Tiny garden

余りにも脆すぎる(2)

 家に帰ってから聴いてみた、問題の三曲目は、片想いの歌だった。
 そういう歌ばかり作ってるバンドなのか、そういう趣旨のアルバムだったのか、片想いの恋を歌った曲ばかり入っていた。その中でも三曲目はやや前向きな曲調で、手が届かないわけではない相手に食らいついていくようなパワーみなぎる恋を、ややハスキーな声の女性ボーカルが歌っている。この歳になってから聴くとちょっと気恥ずかしいくらいの若さ溢れるナンバーだ。
 意中の子から借りたCDは、それでなくても妄想を駆り立てる。俺は藍子のお薦めというそのCDの、その中でも特にいいと言っていた三曲目を繰り返し繰り返し聴きながら、歌詞の一個一個を意味深長に拾い上げては想像の世界を広げていった。聴き入るほどにその曲の、例えばやけに感傷的で詩的でロマンチックなフレーズも、逆にびっくりするほど生々しくストレートな一節も、全部彼女自身の言葉、想いなんじゃないかという気がしてくるから不思議だ。藍子の声はここまでハスキーではないけど、この曲を歌ってるところを見てみたい、聴いてみたい。目の前で歌われたら即効で落ちる自信がある。いや、落ちるというならもうとっくの昔に落ちてるけど、未だに底打ちしないらしいですよ、困ったもんだ。

「――つまりな。向こうもこの曲を聴きながら考えてるのは俺のことなのかな、なーんてところがぐっと来るポイントなんだよ」
 件のCDを聴き込んだ翌日、俺は霧島にしみじみと語り、
「先輩はいっそ妄想だけでも生きてけそうですよね」
 霧島は奥さんの手作り弁当を食べている最中にもかかわらず、苦々しい面持ちで俺を見る。
 定時過ぎの社員食堂は当たり前だが他の利用者も賄いのおばちゃんもおらず、俺と霧島の二人だけだ。一ブロック分だけを照らす明かりの下、この後に待ち受ける残業に備えて弁当を持ち込み、もそもそと食事をしている最中だった。もっと忙しくなると社食まで行く時間も惜しくて、営業課の自分の机で仕事しながら飯を掻っ込んだりもするが、机が汚れるというデメリットもあるしあまりやりたくない。飯くらい仕事から離れて気楽に食いたいし。
 だからなのかどうか、食事中の話題も仕事とは全く関係のないものばかりだ。
「でもするだろ? 気になる子からCD借りたら歌詞で妄想したりするもんだろ?」
「いや、それはどうかと……」
「何でだよ」
「だって小坂さんは、そんな深い意味込めて先輩に貸したんじゃないでしょう」
 霧島が夢も希望もないことを言う。確かに俺に貸す前には春名に貸してたわけだし、そこに深い意味があるはずもない。ないけど、彼女の好きな曲イコール彼女の今の心境、みたいに捉えたりするのは自由だろ。違うか。
「普通に考えて、付き合ってる相手がいる時に聴くラブソングとか、深い意味ありまくりとしか考えられないって。聴けばわかるけどこれがもう可愛くてしょうがねーの、追い着きたい! 振り向かせたい! って感じの曲でさあ。これってもう軽く愛の告白じゃねえのとか思っちゃうじゃん。CDまで俺のこと考えながら選んでんのかとか、考えて当然だろ。あの歌みたいな台詞言われたら俺なんて首が外れるほど振りむくね! むしろ振り向いた勢いであいつのところにすっ飛んでっちゃうね!」
 俺は弁当屋の焼き魚弁当をつつきつつ、思い出してまたにやつく。もっと普通に考えれば、付き合ってる相手がいるのになぜ『片想いの』曲なのかとは当然のツッコミとして思う。でもそれが切ない系の歌じゃなくて前向きな歌だったから、こっちだってポジティブに変換できてしまった。彼女のことだ、俺と円満に付き合ってたって事あるごとに自分にはあれが足りない、こうしなきゃいけないってきっちきちに考えてて、そのベクトルは片想いと何ら違わないってところなんだろう。俺は今の彼女に傍にいてもらえればとりあえずそれでいいって思ってるが、でも彼女のそういうひたむきな姿勢には何だかんだで心惹かれ続けているし、そこまで想われてるのも実に幸せなものだ。
「その感想、小坂さんには言わない方いいですよ。変態じみてるから」
「もう言った。つか昨日の夜にメールした、お前可愛いなーって」
「……引かれませんでした?」
「引くどころか普通に喜んでたよ、『気に入ってもらえてよかったです』だと」
 もっとも俺が誉めたのはその曲ではなく、あくまでその曲を聴き込んでる彼女のセンスと女心と根っからの可愛さだったのだが、それが当人にどこまで伝わったか、メールの文面からは不明だ。彼女とのメールのやり取りは未だに時々噛み合わない。会って話せばそれほどでもないんだけどな。
