Tiny garden

言わない言葉(1)

 いざ結婚するとなると、こなさなくちゃいけないことは山ほどある。
 例えば結婚式一つ取ってもそうで、俺たちはこれから二人でじっくり話し合い、そしてそれ系の業者さんとも打ち合わせを重ねた上で、ある程度きちんとした式典を催さねばならない。この『きちんとした』というところがまた曲者で、結婚式は人生の晴れ舞台であるがゆえに気は抜けないし、かといって一生思い出に残るシーンでもあるだけに下手に弾けると間違いなく後悔する。親族の集まりでも職場の飲み会でもきっと長年語り草になる。妥協も暴走も決して許されない。
 三十一歳ともなれば他人の結婚式に出席する機会も数知れず。様々なカップルの門出を拝見してきたつもりだったが、ふと振り返ってみれば『いい挙式』の記憶はあっても、『やってみたい挙式』の記憶はそうなかった。
 今年の一月に開かれた霧島の結婚式もいい式ではあった。霧島が迂闊にも男前に見えたし、奥様は言うまでもなく可憐で美しかった。ああいうチャペルでの式とか、レストランウェディングなんてのもいいなとは思うんだが、じゃあ自分でもやってみたいかと言えばそこまででもない。そもそも男の俺に、やってみたい憧れのウェディングなんてものがある方がおかしいか。
 ぶっちゃけどんな式に出ても真っ先に思うのは、結婚式って祝福される場というよりは宣誓、周囲に対する報告の場なんだよなってことだった。だからこそ手は抜けないってのも事実だが。
 もっとも、俺と比べて実に理想家な藍子なら、やってみたい結婚式の一つや二つは軽く思いついてくれそうだ。それに俺に要望がない現状では、彼女の要望は恐らく最大限叶えてやれるだろうから、大いに意見交換をしたいと思う。俺は華やかに着飾った藍子のウェディングドレス姿、及び白無垢姿を見られるだけで十分だ。あと、安井辺りから羨望と嫉妬のこもった祝福の言葉をいただけたらもう言うことはないな。
 というわけで、藍子とはぼちぼちそういう話もしていきたいなと思っている頃合だった。

 が、帰省の後の夢見気分を飲み込むが如く、日常は容赦なく戻ってくる。
 お盆休み明けは毎年多忙を極めるが、今年は特に慌しく感じていた。それは休みの間中ずっと藍子と顔を合わせていて、たっぷりしみじみ幸せな時間を過ごしたからでもあるし、純粋に仕事が詰まっていたせいでもあるかもしれない。今年度ルーキーの営業デビューは昨年度よりも早く、九月頭に予定している。必然的に仕事は増えるし帰りだって遅くなる。
 仕事量、勤務時間とは対照的に、彼女と話をする時間は減っていく。
『あっ、隆宏さん。お疲れ様です』
 一緒に帰れなかった日は、電話をかけてでも藍子の声を聞いておくことにしていた。今日も既に日付が変わるほんの数分前で、俺と彼女の退勤時間も一時間ほどしか差はない。さっき帰宅したばかりの俺は、暗かった部屋に入るなり、飯も着替えも済ませないうちから彼女に電話をかけた。
「お疲れ。ちゃんと飯食ったか?」
 上着を脱ぎ、ハンガーに掛けながら尋ねてみる。肩に挟んだ携帯電話からは藍子の可愛い声が聞こえてきた。
『はいっ。しっかり食べないと、明日も頑張れませんから』
「お前らしい物言いだ」
 毎度のことだが感心する。真夏の暑い最中でも、どんなに仕事の忙しい時期でも、ちゃんと食欲は保てるところは彼女の長所だろう。
『隆宏さんはこれからご飯ですか?』
「ああ、どうすっかなと思ってた。もう時間も遅いしな」
『少しでもいいので、夏バテしない程度に召し上がった方がいいと思います』
 彼女の熱心な勧めを聞きつつ、俺はソファーに座り込む。片手でネクタイを解くと、一人きりの部屋には衣擦れの音が妙に響いた。
 これが電話中でもなければテレビのニュースでも点けて誤魔化しているところだった。一人暮らしの夜は時に寂しく、静かすぎる。本当に結婚したらこんな思いもしなくて済むんだろうが、その前にいくつか課題をこなさないとな。
「とりあえず今は飯より、お前の声が聞きたい」
