Tiny garden

言わない言葉(2)

 翌朝、彼女は約束通りに弁当持参で出勤してきた。
「おはようございます、主任。これ……昨夜お話していた品です」
 まるで憧れの先輩にラブレターを渡す女子高生のように、小坂は頬を赤らめながらそれを差し出す。
 繁忙期とあってか営業課員の出勤は皆早めで、この時も課内には俺たち以外の人間が数人いた。だからか小坂は人目を気にして非常に恥ずかしそうだったし、手渡そうとする品を『お弁当』だとはっきり言わなかった。もっとも、ぼかしてみせたところで俺の前でもじもじする小坂は遺憾なく課員一同の目を引いており、霧島を筆頭に四方八方から好奇の視線を浴びせられている現状だった。ばれるとはいかないまでも、何かあるなとは思われてるようだ。
 俺としてはそういう視線も、今回ばかりは悪い気がしなかった。そして初々しく俯く小坂をいつもながら可愛くてしょうがないなこいつは、後でどうしてくれよう、と考えてもいた。
 ただ、驚いていると言うべきか、すげー疑問があるって言うべきか。小坂の可愛さを堪能したいという欲求をも脇へ追いやるような疑問が存在している。追及したい、むしろ突っ込みたい衝動が俺の頭の中で膨らみつつあった。
 それは小坂が今まさに、ちょっとだけ後ろめたそうに差し出してきた紙袋についてだ。
「すみません。本当はクーラーバッグに入れてきたかったんですけど、思いのほか大きくなっちゃって入らなかったんです」
 彼女は小声でそう付け加えた。
 紙袋はセレクトショップのロゴが入った、表面に光沢のある丈夫そうなやつで、横幅が長いタイプのものだった。本来は買った服などを入れる為のサイズだろうが、マチだって十分あるにもかかわらず、紙袋は中身の形を反映してやけにでこぼこしている。
 弁当を入れてくるにしては大きいと思った。
 そして、なぜでこぼこしてるんだろう、とも思った。
「ああ、ありがとう。いただくよ」
 疑問はあれど、小坂が俺の為に尽くしてくれていることには変わりない。嬉しさに緩む口元を引き締めつつ、ひとまず礼を述べて紙袋を受け取る。
 途端、俺の手にはずしりと予想外の重みが加わった。
「うおっ、重いなこれ」
 思わず声が出るくらいには重い。大きくてでこぼこしていてこんだけ重いって、じゃあ中身の方はどうなってんだ。それはもう気になって仕方がなくなる。
「お前、電車でこれ持ってくるの大変だっただろ? 何か悪いな」
「それほどでもないです。気合でどうにかできる範囲内です」
「そうか? いや、でも、結構な重量感あるぞ……」
 こっそり紙袋を覗くと、どうやら普通の弁当用クロスでは間に合わなかったと見えて、それは薄緑の梅柄の風呂敷に包まれていた。どんな風に入ってるんだろう、薄く硬い何かが包みの中にぎっちり詰め込まれており、そのせいで全体的にでこぼこしているようだった。
「重いのは、あれです。保冷剤が入ってますから」
 と、小坂は風呂敷包みの大きさ、重さ、でこぼこ具合について説明した。
 そういうことなら納得はできる。そうだ、確かに昨夜、暑い時期だから保冷剤も入れてくって言ってたよな。実際、紙袋はひんやり冷気をまとっていて、特に底部は氷枕のように冷たかった。
 にしても随分な大きさと重さに見えるが、果たして風呂敷包みの中身における保冷剤と弁当の割合はどの程度のものなんだろうか。俺は食欲に関してはごく平均的な成人男性並みだと自負しているからあんまり大盛りだと厳しいが、彼女が真心と愛情を込めて作ってくれたものを残すわけにはいかない。断じて。そこは男の見せ所だ。
「楽しみにしてる」
 俺が声を落とすと、小坂は黙っててらいのない笑顔を見せた。
