Tiny garden

余りにも脆すぎる(3)

 残業を終えた俺と彼女の上がりはちょうど同じくらいになって、せっかくなので送って帰ることにした。
 そして結局、俺と霧島がどうして微妙な空気になったかも、大方のところを打ち明ける羽目になりました。だっていつものきらっきらした純粋な目で、だけどものすごく心配そうに『あの……何かあったなら私、相談に乗りますから!』って言われたら、そりゃ黙ってるわけにはいかないだろ。彼女は彼女でそれはもうあの慎ましい胸を痛めていたらしく、俺の車に乗り込む前も、乗り込んでからもちらちらとしきりにこっちを窺ってくるわ、もじもじとちっちゃな両手を動かし続けているわと、要は聞きたいことがあるのに聞けないというのが態度から丸わかり状態。こっちとしてもそこまで気を揉ませるのは申し訳ない。だから相談に乗ってもらうほどもない超くだらない話だったんですよって、白状するしかなくなる。

「髪を、触られるのが嫌で」
 それでもどうしても言いづらくて、わざと簡潔に告げた。
 会社の駐車場に停めた車の中、エンジンをかける前から律儀にシートベルトを締めてる彼女が、不思議そうに目を瞬かせる。説明不足なのはもちろん自覚していたから、しょうがなく更に続けておく。
「お前の」
 俺の言葉に彼女はもう一度瞬きをして、少しの間思い出すみたいにフロントガラスの方を見つめていた。その後でまたこっちを向く。
「えっと……それはつまり」
 つまりって何だよ結論まで言わせんなよ。
 理解しろ、と強い視線を送ってやると、そこでようやく彼女は掴んだような顔つきになる。
「私の髪についてたゴミを、霧島さんが取ろうとしてたのが嫌だったってことなんですか?」
「だからそう言ってるだろ」
「どうしてですか」
「どうしてってお前……」
 それ聞くか。聞いちゃいますか。相手が藍子じゃなかったらてめーわざとだろって突っ込むところだが、藍子なら本気でわからない可能性もあるから困る。
 今も、場違いなくらい真面目に俺を見つめている。
 シートベルトをまだしてない俺は、逃げるように身を引いた後でぼそりと返した。
「むしろ、お前は嫌じゃないのか。他の男に髪触られるの」
 聞いておいてあれだが、藍子なら『別に嫌じゃないです』と答えそうな気もする。
 でもそれ言われたら俺としては寂しいって言うか、ちょっと切ないって言うか。俺は藍子が可愛くて大好きで大事にしてて、でも仕事中はそういうの出しちゃいかんと思って一応はおとなしくしてるし、俺のものだって主張もしないようにはしてる。まあ今日の一件を省みる限りどうやら口にはしなくてもだだ漏れってやつらしいから、今後は顔にも出さないようにしなければとも思う。が、とりあえずはすっごく我慢してるつもりだったし、抑えてるつもりだったし、そしてそうしなきゃと思うくらい真剣なわけだ。
 なのに彼女はあんまりにも無防備に人懐っこくて、他の男とCDの貸し借りだってするし、他の男に自分の髪を触らせたりもする。そういうのを駄目だとは言えない、大人げないしプライドが許さないし何より束縛に過ぎる。だけど、言いたくないけど、気づかれたくもなかったけど、ほんのちょっとはわかってて欲しいもんだとも今は思う。
 お前の彼氏は相当嫉妬深いんだってこと、肝に銘じておいて欲しい。
 いちいち言わないつもりだけど。なるべくはな。今日はちょっと、どうしようもなくてもう言っちゃいそうな流れだけど。今後は黙ってるようにしたいのでそっちも多少気を遣ってくれたら。
「知らない人にだったら、それは驚くかもしれませんけど」
 と、藍子は俺の予想からわずかに外れた答えを口にした。その後で軽く笑う。
「でも、霧島さんだったら知らない人ってわけでもないですから、気になるほどでもないですよ」
 そりゃそうだろうけどな。藍子じゃなくても、霧島ごときにいちいち警戒心を持つ女の子はいないだろうと俺も思う。あいつのある意味模範的な性格は俺もよくわかってるし、今日のあれも、ああまでして止めなきゃいけないものでは決してなかった。
 だけど、嫌なもんは嫌なんだよなあ。