 こうして一人で部屋にいると、藍子の声が恋しくてどうしようもなくなる。ある意味ビタミンミネラルよりも大事な必須栄養素だ。きちんと毎日摂取しないと仕事にも差し障るのでよろしくお願いいたします。
 俺の催促に彼女は、どこか照れたような笑い声を零した。
『じゃあ、もうちょっとお話ししましょうか』
「頼む。お前が眠くなるまででいいから」
『わかりました。まだ全然大丈夫ですよ』
 藍子だって休み明けで毎日忙しそうだし、今日も相当くたびれているはずなのに、そうやって言ってくれるのに愛を感じる。
 いいよなあ。こんな子と結婚したら寂しさなんて味わう暇もなさそうだ。帰ったら部屋に明かりが点いてて、お帰りなさいって笑顔で出迎えてもらえて、飯も作ってあってすぐに温め直してもらえたりするのって最高じゃないか。もしかしたら上着を脱がせたりネクタイを解いたりもしてくれるかもしれない。しかし藍子にそこまでサービスよくしてもらったら、俺は飯も風呂も選ばず即断即決で藍子一択だ。何という夢の新婚生活、ますます幸せ痩せしそうな気もするがそれでもいい。
 そして新婚と言えば、先だっての旅行で出してた宿題もあったな。
「新婚旅行、どこ行きたいか決めたか?」
 俺は笑いながら聞いてみた。
 正直、そんなのは急いで決めるべき問題でもないし、先に結婚式等々について話し合わなきゃいけないはずだった。だが今夜はもう時間がない。そしてお互いくたびれてる時は、楽しい未来の話だけしておきたかった。
『あ、ええと、まだ具体的には……』
 彼女もつられたように笑った後で、考え考え続きを口にした。
『最近暑いから、もしどこか出かけるなら涼しいところがいいなあ、なんて思うんです』
「いいな。北海道とかか」
『はい、涼しそうでいいですよね』
 でもそう言ってから、藍子はさっきと違う控えめな笑い方をする。
『ただあの、よくよく考えたら夏場に行くとは限らないんじゃないか、なんてことも思ったりして……。もし冬の旅行だったら、暖かいところに行きたくなるかもですし、また変わってきますよね』
「確かに時期にもよるな。冬場は南の方がいいってなりそうだ」
『そうですよね』
 いつにするか、というのも二人で決めてしまわなければならない重要なポイントだろう。まして俺たちの場合、式の日取りだけではなく彼女の退社の時期も見ながら考えなくてはならない。社内の事情を踏まえて、決算月の直後くらいが無難なとこだろうか。となると三月、九月か……。今年度の三月までは間もなくてさすがに厳しそうだから、早くても来年の秋ってことになる。
 もしかすれば、来年のお盆休みを新婚旅行に宛がわなくちゃならない可能性もあるな。どっちにしてもまるまる一年先か。遠いな。
「その辺のことも、近いうちに時間作って話そう」
 逸る気持ちを抑え、俺は大人ぶった態度で告げる。
「お前とはそろそろ、そういう話もしてかないとって思ってたとこだ。仕事落ち着いたらじっくり腰据えて話し合おう。お前なりのビジョンとか、あと理想の結婚式とかも聞いてみたいしな」
『は、はい。……何か、緊張しますね』
 藍子は彼女らしく真面目に答えてきた。電話の向こう、一度だけ入れてもらった彼女の部屋で居住まいを正している姿が浮かんでくるような言い方だった。椅子に座ってるのかベッドに座ってるのかはわからないが、背筋をぴしっと伸ばしているのは間違いない。相変わらずギンガムチェックのパジャマを着てるんだろうか。そういえばその姿自体はまだ見たことないな。もう付き合ってんだし、言えば画像とか送ってくれたり……しないか、今となっても。
 いろいろ想像してたら、やばい。顔が見たくなってくる。遠距離恋愛でもないから車を走らせればすぐに会いにいけるが、それこそお互い明日の仕事に差し障る。よって耐えなければならない。
 こんな時、一緒に住んでたら顔なんていくらでも見られるし、パジャマ姿も見放題なのにな。寂しくなる暇もなく、必要とあらばいつでも抱き締められる。そんな素晴らしき日々を早く迎えたいものだ。
『……そうだ。隆宏さん、一ついいですか』
 俺が妄想に勤しんでいると、藍子が更に改まって切り出す。
「どうした?」
『あの……明日のお昼ご飯なんですけど、何かご予定あったりしますか?』
