Tiny garden

とろけるくらいあまく(5)

 知ってるか知らないかで言うと、多分知ってる。
 いつから、という厳密なラインまでは知らない。そもそも人を好きになるって現象にそういうボーダーラインがあるものなのか、って思う。或る瞬間からいきなり相手が『好きな人』に、すっぱり鮮やかに切り替わるんじゃなくて、少しずつ積み重ねてきた好印象とか、ツボを突くポイントなんかが溜まり溜まって、何となくじわじわと『好きなのかも』って思っていくような、そういうもんじゃないのか。そういえば爪伸びてんなとか、靴底磨り減ってきたっぽいなとか、そんな調子でふとした時に気づくような感覚だ。
 藍子が俺をどういう風に見てきて、どんな段階で好きだって思ったのか、その辺の詳しいことはまだわからない。大体、初対面から素敵なお兄さんだなんて思われてたって事実も今日聞かされたばかりだ。第一印象から決めてたのだとしたら、途中どっかで幻滅されたり『こんな人だったんだ……』ってがっかりされたりしなかったか、気になる。そういうことがあったとしても、とりあえず今現在も好きでいてくれてんだから、大した問題でもないかもしれないが。
 ともあれ、俺が知ったのはあの時だ。

「歓迎会の時、とか」
 話題に上げると、彼女は目を瞬かせた。
「え? 先月のですか」
「今年のじゃないぞ、去年の。お前の時の新歓」
 新人が配属されるのは五月から。だから新人の歓迎会も毎年五月に開かれる。今年度のはついこの間やったばかりだ。
 でも俺が思い出しているのは昨年度、藍子ががっちがちに緊張した状態で長めの挨拶を披露した、あの夜の出来事だった。
「挨拶は短めがいいって言ったのに、全っ然言うこと聞かなかったよな、お前」
 話を振れば藍子はもじもじして、
「そうでした、せっかくアドバイスいただいてたのにすみません。あの時は言いたいことがたくさんあって……」
 何やら弁解を始めたから、しょうがない奴だと苦笑したくなる。
 お前の欠点、ってほどでもないが、俺からするとたまに困るなって点はそこだ。言いたいことを素直に全部言っちゃうから、わかっちゃうんだよ。
「前もって教えてくれるならともかく、いきなり俺の名前を出されたからびっくりした」
「すみません、重ね重ねご迷惑をお掛けしました」
「迷惑とはまた違うけどな。他の連中にちょっと冷やかされたし」
「そうだったんですか……ま、ますます申し訳ないです!」
 あの挨拶のせいで、俺が彼女を日常的に口説いてるんじゃないかって誤解する奴が何人かいた。してねーって。そりゃ当時から可愛いとは思ってたけど、『次は可愛く撮る』くらいのことは誰にでも言うだろ。新人指導の相手が女の子だったからといって、そこまで見境ない真似はしない。
 でもあの挨拶がなければ、今の俺たちだって多分、なかった。
「あれで気づいたんだよ、俺は」
 俺の言葉に藍子がきょとんとする。
 まさか、自分から聞いてきた質問をもう忘れちゃったんじゃないだろうな。
「お前が俺をどう思ってるか、あの時に知ったんだ」
 そう教えてやると、彼女はしばらく考え込むように視線をふわふわ彷徨わせた。そして思案の末にぴんと来たらしく、途端に背筋が伸びた。
「嘘っ、そんなに早くからですか!?」
「早いって何だ。お前はいつ頃からだと思ってた?」
 逆に尋ねてみた。
「あの……隆宏さんのお誕生日くらいかなあって。あの日、お酒を飲みに行った帰りに、ばればれだって言われてましたし」
 藍子は少なからずショックを受けた様子で、深い溜息をつく。
「今思えば確かに、『ばればれだ』って言うからにはそれ以前からうすうすとでも感づいてたのかなあって気はしますけど……でもそんなに前からだとは思ってもみませんでした」
 むしろ、ああいう態度を取っておきながら、どうして感づかれてないと思うのか。
