Tiny garden

とろけるくらいあまく(4)

 楽しい時間はあっという間に過ぎて、小坂家の居間にはいつしかカーテンが引かれていた。
 そしてその頃くらいから藍子のお父さんは眠たそうにしていて、あれ、と思うくらい長く目を閉じたり、ほんの数回ながらも結構わかりやすく舟を漕いでいたりした。当然、水割りの減りも遅くなる。だらだらと汗をかくタンブラーの中、氷も解けて色が薄くなっている。
「お父さん、眠いなら寝たら?」
「無理しない方がいいですよ」
 藍子とお母さんの両方から言われても、お父さんはまだ起きていたいらしい。
「まだ眠くない」
 むにゃむにゃと否定の言葉を、何度か口にしていた。
 しかし睡魔への抵抗も酒のせいなのか長くは続かず、眠くないようにも実際見えず、俺がいるから悪いと思ってるのかな、なんてこっちが気を揉み始めた頃、お父さんはついに白旗を揚げた。
「すみません、今晩はこれで……。また是非、いつでもいらしてください」
 俺への挨拶もそこそこに、お父さんは千鳥足で居間を出て行った。
 時刻は夜八時を回ったところだった。飲み会にしては少し早いが、帰りのことを考えればそろそろ、お開きのタイミングだろうか。
 藍子は覚束ない歩き方のお父さんを追って廊下まで出ると、階段を上がりきるまで見守っていたようだ。足音が聞こえなくなってから戻ってきて、呆れたように肩を竦める。
「ちょっと飲みすぎだよね、今日のお父さん」
「いつもよりもはしゃいでたものね」
 お母さんもくすっと笑い、俺に向かっては優しく言葉をかけてくれる。
「石田さんはまだお時間大丈夫ですか? よかったらお茶でも入れましょうか、いただいたケーキもありますし」
 それに俺が反応するより早く、藍子が顔を輝かせた。
「そうだ、ケーキがまだですよ隆宏さん! せっかく買ってきていただいたんですから、是非一緒に食べましょう!」
 お父さんのことが言えないくらいはしゃいでいる彼女。ここまででも結構飲んだり食べたりしてきてるのに、まだ入るのか。素晴らしい別腹だ。
 俺も入らなくはないが、そもそもあのケーキは彼女と彼女のお母さんの為に買ってきたものだ。一応、三人家族だからと六個購入してはいたものの、俺が食べてしまったら五個になる。数が合わなくなって、ちょっと申し訳ない。
 それに、お父さんが寝ちゃったのに長居するのも悪い気がする。
「いいのか? 俺が食べたらお前の取り分が減るぞ」
 からかうつもりで聞き返すと、藍子は意外と大真面目に答えてきた。
「いいです。一緒に食べた方が美味しいですよ」
 酔いのせいもあるんだろうが、目つきが妙に真剣だ。ケーキを食べずに帰るなんて信じられない、とでも言いたげに。
 そこまでして一緒にケーキが食べたいのか、俺はお前ほど甘党でもなければ別腹持ちでもないのに――返事に迷う俺に、お母さんが楽しそうな説明を添えてくる。
「藍子は、石田さんにまだ帰って欲しくないんですよ」
 そうは言われても、いや引き止められるのが困るということでは断じてないし、俺だって帰りがたさ離れがたさはなくもない。ただ、お父さんが引けちゃった以上はおいとますべきと思ってた手前、ケーキまで食べて帰ったらさすがに図々しくないか心配だ。さっきお父さんが舟漕いでる姿を見た時点で、今日はもうそろそろと考えてたから、遠慮のしどきなのかそれともとことん甘えてしまうべきか、判断が鈍る。ただでさえ酔ってるところだし。
「電車の時間、まだ大丈夫ですよね?」
 本格的な引き止めにかかる藍子。世界で一番可愛い酔っ払いは、目を潤ませて、真っ赤な頬で、容赦なく俺の袖を掴んでくる。力自体はそう強くない。でも、心なしか体温高めの両手できゅっと掴まれると、心臓まで一緒に掴み出されたような気分になる。お前、お母さんの目の前で迫ってくるとか反則だろ!
