Tiny garden

言わない言葉(4)

 その機会は、思っていたよりも早くに訪れた。
 と言ってもあくまで俺の予想よりも早かったというだけだ。彼女の方は恐らく、なるべく近いうちに実行しようと考えていたんだろう。

 八月最後の週、その前半をいつも以上の働きぶりで乗り切った小坂は週半ばの水曜日に七時半退社を果たした。
「あっ、主任! お先に失礼します!」
 ロッカールームから鞄片手に、早足で飛び出してきた小坂は、廊下で偶然すれ違った俺に笑顔で挨拶してきた。
「お疲れ、小坂。今日は久々に早いな、頑張ったな」
 俺は賞賛に少しの羨ましさを込めて応じる。かれこれ九回目になるお盆前後の繁忙期だが、慣れるどころか毎年毎年うんざりって感想しかない。俺もそろそろ早く帰れるようにならんかな、とぼんやり思ってみる。
「このチャンスにゆっくり休めよ。じゃあまた明日な」
 もう一言告げた後、俺は片手を挙げてその場を離れようとした。話をしたい、可愛い小坂を構いたいのはもちろんなんだが、せっかく早く帰れる日に立ち話で引き止めるのは悪い。それにどうせ構うなら、会社の中よりプライベートでの方が楽しみも広がるし、今日のところは我慢だ、我慢。
 しかしそこで、小坂が俺の行く手を遮るように、一歩距離を詰めてきた。
「あの、そういえば主任。先日お話しした案件についてですけど、まだ覚えていらっしゃいますか?」
「案件? ……って一体どれだ?」
 その曖昧な単語が何を指し示すのか、とっさには把握できなかった。無理やり結びつけるなら、あれかもしれないと思える仕事内容はいくつかある。主に小坂が取りつけてきた契約についてだ。でもそういう話なら、いつもの小坂は取引先がどこで、商品は何かをはっきり言う。だからか、今の言葉は濁したような物言いにも思えた。
 そして当の小坂も、仕事の話をするにしては随分目を輝かせているように見える。
 ――何の話だ?
「私が早く上がれた日に、実行しようと思っていた案件、です」
 小坂はどこか嬉しげにそう続けた。
 ここまで来るとさすがに、夜分の疲れた頭にもぴんと来るものがあった。
「……ああ、わかった」
 俺が納得の声を上げると、彼女はぴしっと姿勢を正す。
 そして、
「その件ですけど、こうして無事時間が取れましたので、本日、早速着手したいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします」
 さも業務について話すように宣言してきた。
 宣言の後で浮かべた笑顔は相変わらず可愛いはにかみ具合だった。真っ直ぐ伸ばした背筋も実に彼女らしかった。早く上がれたとは言え今日だって普通に勤務だったのに、疲れたそぶりをひとかけらも見せないところは、以前と同じように眩しかった。
 すっかり面食らった俺は、反応を返すのが少し遅れた。
「そうか、じゃあ……よろしくお願いします。こちらこそ」
 この局面でスマートな切り返しが思い浮かばなかったというのもあるが、俺の何とも頼りない返事にも彼女は微笑み、それから改めて頭を下げてくる。
「では、お先に失礼します!」
 二度目の挨拶をしてから、小坂は早足で歩き出す。定時後の少しばかりざわつく廊下を、脇目も振らずに進んでいく。一回くらい振り返るんじゃないかと思ったのにそんなことは全くなく、かなり急いでエレベーターホールへ向かったようだ。
 これから買い物して、俺の部屋まで行って、そこから夕飯の支度して……ったらそこそこ時間かかるもんな。急ぐのも無理はない。
 でも俺は、訳もなく置いてけぼりを食らったような心境になった。頑張って今日の仕事を見事に片づけた彼女とは違い、こっちはまだ残業だし、置いてかれたのは事実なんだが、それ以上に。
 あいつ、やっぱり何か、心境の変化でもあったんじゃないか。今までだって十分、はしゃぐ犬みたいな調子で俺を振り回し続けてきた彼女ではあるが、近頃はリードを引っ張っていく方向もしっかり定まってきたように思う。俺の行きたい方向を理解してくれている。
 そうなるとこっちだって無様なふるまいは見せられない。とは言えこんなに早くその機会が来ると思ってなかったから、予定していた代物の用意もできてない。これはもう、次の休日返上だな。急がねば。