 去年の歓迎会の一件で断定されたわけではないものの、でもあの日以降うちの課では、小坂が俺のことを好きだとまではいかないまでも可愛い憧れレベルの好意を抱いている、という認識が発生し始めていた。それをまた俺がいつものノリで中途半端に口説いてるように受け取られたのか、あんまりからかっちゃ駄目ですよ的なことは何度か、暗に言われてた。聞く耳持ってなかったけど。
 そういえば、霧島だってあの時には察してたよな。――あいつからはもっときっついことを散々言われたっけ。俺の駄目人間ぶりをよく知ってるからこその反応だろう。
 水面下で飛び交った推測や噂や思惑なんかを、でも当の発生源たる藍子が全く気づかずにその日以降も過ごしてきたと言うんなら、それはそれで大したもんだ。
「それまではばれてないって思ってたのか」
「思ってました。隆宏さんも気づいてるそぶりないように見えて、だから……」
 アイスティーのグラスを両手で持ち、俯き加減でそれを飲む藍子。何となくしょげてるようにも見えた。そんなにショックだったのか。
 俺もグラスを手に取りつつ、更に尋ねてみる。
「で、実際はいつからだって?」
 藍子は俯いたまま、わずかに顔を背けた。
「ええと……」
「ここまで引っ張っといて隠す気はないよな? ちゃんと言えよ」
 背けられたばかりの顔を、身を乗り出すようにして覗き込んでみる。俺の影の中、するっと動いた彼女の瞳が、こちらの表情を認めた途端に困惑の色を浮かべる。
 うう、と微かな呻き声がした。
「言います、言いますけど……そんなに顔、見ないでください」
「今更照れるなよ」
「無理ですよ、まだ、恥ずかしくて」
 彼女が本当に困った様子でいるから、俺は笑いを噛み殺しながら一度身を引いた。そこで藍子はぎくしゃくと顔を上げ、こちらを見ずに言ってくる。
「隣に……、来てください」
「は?」
 せっかく噛み殺した笑いが戻ってくる。
「顔見られたくないんじゃなかったのか」
 恥ずかしがってる人間の申し出にしては奇妙だ。不思議さ半分、からかいたい気持ち半分で追及すると、彼女は言い訳のように語を継ぐ。
「み、見られなくても済むようにです。向かい合わせじゃなくて、隣がいいです。そっちの方が精神的に安定するって言うか」
 普通に考えてそっちの方が恥ずかしくないか、と俺は思うんだが、他でもない藍子の滅多にないような頼み、もしくはお誘いだ。それはもう飛びついた。グラスを持ったまま忍者もかくやというスピードで立ち上がり、彼女のすぐ右隣に意気揚々と座った。
 お盆を挟んで向かい合ってた時よりも近い。ちょっと身じろぎをすれば肩とか腕とかがぶつかっちゃう距離。
「わ、私、お酒臭くないですか」
 藍子が口元を押さえて尋ねる。今のところは傍にいても、そういう匂いはしない。と言うか俺の鼻はこの部屋の匂いを堪能するのに忙しくて、他に注意が回らない。
「いや。でも、気になるんなら嗅いでやってもいいぞ」
 調子に乗って顔を近づけようとしたら、身を捩って拒まれた。
「わあ、やめてくださいっ。隆宏さんも酔っ払ってます!」
「お前ほどじゃない。それに、俺はいつもこうだろ?」
「あ。そういえば、そうかも……」
 五ヶ月も付き合ってれば、さすがに納得されるようになるらしい。
 そして俺よりも藍子の方が酔っ払ってるのも事実だ。さっき顔を近づけた時、半袖から剥き出しになってた彼女の腕が、やけに熱く俺のシャツ越しに触れた。そのまま抱き締めてみたくなるくらい火照っていた。こっちまでいろいろと滾ってくる。
 俺から逃げようとしたせいか、気づくと彼女は足を崩していた。いつもより短めのスカートから伸びる足、真っ白いふくらはぎが覗いている。撫でたい。
「さっきの話の続きは?」
 誘惑をひとまず振り切り、俺は彼女の横顔に目を戻す。
 藍子はこっちを見ない。しきりと瞬きをしているのが、睫毛の動きでわかった。
「いつから、ってことですよね」