 表情から察するに弁当のクオリティには相当の自信があるようだった。ほんの半年前まではレパートリーと言えばカレーと豚汁だけだった彼女が、胸を張り堂々と手作り弁当を持ってきたことに感動すら覚える。世界初、世界にたった一つだけの、小坂の小坂による俺の為の弁当――本来なら博物館のガラスケースに展示して永久保存しておくべき貴重品だが、やっぱり食べたいのでためらわず食べてしまうことにする。彼女だって間違いなくそっちを望むだろう。
「では、あの、何卒よろしくお願いいたします」
 そうして用が済むと、今更のように業務的な会話を取り繕い、小坂は踵を返した。先程から絶え間なく注がれている営業課内の好奇の視線に気づいているのかいないのか、姿勢よく自分の席へ戻ろうとして、数歩進んだ後でささっと戻ってくる。
 どうやら大事なことを言い忘れていたらしい。慌てた口調で釘を刺してきた。
「そうだ、主任。洗わなくていいですから、そのままお返しください」
 それまで彼女は周囲の目を気にして、紙袋の中身についてはひた隠しにしてきた。実際のところ隠しおおせていたかどうかはかなり微妙な線だが、何にしても今のその一言は台無しだ。相変わらず、最後の最後でうっかりしてると言うか、詰めが甘い。
 おかげで俺は、事情を察した営業課員どもから冷やかし笑いの嵐を頂戴することになり、ついでに言うと俺自身、締まりのない口元を慌てて手で隠す有様だった。
 ここが職場じゃなかったら、浮かれて歌でも歌い出してたかもしれない。

 今日も今日とて仕事は忙しかった。
 昼飯の手作り弁当を励みにしてモチベーションは十分高まっていたはずだが、いつもよりいくらか捗ったところで、すぐに次のやるべき業務が舞い込んでくるのがこの時期だ。我が社だけじゃなく客先もどこもお盆休み明けだから、どこだって自社優先で溜まりに溜まった仕事をやっつけたいに決まっている。そういう当たり前の思惑がぶつかり合う事情もあり、どうやら本日も遅いランチタイムになりそうだった。
 それでも精神的には上向きと言うか、もう幸せいっぱいでした。俺だって日頃好き好んでコンビニ弁当だのカップ麺だのを食しているわけではなく、いつでも美味しく栄養のあるものを食べたいのが本音だ。それが愛する彼女の手作りだったら心身ともに十分な栄養となる。
 毎日愛妻弁当なんて持ってくる奴はどんなに幸せ者なんだろうと思う。俺たちにも早くそういう日がやってくればいい。その為の努力なら俺は全く惜しまない。
 そんなわけで、小坂からいただいた紙袋の中身を気にしつつ仕事に励んでいたら、いつの間にやら午後二時を過ぎていた。この時期なら実に普段通りの進行ぶりだ。
 その頃にもなると、俺より営業課の連中の方が心配を始めていた。と言っても空腹の俺の身を案じてくれたなんてことはちっともなく、単に小坂の『秘密の持参品』が無駄にならないか気にかけているらしい。今日は休憩まだなんですか主任、早く食べてあげたらどうですか、などと顔を会わせる度に言われた。いつもなら俺がいつ昼休憩に入ろうが気にも留めないくせに、つくづく女の子にだけは優しい連中だ。
「主任、もう二時過ぎですけど……休憩入らなくて大丈夫ですか?」
 ルーキー春名にまで、ちらちら時計を見ながら言われる始末だった。
「あと少し片づけたら入る」
 そう答えたら、春名は生意気にもからかうような笑みを浮かべる。
「何でしたら、こちらで召し上がったらどうですか。俺も今日の主任のお弁当、拝見したいですし」
「お断りいたします!」
 当然ながらきっぱり拒否してやった。
 ただでさえ表情筋の緩みが気がかりな今日、衆目監視の下で小坂の弁当なんか食べたら、とってもだらしない顔を晒してしまいそうなのでやめておく。当の小坂は外回りでいないが、お節介焼きな誰かが後で『主任はこんな酷い顔で小坂さんのお弁当食べてたよ!』なーんて逐一報告するに決まってるからな。

