Tiny garden

熱帯夜(2)

 午後五時、俺と藍子は安井が予約した店へと向かった。
 そこは会社の飲み会で使うような『飲み放題で一律いくら』なチェーン居酒屋ではなく、もうワンランク高めの落ち着いた店だった。創作イタリアンダイニング、と店名の傍に添えられている。男三人ではあまり選ばないだろうこぎれいな、デザートが豊富そうな雰囲気。安井が女性陣二名に配慮したことが窺える。
 俺たちが店の前に到着すると、既に待ち構えていた三人に出迎えられた。
「デート中のとこごめんね、呼び出しちゃって」
 安井がやけに優しい口調で藍子に話しかける。
「いえ、皆さんとご一緒できて嬉しいです!」
 藍子がそれに予想通りの返答をする。間違いなく本心からの答えだと思われるので、俺としても嬉しいやら、ほんの少し複雑やらだ。そこを『実はお電話いただいた時ちょっといい雰囲気だったんですよねー』って笑顔で返せるようになったら理想的なんだけどな。
「霧島夫人からは、今日も霧島家でってお誘いいただいてたんだけど」
 俺に向き直った安井が続けた。
「繁忙期に休日まで働かせるわけにもいかないからな。今日は外食にした」
「こんな暑い日に台所なんて立ってられないですから」
 それに霧島ももっともらしく頷く。
「私は気にしないでくださいって言ったんですけど……でも楽をするのも大好きなので、ご好意に甘えることにしました」
 霧島夫人はにこにこしている。確かに今日は七月らしいむっとする暑さで、午後五時現在も風は全くなく、空気が煮固められたような気さえする。こんな日に揚げ物焼き物なんてしたくないしさせたくないのが人情ってもんだ。
 しかしこんな日で暑い日であっても、飲食店で働く皆々様は客のために火と格闘し暑い中頑張っていらっしゃるわけだ。頭が上がりませんな。ここは客としてその尊い頑張りに報いるべく、大いに食べたり飲んだりするべきだろう。
「じゃ、気楽かつ楽しい暑気払いといこう」
 重量のある真夏の熱気を背負って突っ立ってると、店の看板のビールの写真がことさら魅力的に見えてくる。俺は一同を促し、意気揚々と入店した。

 開店直後とあってか居酒屋はまだそれほど混み合っておらず、店内もあまりがやがやしていない。でも美味そうな匂いはとうに充満していたから、こっちもつられて腹が減ってくる。
 通された小上がりでは、席順でお約束みたいに多少揉めた。俺はもちろん藍子の隣がいいと思ったのに、藍子はそう言い出すのが恥ずかしいのか何なのか、『余った席でいいです』と口にした。霧島は当たり前みたいに奥さんと並んで座れると思ってたらしく、安井が『じゃあ俺、霧島夫人と小坂さんの間でいいよ』って冗談半分で言った時にはめちゃくちゃ動揺していた。吹いた。
 結局、今日の集まりの趣旨を踏まえて俺が上座。その両脇に霧島と安井、霧島夫人と藍子という組み合わせで並んで座ることになった。主役扱いとは言え、何かこう微妙な印象があるのは俺だけではあるまい。
 とは言え、一旦腰を下ろしてしまえば席順の問題はどうでもよくなってしまって、ひとまず飲み物の注文を終えた後は五人でメニューにかじりついた。
「わあ、デザートがたくさん……!」
 予想通りメニュー中、デザートのページはかなり充実していた。各種ジェラートから定番のティラミス、パンナコッタ、ケーキ類やタルトも数種類ある。藍子が目をきらきらさせるのを、霧島の奥さんが少し驚いたように見る。
「え、藍子ちゃんはまずデザート派なんですか」
「違います、あの、いつもは締めにデザートなんですけど、たまたま目に付いたので」
 たまたまと言う割にはそのページをつぶさに観察している。そして溜息。
「どれも美味しそう……。ご飯軽めにして、デザートいくつか食べようかな」
「何回締める気だよ」
 思わず突っ込むと、彼女はえへへと照れ笑いを浮かべた。
「だって、目移りしちゃうんですもん」
 ストラップでも目移りして、デザートでも目移りか。本当に困った奴だ。そんなところも可愛いから許すけど。