「時間は、あるけど」
 答えた声が、自分でも驚くくらいにうろたえていた。やばい、心拍数がやばい。
「結構長居させてもらってるし……これ以上するのも悪いし」
「してください、是非」
 彼女はそこで笑んだ。隙だらけで甘えた感じの笑顔だった。
 してくださいって殺し文句だよなあ、と俺は酔いも手伝ってかやたら呆気なくどぎまぎした。そして、これが二人っきりのシチュエーションだったらまた違った反応を取れたのにと悔しがりつつ、内心の動揺を藍子のお母さんに悟られてないか横目でこっそり気にしてみた。
 お母さんもまた、いい笑顔だった。
「それなら藍子、あなたの部屋でお話ししたらどう? 今ならきれいにしてるでしょう?」
 多分、ばっちり悟られてた。
 お母さんの、気遣いでなければ恐ろしい打率の天然ぶりだと言えるその発言で、俺の心の天秤は容易く『引き止められる』方向に傾いた。だって部屋とか言われたら、そりゃ皿が落ちてめり込むくらいに傾いちゃうだろ。藍子の部屋なんてもちろん行ったことないし興味あるし、是非見たい。入りたい。
「……うん」
 藍子はわずかな間を置いてから頷き、俺へと再び向き直る。
「見て楽しいってものではないですけど……私の部屋、ご覧になりますか?」
「なるなる。是非見たい」
 拒む理由は微塵もない。俺は二つ返事で了承した。

 彼女の部屋は一階にあった。
 玄関を入ってすぐのところ、廊下を挟んで今と反対側にある部屋がどうやら、藍子の部屋のようだ。
「本当に地味で、大したことない部屋なんですけど」
 謙遜でもなさそうな物言いで、藍子は壁紙と同色のドアを開ける。室内は真っ暗だったが、彼女が照明を点けるとすぐに明るくなる。驚いたことにそこは畳敷きの部屋で、さほど広くない中にシングルベッドと机と姿見、それに背の低い本棚があるだけの、確かに地味と言うか、落ち着いた部屋だった。
 俺はてっきり、もっと女の子女の子した部屋なんだと思ってた。とりあえずふっかふかの毛足の長いカーペットと、フリルのカーテンがついてるようなイメージがあった。それでアンティークっぽいちょっとおしゃれなベッドがあったりして、その上にパジャマ姿で寝転がりながら俺に電話かけてきてるんじゃないかって、普段の彼女からは考えもつかないようなしどけない姿を想像してみたことも何度かあった――が、藍子がいそいそと閉めてるカーテンは取り立てて言及するところのないアイボリーだったし、ベッドは木枠の、二段ベッドのどちらか半分って感じのシンプルさだったし、ラグマットは灰がかった薄青で、イメージしていたほど女の子の部屋という感じはしない。
 ただ、特筆すべき女の子らしさが一つ。
 この部屋、梅雨時だと言うのにとてつもなくいい匂いがします。
「ケーキをお持ちしますから、適当に座って待っていてください」
 藍子はそう言い残して部屋を出て行こうとしてから、思い出したように尋ねてきた。
「コーヒーと紅茶ならどっちがいいですか?」
「紅茶がいい。砂糖入れないやつ」
「アイスティーにもできますよ」
「あ、冷たい方がいいな」
「わかりました」
 屈託のない笑顔を残して、彼女は部屋からいなくなる。ドアは行儀よく静かに閉まった。
 そして一人になった俺は、いい匂いの空気にそわそわしつつ、ラグマットの上に座りつつ、所在無く視線を巡らせてみる。
 基本的に、室内はきれいだ。前に話を聞いた時には『仕事が忙しくなると散らかる』みたいなことを言っていたけど、忙しくない時はいつもこんな風になってるんだろうか。偉いな。
 姿見は指紋一つなくぴっかぴかだし、ベッドも布団がずり落ちてることもなくきちんと整えられている。枕もカバーがぴんとしていて、ここにこっそり顔埋めたりしたら後で確実にばれるな……と思う。いや、やらないけどな。
 和室に合うように考えて置いたのか、机は質素な白木素材。その上も抜かりなく整頓されていて、ノートパソコンと思しき薄さの物体にはタータンチェックの布がかけられていた。他に目を引くものはパソコン用の丸っこいスピーカーくらいのもので、その今にも仕事始められそうなすっきり具合が彼女らしくもあり、意外でもあり。もっと可愛いもので埋まってるかと思ったのに。