「俺が駄目だって言ったら?」
 大人げないことこの上ない俺が畳みかけると、彼女は一度目を瞠ってから真面目な顔に戻る。
「以後、気をつけます。……そうですよね、今思えば誤解を招く行動だったかもしれません」
 藍子は素直に姿勢を正した。何かと鈍いし疎いしで時々歯がゆいくらいの彼女だが、でもこういう時に素直なのはいいところでもあるし、他のどんな特徴よりはるかに厄介でもある。仮に俺が今以上に嫉妬剥き出しにして彼女をがちがちに束縛してしまったとしても、彼女は『こういうものなのかな?』なんて実に素直にそれを受け入れてそうで恐ろしい。だから俺は彼女の理想からはみ出した真似はなるべくしたくないし、彼女の為にちょっとは自分を律そうって気にもなる。行動は伴ってませんがね。
「あんまり妬かせんなよ、本当」
 おまけに、彼女に対してこんな言葉まで言ってしまう。
「もう俺、駄目なんだよ。お前のことってなると普通じゃいられなくなってる。別に何から何まで気を遣えなんて言わないけど、お前がこんなに骨抜きにしたんだってこと、ちょっとは自覚しろ」
 何がここまで俺を嫉妬深くさせてるのかって言ったら結局は藍子が可愛いからだし、大好きだし愛してるし人生懸けようって気になってるからだし、ものすごく大事で手放したくないからだ。考えてみるがいい、彼女とはまだ半年ちょい過ぎのお付き合いだが、それ以前から知ってる存在ではあるし、休日以外にも毎日毎日顔を合わせる相手でもある。そんなに高い密度で会ってる相手にもかかわらず知れば知るほど骨抜かれてるって言うか、愛想が尽きることもなく欠点すら愛しくなってくるほどにめろめろだって言うんだからこれはもう、しょうがない。そういう相手とめぐりあっちゃったのがつまるところの問題なんだろうし、そういう相手が七歳も年下だったってことも大きいのだと思ってる。年下相手に優位を保ってられるかったらそうでもなくて、その差がむしろ気になるだけだった。大人らしくいなきゃいけないとか、彼女にとって理想的な自分でありたいとか、できもしないことを考え続けていた。
 これではっきりしただろう。俺は七歳年上でも優位になんて立ってないし、大人のプライドなんぞ一向に保ってられないし、それどころか大人げなくやきもちだって焼く。
 それも全て、藍子が可愛いからだ。
「え……?」
 その可愛い藍子ちゃんはびっくりしたように息をつき、おもむろに尋ねてきた。
「やきもち、なんですか?」
「は!?」
 何だその、今回の案件を根本から揺るがすような頼りない問いかけは。俺の苦悩の末の告白をそんなすっとぼけた質問で返すとはいい度胸だ。
 むかついたので思いっきり頬っぺたぐりぐりしてやった。
「お前何だと思ってたの今の今まで! つか髪触られたくないってそういう理由しかねーだろ!」
「わ、わあ、すみません! 何かてっきり、霧島さんが既婚者だから倫理的によくないってことなのかなあって。ゆきのさんに悪いって思うべきだったのかなあ、とか、全然違いましたねすみません!」
 そういう考え方はできるのに俺のやきもちには頭が回らねーってか。本当にこいつと言い霧島と言い、倫理観を持ってる奴ほどすっとこどっこいなのか。単にこの二人が天然かつ鈍感なだけか。あーもう俺の盛大なる心情吐露をどうしてくれる。
 俺はどっと疲れて運転席のシートに凭れかかった。助手席の彼女がシートベルトの許す限りこっちに身を寄せ、縋るようにして訴えてくる。
「あの私、今後本当に気をつけますから!」
「次やったらマジで監禁すんぞお前……。束縛とかいう段階もすっ飛ばしてな!」
「ええ!? 早まらないでください、隆宏さんにやきもちなんて焼いていただく必要もないんです!」
 ちゃんとわかってるのかいないのか、藍子はかぶりを振りながら続けた。
「だ、だって骨抜きにされてるのは私の方ですし、やきもちとかそういうの、もったいないって言うか、ご心配をおかけするような要素も皆無です!」
「嘘つけ。骨ありまくりじゃんいつだって」
「ないですよ! 軟体動物もかくやというほどです!」
