Tiny garden

言わない言葉(3)

 お弁当パワーを得た俺でもこの時期の仕事量が相手では多勢に無勢、さすがに無敵とまではいかない。本日の残業終了時刻はいつもより数十分早い程度だった。
 それならそれでちょっといいこともある。
 一足先に退勤した小坂が営業課へ戻ってきて、一人居残る俺の上がりを待つ間、細々とした作業を手伝ってくれたり、冷たいお茶を入れてくれたり、最後にパソコンのシャットダウンを済ませておいてくれたりした。

「悪いな、退勤後なのに手伝わせて」
 俺が明日使う資料をコピーしている間、小坂は俺の席に座って後片づけまでしてくれている。声をかけると面を上げ、すかさずとびきりの笑顔になった。
「いいんです、このくらい。主任にはいつもお世話になってますから」
 時刻は夜十時を過ぎている。そして営業課の他の連中は既に全員が退勤済みで、ここには俺と小坂の二人だけだった。普通の会話ですらこだまして聞こえるような夜の静けさの中、今みたいに優しい言葉と疲れを窺わせない笑顔を向けられるとまずい。呆気なく心臓を撃ち抜かれてしまう。
 誰にも突っ込まれないから自分で突っ込んじゃうが、このくらいで照れてどうする俺。
 浮かんでくるにやにや笑いを咳払いで誤魔化すと、可愛い部下に仕返しのつもりで言ってみた。
「お前が俺専属の秘書とかだったら、もっと楽しく仕事ができちゃうのにな」
「秘書ですか……。私はあまり要領よくないから、どうでしょうね。向いてないですよきっと」
 小坂は相変わらず真面目に答える。
 きっと二十四年を過ぎた人生のうち、『秘書』という単語に夢のある想像なんて一度もしたことないんだろうなと思える受け答えだった。ちなみに俺はある。ありすぎる。
 想像とは違い、現実的にはきっと多忙だろうし気配りも必要だろうしでさほど夢もなさそうなお仕事だが、それでも小坂とだったら仕事も楽しくできるに決まってる。加えて毎日のように一緒の時間に退勤できるだろうしな。お互い営業だとこうはいかない、小坂の方が帰りが遅い日だってあるし、だから結婚後もそうそう続けられるような仕事ではない。
 しかしそれよりも小坂には、何より俺の人生の専属秘書となってもらわなければならないので。
 ――リアルで口にしたらぎりぎり引かれそうな口説き文句だな。本人に言うのはやめておこう。

 俺がくだらない妄想やらシミュレーションやらを繰り広げてる間に、小坂は後片づけも済ませてしまったらしい。ふう、と女の子らしい吐息が聞こえ、彼女は俺の椅子にすとんと腰を下ろした。
「こちらは済みました」
 そう言って俺を待つように、犬みたいな目でこちらを見つめてくる。
「助かる。ありがとな」
「いえ、主任のお役に立てて嬉しいです!」
 例によって眩暈がするくらいいい笑顔だ。節電の為に空調を切られた室内で、スーツの上着を脱いだ小坂白いブラウスが目に眩しい。あと、膝の上に両手を置いた座り方が可愛い。小坂なら全部眩しいし可愛いけどな。
 こっちもちょうど印刷が終わったところだった。あとはホッチキスで綴じたら本日の残業は終了だ。そんなに数も多くないから手早く片づけることにする。
 退勤後には久々の、二人きりでのご歓談タイムが待っている。
 気持ちが若干浮ついているのと、俺の席に座って『待て』状態の小坂が可愛かったのもあって、つい気が緩んでしまう。作業しながら、本当なら車に乗せてから言おうと思っていたことがあっさり口をついて出た。
「それにしてもお前、すごい弁当作ってきたよな」
 小坂も、その話をここでするとは思わなかったんだろう。一瞬はっとしていたものの、すぐにはにかんでみせた。
「す、すごいってほどでは……普通のお弁当ですよ、お口に合ったならよかったですけど」
「美味かったし俺好みだった。大体、ああいうのって普通に作るのが一番難しいんじゃないのか?」
 大物をどーんと作るよりも、ごく一般的なおかずを複数、それも組み合わせを考えつつ準備する方が難しそうだ。それを踏まえたら、今回彼女が作ってきたお弁当は目覚しいスキルアップぶりだと思う。まさに俺の為の弁当。
「特に西京焼きが美味かったな。時間のある時でいいから、また今度作ってくれないか」
 俺の頼みに、小坂は勢いよく頷く。
「はい、是非!」
 それからあどけない笑みを浮かべて続けた。