 本棚のラインナップは更に予想外すぎた。メインを占めるのはビジネス関係のムック本やら新書やらで、ビジネスマナーがうんたら、営業のノウハウがうんたら、エクセルがうんたらというタイトルがずらりと並んでいた。自分の部屋でくらい仕事のことなんぞ忘れたらいいのに、とこっちが気がかりになるくらいの品揃え。あいつ、読書が趣味みたいなこと言ってたけど、いつもこういうのばっか読んでんのかな……前に貰った礼儀正しいメールも、こういうのと首っ引きで打ったのかもしれない。健気だな、色気ないけど。
 それでも他の段に目を移せば、申し訳程度にシリーズものの漫画とか、名作文学の類もあった。漫画は背表紙とタイトルから察するに少女漫画のようだ。小説の方は、学生時代に読まされたのかなと察しがつきそうな定番の面子が揃っている。最下段にはCDやDVDが収められていた。CDの方は知らないアーティストばかりで、最新のヒットチャートを気にしなくなって久しい俺に若干の危機感を抱かせた。今度何か借りてみよう。そしてDVDはアニメ映画と、バラエティ番組のものが主流。藍子は空から女の子が落ちてきたり城が動いたり猫が恩を返したりする系のアニメが好きらしく、そこだけは実にイメージどおりだなと思った。いかにもすぎる。
 しかし想像どおりだったかそうでないかなんて、目の前に広がる圧倒的な現実に比べたら些細なことだ。俺は今、他でもない藍子の部屋にいるのだ。その事実だけで十分だし、非常に興奮してくる。
 好きな子の部屋に招き入れられてテンションの上がらない男なんているだろうか、いるはずがない。おまけに女の子の部屋ってやつはどうしてこう、いい匂いに満ちているのか。昔、安井が『これ置いてると女の子の部屋っぽくなる』って勧めてきた芳香剤を冗談半分で買ってみたことがあったが、三日も経ったら鼻の方が慣れてしまって、しまいにはなくなったのさえ気づかなかった。寂しい野郎どもがどんなに悪あがきしたところで、本物の女の子の部屋には勝てっこないのだ。藍子の部屋はほんのり甘く、でもそれほどしつこくない匂いがしていて、とりあえずこの空気を肺一杯に収めてから帰らねば、と俺はむやみやたらに意気込んでいた。

 藍子は数分後くらいに、大きな丸いお盆を持って戻ってきた。
「お待たせしました」
 いい色をしたアイスティーのグラスが二個、それからケーキの載った皿が二枚。肩でドアを開けた拍子に細いフォークがずずずっと滑っていたから、俺はとっさに立ち上がってお盆を受け取った。
「これ、どこに置く?」
「あ、すみません。お行儀悪いですけど床にお願いします」
 藍子はそう言って、ラグマットの上にぺたんと正座する。俺も向かい合わせの距離に腰を下ろし、お盆は二人の間に置いた。アイスティーの氷が涼しげな音を立てた。
「この部屋、テーブルがないんです」
 彼女は申し訳なさそうにしていたが、こっちもさほど行儀作法にこだわりたい人間ではない。構わずいただくことにした。
「隆宏さんはケーキ、どっちがいいですか?」
「お前が好きな方選べ。俺は何でもいい」
「私も、どっちでもいいように持ってきたんです」
 ちゃっかりしている藍子のチョイスは、フルーツの乗ったクレープケーキとアプリコットムースのケーキ。酒の後だからか比較的さっぱりしたものを選んできたんだろうか。藍子が選べないって顔をしているから、仕方なく甘やかしてやる。
「半分ずつ食べるか」
「あ……はいっ」
 嬉しそうにしてくれると、俺も嬉しい。
 それで俺たちは一緒に床の上でケーキを食べた。個人的にはアプリコットムースの方が後味もよく、甘さもちょうどよくて好みだった。彼女が淹れてきてくれた紅茶も香りがよくて美味しくて、さっきまで酒を飲んでたって事実さえ忘れそうになる。酔ってる自覚がないわけではないが。
 今のところは、藍子の方が酔っ払ってる。外見から読み取れるのは頬や目元の赤さと、ケーキ皿の交換をした時に触れた体温の高さくらいのものだが、意識がそこはかとなくぼんやりしているみたいだし、話す内容もいつもよりガードが緩くて、ちょっとだけとりとめがない。
「隆宏さんって、ケーキを選ぶのが上手ですよね」
「気に入ってもらえたならよかった。お前好みのを見繕ってきたからな」
「私の好みもご存知なんですね、そういうの、嬉しいな」
 小首を傾げて笑うのがまた可愛い。しかも今の、くだけた物言いが何ともぐっとくる。俺がどきっとした次の瞬間、しかし彼女の視線は自由奔放に、違う方向へ飛んでいく。アイボリーのカーテンに留まったようだ。
 唐突に聞かれた。
「あの、私の部屋、どうですか?」
「意外と落ち着いてるよな。もっと可愛いもので溢れてるかと思ってた」