 知るか。お前がそこまで骨抜かれてるって言うなら、何でいつもこっちが振り回されちゃってんだよ。俺は『骨抜き』ってのがどういう状態かちゃーんとわかってっからな、お前の言葉が事実かどうかだってお見通しだ。
「髪とかも、他の人に触られるのはどうってことないですけど」
 そこで彼女はちらっと俺の顔色を窺い、慌てて付け足す。
「どうってことなくてももう触られないようにしますけど……でも、とにかくです。隆宏さんに触られるのとは全然違いますから、やきもちとか、焼く必要はないと思います。是非是非安心してください!」
 必要かどうかで判断してやってることじゃないんだよなあ、とか、違うって言い切るってことは俺の知らないところで誰かに触られたりしたのか、とか、ツッコミどころはいっぱいあった。あったけど、一番気になったことしか頭に残らなかった。
「どんな風に違うって?」
 突っ込んで聞けば、彼女は案の定もじもじしながら答える。
「あの……いい、気持ちがします。あ、変な意味じゃないです! 何て言うか、髪にも感覚ってあるのかなって思うような……自分で触ったってそうは思わないのに、隆宏さんだけ、です」
 最後の方はつっかえたような口調で、言いにくそうにしていた。
 それで俺も暗い車内で視線を転じ、彼女の一つに束ねた髪の、しゅるんとしたきれいな流れを舐めるように眺めた。うなじが白い。七月の暑さ対策か、白いブラウスの下に鉄壁キャミソールのラインが浮き上がっていて、そこは相変わらずいただけないと思う。でもそうやって守り隠されてるものとは違う、きれいな髪にすら感覚があると言うなら、彼女はやっぱり酷く無防備だ。俺の前でだけは、だといいんだけど。
 手を伸ばしてその束ねた髪を掴んでみる。包むように軽く撫でたら、くすぐったそうにされた。
「本当に俺だけ、なんだよな?」
「本当です」
 彼女は頷く。その拍子に俺の手からするりと逃げ出した髪を、もう一度捕まえておく。尻尾みたいに柔らかくて触り心地のいい髪。
「私もずっと知らなかったんです。髪触ってもらうのは、こんな感じがするんだってこと」
 藍子は、発言だって随分と無防備だった。
 ようやく嫉妬以外の感情が刺激され始めた俺は、ここぞとばかりに彼女の、耳の後ろ辺りの髪の流れを指の腹で撫でながら切り出す。
「連れ帰っていいか」
 途端、びくっとした藍子が恐る恐るこっちを見た。
 ためらうような間。次いでぎこちなく唇が動く。
「あの、私」
「……今、俺と手巻き寿司を天秤にかけただろ」
「ちちち違いますよ全然っ! そんなんじゃないです、隆宏さんの方が大事です本当に!」
 当ったり前だろとは思いつつも、彼女のその動揺っぷりが逆に怪しくて俺はむっつり口を結んだ。そうだよな、小坂家の今夜のメニューは手巻き寿司なんだよ。元はと言えばそれが食べたくて残業頑張ってたんだもんな。そりゃ即答できないわな。
「もしよかったら、隆宏さんも食べていきませんか……?」
 更に遠慮がちにそう問われた。呆気に取られる俺。
「何だって?」
「今日はまだ、もうちょっと、隆宏さんと一緒にいたいんです。なので、ご迷惑じゃなければ、うちに寄ってっていただいて、軽く夜食気分で召し上がっていただけたらなあって」
 もうちょっと一緒にいたいと思っているのは俺も同じだ。しかし、だからって家に招かれるっていうのは。いや行ったことあるけどさ、一度。二度目の訪問がこんな遅くに、しかも突発的にってのはまずくないか。
「美味しいですよ、うちの手巻き寿司」
「そういう問題じゃないだろ。いきなりお邪魔したら悪いし、しかもこんな時間に」
「うちなら平気です。たまに連れておいでって言われてるんです」
 可愛さだけで俺の大人げないハートをぶん回す藍子が、とびきりの笑顔を見せた。
「それに酢飯や具の用意はもうできてますし、後片づけは私がやりますから、負担なんて全然ないんですよ。ふらっとお立ち寄りください」
 その誘いには確かにふらっとしましたが、いや、でも、いいのか。
「そもそも手巻き寿司って、お前の分しか用意してないんじゃないのか」
「母はいつもたくさん取っておいてくれてるんで、その点も大丈夫です。遅いので私も控えめにするつもりでいますし――あ、何ですか、その疑わしげな目。本当ですもん!」
