Tiny garden

まだ見ぬ君を、(3)

 四人で都合を合わせた上、初の組み合わせとなる飲み会が催された。
 梅雨明けの気配だけが窺える、小雨の木曜日。会場は会社近くにある行きつけの居酒屋だ。大体何でも美味いしリーズナブルだし、デザートメニューが豊富なのも女の子がいる飲み会には好都合。掘りごたつなのも仕事帰りのくたびれ具合にはありがたい。そのせいかいつ行っても混み合ってるしがやがやと騒々しいが、どうせ真面目な場でもなし。雰囲気ごと楽しむことにする。
「石田が『新人を紹介する』なんて言うからさ」
 ビール片手に、安井が肩を竦める。
「思わず聞いちゃったよ、『男だろ?』って。普通、紹介してくれるって言ったら女の子にしておくものだろうに」
「俺も、そういうのを密かに期待してました」
 春名が素直に頷くので、俺は無茶を言う連中だと眉を顰める。突発的な飲み会に呼んでこれるような、しかもそういう意味で『紹介』できるような女の子の知り合いなんてそうそうおらんわ。
「去年はこんな風に紹介なんてしてくれなかったくせにな」
 安井は俺を見ながら含んだような物言いをする。もちろん去年のルーキーについては、こんな危険極まりない奴に紹介してやる気なんて毛頭なかったんだが、一応聞いてやった。
「紹介して欲しかったのか?」
「そりゃそうだろ。可愛い子だけさっさと確保して、男ならすんなり紹介するなんてずるいぞ」
「確保とか言うな」
 あんまりな言い種にむっとしつつ、俺は隣に座っている小坂の表情を窺う。彼女は何も言わないうちから俺の左隣にちょこんと腰を下ろしてくれて、そういうのが近頃はとても嬉しい。ちなみにテーブルを挟んで俺の向かい側は安井、その隣が春名だ。二人とも初対面だと言うのに、お互い緊張感は窺えない。ぶっちゃけ『緊張する安井』なんて八年つるんでても一度としてお目にかかったことはないが。
 さておき、彼女は注文を終えた後にもかかわらず、未だにメニュー表をじっと見ていた。ページは当然、甘い物揃いのデザートカテゴリ。俺の視線に気づいてからは、もじもじと困ったようなそぶりで囁いてくる。
「今日こそは、上手いこと話を逸らしましょうね、主任」
「お前はそれやらない方がいいと思うなあ……」
 先日のご実家訪問の際に試みられた彼女の話題の逸らし方は、本人の頑張りとは裏腹にさほど上手くなかった。と言うか、思いっきり不自然だった。
 お父さんが相手でも全く通用してなかったってのに、思いのほか抜け目なさそうなルーキーと、口の立つことにかけては憎々しいくらいの人事課長殿の前では到底太刀打ちもできまい。黙って美味いもんでも食ってる方がましだろう。
「今のうちにデザートでも決めといたらどうだ」
 俺がそう水を向けると、彼女はすかさずいい顔で笑った。
「ばっちり決めてあります。今日は杏仁豆腐です」
「早っ。もうデザートの話か?」
 俺よりも先に、安井が突っ込んだ。小坂が照れたようにえへへと笑い、それにつられたか春名も表情を和ませた。
「やっぱり女の子は甘い物好きですよね」
「好きです。お酒の締めをご飯ものにするか、甘い物にするかでいつも悩むんですけど、今日は暑いのでさっぱり冷たいデザートにします」
 食べ物について語る時は特に饒舌かつ熱くなる彼女。可愛い。本当可愛い。
 女の子が一人でもいる飲み会っていいよなあ、なんて言ったら男女差別って言われちゃいそうだが、事実男だらけよりも空気が柔らかいって言うか、一挙一動が実に癒しになる。まあそれは他でもない彼女だから、なのかもしれないけど。
「小坂さんは可愛いな」
 ふと、安井が言った。
 それで俺は条件反射的にむっとしたし、安井も俺がむっとしたのをわかってて――むしろ煽るつもりでそう言ったんだろうけど、ともかく言われた本人は眉尻を下げて答える。
「そんなこと、ないですよ」
「あるよ。俺も小坂さんみたいな彼女が欲しいよ」