「そう。それが聞きたい」
「えっと、去年の歓迎会の少し前くらいです」
 だとすると、会ってすぐくらいのタイミングじゃないか。まさか一目惚れとか? いやー、それはそれで照れるな。そこまで男前って自覚はない。
「優しい方だなって思って、それから、ちょっとずつ……」
 逃げ腰の口調で藍子はそこまで言うと、急に早口になる。
「そ、その、やっぱりちょっと恥ずかしくなってきちゃったんですけど」
「気にすんな。俺しか聞いてない」
「や、でも、居間にお母さん――じゃなくて、母がいます」
「ここの声、聞こえるのか?」
 こっちのドアも居間のドアも閉まってるし、筒抜けってこともないだろう。聞き耳でも立てられてない限りは。聞かれてまずいこともしてない、今のところは。
「大きな声を出さなければ、大丈夫だと思います」
 今更のように藍子は声を潜めた。これまた素晴らしい泥縄っぷり。
 怪談チックなトーンで話は続いた。
「その、配属したての頃に優しくしていただいたのがとても印象に残ってて」
「そんなに優しくしてたか、俺」
「してくださいました。私はしっかり覚えてます」
「でも、優しいったら他の連中だってそうだろ、お前には親切だ」
 若い女の子ともなれば皆こぞってちやほやするんだ。そういうもんだ。俺だけが特別優しかったってこともないだろう。あの霧島だって、俺にはいっつも超冷たいのに、藍子にはやたらめったら優しいもんな。
 俺は今でこそ下心込みで優しくも、大切にもしているけど、当時は他の連中と同レベルの親切さだったと思う。最初のうちは下心すらなかったわけだし。
「確かに皆さん、とても親切です」
 藍子は小さく頷く。
「だけど隆宏さんの優しさはちょっと違ったんです。私が、こうなりたい優しさって言うか……」
「俺みたいになりたいって?」
 そういうことを前にも言われたような気がする。三十歳になったら、俺のようになってたい、とか――しかし俺みたいな藍子ができてしまったら各方面から非難ごうごうだろうな。俺自身、ちょっとやだ。そこまで影響されてなくてもいい。
「はい。隆宏さんのように、未来を見ていられる人になりたいんです」
 彼女は心底深く願っているみたいに、囁き声で続けた。
「私はあの頃も――それと今でもやっぱり、目の前のことくらいしか考えられないんです。隆宏さんにも視野狭窄だって言われたことありますけど、本当にそうなんです。でもそんな私の未来を、隆宏さんは考えててくださってた。あの頃は入りたてでまだ何にもできないルーキーだった私の、未来をです。それが、すごく嬉しかった」
 それも、聞いていた。それこそ昨年度の歓迎会で。
 来年のことを考えてくれた人がいたから。藍子はあの挨拶で、頑張ろうと思う理由をそう述べた。鬼が笑うような内容を、でも彼女はすごく嬉しそうに語っていて、その時のことは俺もよく覚えている。冷やかしの視線やにやにや笑いや居た堪れない気持ちと全部、ひとまとめで。
「自分だけじゃなくて、他の人の未来まで考えられる人って、そうそういないと思うんです。だから隆宏さんは優しい人です」
 藍子の方がよほど優しい声音で、そんなことを語る。
 それで俺は思い出したようにまた、居た堪れない気持ちになったりする。一目惚れなんかよりも更に恥ずかしい理由じゃないかそれ。俺みたいなの捕まえて、優しいから好きになった、とかさ。もっとまともに優しい男は世の中に一杯いるんだけどな。
 考えようによれば、俺の人並み程度の優しさでも上手く藍子を騙くらかせてるってことだから、別にうろたえることもなく平然と振る舞って、藍子にはそういう風に思い込み続けてもらえばいいってだけなんだろうけど――けど、何て言うか、照れる。恥ずかしい。ズボンのポケットがうっかり外に出てたのを指摘された時みたいな気恥ずかしさがある。
 要はあれだ、柄じゃないんだ。