「実はあれ、すごく簡単なんです。前の日に調味料を合わせてお魚漬けておいたら、次の日はもう焼くだけ。それなのに美味しいって素晴らしいですよね」
 またお前は、そうやって容易く手の内を明かして……。
 そこは嘘でも『作るのすっごく難しかったんですけど、隆宏さんの為に頑張りました!』とか言っといた方が、相手により感心も感動もしてもらえる、って考えには至らないものか。そういう素直さも小坂のいいところではあるが、もうちょいこずるく立ち回ったって罰は当たるまい。
「そんなに簡単で美味い献立なら、今後はいっぱい作ってもらえそうだな」
 ある意味俺の方が感心しつつ、そう告げる。
 すると小坂は、ここぞとばかりに得意満面で応じた。
「はいっ。西京焼きだけに、最強の献立です!」
「あ? 何か言ったか小坂」
 思わずわざとらしく聞き返してやった。何言ってんだお前は。
「ですから、最強なんです。西京焼きだけに……」
 若干トーンダウンはしたものの、小坂は一度外したギャグを性懲りもなく繰り返してみせた。俺の方をわくわくと、期待混じりの目で見ながら――今ので笑ってもらえるとでも本気で思ってるんだろうか。まして男心ってのは天邪鬼なもので、こうやって期待されると逆に冷たくしてやりたくなる。
「今ので俺が笑うと思ったか?」
 あしらう口調で言うと、途端に彼女は上目遣いになって、
「え……あの、主任なら優しいから笑ってくださるかな、なんて思ったんです」
「ああ、俺は優しいしお前には愛もあるからあえて言う。よそでは絶対言うなよ、盛大に滑るぞ」
「……そ、そんなに、駄目でしたか」
 釘を刺された小坂はしゅんとしたようだ。もし彼女が本当に犬で、あのつややかな髪の間から犬の耳が覗いていたら、今はきっと気落ちしたように垂れていただろう。そんなものがなくても十分、仕種や態度なんかは犬そのものだが。
 にしても、たまに冷たくするのも悪くないな。会心の出来だと思ったらしいギャグを外して、こっちの反応をちらちら窺ってくる小坂も非常に可愛い。普段が真面目な奴だけに、仕事でもそれ以外でも失敗して落ち込ませるのはかわいそうって気持ちになってしまうんだが、こんなくだらないことでなら別にどうってこともない。むしろもうちょい、意地悪してやろうかって気分になる。
 ホッチキスで資料を綴じ終えると、俺はようやく小坂の元へ向かった。あとはもう電気を消して、鍵をかけて帰るだけだ。
 俺の椅子に座ったままの小坂が、ゆっくりと目で俺の動きを追う。そして傍まで近づけば、俺を見上げて、まるでさっきの失敗を誤魔化すみたいにえへっと笑った。
 それだけで、いとも簡単にヒューズが飛んだ。
 見下ろす位置にある彼女の顔に、屈むようにして接近する。経験則からさすがに察知したと見えて、小坂は逃げるように上体を引こうとした。それを阻止すべく彼女の顎を掴み、少し強引に上を向かせる。もう片方の手で逃げられないように肩を押さえると、覗き込んだ顔は瞬間的に怯えて、その表情に一層ぞくぞくする。
「思ったんだが……。よく俺、今まで平気でやってこれたよな」
 至近距離から囁きかける。彼女が一瞬くすぐったそうに目をつむり、でもそれが危険だとわかってるんだろう、慌てて開ける。
「お前と二人で残業って機会も何度かあったのに、変な気も起こさずよく普通でいられたなと思うよ」
 無論、俺もそれなりに良識を持った真っ当な社会人なので、職場でいかがわしいことに及ぶような真似はしない。そんなのは凡百のAVの世界だけで十分だ。それに俺たちはお互い優秀な再生機能の持ち主で、地雷を踏み抜くみたいに思い出しては駄目になるタイプだと知っている。きっと今のこういう空気だって、明日以降ふとした時に脳裏に蘇って、頭抱えたくなったりするんだろう。
 でも、今は無性にこいつが欲しい。平常時なら『全部可愛い』で片づく感情におかしなバイアスがかかってる。可愛いのはもちろん可愛い、だがそういう彼女をあえてめちゃくちゃにしてやりたい――きっと疲れてるせいだ。脳が糖分を欲しがるように、俺は必須栄養素の補給を性急に、切実に求めている。
「駄目ですよ、あの、明日から仕事がしにくくなっちゃいますし……」
 小坂があたふたと、俺の手を押しのけようとする。細いわけではない彼女の腕も、どうしたって俺の腕力には敵うはずがない。しばらく無意味な抵抗を続けた後、手の力をゆるゆると抜きながら、思いつめた声で訴えてきた。