 いいんだ、その後のメールでは『じゃあ次に会う時、他のも持って行きますね!』って言質も取ったから。次の週末も開けとかなければ、その為にも今日は頑張る。
「先輩が幸せ一杯なのはよーくわかりました」
 霧島は匙を投げた口調で言い、ペットボトルのお茶を一口飲む。
 その後でこう続けた。
「そこまで妄想に浸れるおめでたい性格してるんですから、やっぱり不毛だと思うんですけどね。やきもちとか」
 昨日の話を蒸し返されて、俺はちょっとむっとする。
「不毛とかそういう問題でもないだろ、どうしようもないもんなんだから」
「あんまり顔に出してると、春名くんとか萎縮しちゃいますよ。皆だってもう先輩のぞっこんぶりはうんざりするほど知ってるんですから、今更横恋慕とかないですって。大体、小坂さんが余所見をするような子に見えますか、先輩」
 だからそういうことじゃないんだって。わかってないな、霧島。
 嫉妬ってのはものすごく熱しやすい。ゆっくり育んでいくような気持ちとはまるで違うところにあって、瞬間的に血が上ってかっとなっては思考をそれだけに染め上げるような、性質の悪い感情だ。そして案外とあっさり冷めて、喉元過ぎた後はうっかり忘れてしまうようなものでもある。
「あいつが浮気するなんてこれっぽっちも思っちゃいないよ」
 二人だけの社員食堂はどんなに騒いでも賑やかになることもなく、そのがらんとした空気に、俺はやっぱり彼女のことを思い出す。付き合う前にここで、二人でコーヒー飲みながらだらだらと話をしたっけ。
 もうじき俺の誕生日が来る。去年のその日から一年間、俺は彼女をずっと眺めたり構ったり口説いたりしてきたわけだが、彼女の俺に対する態度は変わっていても、あの一種頑なな生真面目さだけは全く、何にも変わってない。
「そういうことじゃないけどさ、でも他の男と楽しそうに話してるとこ見て、こっちまで一緒に楽しい気分になるわけないし」
 そりゃ殊勝な気持ちで、『笑ってる彼女を見てるだけで幸せ』って思えたらいいんだろうけどな。俺は聖人君子じゃないし、どうせなら俺が笑わせたいって思ってしまう。空気読まないふりして割り込んでいかないだけましだとさえ考えてる。
「って言うか、お前だったらどうだよ」
 蒸し返された報復として、逆に霧島に振ってみた。
「お前だって奥さんがよその男と話してたら、それがむっちゃくちゃ盛り上がってて楽しげだったりしたら、その男がたとえ人畜無害の相手だとしても気になるだろ?」
 すると奴は眼鏡のフレームの上の眉をわずかに顰めて、
「まあ、わからなくはないですけど」
 と言った。
 ほれ見ろ。
「だろ? 気になるよな?」
「でも俺は先輩ほどあからさまに顔に出したりはしませんから」
「どうだか。お前だっていざとなれば『この泥棒猫!』って顔になるぜ、きっと」
「そんな大人げないことにはなりませんよ」
 霧島は俺の主張を一向に認めようとしない。いっそ無神経なまでのふてぶてしさで愛妻弁当を食べ続けているから、どうにかしてこいつにも同じ境遇を味わわせたくなってくる。でも霧島の奥さんの、霧島に対するぞっこんぶりもなかなかのものだから、俺ごときが絡んだくらいじゃ霧島が妬くような事態にはならないんだろうなと推測できて、そこが少し悔しい。
 大人げのなさは正直、どっこいどっこいだと思うんだけどな。

 弁当を食べ終えた後、俺たちは残業へ戻った。
「あっ、お帰りなさい」
 営業課には同じく残業中の小坂がいて、疲れてる時でも目減りしない可愛さ満点の笑顔を向けてくれる。その可愛さに俺は、ここが新妻の待つマイホームなんじゃないかという白昼夢を見かけたが、こんなに埃っぽくてあちこちでパソコンがちかちかしてて、おまけにスチール製の家具しかないマイホームってのもないな、とあっさり夢から覚めてしまった。新婚さんならエプロン一枚ってのも外せないポイントだし、結婚したあかつきにはまずそこから取り組んでもらわねばなるまい。
 閑話休題、その可愛いお出迎えの後で小坂はうーんと伸びをして、椅子の背もたれが音を立てて軋んだ。今日の彼女は『是が非でも家でご飯を食べます!』と意気込んでいて、だから俺たちみたいに弁当を食べたりはせずみっちり仕事に取り組んでいる。何でも今夜の小坂家の夕飯は手巻き寿司らしい。
「もう上がりか、小坂」
 俺が声をかけると彼女はたちまち表情を曇らせる。
「いえ、再起動中なんです。どうもパソコンの調子が悪くて」