「もっと違う理由かと思ってたな」
 俺は残りのアイスティーを飲み干して、濡れたグラスをお盆に置いた。両手を開けとく必要があると思った。
「顔が好みだとか、そういうのはないのか」
 軽いノリで聞いてみたら、藍子は肩を揺らして笑った。
「あっ……もちろん、格好いいって思ってます」
「あとは、そうだな。元々年上好みだったとか?」
「それはどうでしょう、私は……」
 今度は少し沈んだトーンで言ってくる。
「最初に隆宏さんのお歳を聞いた時、ちょっとショックだったんです」
「『うわっ、思った以上に老けてる!』みたいな」
「ち、違いますよ。三十になるって聞いたから、じゃあ私とか子供みたいなものかなって」
 いや、七つくらいの差で子供扱いとかないだろ。そんなことしたら年の差の壁に傷つくの、俺の方だし。
 三十歳とか、なあ。今でこそ慣れたし不幸だとも思わんけど――もうじき三十一になっちゃうけど、でも当時は真剣にへこんでたんだよな。三十なんておっさんじゃねーかって。それなのに若くてとびきり可愛い子に好かれちゃったもんだから、すっかり浮かれちゃったし舞い上がっちゃって結果、三十歳の未熟さしょぼさを痛感する羽目になりました。今なら言える、まだまだ青いぜ三十なんて。
 ただ、考えたことはなかったな。藍子がこの年の差をどう捉えてたのか。三十歳って年齢が、藍子にとってはものすごい憧れのようだったし、まるで立派なすごい大人みたいに言ってることもあったけど、……ショックだったのか、そうか。
「七つも年下なんて、相手にもされないんだろうな、とか……」
 声を抑えているからか、藍子は言葉の終わりを震わせた。それがやけに切なげに響いたから俺は、つい笑ってしまった。
「しただろ、相手に。気にするようなことでもなかった」
「今は、そうだってわかってます。でも」
「……いいから。グラス置け、零すと困る」
 俺は彼女の言葉を遮り、彼女は諾々とグラスを、お盆の上に置いた。そのタイミングを見計らって肩を抱くと、これもすんなり身を寄せてきた。
 それどころか、俺の肩にことんと頭を預けてくれた。彼女の髪はこの部屋以上にいい匂いがする。枕よりよっぽど埋まりたい。肩に乗っかった柔らかい頬はやはり熱いし、ぎゅっと抱き寄せている彼女の腕もほんのり熱い。ここまで密着しちゃうと次はもう、押し倒したくなる。今日の藍子ならそこまでやっても喜んでくれそうな気さえする。
 ……いや、駄目だ。お母さんはまだ起きてるはずだから。
 ともあれ、珍しく積極的な彼女をにやにやしつつ見下ろしておこう。
「顔、見られたくないって言ってたよな」
「見えますか、こうしてると」
「やろうと思えば」
「じゃあ、しないでください」
 懇願の口調で藍子は言い切った。してください、の方がいい殺し文句だよなと思う俺をよそに、彼女はまた切なげな声を発した。
「さっきの、話ですけど……」
「年の差の件なら、もういい。言わなくても」
「それじゃなくてです」
「どれだよ」
「……寂しいって言っていただいた時の話です」
 話戻りすぎじゃね? 俺はさすがに内心で突っ込んだ。
 酒入ってるってところを踏まえても大分巻き戻っちゃってるよな。まあ、いいけど。
「隆宏さんは私に言ってくれましたけど、私はそういうの、言えない方なんです」
 俺の心の声なんか知る由もない藍子が語る。
「寂しいとかもそうですけど……辛いとか、苦しいとか、そういう気持ちは全然言えません。いいことだけ話したいって考えちゃうんです。心配されるの嫌だし、悪いなって思うから」
 いつだったか安井が言ったように、彼女は思いのほかプライドの高い女の子だ。
 そういうのが言えないって気持ちも、ちょっとはわかるような気がする。でも俺には言って欲しいな、言えるようになって欲しいなとも思う。俺だってそういう暗いムードにも向き合えるくらいには成長してんだからさ。いざって時は是非ともどうぞ。