「わ、私っ、主任のこと信じてますから!」
 それは小坂にしては相当、必死な訴えだったのだと思う。
 だが言われた方は、思わず喉から変な笑い声が出た。
「何だそりゃ。どういう意味だよ」
「だって……」
 おずおずと彼女が答える。俺の顔色を窺うように何度も見ながら、
「主任の、目が……お、思いのほか真剣でしたから。からかわれてるのか……もしかしたら、まさか、本気で仰ってるのかなって、とっさに判断つかなくて」
 今でも判断つきかねた様子で言葉を継いだ。
 空調を止めたせいなのかどうか、彼女の額には汗が浮かんでいる。俺もさすがに暑くなってきて、これ見よがしにネクタイを緩めようとしたら、意外なことに小坂の手ががしっと止めに来た。
「ちょちょちょ、待ってください主任! 駄目です、本当に駄目です!」
「声が大きいぞ小坂。と言うか俺は暑いからネクタイ緩める気だっただけだ」
「うっ……嘘です。絶対私をからかうつもりだったに決まってますっ」
「じゃあ、俺がネクタイ外して、その後どうからかわれると思ったんだ? 言ってみろよ」
 突っ込んでやったら、小坂はぐっと言葉に詰まった。
 そしてその後、紅潮した顔を拗ねたように思いっきり背けて、呟いた。
「主任の冗談よりも、私の冗談の方が面白いと思います……!」
 いや、それはないな。
 ただ俺の方は、全部が全部冗談でもなかった。それだけのことだ。
 真っ赤になって震えてる小坂はやっぱり可愛いし、ちょっと悔しそうにしてるのもなかなかいい。抵抗するそぶりに色気はなかったが、色っぽい空気を察知するようになってきたのもいい傾向だ。これで明日が出勤じゃなけりゃ、迷わず連れ帰ってるところなんだが――この時期は本気で無理が利かない。俺はよくても、今朝は頑張って弁当を作ってくれた彼女に、これ以上の無理はさせられない。まして今日は残業も少し手伝ってもらってる。この辺りは到底意地悪なんてできない、大事な大事なお嬢さんだ。
 惜しかったな、って気持ちもかなりある。正直。明日、出勤してから思い出してお互いそわそわするくらいには、いい雰囲気だったんじゃないかと思う。一時的、むしろ瞬間的にだけだったが。
「そろそろ帰るか」
 俺が仕切り直すつもりで声をかけると、小坂は拗ねていたのも忘れて、この上なくほっとしたような顔つきになる。
「は、はい、そうですね。主任のご用事も済んだみたいですし、あと、時間も時間ですし!」
 わかりやすいくらいにすっかり安心してやがる。
 この繁忙期が済んだら存分に補給してやるから、安心なんてせず、今のうちに覚悟決めといた方がいいと俺は思うがな。

 退勤後は予定通り、彼女を車に乗せて家まで送った。
 例のセレクトショップの紙袋は弁当箱を空にした後でもそれなりに重みがあって、膝に乗っけた彼女が軽く笑うくらいだった。
「やっぱり保冷剤、多すぎましたね」
「そうだな。いくら夏場でもあんなに入れてくることはない」
 つくづくやることが極端と言うか、変なとこだけ思い切りがいいと言うべきか。
 社食で風呂敷包みを開けた途端、保冷剤がざーっとなだれ落ちた光景を思い返すと、今でも余裕で笑えた。あれはシュールだったわ。
「藍子、お前は変な駄洒落とか言わないで、普通にしてた方がウケを取れるぞ」
 俺がアドバイスしてやると、助手席の藍子はどことなく不本意そうな顔をした。
「でも主任……隆宏さんの冗談よりはずっといいと思います」
「どこがだよ」
「だって私の冗談は、別に心臓に悪くないですし」
 そう言ってから、うっかり者らしく何事かを思い出してしまったらしい。たちまち慌てふためいて俯いたから、その自爆っぷりにこっちの心臓が疼いた。
 ああもう、本当可愛いなこいつは。拉致りたい。
 こういう時こそ、結婚してたらよかったのにと実に思う。家帰ったらこの可愛い奴がじっと『待て』をやってるのかと思うと楽しみで、幸せすぎて、過酷な勤務中だろうとにやにやしながら過ごせそうだ。
 そして今日の弁当を見る限り、料理の腕だってめきめき上達しちゃってるしな。彼女は着々と理想のお嫁さんに近づきつつある。もしかすると本日の弁当も、いよいよ結婚に向けて具体的に考え始めた段階における、花嫁修業の一環だったりして――だとしたらますます可愛い、可愛すぎるな藍子。そんなに俺のところに嫁に来たいか!