 小坂が退勤した後の営業課で、俺は残りの仕事をせっせと片づけた。
 部屋へ帰れば彼女が待ってる。しかも手作りの夕飯つきで。その事実は単純明快な俺の気分を見事なまでに浮かれさせた。本当は霧島にでも自慢してたいところだったが、とっくに妻帯者の霧島はあんまり羨ましがってくれなさそうだから止めた。
 そうやって、空でも飛べそうなテンションで浮かれつつ、一方で寂しさを覚える俺もいた。小坂のいない営業課は華がない。個人的な楽しみもあんまりない。彼女が入社してからの一年ともうすぐ五ヶ月、向こうが先に退勤して俺は残業って機会も珍しくないほどよくあったが、今日くらい彼女がいないことを寂しいと思う日もなかった。
 そしていつか、ここから彼女が本当にいなくなる日が来るんだと思うと、堪らなく寂しく思えた。
 ――いやいや、当然わかってますよ。誰がここから攫っていっちゃうんだよアホかって突っ込まれたら反論できないし、もし今のこの本音をうっかり口にしてみろ、営業課の連中全員に袋叩きにされてしまう。顔なんか原型留めないほどぼっこぼこにされるだろう。そんなことになったら小坂が泣くから駄目だ。あれ、前にも思ったっけ、こんなこと。
 俺だって、好きな子は是非とも俺だけのものにしておきたいし、俺の家族にもなってもらいたい。この決断には迷いもない。と言うかこっちなんてぶっちゃけお付き合いする前から結婚する気満々でした。だからそれは、それでいいんだが。
 ただ今日みたいに、それからこの間作ってくれた弁当みたいに、俺の為にとてつもなく頑張ってくれてる彼女を見てると、あいつにはまだまだ伸びしろが、成長していく力があるんだろうと思えた。営業でいきいきと頑張る小坂も、もうちょっと見てみたかったなという気になった。
 自分で思っていたよりも俺は――恋人としての藍子も当たり前ながら大切だし、愛してるし、人生賭けられる存在だが、同時に営業課員で部下でもある小坂についても、結構な具合で惚れてたってことなんだろう。
 ……我ながらなんて感傷的なんだ。恋は男を詩人にするな、良くも悪くも。
 どうせ残業終わって帰って、彼女が作った夕飯をいただいたら『一分一秒でも早く、可及的速やかに結婚したい! ウェルカム新婚生活!』って思うに決まってる。所詮、俺の気分なんて単純明快にできてるんだからな。