 健啖家の彼女が拗ね始めたので、俺は折れた。折れたと言うかその可愛さに負けた。

 結果、小坂家にお邪魔してご馳走になった。突然の訪問にもかかわらずご両親は温かく迎え入れてくださり、また彼女と二人で食べる手巻き寿司ってのもなかなかに楽しくそして前評判通りの美味しさだった。帰り際には彼女のお薦めCDをまた何枚か借り受けて、俺はさっきまでの超くだらない話も忘れて実に楽しい一時を過ごした。が、心に若干のわだかまりは残っていた。
 そりゃあさ。いかに他の男が彼女を楽しい話で笑わせようと、彼女に不用意に手を触れようとも、彼女の心は俺にしかないってこと、何より確かにわかってる。こんな風に家族公認のお付き合いをしてるのも、夜遅くにいきなり家へ招いてもらえるのも、この世の男どもの中でもただ一人、俺だけだ。だから不安がる必要はないんだろうし、彼女の髪に触れた時、彼女が内心どう感じてるのかを想像しながらにやにやしてればいいだけの話だ。嫉妬なんて要らない。
 だけど俺は嫉妬深い。要る要らないに関係なく、いろんな相手に、いろんな物事に妬いてしまう。いくら彼女に想われてたって愛されてたって、あるいはいくつ歳を取ったって、いつまでも大人げなくやきもちを全方位にぶちまけているような気がする。
 とりあえず今は手巻き寿司が、美味かったけど少し憎い。
 この恋にはライバルが多すぎる。

 あくる日、俺は春名を伴っての得意先回りのついでにアイスを仕入れて、それを営業課一同に差し入れと銘打って進呈した。
 日頃の嫉妬深さ及び大人げなさへのお詫びを込めて。
「本当に空気を悪くしてんなら、申し訳ないと思ってな」
 俺はその気持ちを霧島にだけは打ち明け、奴には何とも言えない顔をされた。
「あの……先輩。先日のことは本当に」
「言うなって。俺も絶賛反省中なんだから」
 彼女の方も俺を心底愛してくれてるのはわかった。それでも俺が、全く無意味な嫉妬心を捨てきれないのもわかった。
 だからせめてアフターフォローに努めよう。この無様な恋愛沙汰を職場の人間に晒すに当たって、皆に余計な心配までかけたくないし、必要以上に気を遣わせたくない。多少は気遣ってくれてもいい、俺と彼女がそういう関係だってことを踏まえた上で彼女と接してくれるのはとてもありがたい。でも職場の空気は悪くしたくないから、その辺はどうにかバランスよくやりたい。
 ちらっと彼女を盗み見る。今日はポニーテールの小坂は、自分の席でポンコツのパソコンと向き合いながらカップのクッキーバニラを食べてる。アイスの差し入れを一番喜んでくれたのは彼女で、だからか営業課の連中は、俺が彼女の為にアイスを買ってきたのだと思ってるらしい。ある意味、間違ってない。
「お前も食え、遠慮せず」
 俺は霧島にもアイスを勧め、奴はじゃあ、と言ってソーダの棒つきを選んだ。それを一口かじってから、何やら物憂げに溜息をついてみせる。
「先輩の気持ちがわかるようになったらおしまいだと、以前は思ってたんです」
「どういう意味だよ」
「……意外と普通なんだな、ってことです」
 真顔で答える霧島。こいつは俺を、気持ちを理解できないレベルのド変態だとでも思っていたんだろうか。いや妄想力逞しいのは否定しませんけども、そこまで異常じゃねーよ。普通だから悩むんだし、理屈じゃないから困るんだ。
 と、そこへ。
「失礼します」
 軽いノックの音の後、営業課には来訪者が現れた。――弁当を手にした、霧島の奥さんだ。
「ゆきのさん!」
 霧島が名前を呼ぶと課内には何とも言えない空気が広がり、戸口に立った奥さんはそれをくすぐったそうに受けながら、数年前から何一つ変わらないいい笑顔で手招きをする。
「映さん、今いいですか。お弁当を持ってきました」
「ああ、ありがとうございます」
 夫婦だというのに相変わらず人前ではこんな調子の霧島夫妻。いや、二人っきりの時がどうなのかまでは関知しませんが。
 さておき霧島は奥さんの元へ駆け寄ろうとして、手にしたソーダアイスの無粋さ場違いさに気づいたらしい。ふと困ったような顔をしたから、すかさず俺が助け舟を出す。