「隆宏さんもどうですか、ケーキ!」
 そうして俺に水を向けてくる。申し訳ないながらこっちは真っ先にデザートのページを開くほど甘党ではないので、もう少し酒も食べ物も入ってからじゃないとその気になれない。
「ケーキなあ……」
「お誕生日と言えばケーキ、ケーキと言えばお誕生日です」
 藍子は熱心に語りかけてくる。筋金入りの甘党、そして食いしん坊である。
「お誕生日祝いの席なんですって言ったら、ろうそく立ててもらえるかもしれませんよ」
「そういうのはいらん。この歳でろうそくふーとかできるか」
「そうだよ小坂さん、ケーキの上に三十一本も乗せたら、ぼこぼこになっちゃうだろ?」
 口を挟んできた安井は、三十一という数字をやたら強調しやがった。同期のくせに。
 大体この手の店でサービスとして出てくるろうそくは、花火みたいにぱちぱち言う細長いやつと相場が決まっている。頼んだケーキがぼこぼこのもぐら叩き状態で出てくることはありえない。
 だとしても、俺はやんないけどな。この面子でそれやったらまさに一生言われるわ。
「ケーキは後にする。俺も締めはデザート派だ」
 そう答えた俺に対し、藍子は何か思い出したみたいににっこりした。
「ですね! じゃあ私もお料理から見ていきます」
 メニューは主にイタリアンが中心だった。ピザやパスタ、その他割とメジャーどころのオードブルが顔を連ねている。郷に入っては郷に従えってことでもないが、メニューに載ってる写りのいい写真を見てると、やたらトマトが食べたくなってくる。カプレーゼは絶対頼もう。
「アラビアータって辛いんでしたっけ」
 霧島は例によって、パスタのページを見ている。俺含む他の四人から『やっぱり』って視線を向けられてる。
「書いてあんだろそこに、唐辛子入るよって」
「ああ、なら止めときます。カルボナーラか、ジェノベーゼですかね」
 勤務中並にものすっごい真剣な顔でパスタを絞り込んでいる霧島。どんな店に来たって麺類以外を頼むって選択肢はないらしい。いや、わかりやすくていいのか。
「さっきからパスタしか見てないんだよ、こいつ。何年付き合ってても、のっけから主食って神経だけは理解できない」
 安井も呆れているが、霧島の奥さんはむしろ楽しそうに笑っていた。
「この時期は食欲ある方が安心できますから。いつもの映さんでよかったです」
 そんなもんかね。
 その後も五人でああだこうだとくだらないことばかり言いながら注文の品を決め、飲み物とお通しが運ばれてきたところで早速オーダー。それが済んだらようやく、お待ちかねの乾杯と相成る。
「ええと、乾杯の音頭、いる?」
 安井ににやにやしながら聞かれたから、しかめっつらで答えてやった。
「いらねー。そもそも俺の誕生日云々なんて建前だろ、大して祝う気ないくせに」
「そんなことありませんよ」
 霧島はむしろ済ました顔で語を継ぐ。
「三十一歳なんて俺にとっては未知の数字ですから。先輩がどんな心境でいるのかって想像もつきませんし、今日はその切羽詰ったお気持ちでも伺っとこうかと」
「別に切羽詰ってないだろ! つかお前だって来年には三十路だぞ、三十路!」
 心身ともに充実して、幸せな気分で三十一歳になった。去年とは気の持ちようからして違うんだから、年齢をネタにからかわれるいわれはない。そりゃ、思えば歳を取ったもんだ……みたいなしみじみ感はなくもないが、しつこいようだが三十歳も三十一歳も大したことないし、結構しょぼかったりするんだ。
「そうですよ、映さん。私たちも来年には三十です」
 霧島夫人の冷静な言葉に、霧島は一転憂鬱そうな顔をする。
「三十って重い数字ですよね。俺も一気に老け込むんじゃないかと心配で……」
「俺『も』って何だよおい。聞き捨てならねえな」
 お前の身近なところに、三十になって一気に老け込んだ奴でもいるってのか。事と次第によっちゃ出るとこ出るぞ。
「三十なんてどうってことないよ、なってもまだまだガキだって思うだけだ」
 一方、同じく三十歳の安井は冷静なコメントを口にした。