 俺は小坂よりも二時間遅れて、九時半過ぎに残業を終えた。
 うきうきと自宅へ戻り、駐車場に車を止めてから、ふとマンションの外観を眺める。すると俺の部屋の窓にはカーテンを隔て、ほんのりとした明かりが点っているのがわかった。それを目視した途端、嬉しさが込み上げてきていてもたってもいられなくなる。
 俺の部屋の前まで来ると、いかにも夕飯時らしい匂いがどこからか漂ってきた。時間的には少し遅めだが、味噌汁のいい匂いがはっきりわかって、素直に腹が減ってくる。今日の献立は何だろうなんて、そんなふうに思ったの、いつ以来だろうな。
 玄関の鍵は開いていた。退勤直後に『今から帰る』ってメールしといたからだろうか。ドアを開けたら、外から眺めた通り、居間の電気が点いていてとても明るかった。軽く冷房も入れておいてくれたみたいで、空気がひんやりと心地いい。
 こっちの物音に気づいてか、室内からもぱたぱた近づいてくる足音が聞こえた。俺は素早く靴を脱ぎ、それから、柄にもなく照れながら先に声をかけた。
「ただいま」
 居間へ続くドアが開く。藍子が、やっぱりちょっと恥ずかしそうに顔を出す。
「お、お帰りなさーい……」
 そのまま数秒間、お互い黙って見つめ合う。微妙な空気だなと密かに思う。何、この、ノリで新婚さんごっこしたら思いのほかどぎまぎしちゃってどうしよう的な甘酸っぱさは。ごっこと言うか、この場合は予行演習に当たるんだろうが。
 とりあえず、こうなったらとことん新婚さんっぽいことしてやろう。そう思った俺は、ドアから顔だけ覗かせてた彼女をまず捕まえた。今日の為に用意してきたんだろうか、カキ氷のシロップみたいな明るい青色のエプロンを着けていた。その下は以前購入したポロワンピースだ。仕事中には拝めない、剥き出しの腕が柔らかそうで、ぐにっと掴んだら彼女が溜息のような声を立てる。
「あっ……あの」
 何か言いたそうにする藍子に逃げられないよう、速攻で腕の中に引き寄せ、抱き締めた。エアコンが効く室内にいたせいか、藍子も十分ひんやりしていて、抱いているのがすごく気持ちよかった。覗き込んだ顔はいかにもまごまごしていたが、俺は上機嫌でお約束のやり取りを始めてみる。
「お帰りのちゅーは?」
「え!? きゅ、急に言われても……ご飯できてますし……」
 俺が頬を寄せれば、彼女は言い訳にもならないようなことを口の中で呟く。そりゃあ手作りの夕飯だって食べたい。楽しみにしてた。でもせっかく可愛い子にエプロン姿で出迎えてもらって、それだけってのももったいないだろ。
「あと、あれだ。例の質問」
「例の……? 一体、何ですか?」
「わかるだろ。『ご飯にする? お風呂にする? それとも――』っていう三択だよ」
「えっと、言いにくいんですけど、ご飯しか用意できてなくて」
「俺はお前がいい」
「ですから、ご飯しか用意してないですってば……」
 藍子は困ったようにしながら、俺の胸に顔を埋めてしまった。
 何だこの可愛さ。案の定思った、早よ来い本当の新婚生活!
 そして俺が辛抱強くその顔を覗き込んでいたら、やがて覚悟を決めたように両目をぎゅっとつむって、頬っぺたに軽くキスしてくれた。
 お約束のはずのお帰りのちゅーが実行されるまでに要した時間は十分弱といったところか。だが、結婚したらこれも大幅に短縮されることだろう。俺としてはこの点についても彼女の努力に大層期待している。
 お返しに、こっちは唇にキスしてやった。でも五回目くらいで胸を押すようにそこはかとない制止をされて、目を潤ませた藍子が言う。
「本当に……ご飯、できてますから」
 さっきから何回言えば気が済むんだ。そんなに腹が減ってるのか。俺も減ってるけど。
「今回も自信ありげだな。楽しみだ」
「美味しくできてると思います。今日は夏っぽく、鮭の南蛮漬けです」
 こくんと頷く藍子には、以前にはなかった自信が窺えた。