「……お弁当の話、なんですけど」
 タイムリーにも、藍子もその話題を持ち出してきた。
「ああいう感じの献立でよかったですか? 一応、お好みに合いそうなものを選んだつもりだったんですけど」
「すごくよかった。お前の愛を感じたよ」
 正直に答えたら、助手席からは息を呑むのがはっきり聞こえた。
 何だよ、事実なんだからそんなに動揺すんなって。
「それなら……」
 気を取り直すような溜息の後、彼女は話を継ぐ。
「今度は、隆宏さんのお部屋に、作りに行ってもいいですか?」
 悪いはずがない。二つ返事で快諾したいところだったが、何分俺の方はさっきの色っぽい空気に未練たらたらだったりもするので、つい違う方向に食いつきたくなった。
「今からか?」
「えっ。これからですか?」
 藍子はよほどびっくりしたのか、質問を質問で返してくる。深追いすると本気で悩み始めそうなので、ここは早めに引いておいた。
「冗談だよ。次の休みなんかどうだ?」
 俺が笑うと、彼女も女の子らしく笑った。
「あ、冗談だったんですか、びっくりした……。もちろんお休みの日にでもいいんですけど」
 と、そこで一呼吸置き、
「例えば、私の方が隆宏さんよりも先に退勤した日、私が一人でお部屋にお邪魔して、晩ご飯を作っておく……みたいなのも、やってみたいなって思ってるんです」
 どこかはしゃいだような声で希望を語った。
 瞬間、俺の脳裏には様々な思いが去来した――それはまさに『正しい合鍵の使い方』だ。こういう日がやってくることを願って、俺は合鍵を彼女に渡した。だから彼女の方からそう言い出してくれたのは嬉しい、すげー嬉しいんだが、そもそも鍵渡したのいつだっけ、今年の三月だったよな、ここに至るまでやたら時間かかってないかという思いも少しはある。しかし二十代にして初彼氏だった藍子ちゃんには、自分の意思でこの段階まで辿り着いただけでも快挙と言うべきなのかもしれない。って言うかあーだこーだと思ったって実際作りに来てもらってしまえばどうせ顔緩みっぱなしででれでれと喜ぶだけなんだろ俺。余裕ぶって無理に平静を装うことはない。
 だからもう、素直に喜んでしまう。
「マジですか……いやもう、すんごい嬉しいんですが。むしろ俺、待ってた。そういう日が来るのを超待ってた。是非ともよろしくお願いします!」
 こっちも負けじとはしゃいでやったせいか、藍子がまた可愛らしく笑った。
「じゃあ折を見て、伺いますね。それまでにもうちょっと、いろんなもの作れるようになっておきますから!」
 何てことだ。幸せだ。
 俺はもう、藍子という彼女がいるだけで十分すぎるほど幸せだと思っていたが、彼女が運んでくる更なる幸せの数々にすっかり骨抜きにされている。もう、何か、抜かれた骨がそのまま一生戻ってこなくてもいい……。
 それにしても、ここ最近の藍子は頑張ってるよな。仕事だって忙しい時期なのに、料理の練習まで――俺にとっては喜んでだけいればいいことなんだろうが、ほんのちょっとだけ不思議にも思う。心境の変化でもあったんだろうか。
 いや、ない方がおかしいか。お互いの両親にも会って、結婚についてもぼちぼち話し合い始めたところだ。実際に花嫁修業を始めていたとしても何ら問題はない。
 だったら俺も……何かしないとな。結婚に向けての具体的な努力を。

 信号停止の合間にこっそりと、藍子の手元を盗み見た。
 紙袋の持ち手を握る指先をじっと見やり、どんな指輪が似合うかな、と考える。
PREV← →NEXT 目次
▲top