 正直に答えれば、藍子はえへへと笑って、失敗談でも話すような調子で続ける。
「昔は私も、可愛い部屋に憧れてたんです。カーテンもピンクがいいなあって思ってましたし、あと、ベッドに天蓋が欲しくて」
「天蓋? 畳の部屋にそれは合わないだろ」
 いやピンクのカーテンも甚だしく合わないけどな。それにしても、畳敷きの部屋に天蓋はありえない。和洋折衷はお互いのいいところを取り合うからいいのであって、食べ合わせが悪いのは折衷にもならん。
 藍子の部屋は木造の家具が多いせいか、ベッドや机があってもそれほど違和感がない。このくらいなら許容範囲内だから、無理に可愛くしない方がいいんじゃないか。部屋の主だけでも十分可愛いんだし。
「そうですよね」
 彼女は首を竦める。
「母にも猛反対されたんです、そういうのは合わないからって。その時は渋々諦めましたけど、今になって思えば反対してもらってよかったです」
 確かに畳の部屋は、こと可愛い物好きの年頃の女の子からすれば難を示したくなるような素材かもしれない。おしゃれな家具とはどうにも調和させづらいし、どうしても落ち着いた色合いばかりになってしまう。そういうので藍子も駄々を捏ねたりしたことがあったのかな、なんて思うと、可愛さににやつきたくなる。
「一人暮らしがしたかったんです」
 と、藍子はぽつりと語る。
「本当はしようと思ってたんです。でも大学も家から通える範囲だったし、会社だってそうですし、お蔭でずるずる機会を逃してて……一人暮らしだったら好きなお部屋にできるからいいなあって思うんですけど」
 実は未練があったりするのか、天蓋に。
 さすがにそこまでの趣味は反応に困るな。将来的な展望を見据えれば。
「別に一人暮らしじゃなくたって、二人暮らしでもできるだろ」
 俺は水を向けるつもりで語を継ぐ。
「そのうち一緒に暮らすようになったら、家具はお前が選んでもいいぞ」
「本当ですか?」
 いつものように照れるんじゃないかと思ったが、意外にも藍子は食いついてきた。ぱっと明るい表情になる。
「その時は是非とも選ばせてください」
「任せた。……でもあんまり可愛すぎるのはやめろよ。何よりも俺が浮く」
「そうですか? 隆宏さんならどんな家具でも似合うと思います」
 藍子が断言するから、俺は一応、自分が天蓋つきベッドとピンクのカーテンの部屋にいる状況を思い浮かべてみて――あまりの気色悪さにすぐやめた。つい顔をしかめたら、それがおかしかったのかくすくす笑われた。
「何でも似合うってのはないな。お前好みの路線で想像したら、お化け屋敷みたいだった」
 俺の言葉に彼女は一層笑ってから、
「私も、可愛い部屋はもういいです。それよりも落ち着いて過ごせる部屋にしたいです」
 と言う。
 半分くらいまで減ったアイスティーを一口飲んでから、何かを思うように語る。
「働き出してから実感したんですけど、やっぱり自分の部屋は、寛げるのが一番いいです」
「そうだな。家帰ってまで心安らげないとか、きついよな」
「ですよね……」
 藍子の表情がほんのわずかに陰る。グラスの中の水面に視線を落とし、からからと氷を回す仕種をする。どんなことを考えているのか、顔つきからは読めなかった。
 俺が見つめているのに、彼女もすぐ気づいたらしい。直に口を開いた。
「うちの妹が、今、一人暮らしをしてるんです。あ、さっき言いましたっけ」
「お父さんから聞いた」
 話題がまた急転換したような気がする。これは相当酔ってるか。
「妹とは時々電話とか、メールで連絡し合ってるんです。お互いそんなにマメではないですけど、たまに写真とかも送ってくれて。妹は大学生活も一人暮らしもすごく楽しそうで、心配しなくていいって、いつも言ってくれてます。話を聞いてると本当に充実してて、羨ましくなるくらいです」
 藍子の妹さんはしっかり者なんだよな。それは聞いてた。そうだとしてもお父さんは何だかんだ心配してるみたいだったが、藍子もそうなのか。頼りないなんて言われててもやっぱお姉さんなんだなあ、とでれでれしたくなる。
 世の中には藍子みたいなお姉さんもいるというのに、俺の姉ちゃんは何なんだ。不公平すぎやしないか。
「でも……」
 姉の鑑みたいな彼女が、そこで目を伏せた。
「この間、隆宏さんが『寂しい』って言った時。一人暮らしって本当は楽しいことだらけじゃなくて、寂しい時だってあるのかなって思うようになったんです」
 そう言われて、俺は慌てた。