 こういう点で意見が合うとは思わなかったが、事実だ。以後三十歳三十一歳はおっさん呼ばわりなんてせず、若者のカテゴリに含むべきじゃないだろうか。そういう世間の意識革命はもう大歓迎なんですけど。
「年齢を重ねるって、すごく貴いことだと思います」
 至極真面目な面持ちで口を開いたのはもちろん藍子だ。皆に注視されると若干気恥ずかしそうにしながらも、澱みなく続ける。
「年齢って、一年に一つしか取れないものですから、それを三十回、三十一回って重ねてきたことは意味のあることだと思います。人に歴史あり、ってつまりそういうことですよね」
「小坂さんは、早く歳取りたいんだ?」
 安井にそう尋ねられると、彼女ははにかむ。
「はい。私ももう少し大人になりたいです」
 俺も大人になりたい。三十一にもなってこの落ち着きのなさ、余裕のなさは一体どうしたことだ。つまらないやきもちも些細な事柄についての動揺も全部どーんと受け止められるようになりたい。二十代の頃は三十路の男ってそういうもんだと思ってたのに、結局は二十代と変わりない精神状態を保ち続けている。
 ……いや、そうでもないか。二十代の頃よりも今の方が幸せだ。それだけは断言できる。
「そんなに急いで取りたがるものでもないと思うけどな」
 軽く笑った安井が俺をちらっと見やり、
「小坂さんが今以上に大人になったら、石田が困るよ。七歳差のアドバンテージがなくなるってね」
 アドバンテージなんてそんなもの、端からありません。むしろ七歳の差がついてようやく太刀打ちできるレベル。最近じゃ本当、優位に立ってる気はしないし、ガキっぽいとこばかり晒してるような気がするし、彼女は相変わらず無意識にこっちを振り回してくるし……この頃の彼女との甘美ながらも時々こっぱずかしいメモリーを振り返るうち、どうにもこうにもへこんできた。まさに、もうちょい大人になりたい。藍子はゆっくり歳取ってくればいい。
 話題を逸らす意味でも俺は言った。
「飲み物温くなる前に乾杯するぞ」
 音頭も何もないまま緩い流れで乾杯すると、何はともあれ満ち足りた気分になってくる。乾杯の後で藍子が、お誕生日おめでとうございますって改めて言ってくれたから、余計にいい気持ちになれた。
 ちなみに他の三人も一応お祝いは述べてくれたが、霧島の奥さんはともかく残り二名がいかにも揶揄するような口ぶりだったので、あからさまに舌打ちを返してやった。お前らはもう一気に歳取って老け込んじゃえばいい。

 程なくして、注文した料理が運ばれてきた。
 味の方もなかなか、満足できる品々だった。イタリアンの空気につられて頼んだカプレーゼは期待通りに美味くて酒にも合ったし、魚介類のつまみをと選んだサーモンのカルパッチョもくどくなく、あっさりしていて当たりだった。魚がないと盛り上がれない俺としては実にありがたい。
 皆で食べるようにと注文したピザもいい出来だった。定番中の定番、ピッツァマルガリータは薄い生地がさくさくしていて絶妙なクリスピー感。酒の肴にはぴったりで、五人であっという間に平らげてしまった。
「美味しいです」
 でれでれと幸せそうな顔をする藍子が可愛い。あの柔らかいことでは彼女の中でも随一なぷくぷくほっぺたが、そのうちぽろんと落っこちてしまうんじゃないかと気になってしょうがなくなる表情。食べさせ甲斐がありすぎて困る。
「たまにはイタリアンもいいですね」
 カルボナーラを一人淡々と食べ続ける霧島も、いつもの居酒屋とは趣の違う麺類に満足のようだ。俺も正直、店に入る前は『女の子がいるからイタリアンとか、格好つけやがって安井の奴』と自分のことを棚に上げて思ったりもしたんだが、今では安井さまさま。いい店を選んでくれたと賞賛を送りたい気分だ。めんどいからいちいち言わないけど。
「そうだ。そういえば、写真見ましたよ」
 いくらか酒も入った頃、ふと思い出したように霧島夫人が、俺に向かって話しかけてきた。
「写真?」
「ほら、例の社内報の」
 安井が説明を添えた途端、霧島がわかりやすく思い出し笑いを始める。さすがに七月ともなれば社内を賑わせた『入社当初の俺と安井』も下火になりかけていたから、久々に話を振られた俺は苦笑せざるを得ない。