 夏っぽく、と彼女が言った通り、鮭の南蛮漬けは程よい酸味が暑い日にちょうどよかった。
 帰ったらすぐ温かいご飯が出てきて、味噌汁は俺の好きな具ランキング第二位のキャベツと油揚げで、野菜も食べてくださいねって水菜のサラダまで出してもらえて、今日の夕飯は最高に幸せだった。
 何より、藍子も一緒に食べてってくれた。二人でテーブル囲む時間は、一人ぼっちで適当に済ます食事とは比べ物にならない充実ぶりだった。
 そして本日の手料理も素晴らしい出来だ。
「本当に美味い。いつの間にここまでスキルアップしたんだ、お前」
 俺が誉めると、向かい合わせでご飯を食べてた藍子が微笑む。
「練習したんです。いろんなもの作れるようになっておこうって」
「へえ……今後に備えて?」
「そ、そうです。人間、健康第一ですし。その為にはバランスのいい食生活が大事です」
 心なしか、はぐらかすような物言いをされた気がしなくもない。
 そこはずばっと言っちゃってもいいんじゃないかと思うんですがね。誰の健康を守りたいと思って、練習してるのかって。こっちとしちゃそう言われて悪い気は全くしないのにな。
「でも、献立を考えるのってやっぱり難しいです。栄養バランスとか、彩りとか、どの順番で作っていくかの段取りとか……まだ難しくて、今日は随分時間かけちゃいました」
 そこで藍子はちょっと恥ずかしそうに首を竦める。
「それに、夜遅いとどのくらいの量を用意したらいいのかも迷っちゃいます。私は何時に帰ってきても普通にお腹空く方ですけど、隆宏さんはそうでもないですよね?」
「いや、こんだけ美味い飯が出てくるなら、何時だろうが腹減ってくるって」
 俺は本心からそう答えたが、ふと、今年の健康診断で幸せ太りを果たした新婚さんのことを思い出す。
 ああそうか、幸せ太りってのはこういう過程でするもんなのか。理解できたわ。
「あとはもう少し、お魚を扱えるようになりたいかなあ……」
 味のよく染みた南蛮漬けを一切れ、箸で摘み上げてから、藍子はぽつりと呟く。
「切り身のお魚ならお料理するのも楽ですけど、やっぱり最終的には自力で捌くところまで到達したいなって思うんです」
「別に、そこは楽していいだろ。俺は美味けりゃそれだけでいいよ、十分だよ」
 彼女の意気込みようが可愛くもあり、無理すんなと言いたくもなったので、俺は軽く笑っておいた。いくら俺が魚好きだからって、一から捌いたのじゃないと駄目! 却下! なんて言うわけないのに。
「とりあえずそろそろシーズンですし、まずはサンマを捌くのに挑戦してみようと思うんです」
「サンマなら俺はそのまま焼いて、醤油で食べるのが一番いいな」
「えっ、そうなんですか? ……頭もついたままですか?」
「頭は食うわけじゃないしどうでもいいが、腸は取らない派だ」
 俺の言葉に藍子はぽかんとしてから、急に生真面目な顔になる。
「わ、わかりました。覚えておきます! お魚料理ってすごく奥が深いんですね」
 確かに料理は奥深いだろうが、この場合、肝心なのは食べる人間の好みを把握することだろう。
 藍子がこうやって、俺好みの献立を練習したり、俺好みの調理法を覚えていってくれる過程が何だか嬉しくて堪らない。本当に彼女はいい嫁になると思う。その為に惜しみない努力をしてくれてるところもすごくいい。
 そうなると俺の方にもいよいよ努力が必要だ。
「藍子」
 食事をしながら呼びかけると、彼女は瞬きをした。
「おかわりですか、隆宏さん」
「いや、そうじゃない。……今度の週末、暇か?」
「ええと……はい、今週は空いてます」
 答えてから彼女はぱっと顔を輝かせ、
「も、もしよかったらまた何か作りましょうか? 私、練習してきます!」
 ものすごく可愛いことを言い出したので、危うく決心が揺らぐところだった。何だこいつはもう、頑張りすぎだろ。
「それもいいんだが、今回はちょっと行きたい店がある。そこに付き合ってくれ」
 後ろ髪引かれつつも俺は言う。
 藍子の手料理も本当に美味しくて魅力的なんだが、それを美味い美味いと能天気に喜んで味わうより先に、済ませておかなければならないことがある。思えばそれっぽいことはいくらでも言ってきたし、俺は決して愛情表現を上品に包み隠す方ではないから、そういうのも今更なのかもしれない。
 でも俺たちはこれから、形式に則っていろんな過程をこなしていかなくちゃいけない。その最初の一歩を踏み出すのに『それっぽい』なんて曖昧なことじゃ駄目だ。はっきり言葉に出して伝えておかなければならない。
「わかりました」
 特にためらいも、こっちの内心を推し量るそぶりもなく、藍子は小さく顎を引く。多分、俺の思惑には気づいてない。その後、お仕事関係のお店ですか、などと聞いてきたところからもそれが窺える。

 だから俺も、今は予告めいたことさえ言わない。いい店だから期待してろとだけ告げておく。
 その瞬間、藍子が浮かべるであろうびっくり顔が、今から本当に楽しみだった。
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