入りな彼女だってその程度は理解していたようだった。だからこうしてお付き合いを始めた時点で、そう遠くないうちに結婚もするものだとお互いに思っていた。
 ただそういう事実とは別の角度から、プロポーズは是が非でも必要だった。女の子は得てして曖昧なことが嫌いで、はっきり明言される方が好きなものだ。告白でも何でも『それっぽいこと言っただろ』って男の側が思ってたって通用しない。そしていくら行動で尽くされようと納得せず、いつでも言葉を求めてる。これだけ尽くしてればわかってるはずだ、という思い込みは通用しない。これは俺が三十一年の人生経験で得た、呑み込みがたいがどうやら真実に近いらしい女性心理というやつだ。
 そして、もう一つ。藍子にとって今の俺は、将来の結婚相手というポジションなんだろうが、同時に生まれて初めてできた彼氏でもある。つまり彼女は俺以外の男とは付き合ったこともないまま結婚するわけで、それはもちろん俺としては最高に喜ばしく幸せな話だが、彼女にとっては――必ず幸せにするし後悔なんてさせないし望むことはできるだけ叶えてやるつもりだが、それでも彼女が得た初めての彼氏と過ごす時間は、ほんの一年半くらいで終わってしまう。だったらその前に、恋人同士がするようなイベントごとは一通り真面目にこなしてしまうべきだと思った。それはきっと藍子にとって、当然のように俺にとってもかけがえのない思い出になるはずだ。
 共に家族になってからも、まだ家族ではなかった頃のことを振り返って、今も昔も幸せだと思えたらいい。その為の思い出は、いくらあったって多すぎることもないだろう。
『それで、日取りは? いつプロポーズするんだ?』
 安井の問いに、俺は見えもしないのに胸を張って答える。
「今週の土曜だ。携帯オフにするからよろしくな」
『残念だな、五分おきに電話してやろうと思ったのに』
「無駄無駄。俺たちの仲を阻むものはもう何もない」
『はいはいそうですか。まあ、天候に恵まれるように祈っといてやるよ』
 どこか投げやりな物言いではあったが、安井も奴なりに俺の幸せを願ってくれているようだ。報告してよかった、と俺も密かに思う。
 と、そこで奴が思いついたように続けた。
『ところで石田、こうして事前に報告を貰った以上、事後報告は要らないからな』
「え、何でだよ。成功するのがわかりきってるからか?」
『そうだ』
 安井が答えながら深く溜息をつく。
『その上で報告なんてされたら、ただの自慢にしかならないだろ』
「いや遠慮すんなよ安井、何なら目の前で思いっきり自慢してやるって!」
『要らない。霧島に抜け駆けされ、お前にも先を越されそうな俺の心中を酌んでくれ』
 結構切実な感じで訴えられたから、ここぞとばかりに開き直っておく。
「悪いな! 俺、遠慮なく幸せ掴んじゃうわ!」
 ところで、かつて俺が安井にかけた呪いはまだ発動してないんだろうか。いい機会だからそこんとこも聞き出してやろうと思ったが、もう時間も遅かったので本日のところは止めておいた。
 安井もすっかりやさぐれてしまったことだし。
『こないだだって小坂さんに弁当作ってもらったんだろ』
「ああ、まあな。と言うかお前こそ、それ誰から聞いた? 霧島か?」
『さる筋からのタレコミと言っておこう。社内恋愛満喫しようたってそうはいかないぞ』
「何がさる筋だよ……。いいだろ満喫してたって」
『羨ましすぎて許しがたい! よって、お前がプロポーズの言葉を肝心なところで噛んでしまう呪いをかけてやる!』
 地味にやな感じの呪いをかけられたが、そういう個人的な呪いってどこまで効果あんのかなって疑問もある。噛むのは嫌だよな。気をつけよう。
 結局、荒れ狂う安井との通話はそこそこで切り上げた。
 もう一件、報告しなきゃいけない先もある。あんまり遅くなっちゃ、所帯持ちには申し訳ないからな。

 しかし驚くべきことに、次に電話をかけたそのもう一件でも、どういうわけか安井と同じ反応をされてしまった。
『今度するって……まだしてなかったんですか? 先輩らしくもない』
 霧島言うところの俺らしさってどういう意味合いなんだろうか。いや、きっといい意味だな。うん。
「安井にも同じこと言われたよ。息ぴったりだな、お前ら」
 教えてやったら、霧島は何となく不満を覗かせていたが。
『安井先輩と思考が一緒って言われてるようで、落ち込みたくもなりますが……』
「ものの見事に同レベルだな。奴と相性ばっちりな気分はどうだ」
『勘弁してください。嬉しくないです』
「だったらお前はもっと違うこと言えばいいだろ。素直におめでとうを言うとかな」
『でも、仕方ないでしょう。石田先輩なら、もう通算百回はプロポーズしてそうだと思ってました』
 まるっきり思考が一緒じゃないかお前ら。それだけ俺のことをよく理解してるって話かもしれないが、それにしたってこのシンクロぶり、いっそ気味が悪いほどだ。
 既に帰宅しているはずの霧島の隣には、どうやら奥さんがいるらしい。さっき奴がプロポーズって単語を出したら、きゃーという歓声と共に小さな拍手が聞こえた。そのせいかどうか、霧島は軽く吹き出してから、取り繕ったように真面目な口調になった。
『とりあえず、おめでとうございます。先輩』