 こいつの言うことは本当にわざとらしいと言うか、意図が見え透いている。言葉に詰まる小坂の代わりに俺が言い返しておく。
「だったらどっかで作ってこいよ、さっさと」
「何をカリカリしてるんだ石田。小坂さんのこととなると、いやに沸点低いじゃないか」
「うるさいな。俺は一刻も早く、お前をからかい返したい」
 別に安井に幸せになって欲しいなんてことはこれっぽっちも思っちゃいないが、こいつがどんな女の子を連れてくるか、興味はある。この飄々としたお節介野郎が女の子に骨抜きにされてる姿は想像もつかないし、安井がでれでれしてるところを見たらさぞかし気持ち悪いだろうなとも思うんだが、怖いもの見たさってやつだ。あと、俺も同じことをこいつか霧島辺りに思われてそうな気もする。
 小坂がなぜか、そこで吹き出した。
 俺も含めて三人が一斉に彼女の方を見たので、彼女は手をぱたぱた振りながら、
「あ、えっと、何でもないです。ただの思い出し笑いです」
「何を思い出したって?」
 尋ねても、内緒です、といたずらっぽく返すだけ。俺にはちっともわからなかったから無性に気になったけど、安井も訝しそうにしてたから、こいつ絡みじゃないならいいやと思っておく。
「俺も、主任と小坂さん見てると彼女が欲しくなります」
 とは春名の弁。やたら食いつきいいよなと思いつつ、まだ飲み始めたばかりで惚気るって気分でもない俺は、とりあえず先手を打っておくことにする。
「じゃあ春名は、付き合ってる子とかいないのか」
「いないですね」
 笑いながら奴は答える。顔だけ見ればもてそうな感じもするんだが、がつがつ行く男は今時敬遠されがちって、本当なのかもしれない。めんどい風潮だ。
「誰かいたら、紹介してくれませんか」
 逆にそう切り返された。それを俺に言うか……いや誘える女の子とかそうそういるわけでなし、そもそも俺の知り合いなんて同期とか仕事関係がほとんどで、しかも二十二歳のぴっちぴちルーキーにはいささか年上な子ばかりだぞ。さすがにまずいだろ。
「春名くんは、どういう子が好み?」
 安井がなぜか愉快そうに尋ねると、春名は少しの間考え込んでから、唸るように回答した。
「うーん……これっていうのはないんですが、強いて言うなら年下の方が……」
「俺がお前より年下にツテあったら、犯罪ぎりぎりになっちゃうだろ」
 即座に突っ込むと、そういえばって感じで春名が笑った。
 直後、安井には割と真顔で聞かれた。
「本当にないのか、そういうツテ」
「ねーよ!」
「だって石田も年下好きだろ」
「何言ってんだ。俺は別に年下だからとかそういうんじゃなくて!」
 年下だから好きになったんじゃないし、可愛いから確保しといたってわけでもない。小坂だからここまで好きになったんだってことを、安井はわかってるくせにわざと突っついてくるのがむかつく。
 当の小坂は全く何にもわかってない顔で、ライチサワー飲みながらきょとんとしてるし。そこはわかっとけよ。俺は年下だからって理由でお前を選んだんじゃない。
「でもその歳で年下好きだと、いろいろ難しいんじゃないか」
 安井はまた春名に話を振る。
「社会人になってから学生と付き合ったりすると、時間とか金銭感覚とか合わなかったりするだろ」
「そうなんですかね」
 春名の方は、まだそれほど実感があるというわけでもなく、首を捻ってから続ける。
「正直、同い年でもいいんですけどね。年上でなければ」
「どうして年上は駄目?」
 更に追及されて、春名はちょっと眉間に皺を寄せた。視線はなぜか遠くへと投げかけられ、言いにくいトラウマでも告白するがごとく打ち明けられた理由は、
「――俺、姉がいるんですよね……」
 俺の中でのこのルーキーへの共感度が、ここで急上昇した。

 そこからはもう、各々の目論見とか当初の予定なんか関係なしに、きょうだいについての話題に走ることとなった。