 午後三時少し前、どうにか休憩に入れた。
 俺は例の大きな紙袋を肩に提げ、人目を避けるように社員食堂へと向かう。賄いのおばちゃんたちも退勤しているこの時間、食堂はいつもがら空きのはずだからだ。
 予想通り、社食には人気がほとんどなかった。端っこのテーブルを確保してまずは一息つき、そわそわと逸る心を落ち着かせる。興奮しすぎて弁当の味もわからないんじゃ元も子もない。
 呼吸を整えつつ、余裕を演出する為にメールチェックなどしてみる。ここまで来て誰が見てるというわけでもないんだが、浮かれまくってる自分が自分で恥ずかしいのもあった。既に気もそぞろで、文面を追う目もものの見事に上滑りしていたが、着信メールの中に一通、引っ掛かるものがあった。
『もうお弁当食べた?』
 安井からだった。
 そのメールは更にこう続いていた。
『まだだったら是非写メ撮って送って。できれば石田のだらしない顔もセットで』
 誰が送るか。
 ってかあの場に居合わせなかったのに何で知ってんだよお前はよ。いや、誰が内通者かは大体察しがつくがな……あの眼鏡め。お前らにだって小坂の弁当は見せてやらん。全部俺のものだ。
 どっと押し寄せてくる疲労感のせいで、皮肉にも浮つく心はいくらか落ち着いた。改めて、紙袋から風呂敷包みを取り出す。やはり大きいし重い。食堂のテーブルに置いてみても弁当にしちゃ重々しい音がした。
 まず、いそいそと包みを解く。
 風呂敷の四方がはらりと卓上に落ちた拍子、中に詰め込まれていた薄くて硬い小さな何かが音を立ててばらばらに崩れた。それは小坂が話していた件の保冷剤で、水滴が浮くを防ぐ為かご丁寧にも一つ一つペーパーナプキンで包んであった。テーブルの上、俺の膝の上、そして食堂の床にまでなだれ落ちた保冷剤を拾い集めると、軽く十五個はあった。
「さすがに入れすぎだろお前……!」
 ここにはいないかわいこちゃんに対してツッコミの言葉も出る。
 あーでも、彼女ならやるな。と言うか今の俺にはそういうことをする小坂の心情が手に取るようにわかってしまう。初めは一個二個、弁当箱の上と下に置いておけばいいかなと思ってはみたものの、八月下旬の気温は侮れないし二つきりじゃ心許ないかも、三つ……いや四つ……と保冷剤の数を増やしていくうち、いっそお弁当全体をたくさんの保冷剤で包んでしまえばいいんだ! とでも思いついたに違いない。用心深さと大胆さを兼ね備えたこのやり方、まさに小坂藍子だ。
 そういうところも可愛い、とか思っちゃう俺も大概だろう。この、おりこうなのかそうでもないのか判別しがたい天然具合、可愛すぎる。もう俺は、彼女が何やっても可愛いって思える域まで到達しちゃってるようだ。
 保冷剤で築いた山の隣に、ようやく姿を見せた弁当箱を置く。
 弁当箱は思っていたよりもシンプルで、パステルブルーのストライプ柄だった。長方形型の二段重ね、これは食べ終わったらコンパクトにしまえる類のやつだろう。サイズ的にもまあ平均的だから、どうやら食べ残す心配はなさそうだ。
 それでは、いよいよ中身の方の公開でございます。
 うわ、どきどきするな。保冷剤でこんなに気合入れてるんだから、もしかすると中身もすごい出来かもしれん。もしキャラ弁とか来たらどうする、きっと可愛すぎて食べられない。あるいは夏バテ防止に小坂流スタミナ弁当とかもありそうだよな。おかずが全部肉メインで構成されてるとか。それならむしろ彼女のいい食いっぷりを見てみたかったもんだが――高鳴る鼓動に震える手で、俺は弁当箱の蓋を開ける。
 途端、一段目に詰められたおかず一同が姿を見せた。
 目にした瞬間、あ、意外に普通だ……とつい思った。