「何だ、大変だな」
「そうなんです。ハングしたの、今日はこれで三回目なんですよ。明日の為にも、どうにか終わらせてから帰りたいんですけど……」
 ほとほと困り果てた様子の小坂が画面を軽く睨みつけている。その背後から覗き込んでみれば、起動中の黒い画面は警報音みたいなぴりぴり言う音を立てていて、そろそろ寿命なんじゃないかとパソコン自身が訴えていた。
「すごい音しますね、小坂さんの」
 霧島までわざわざ覗きに来て、起動中のディスプレイが陰る。小坂は首だけで振り向き、苦笑を浮かべた。
「この音、支給された時からなんです。年季入ってるなとは思いましたけど、調子よくないのかなーって心配になっちゃいますよね」
 でも年季というならうちの課の備品は雁首揃えて古めかしい。スチール棚は引き戸の立てつけが悪くて嫌な音がするようになったし、年代物のプリンタはがたがたとやたらうるさいし、ホワイトボードは誰かがうっかり油性マジックを使ったらしく、黒い痕跡が隅っこの方に残ったままここ何年も消えてない。
「これを期に、一挙買い替えなんてことになりませんかね」
 願望を込めた口調で霧島が言うと、小坂も深く頷いている。
「私はもうハングしないというだけでいいんです。それ以上は求めません」
 しみじみと響く声を聞き、俺は彼女を左隣からそっと見下ろす。勤務中の彼女はつやつやした髪を高めの位置で束ねていて、それが会話の度に尻尾みたいに揺れるのがまた可愛い。毛先の方までさらさらで、柔らかそうできれいだ。年季が入った、という言葉とは対極にあるような彼女の髪。
 仕事中でなけりゃ触ってるのにな、と全く関係ないことを考える。
「……あ」
 ふと小さな声が聞こえて、
「小坂さん、前髪のところに糸くずがついてます」
 何の脈絡もなく霧島が、そう言った。
 えっ、と声を上げた小坂は上を見る。が、首を動かしたところで前髪の上なんて見えるはずもない。後ろと同様にさらさらの前髪の右上に、白い糸くずが確かに張りついてるのも、本人からは見つけられないだろう。
「ど、どの辺ですか?」
 尋ねながら手のひらで、前髪をでたらめに触る彼女。下手なすいか割りみたいなそのやり方じゃ見えない糸くずを探し当てられるはずもなく、傍で見ていた俺もつい吹き出してしまう。
「何やってんだ、それじゃ取れないだろ」
 だから動くな取ってやる。
 って台詞を俺が口にするより先に、
「あ、俺が取りますよ」
 霧島が何気ない調子でそう言った。
 多分それは本当に何気ない、ただの親切心だったんだと思う。俺には生意気なだけの後輩でも、霧島は基本的には人のいい、優しい人間だった。奴が全く邪な気持ちも悪意も下心もなくそう言ったのだと頭の片隅ではわかっていたけど、奴の手が小坂の前髪に触れた時。
 反射的に手が出た。
 ばしっと、意外と硬めの音がした。
「……つっ」
 俺の手の甲に鈍い痛みが伝わった直後、霧島は息を呑むような声を発し、非常に驚いた様子でこちらを見た。
 小坂も何の音だろうと思ったのか、不思議そうに面を上げた。
 俺も手を出した手前、内心を顔に出さないという芸当はできてなかっただろうし、だけど数秒後にはもう何と言うか若干、悔やんでもいた。やっちまった、みたいな。
「あ、あの……」
 霧島は固まっている。まだ驚きの消えない顔が、二、三度呼吸をする。俺に叩かれたばかりの手は小坂の前髪の数センチ手前に浮いていて、見た目には痛そうでもない。
 むしろこっちの方が痛かった。二重の意味で。
「えっと、その」
 俺も言葉に詰まっている。何を言っていいのかわからない。いやもちろんここは謝るべきなんだろうけど、正直取り消せるもんなら今しがたの行動そのものを取り消したい。いくら嫉妬深いと自覚済みだからって今のそれはないだろ。
 彼女の髪に触られたくなかったから引っぱたいた、とか。
「す……みません、先輩」
 巻き戻すみたいにぎくしゃく手を引っ込めた霧島が、ようやくといった感じで言葉を発した。いつになく神妙な面持ちで俺を見ている。らしくもない。
「俺、何て言うか、考えなしに行動してしまって。先輩の気持ちも考えずに」
「あ、いやいや、お前が悪いってわけじゃ」
 こっちはこっちでものすっごく気まずくなってる。まさかこういう局面で手が出るとは自分でも思ってなかったし、その相手が付き合いの長い霧島だってことも個人的にはちょっと重い。口頭で一言『触るな』と注意すればいいものを、それすらできなかったのはどうしてか。いや、本来ならそう言うのだっておかしいのか? 一応勤務中だし、浮気なんかにゃ到底当たらないし、そもそも相手は既婚者だ。髪触られたくらいでどうこうってこともあるまい、まして本人は嫌がってなかったんだし。