 春名のお姉さんは俺の姉ちゃんとタメ張るくらいの横暴かつ弟使いの荒い人物だったらしい。歳がそう離れていないのもあってか、反抗しては言い争いになり、しかしお姉さんの口喧嘩の強さにやり込められるのがしょっちゅうだったという。
「最近は姉もいい歳なんで、喧嘩吹っかけてくることなんてまるでなくなりましたけど、小学校くらいの頃は本当酷かったですよ。毎日のように泣かされてました」
「わかる、わかるぞ」
 俺は心底から頷く。うちもそうだった。しかも俺の姉ちゃんは手も出る方だったから、何かって言うとビンタ食らわされて、結局俺が泣かされてばかりだった。
 そのくせ俺が小学校高学年くらいになり、力では負けない程度になった頃、姉ちゃんも年頃になってしまって取っ組み合いの喧嘩なんかしなくなった。口喧嘩さえも歳を取るごとに機会が減り、結局俺はろくにリベンジのチャンスも与えられないまま、負け成績の方が多いままで今に至る。
 今の姉ちゃんは普通に結婚して二児の母で、ごく普通のよき妻よき母と化している。お義兄さんは姉ちゃんの本性を知った上で結婚したのか、と疑ってしまったことも何度かあったが、でももしかするとあの横暴かつ弟使いの荒い本性すら、歳とともに変わってしまったのかもしれない。これだから、女の子ってわからない。
「一つ、姉にされたことで忘れられないのが……」
 ビールを飲み終えた春名はジントニックに移行していて、それをちびちびやりながら語り続ける。
「もう十年以上前の話なんですけど、姉が俺の本棚勝手に見てて。しかも落書きしたんですよ」
「うわ、それは酷いな」
「おまけにそれ、ウォーリーの絵本だったんですよ。わざわざでっかい丸印つけて!」
 奴の告白の予想以上の衝撃に、俺たち三人は揃って息を呑んだ。
「な、何てことを……」
「そんな……!」
「お前、それは怒っていい。怒るべきだ!」
 安井は目を瞠り、小坂は口を手で押さえ、そして俺は拳をぐっと握って叫ぶ。適度に酒が入ってきた頃なので揃ってテンションが高かった。聞き覚えのある絵本の名前にぐわっと心が揺らがされるくらいに高かった。
 春名もまた堪らない様子で息をつく。
「さすがにその時は切れて泣きました。だって、丸で囲っちゃったらウォーリー探せないじゃないですか。『ウォーリーを囲んでる丸を探せ!』になっちゃうじゃないですか。でも姉は言うんです、苦労して見つけたのに場所忘れちゃうと困るから、印つけといたんだって」
 お姉さんはわかってない。絵本のコンセプトをわかってない。あれは二度目以降も新鮮な気持ちで探せる程度の難易度になってるものなんだよ。印つけといたら面白くもなんともないだろ。なんて酷いことを。
「それは確かにトラウマになるな」
「はい。あとで消しゴムで消しましたけど、跡がくっきり残って……」
 安井が同情めいた言葉を投げると、春名は力なく項垂れる。よほどショックだったんだろう。そういうことされても泣くしかないなんて、弟って本当、理不尽な立場だよな。
「俺も姉ちゃんに冒険の書消されて、泣いたことある」
 続いて俺が打ち明けると、小坂には信じがたいという顔をされた。
「主任も、小さな頃には泣いたりとかしたんですか」
「何だよそれ。俺にだっていたいけでかっわいい少年時代があったんですよ」
 誰にだってあるだろ、赤ちゃんの頃も、少年少女時代も。お前は大人になってる俺しか知らないんだろうが――二十二歳の俺だって、この間見せたばかりだし。でもお前に出会う以前にも人生いろいろありまして、昔は姉ちゃんに虐げられてばかりのかわいそうで可愛い弟だったわけだ。
 ふうん、と彼女は想像を巡らせるみたいに視線を彷徨わせ、俺はその手助けをするように話を続ける。
「姉ちゃんはわざとじゃないって言うんだけどな。カセット入れる時にやたらめいっぱいふーってやるんだよ。もうカセットごと飛んでくんじゃないかってくらい、ぶふーって。そんなに揺らしたら消えるだろって思ってたら案の定消えてさ、いいとこまで進んでたからマジ泣いた」