 いや、普通ってことはないよな。小坂が俺の為に作ってくれた弁当だ、普通であるはずがなく全てにおいて特別だ。しかし献立の方は、二十四歳のお嬢さんが作るにしては渋めで、むしろ驚くほど落ち着いていた。そして半年前までレパートリー二つだった彼女が、こんなのまで作れるようになったのか、って率直に思った。
 メインは焼き鮭だった。後で、実際に食べてみてわかったことだが、味噌の香ばしい西京焼きだった。その横につやのあるきんぴらごぼうが添えられていて、更に隣には若干焦げ目はあるが形の整っただし巻き卵が三切れ並んでいる。どうしても生じてしまう隙間にはきゅうりの入ったちくわが収まり、和食が好きな人向けのラインナップとなっている。
 二段目には白いご飯がふんわり詰まっていた。夏場のお約束として梅干しも入っていたが、きれいに種が取り除かれてあった。まさに、本当に至れり尽くせりだ。
 彼女の初めての手作り弁当は、紛れもなく、俺の為に作られた弁当だった。
「……いただきます」
 俺は思わず、弁当箱に向かって手を合わせる。
 ここにはいない彼女にも、深く感謝しておく。何だか、朝方に覚えたのとは別の感動があった。こんなに俺の好みを熟知したような弁当っていうのが、嬉しくもあり、つくづく愛されてるなって思いもする。あんなに食べるの大好きな奴が、料理のレパートリー増やそうって時に、自分の好物じゃなくて俺の好きなものを積極的に学んでってくれてるんだからな。魚料理とか和食とか、自分用だったらまず取り組まない分野だろうに、俺の為にあえて覚えてくれたのか。
 弁当は、味の方も文句なく美味かった。惚れた欲目を抜きにしてもだ。西京焼きはご飯が進むいい味つけだったし、きんぴらも上品な風味だった。だし巻き卵はほんのり甘めで全体のバランスが取れている。
 彼女のことだ、きっと相当練習したんだろう。以前のように霧島の奥さんに助言を求めたのか、あるいはお母さんに習ったのかもしれない。どちらにしてもその努力が嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。弁当を食べながらもついにやにやしたくなるほどだった。社食に来ておいて正解だったな、こんな顔、誰にも見せられるわけがない。
 食べながらふと思う。胃袋を掴まれるって、つまりこういうことなんだろうか。
 その点で行けば今回の弁当はもう胃袋どころか心臓まで鷲掴みだ。製作者には責任取ってもらわないと。

 食後、俺は小坂に手紙を書いた。
 一言、改めて礼を言わなければと思ったのもあるし、いろいろ自分の中で盛り上がってしまって、ラブレターでも書きたくなったのもある。もっとも長々と綴ってる時間もないし、メモ用紙じゃ紙面の余裕だってなかった。
 ――弁当、美味しかった。最高だった。ありがとう。
 そこまで書いた後、『是非とも毎日食べたい』と付け足そうとしたが、前にそう告げたら華麗にスルーされたことを思い出してやっぱりやめた。と言うか彼女の場合、額面通りに受け取って本当に毎日作らなくちゃ! って考えそうだからまずい。
 その手の言葉はもう少しわかりやすく、誤解のないように伝えた方がいい。当たり前だが手紙でもなく、口頭でだ。
 代わりの文章をメモの端に付け足す。
 ――今日は送ってく。なるべく時間合わせよう。
 何せ紙袋いっぱいの保冷剤がある。これだけ持たせて帰りも電車に乗せるのは忍びない。弁当への礼って意味ではささやかすぎるが、残りは追々返していけばいい。
 洗わなくてもいいと言われていたから、手紙は弁当を留めていたゴムバンドに括りつけた。
 それにしても最高の弁当だった。おかげで食後でも、仕事へのモチベーションが完全に保たれている。この後も頑張らないと、彼女を送っていけないからな。
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