「だから、両親にも言えませんでした」
 俺の肩の上、彼女の頭が少し動いた。
「隆宏さんのこと、ちゃんと言えませんでした」
「俺が、何だって?」
 名前を出されると思わなかったから、思わず聞き返した。
「素敵なお兄さんだって言いました。優しくて、格好よくて、特に目が素敵で、それから私が頑張ったらすごくすごく誉めてくれるから嬉しいんだって、そういう話はしました」
 それはまさに、親御さんから聞いていた内容だ。
 家では割と無防備に素直にいろいろ打ち明けてしまう藍子が、でもご両親にも言えない辛く苦しいことがあったって。それも、俺に関係する事柄で。
 正直、思い当たらなさすぎて、ぎょっとした。
「俺、何かしたか」
 直球で尋ねたら、肩の上でかぶりを振られた。
「私が言えなかっただけです。好きなんだって」
「え……え?」
「優しいから好きになっちゃったって、言えなかったんです。私はまだ仕事も覚えてないルーキーで、そんなこと考えてる場合じゃないのに、でも好きになっちゃって、どうせまた片想いだってわかってるのに普通にしてられなくて、それに七歳も上だって聞いてからは本当にどうしていいのかわからなくて。憧れてるだけでいいとか思ってみたり、今まで一回も両想いになったことないしって予防線張ったりしてみたんですけど、それでも、苦しくて」
 これもアルコールの勢いなのか。
 俺が知らなかった本心を、彼女は震える声で吐露した。
「両親には辛いとか、苦しいとか言えなくて、よかったことだけ話しました。いつも同じ話ばかりしてるって言われましたけど、でもしょうがなかったんです。私、そのくらいしか打ち明けられなかったから……」
 親御さんの知らなかった真実が、そこにはあった。
 ――違うか。むしろ知らないのは藍子なのかもしれない。親御さんは、特にお父さんは藍子が一向に語らない片想いの辛さを、いくらかは見抜いていたのかもしれない。一時は殴りたいとまで考えていた娘の彼氏をすんなりと認めてくれたこと、あの時の言葉から、そんな気がしている。
 でも藍子は、たとえご両親が知ってようがいまいが悟ってようがそうでなかろうが、とにかく言えなかった。そうして一人でこっそり苦しんでいた。片想い期間なんてそう長くもなかったはずだが、恋愛にはとかく不慣れでやや無知な彼女が年の差という一見どでかい壁の存在する片想いにどれほど悩んでたか、汚れきった俺には想像もつかない。
 そして打ち明けられた俺は、本来ならそこまで想ってもらえた事実を喜ぶべきなんだろうけど、浮かれる気にはちっともなれなかった。むしろ、どすんと沈んだ。こっちまで胸がきりきり痛んで苦しくなってきて、藍子にはこんな思い、二度とさせたくないなって感じた。
 肩を抱く手に力を込める。
 離すまい、と思う。
「幸せにする」
 お父さんの前でも誓った言葉を、もう一度、告げてみる。
 藍子が身を固くしたのが、触れてる部分全てから伝わってきた。
「嬉しいです、私――」
「違う。そこは『してください』って言え」
 俺の要求に、しかし彼女はまたしてもかぶりを振る。
「私も、隆宏さんを幸せにしたいです。私はもう十分幸せですから」
 十分とか言うなよ。まだまだあるぞ、やってないお楽しみが。
 まあでも、好きな子にそこまで言われて嬉しくないわけでもなく、今度こそテンション上がった。
「何をしてくれるんだ、具体的には」
「ええと……合鍵を使ったりとか、お料理を作ったりとか」
「それはこの間から聞いてる。他にもあるだろ」
 本当に目の前のことしか見えてないんだな。そういうとこも好きだけど、今はまどろっこしく思えてきてとっさに彼女の顔を覗いた。気を抜いていたのか、目が合った拍子に彼女が、あっ、と息を呑むような声を漏らした。
「ちゅーの練習もしような。次からは外さないように」
「が、頑張ります」