 純粋な石田少年がその時に受けた心の傷と言ったら。ちょうど下の世界に行けるようになって、よっしこれからあちこち冒険するぜって思ってた矢先のデータ消失だったから、それはもうへこんだ。晩飯が手巻き寿司でも全然食べられないほどだった。次の日の朝には腹減ったーって普通に食ってたけど。
 しかしそこで春名は不思議そうに、
「冒険の書って、そんなに消えますか?」
 と言い、思わず目を瞬かせた俺に対し、安井が馬鹿にしたような笑みを向けてくる。
「石田。最近のは昔ほどには消えないんだぞ」
「え、マジで!? カセットふーってやったくらいじゃ消えない?」
「そもそも最近は端子部吹くとかいう風潮ないから。若い子には通じないぞ」
「ええー、何だよジェネレーションギャップかよ!」
 その後で春名が、最近のはメモカとかにセーブしてるんで……みたいな説明をしてくれて、そういや俺もここ数年はまともにゲームなんかしてなくて、せいぜい実家帰った時に姪っ子甥っ子とやるくらいだよな、などと遠い目をしてみた。本当、年取っちゃったなあ、俺。ゲームの話すら時代に遅れを取るようになってしまった。
「もっとも、俺に言わせれば異性のきょうだいがいる時点で、お前ら勝ち組だけどな」
 今度は安井が思い出に浸るような面差しで言い、俺と春名が反論しようとするのを遮って、低い声で続けた。
「うちなんか兄一人弟一人の三兄弟だぞ。男だらけの家で、華やかさなんてこれっぽっちもなかった」
「うわあ……それは、どっちがいいんだろうな……」
 姉に虐げられる生活よりも、華はなくとも男ばかり三人の方が平和的な気はする。でも安井の口ぶりから察するに、それはそれで辛いこともあったりしたんだろうか。
「男だらけだとな、特に今くらいの時期は臭うんだよ。俺が実家にいた頃は今流行の消臭スプレーなんてあまり出回ってなくて、梅雨時は本当に酷かった。おまけに三人とも部活やってたから、洗濯物が溜まった時なんか家の中がジャングルだったよ」
 ざる豆腐をつついてぼやく安井。
 安井家はむしろ、お母さんが大変だっただろうな、と思った。男ばかり三兄弟とか、飯の支度からしてすさまじそうだ。ご飯何合炊くんだろうな。
「何か皆さんのお話を聞いてると、とっても身につまされるようです」
 小坂は肩身の狭そうなそぶりで、既に注文してしまった杏仁豆腐をスプーンで掬いながらおずおずと述べた。結構ペースが速い。これはデザートのお替わりがいるか。
「小坂さんはきょうだいいるの?」
「はい、妹が一人」
 俺はこの間、写真を見せてもらっていた。どちらかと言うとお母さん似らしい、気の強そうな妹さん。高校時代の写真だそうだから、大学生となった今ではまた違う風貌になっているかもしれないが。
「妹が今度帰ってきたら、少し優しく接しようかなって、今思いました」
 彼女は本当に優しく、柔らかくその言葉を口にした。
 姉と言えばうちの姉ちゃんくらいしか知らない俺にとっては、こういうお姉さんがいるって事実がまさにカルチャーショックだ。ありえん。羨ましい。
 だから、つい言ってしまった。わざわざ左側に向き直って、彼女の顔を見つめながら、
「俺は、お前みたいなお姉さんが欲しかった」
「え? 何を言うんですか主任!」
 小坂はその時ものすっごく照れたような表情で、でもいつもよりもしっかりとお姉さんらしく俺を肘で突っついてくれたりしたから、後輩がいるからかもしれないけどその仕種とかどもってない台詞とか照れ方とかがいやに大人っぽいじゃないかと、他の連中がいる場だというのに軽く興奮した。エンドルフィンらしきものがどーんと滾った。勤務時間外でも会社の連中といる時は名前じゃなくて『小坂』って呼ぶようにしてたけど、そういうルール取っ払って今すぐ名前で呼びたい気分。
 藍子、好きだ! この飲み会が引けたら俺の部屋に来てくれ!