 ここは既婚者の余裕ってやつなんだろうか。祝福の言葉を向けられると、それはそれでいささかくすぐったい。
「お、ありがとな。……プロポーズ前に言われるのも変な感じだ」
『だって成功するって決まったようなものじゃないですか。それともまさか、自信ないんですか?』
「そんなわけないだろ。俺だって絶対上手くいくって思ってる」
 すぐ煽るような物言いをするところは相変わらずの生意気さだ。霧島も入社してすぐはこんなじゃなくて、素直で真面目なのがとりえの、もっと可愛い後輩だったのにな。一体誰によくない影響を受けたんだが――安井だな、間違いなく。
「でも事が済んだら、事後報告という名の自慢もたっぷりするつもりだからな。祝福の言葉も胴上げもその時でいいぞ」
 安井には事後報告は要らないと言われてたが、実際呼んだらのこのこやってくるに違いない。その時は安井の近況も根掘り葉掘り聞き出してやろう。何だかんだであいつ、最近ちょっと怪しいそぶりがあるからな。
『胴上げはしませんけど、お祝いならしてあげてもいいですよ』
 霧島は奥さんの手前だからか、そんなことまで言ってくれた。
「意外に優しいな、お前。安井はお祝いの『お』の字もなかったぞ」
『精神的余裕の差ってやつですよ、きっと』
「可愛げはねえな……。安井本人には言うなよ、あいつなら本気でへこむ」
『そうですかね。石田先輩が結婚したら、一番喜ぶのはあの人だと思いますよ』
 どうだか。俺は異を唱えたい気分になったが、ここで意地を張ると大人気ない感じがするから止めておいた。
 何だかんだで二人とも、いざとなったらしっかり祝ってくれるんじゃないかって気はしてる。もしかすると俺そっちのけで藍子のことばかり祝う気かもしれないが、それならそれでいい。藍子が幸せなら俺だって幸せだからだ。
『俺はちょっと寂しいです』
 更に霧島はそう続けた。
 俺が結婚するからなのかと思えばそうではなく、
『小坂さんは……営業の仕事は続けられないんですよね、きっと』
 当たり前だが、そういう意味での寂しさのようだった。
 それについては俺の胸中でも複雑な思いが渦巻いている。可愛い部下を失うのは、やはり寂しさが伴うものだった。でもいつか思ったように、俺が彼女から仕事を奪うのではなく、彼女が自ら選んで俺についてきてくれるのだ。だったら俺も彼女が望むように、いつでも未来を見据えていたい。
 その話も土曜日に、藍子としようと思っていた。
『先輩は、小坂さんが自分だけのものだと思ってるかもしれませんけど……』
「思うも何も事実、俺だけのものなんですが」
『……でも俺にとっても、小坂さんは大切な後輩ですし、同僚なんですよ』
 霧島はその言葉に、俺や安井には滅多に見せないがそれこそ藍子に対してはよく見せるような、穏やかな温かみを覗かせていた。
 そして俺に対しては脅かすように言ってくる。
『覚悟しててくださいね、先輩。小坂さんと結婚するって報告したら、きっと課の皆から非難轟々ですよ。飲み会なんかでは集中砲火浴びることになると思いますから、耳栓とか用意しといた方がいいですよ』
 なるほど、経験者は語るってとこですか。大変だったんですねー霧島くんも。
 実際、いざ結婚ってなったら課の連中はうるさそうだし、多少のブーイングもありそうだ。俺は彼女を大切にするし、絶対幸せにする気なのでその点は心配要らないが、何かの弾みで夫婦喧嘩でもした日にはまたえらいことになるかもしれん。そうなったら何を差し置いても迅速に仲直りをしなければならない。
「でもそういう周囲の騒音も含めて、社内恋愛の醍醐味ってやつだろ」
 と、俺はうそぶく。
 社内恋愛だから特別いいことがあったってわけでもないが、それゆえの数々の思い出、面倒事も今だけのことで、将来的にはもう起こらないものになってしまう。皆にうるさく言われるのも今のうちだけだろうから、せいぜい言わせておいてやるのが大人の余裕ってもんだ。
『まあ、先輩なら平気そうですよね。お弁当まで作ってきてもらってるくらいだし』
 深く息をついた霧島に、俺はかねてからの疑問をぶつけてみる。
「お前、安井にそのことばらしただろ」
『え? いけませんでした?』
 またこいつは、悪びれもせずにぬけぬけと。
『だってあんなに浮かれてる先輩見たら、とてもじゃないですけど黙ってられないですよ』
「浮かれてねーよ。超冷静沈着な態度だっただろ」
『いいえ、小坂さんから荷物受け取る時、めちゃくちゃだらしない顔してました』
 自覚はあったので、俺はうっと詰まった。
 すると霧島は笑いながら、
『写真撮ってないんですか? 先輩のお弁当食べてる時の顔、俺も見たかったですよ』
 まさにこの間、安井が寄越したメールの中身と同じようなことをのたまった。
 こいつ、すっかり悪い先輩に影響されちゃってるな。いい先輩としては今後の先行きが心配だ。

 ともかく、これで事前報告は終了した。
 あとは土曜日、絶対失敗するはずのないプロポーズをしっかり決めればいいだけだ。
 安井の呪いなんて効き目がないってことを身をもって証明してやろう。
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