「と言うか今しよう。俺、そろそろ帰んなきゃいけない」
 そうやってこずるく急かすと、藍子は酔いも手伝ってか、割とすんなり唇を重ねてくれた。もっとも動作自体はそれほどすんなりでもなく、柔らかな感触は俺の下唇だけをかすめた。こっちから位置を合わせてやったら、酒の匂いと少し甘い味がした。
「もう、帰るんですか?」
 唇が離れてから、藍子が尋ねてきた。上目遣いで俺を見る。可愛い。
「寂しいか?」
 質問に質問で返せば、即座に頷いてきた。
「素直だな。何なら連れて帰ってやろうか」
「……本当ですか?」
 ふっと真面目な顔をする彼女。
 俺を見上げる両目は真摯でひたむきで、そのくせ今だけはいつもと違う、捉えどころのない光が泳いでいた。多分、と言うか百パーセント間違いなく、酔いの醒めた彼女はこんなこと言ってくれない。連れて帰るなんて俺が言いだしたところで、だだだ駄目ですよそんなの! なんて慌てふためきながら否定するに決まってる。だから今の真面目さは珍しくて貴重で、俺は腹の底から惜しい、と思った。
 連れて帰りたいのはやまやまだ。むしろこのまま嫁に来てくれ俺と一緒に明日からでも暮らそう! って気持ちでいる。でもそれまでにはまだやらなくちゃいけないことがたっくさんあって、今日はその最初の一歩を踏み出したところだ。ここで道を誤ってはいけない。今日みたいな日は、誘拐犯になってはいけない。
「お父さんとお母さんに、許可を貰ったらな」
 それこそずるい物言いだと思いつつ、俺は至極真っ当な答えを告げた。
 藍子はやはり、素直に顎を引いた。
「お待ちしてます、私」
 その素直さがかえって心許ない。藍子の言葉を疑う気ないけど、忘れたりしないかが心配だ。素面の時はこんな台詞、引き出すのにもんのすごい手間がかかるんだろうな。
「酔いが醒めてもその言葉、忘れるなよ」
 言い聞かせるように俺が、もう一回キスをすれば、藍子は目を伏せて少し笑った。
「忘れないです。でも……恥ずかしくて思い出せなくなってる気はします」
 心配するな、俺だって忘れない。何度でも思い出させてやる。

 可愛い酔っ払いは帰り際、外まで見送ると言ってくれた。
 最初は駅まで送るとか口走ってたんだが、それやると今度はこっちが心配になる。ちょうどお母さんも居間から出てきて見送ってくれることになったので、二人一緒の玄関先での挨拶に留めてもらった。
「あまりお構いもできなくてすみません」
 あれだけもてなしてくださった後なのに、藍子のお母さんは言う。恐縮する。
「お父さんもまだ話し足りなかったみたいですし、この次は泊まりにいらしてください」
 そうも言っていただいて、泊まりか、それも悪くないなと思う。藍子とずっと一緒にいられる機会はいつでも欲しいし、お父さんとももうちょっと話してみたい。お母さんの手料理も美味しかったし、それと次は是非、アルバムを見せてもらいたい。藍子のちっちゃい頃の写真とか。
「気をつけて帰ってくださいね」
 藍子はすごくすごく名残惜しそうにしてくれて、俺が出て行く直前には手をぎゅっと握ってくれたりもした。いいって言ったのに結局外まで出てきて、雨降ってなくてよかった、って自分のことみたいにほっとしてくれた。
「お前もなるべく早く休めよ」
 きっと二日酔いだろうから。そう言い残して、俺は小坂家の前を離れる。帰りの道は行きよりも荷物が軽いのに、閉じた傘を邪魔に思いながら、歩く。
 一人暮らしの部屋に帰るのは、正直、寂しい。
 でも今夜の藍子の言葉と、それを明日になって思い出して激しくうろたえる彼女を想像するだけで、帰ってからもいくらでも思い出しにやにやできそうだから――今日のところは何とか乗り越えられるだろう。
 そうやって、連れて帰れる日までを過ごすことにする。
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