 でも俺がそんな下心込みの幸せ気分に浸ってる間に、春名と安井も口々に曰く、
「俺も小坂さんみたいなお姉さんがいいです。人生平和が一番です」
「俺はむしろ君みたいな妹が欲しかった。お兄さんって呼んでくれないか」
 三人の中で最も変態っぽいのは安井ってことでいいですかね。異議ないですね。
 さすがに三人からそう言われると、小坂も照れるどころではないらしい。目をぱちくりしながら尋ね返してきた。
「皆さん、そろそろ酔っ払っておいでですか?」
「そんなことはないよ。俺は割かし正気だ」
 と、一番やばそうな変態、もとい人事課長はのたまい、更にスーツの内ポケットに手を突っ込みながらこう言った。
「そういえば、お兄さんから君にプレゼントがあるんだ。受け取ってくれるかな」
「プレゼント?」
 俺は小坂よりも早く反応して、しかめっつらを作っておく。お前他人の彼女にそういうことすんなよ、と言いたいのをぐっと堪えたのは、安井が何を取り出したのか、すぐにわかったからだ。
 手帳の間に挟んであった、それは写真だ。
「……それって」
 小坂が声を上げ、表情をふと引き締める。安井は笑顔で頷き、それを彼女に渡した。
「君にあげる。格好いいって言ってくれたから」
「あ……ありがとうございます」
 彼女は夢でも見てるみたいな口調で礼を言い、それからじっと写真を注視した。
 俺も隣から覗き込んで――うわ、やっぱ正視に堪えないな、とまず思う。二十二歳の俺は何度確かめても間抜け面だし髪型は古いしポーズはアレだ。春名にも負けないくらいにぴっちぴちで、若さだけがとりえで、でも、小坂とはまだ出会ってなくてそれどころか数年後に別の子に、あっさり振られる運命すら知らずにいる俺。なのによくもまあ、能天気にへらへらしてられるよな。
 小坂はそれをつぶさに観察している。写真の中、俺の隣には安井が同じポーズで写っている。そういう馬鹿みたいなポーズを取ってても奴は飄々としていて、でも今よりはずっと若いし、大学出たてってのがよくわかる風体でもいる。
 八年も前の俺たちは、やっぱり格好よくはないと思う。
「これ、いただいてもよろしいんですか。大事な写真なのでは……」
 しばらくしてから小坂は安井に尋ね、奴はもう一度顎を引く。
「写真から焼き増ししてもらったんだ。それは君の分」
「ありがとうございます! 大切にします」
 今度こそ小坂らしい元気な返事が聞こえた。そして彼女は、改めて写真に見入る。優しくて、柔らかくて、いとおしそうにも見える表情で、八年前の俺たちをひたすらじっと眺めている。
 こんなに可愛くて真っ直ぐでいい子が、俺を好きになってくれるなんて。八年前の俺は思いもしてなかっただろう。教えられるものなら教えてやりたい、この先お前にはいろいろある、上司から理不尽に怒られたり、取引先に迷惑を掛けたり、発注ミスで休みの日にすっ飛んでいく羽目になったり。二年後にはちょっと生意気ででも案外へこみやすい眼鏡の後輩が入ってくるし、その三年後くらいに長く付き合ってた彼女から呆気なく三行半を突きつけられるし、更にその翌年にはもう、不本意ながら苦楽を共にしてきた同期が無慈悲な異動を迫られて、営業課からいなくなってしまうけど――それでも絶対にいいことあるから、くじけない方がいいぞ、ってな。どうにか頑張ってれば八年目くらいに人生最高かもしれないくらいのいいことがある。それはそれで結構手を焼くし悩まされたり振り回されたりもするが、でも労力を費やすだけの価値はある。計り知れないほどある。頑張れ。