 明日も普通に仕事がある。勤務中の昼飯は忙しい時ほどおざなりになる最もたる代物で、時間に余裕があれば近所の弁当屋なり社食なり行くし、そんな暇すらなければロッカールームに常備しているカップ麺で済ます。繁忙期には飯食いながら仕事、などというお行儀の悪い真似もごくたまにする。そんなものだった。
 しかし俺の昼飯風景なんぞ去年辺り散々見てるだろうし、今更そんなことを尋ねてきたのはなぜだろう。首を捻りながら答えた。
「予定も何も、時間あれば食うかなってもんだ。この時期は買いに行く暇がなくてな」
『そ、それならっ』
 すると藍子は急に勢いづき、
『明日は、私がお弁当を作っていきたいんですが……。どうでしょうか』
 と続けた。
「弁当?」
『はいっ』
「お前が作るって?」
『は、はい。最近またお料理を練習し始めてて、レパートリーも増えたんです。大丈夫です!』
 俺が何も言ってないうちから必死になって安心させようとしてくるのも藍子らしい。別に不安だとは思っちゃいないし、態度にも出してないつもりなんだが。
 むしろ嬉しい。
 いや、嬉しいなんてもんじゃない。愛する彼女の手作り弁当だぞ! これぞまさに男の夢、ロマンの結晶じゃないか。休日にゆったり食べる手料理ももちろんいいものだが、仕事の合間にほっと一息つきつつ弁当を開けて食べるというのもいい。多忙さにささくれ立った心が癒されていくのが今から想像できるようだ。もしかして俺が飯を買いに行く暇もないと知っているから、そんな殊勝なことを言い出してくれたんだろうか。だとするとすごい、この上なく愛を感じちゃうぜ。
「でも、お前も忙しいんじゃないのか? 弁当作る余裕なんてあるのか?」
 喜びは感じていたが、一応そこだけは確認しておく。しつこいようだがこの時期は忙しいのもお互い様、俺の為に藍子に無理させたんじゃ格好つかないからな。
『それも大丈夫です。食材は今日の帰りに用意してましたし、ちょっとだけ早起きすれば十分間に合う感じです。炊飯器はこれからスイッチ入れれば間に合いますし』
 藍子は答えながら少しはにかんだようだった。
『実はその、ちょっと前から考えて、計画立ててたんです。隆宏さんのご都合いい日に一度、作って持っていきたいなって』
「へえ……嬉しいよ。ありがとうな、藍子」
『い、いえ。では明日、持っていってもいいですか』
「ああ。期待してるからな」
 それはもうむちゃくちゃ期待する。明日が楽しみでしょうがなくなる。ああ、今日俺ちゃんと寝れっかな。浮かれ気分で徹夜とかしちゃいそうだ。
『よかったです。ご期待に添えるよう、頑張りますね』
 藍子はどことなく安堵しているようだった。張り切る声がもう可愛くて堪らん。
「ところで、増えたレパートリーってのは何だ? 弁当にはそれが入ると見ていいのか?」
『そうですね、明日のお楽しみってことにしてください』
「内緒にするのか……いいのかお前、いやでも期待値上がっちゃうぞ。うなぎ上りだぞ」
『えっ、そこまで期待されるほどではないかもです……。定番のお弁当メニューにするつもりなんです』
 屈託なく藍子が笑う。
 定番って言うとなんだろうな、ハンバーグとか唐揚げとかか。まさかタコさんウインナーとかは入るまい――でも藍子の作るお弁当ってそんなイメージだな。きっとそこはかとなく可愛い系だろう。当の弁当箱にも、三十路男が持ってたら犯罪的な可愛い絵柄がついてそうな気がする。
 そんな、いかにも彼女に作ってもらいましたと言わんばかりの弁当を同僚の前で開くのは、気恥ずかしいような誇らしいような、きっと不思議な気分だろう。若干優越感の方が強いかもしれん。どちらにしても楽しみだ。
『気温の高い時期ですから、保冷剤も入れて持っていきますね』
「うわ、すごいな。至れり尽くせりじゃないか」
『そ、そうですかね。喜んでもらえたら、私、すごく嬉しいです』
 何言ってんだ。嬉しいのは俺の方。
 にしても俺、こんなに幸せでいいんだろうか。
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