 でも俺は、嫌だった。
 熱しやすくかっとなりやすいどうしようもない感情の部分が思いっきり拒絶していた。
「すみません、本当にすみません」
 平謝りの霧島が続ける。
「普通に考えればわかることですよね、触られたら嫌だって。どうして思い至らなかったのか……すみません」
 頭を抱えそうな勢いで詫びてくる奴に、俺も謝らざるを得ない。
「俺の方こそ悪かった。その……あー、何だ。痛くなかったか?」
「いえ。先輩に謝っていただくことではありません」
「でも黙って叩いたの俺だし、悪かった。つい感情的になってた」
「元はと言えば俺が無神経だったのがいけないんです」
「いや、でも俺が……」
「俺の方こそ……」
 普段の俺たちとはまるで正反対の気色悪い謝罪合戦。何だこれ。お互いに同じタイミングで気色悪いと思ったんだろうか、ほぼ同時に言葉が止まる。安井が見てたらどん引きしそうなこの光景。
 それを糸くずの乗っかった前髪越しに見上げている小坂は、引く以前に何が何だかといった顔つきだ。やがておずおず聞いてきた。
「な、何が起きたんですか、今の」
 それで俺は気まずさに口を噤み――だって言えないだろ! お前の髪に霧島が触ろうとしてたのが嫌でつい手が出ちゃったんだ、なんて恥ずかしすぎてみっともなくて口が裂けても言えない。大人げなさもここまで来るともはや本物の子供すら凌駕している。大事なおもちゃを取られてお友達を殴っちゃった幼稚園児と同レベルだ。しかもわざとやったとかじゃなくて、無意識のうちにやっちゃったっていうのが恐ろしい。霧島相手じゃなくてもやってた可能性が高くて恐ろしい。偉い人にそれやってごたつくケースや、春名辺りとこうなって脅かす格好になっちゃう場合を考えると、せめてこいつでよかったと思うべきなのか。
「すみません全部俺が悪いんです、先輩は小坂さんの髪に――」
「わー馬鹿! 言うな! そこは言うな!」
 その霧島が小坂にぶっちゃけようとしたので俺は大急ぎで割り込み、きょとんとする小坂はひとまず置いといて霧島に釘を差す。
「頼むから言わないでくれ、こいつには!」
「え、そ、そうですか……わかりました」
 奴は呑み込みきれてないそぶりながらも頷き、それから身を引くように一歩後ずさりした。
「じゃあ、先輩、どうぞ」
 何がどうぞなのか、は聞くまでもない。しかしそうやって譲られると余計に気恥ずかしさが増してしまうじゃねーかちくしょう。俺は七月らしくだらだら汗を掻きながら、馬鹿みたいに震える指で小坂の前髪から糸くずを外した。小坂はそれを、直前のごたごたやら急な選手交代やらがあってもとりあえずは黙って受け入れていた。彼女の髪は本当にさらっさらで柔らかそうでつやもあってきれいで、それをためらいもなく他人に触らせるところは危なっかしくてしょうがない。俺だけがいいって思うけど、でも、だからってこんな子供じみた行動に出るほどやられちゃってるのか俺は。
 無事に回収した糸くずをゴミ箱に叩き落してから、深い深い溜息をつく。
「俺、やっぱ大人げねーなあ……」
「それは確かに」
 と、さっきまでのしおらしさを忘れたかのような霧島の弁。
 思わず睨みつける。
「けど、お前だってちょっとあれだろ! 既婚者なんだからそんくらい空気読め!」
 ほとんど八つ当たりで俺が言えば、奴はもっともらしく顎を引く。
「それもその通りだと思います。俺は無神経でした」
「……お前、もし、逆の立場だったらさあ」
「嫌ですね、実際」
 潔く認めた上で、更に霧島はこう言った。
「でもちょっと、わかりましたよ。やきもちって大人げなさだけで出てくるものじゃないんですね」
「はあ?」
「今までは考えが足りませんでした。以後、よくよく考えるようにします」
 一体何がどうしたって言うのか、一人で納得した様子を見せ、霧島は自分の席へ戻っていく。
 それを俺以上に訝しげに見送った小坂が、ふとこちらを向いた。
「ところで、お二人は一体何のお話をされてたんですか?」

 その説明については、CDの変態じみた感想よりもはるかに言いにくい。
 って言うか本当に大人げなさすぎて恥ずかしいんで言わせないで欲しいんだけど、駄目か。
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