「ほら寄越せ、持っててやるから」
「すみません先輩、お願いします」
 霧島は俺にアイスの棒を引き渡すと、
「食べないでくださいね」
 と生意気な言葉を残して奥さんの傍へと向かった。
 誰が食うか。お前と間接キスなんて死んでもごめんだ。――胸裏で毒づく俺をよそに、霧島夫妻は例によってほのぼのとお弁当の受け渡しを行う。今日は気温が高いから、保冷剤は一応入ってますが涼しいところに置いてください、と説明する奥さんを、霧島は呆れるくらい温かく優しい目で見つめている。所詮はあいつも普通の男だ、態度がころっと変わりやがる。
 ってことはあいつも、理屈じゃないような気持ちに捕まって、えらい目に遭わされた機会があるんだろうか。あんまり想像つかないけどな、あのド天然が自分の感情に振り回されることがあるなんて。
 俺が食べかけのソーダアイス片手にぼんやりしているうちに、愛妻弁当は特に問題なく受理されたようだ。霧島がそれを受け取り、奥さんに向かって軽く手を上げる。
「じゃあ、お仕事頑張ってくださいね」
 そう言い残して奥さんが営業課を出て行こうとした時、その足がはたと止まって、
「あっ。藍子ちゃん、美味しそうなの食べてる!」
 彼女の視線もまた、入り口近くの席にいる小坂へと止まった。
 へらをくわえた小坂が振り向く。クッキーバニラのカップを手にしている。
「これ、石田主任が差し入れてくださったんです。美味しいですよ」
「へえ、いいなあ。優しい主任さんがいて」
 霧島の奥さんがこっちを見やる。俺が小坂の為にアイスを買ってきたと思ってる営業課一同も、意味ありげに俺を見てにやつく。俺はノーコメント。
「ゆきのさんもよかったら一口どうですか?」
 と、小坂が言う。またお前はそうやって気安く人に物を勧める。
 しかし霧島の奥さんは全く遠慮するそぶりは見せず、それどころか、
「いいの? 何か催促しちゃったみたい」
「全然いいです! じゃあ、あーんしてください」
 小坂に促されるまま、ものすごく自然な流れであーんと口をあけてクッキーバニラアイスを一すくい貰い、それはもうとろけるような幸せそうな顔をした。
「美味しい! 藍子ちゃんありがとう、ごちそうさまです!」
 それから霧島の奥さんは笑顔で小坂に向かって手を振り、小坂も振り返して、微笑ましくそして和やかに別れた。

 和やかじゃないのは多分、俺と霧島の胸中だけだ。
「……いいなあ」
 愛妻弁当を抱えて戻ってきた霧島は、しかし非常に複雑そうな面持ちでいた。正直な呟きが俺には聞こえ、思わず同意してしまう。
「ためらいもなくいちゃいちゃしてたな、あの二人」
「してましたね……仲いいんですよ、ゆきのさんと小坂さん」
 見てりゃわかる。いつぞやも料理の作り方をあの人から教わったらしいし、仲はいいんだろうと思っていたが、まさかここまでとは。
「あいつ、俺にはあんなことしてくれないのに」
「女の子同士の特権ってやつなんですかね。羨ましい」
「お前はまだいいだろ新婚さんなんだから。帰ったらやってもらえよ、あーんって」
「先輩じゃあるまいし、どうやって切り出せって言うんですか。今日のが羨ましかったからとでも言えと?」
 霧島は俺を睨んだ後で、また溜息をつく。
「やきもちとかでは、断じてないんですけど」
 いやいや何を仰る、そのまんま嫉妬じゃありませんか。
 さすがに異性に対して妬くのは大人げないだろうけど、目の前であんなことやられちゃしょうがない。羨ましくもなる。
 俺だってなった。――藍子ちゃん、それはまず先に初めての彼氏に対してやっとくべきことじゃないか。女同士だから気軽にできるってのもわからなくはないが、それにしたってよくも無防備に間接キスとかしちゃうよなあ。
 何にも気づかずクッキーバニラを再び食べ始める小坂を見て、大人げない俺の溜息も続く。
 この恋にはライバルが多すぎる。あの人がここまで距離を縮めてるなんて、よもや思いもしなかった。
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