 それと、失恋直後だからって合コンに乗り気になってると、痛い目に遭うぞってこともな。――どうせその合コンは長谷さんが来なくて中止になります。おまけに彼女は霧島くんに取られてしまいます。全ては八年目への充電期間と思って、諦めましょう。
「この頃からお二人は、仲がよかったんですね」
 小坂が、しみじみと呟く。
「まあ、な。仲がよかったと言うか、他につるむ相手もいなかったと言うか」
 俺は曖昧に肯定した。安井は特に、何も言わない。
 そこへ春名が、俺も見ていいですかと聞いてきたから、小坂は快く写真を手渡した。そして春名が最初は吹き出しかけたものの後は感じ入った様子で写真を眺めている間、俺は杏仁豆腐ラウンドツーを食べ始めた彼女とぽつぽつ話した。
「前に話しただろ? 俺たちは結構いい加減な新人だったんだよ。お前ほど真面目でもなかったし、春名ほど頑張ってもいなかった。もうとにかく適当に過ごしてた」
「……俺『たち』って言うなよ。石田よりは真面目だったよ」
 横槍がどこかから入ったが、気にしないでおく。
「でも、一緒に馬鹿やってくれる奴がいたからさ、負担が軽かったってのはあるよな」
「俺は馬鹿なことはやってない。真面目だったって言ってるだろ」
 嘘つけ。この八年でお前が何回俺に合コンを持ちかけてきたか、忘れたわけじゃないだろ。
「安井がいると、反面教師みたいな感じで『これ以上はやばいな』みたいに引き際もわかったし、失敗した時には『あいつよりはまし』って思って、へこまずに済んだし。それがよかった」
「黙って聞いてれば随分な言い種だな石田」
「黙ってねーだろ普通に突っ込んでんだろ」
 俺が言い返すと小坂が、非の打ちどころもないくらい可愛らしく、くすくす笑った。それからスプーンを置き、春名の手から戻ってきた写真を大切そうに持ち直す。
「私はこの写真、すごく好きです」
「社内報ではギャグ要員だけどな、俺たち」
「私は好きです。だって、ルーキー時代のお二人にお会いできましたから」
 そうやって嬉しそうにしてくれてると、髪型だのポーズだのは本当にどうでもよくなる。俺も、小坂になら大切に持っててもらいたいって思う。二十二歳の俺はまだお前のことを知らないから、今より幸せそうにはしてないけど。
 お前はそういう俺を見て、好きなもの食ってる時よりも幸せそうにしてくれるんだな。
「主任はこの頃から格好よかったんですね」
 そんなことも、小坂はそっと口にした。
 俺は、何言ってんだよお前、なんて若干照れたが、俺の真向かいに座ってる奴はそこで穏やかでもない抗議の声を上げた。
「小坂さん、格好いいのは石田だけ? その写真を君にあげたのは俺で――」
「わあっ、ごごごごめんなさい! 安井課長ももちろん素敵ですよ! お二人とも格好いいです!」
「そんなに取り繕われてもな。いいよいいよ、どうせ君は石田しか見てないよな」
 安井は年甲斐もなくぶんむくれていたが、俺は小坂の正直さについにやにやと幸せな笑みを噛み締めてしまう。愛されてる実感ってやつですか。
 そして俺たちのやり取りを見ていた春名は、何だか意外そうなそぶりで言った。
「惚気るのはむしろ小坂さんの方なんですね。もしかして、だからお酒控えてるんですか?」
 ご慧眼。さすがの読みだな、ルーキーくん。
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