「ああ、あれな。安井が勝手にやりやがった」
「いい写真でしたよ、うちの課でも話題だったんです。石田さんはちっとも変わってなくて」
 霧島夫人の言う話題というのがどういう意味合いでのものなのかはあまり考えたくないので置いとくとして。変わってない、ってのは霧島にも言われてたっけな。そっちはいい意味だといいんだけどな。
「『石田さんはいつまでも若くて格好いい』って思ったろ?」
 そう切り返してみたら、霧島の奥さんは一度あははと笑ってから爽やかに答えた。
「思いました。それに、昔から安井さんと仲良かったんだなって」
「髪型は昔風でしたけどね」
「おい霧島、そこには触れんなって言っただろ」
「でもヘアスタイルって流行もありますから。私だって昔とは違いますよ」
 霧島の奥さんは優しくフォローしてくれたが、あの写真の俺の髪型が昔懐かしい感じだってこと自体は否定しなかった。いや、事実だからしょうがないか。
「あ、その写真ならありますよ」
 そこで藍子が声を上げて、
「あるの?」
「はい。見ますか、ゆきのさん」
「うん、見たいです」
 そう言われるとおしぼりで手を拭いてから。ちっちゃなバッグをごそごそ漁り始める。そして出してきた手帳から例の写真を抜き取り、霧島夫人へと差し出した。奥さんの方も手を拭いてからそれを受け取った。
「持ち歩いてんのか」
 尋ねた俺に、藍子は深く頷く。
「もちろん、大切にしてます」
「藍子ちゃんすごーい。愛されてますね、石田さん」
 霧島夫人に冷やかされると、俺以上に藍子の方が照れていた。
「だって、せっかくいただいた写真ですから……あの、あんまり突っ込まないでください」
「え、じゃあ石田さんから貰ったんだ?」
「いいえ、安井課長からです。ご親切にも焼き増ししてくださって」
 藍子の言葉に、安井は楽しそうににやつく。
「ああいう写真は本人たちが持っててもまず見ないから。だったらちゃんとじっくり眺めててくれそうな子にあげた方が浮かばれるかと思ってな」
 例の写真は俺も、当時撮影してくれた先輩から貰ってるはずだ。だから恐らく俺の部屋を探せばどっかには眠ってるんだろうが、未だに探す気になってない辺り、安井の言葉は真実である。若気の至りの極みみたいな当時の髪型とギャルポーズを自分で見返したいとはまだ思えない。ネタにはできても直視は無理ですマジで。
 いつか、あんな写真でも、愛着と懐かしさだけの気持ちで眺められる日が来るんだろうか。
 ――うん、ないな。もし仮に俺に子供ができて、『お父さんの若い頃の写真が見たい!』って言われても、もうちょいましなの探して見せるわ。そのくらいない。
 もっとも、藍子はそういう時でも実に容赦なく、本人はにこにこ嬉しそうにしながらあの写真引っ張り出してきたりするんだろうな。それが何年後であろうとも、今みたいに手帳に挟んで肌身離さず持ち歩いてたりして。
「大切にしてくれてよかったよ」
 笑いながら安井はいい、その後でわざとらしく首を竦める。
「まさかいつも持ち歩いてるとは思わなかったけど。そういうところは相変わらずなんだな」
 でも俺は藍子の、そういう相変わらずなところに救われてるんだよなって気がしなくもない。少なくとも愛されてるのは確かだ。それがわかりやすく表れてくるのが、余裕のない三十一歳としては嬉しいしありがたい。
「あの、本当に、その辺りは深く突っ込まないでいただけると……」
 当人は俯き加減でもごもご言ってる。耳まで真っ赤になりながら。
 でも返ってきた写真を受け取った後は、ものすごく大事なものみたいに丁寧に丁寧に手帳にしまい込んでいたから、それを見た他の三人には愉快そうに笑われていた。
 俺は連中みたいに、声上げて笑う気にはならなかったが――口元がだらしなく緩んでくるのを堪えるのは大変でした。愛されてるな、俺。
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