「い、いや、寂しいってのはお前がいなくて、って意味だからな。俺は一人暮らしなんてもう十年以上もやってるし、今更それだけで寂しくなんかならない」
 全く不本意なことだが独り身の生活にはすっかり年季が入ってる。仕事の後で帰った部屋に誰もいないのなんてごく当たり前で、いちいち寂しいなんて言ってたら身が持たない。いくらなんでもそこまで軟弱じゃない。
 寂しくなるのは一人だからじゃない。藍子がいないからだ。――突き詰めてしまうと結局はそれだけだった。誰かと一緒ならいいってわけじゃなく、一人暮らしが辛いってほどでもなく、単に藍子にいて欲しいだけだ。彼女がいれば寂しくないけど、彼女と出会わなければ今、寂しいなんて思う機会もなかった。そのくらい俺は一人の生活に慣れてたし、女の子と縁のない生活にも、慣れたくないのにすっかり馴染みかけていた。藍子と出会って、一緒に過ごす時間が少しずつ増えていくうちに、そういう感覚まで取り戻してただけのことだ。
 だからもう今となっては、他の誰かで埋め合わせもできない。俺をここまで寂しくさせてる藍子にきっちり責任取ってもらって、一生付き合ってもらうより他に手段はない。
「わかってます」
 事実かどうか、ともあれ藍子は生真面目に頷く。
「妹は、お話ししたようにしっかり者ですから、本当に楽しく一人暮らしをしているのかもしれないし、たとえ本当に寂しくても、そんなことを私には言うつもりないのかもしれません」
 小坂家の姉妹関係が実際にはどんなものか、この目で見たわけではないから俺には何とも言えない。頼りない姉と思ってるのは藍子の側だけで、妹さんは口ではあれこれ言いつつも内心は違う風に考えているかもしれない。しっかり者だと言うなら、家族を心配させまいとあえて強気に振る舞うこともあるだろうし、あるいは彼女の推察通り、初めての一人暮らしが楽しくて楽しくて、親元離れても全く寂しくないって可能性もゼロではない。俺も最初のうちはそうだった。
 それに俺も、寂しいなんてそうそう他の奴には言わない。冗談のノリで言うことはあっても、本気で言いたくなる相手は一人だけだ。
「でも、妹が言ってくれないようなことを、隆宏さんは私に言ってくれたんだから、私は隆宏さんの為にこそ頑張らなきゃって思いました」
 くしくも、藍子がそんなことを言った。
 目が合うと彼女は唇を結び、室内の空気や食べかけのケーキにはまるでそぐわない厳粛な面持ちも続ける。
「隆宏さんに寂しいって言われた時、私は申し訳なく思ったんですけど、でも同時にすごく嬉しいような、誇らしいような気持ちにもなったんです。そう言ってくれるくらい、私のことを信頼してくれてるんだって……」
 そうだけど。間違ってはいないけど、ここまでストレートに言われると俺も照れる。
 でもまあ、誤魔化したり濁したりするようなことでもない。こっちもいい具合に酒入ってるし、はっきり返事をした。
「してるよ。こんなこと、お前にしか言わない」
「ありがとうございます。私、そのお気持ちに報いたいです」
 藍子はまた頷き、普段よりも柔らかさを増した、とろけるような笑みを浮かべる。
「これからはもう、寂しい思いなんて絶対にさせませんから。隆宏さんの為なら私、何でもします」
 その言葉と表情には、むしろ俺がとろけた。
 言ったな。何でもするって言ったな。俺はこういうのしつっこく覚えてる方だから、言葉通りこれからは実際に何でもしてもらっちゃうからな。後で酔いの醒めた藍子が『そんなこと言いましたか?』なんて首を傾げようと無駄だ。履行していただこう。
「私、酔っ払ってるのかな……ちょっと喋りすぎですよね」
 不意に呟いた藍子が、自分の手を湯上がりみたいな頬に当てる。今の今まで酔ってる自覚なかったのか、と突っ込みたくもなったが、しかしこれは考えようによってはチャンスではなかろうか。
 すなわち、普段は恥ずかしがって言ってくれないようなことをぶっちゃけさせてしまうチャンス。
「喋りすぎってほどでもないだろ。気にせず何でも話せよ」
「そ、そうですか? 何か、いろいろ話したくなっちゃって」
「俺はお前の話がもっと聞きたい」
 催促すれば、藍子は安堵したように目を細めた。それから話題を探すように少しの間、沈黙した。
 次に口を開いたのは、一分近く経ってからだ。
「隆宏さんは……あの、質問なんですけど」
「どうした、遠慮なく聞けよ」
「じゃあ、えっと、……私がいつから隆宏さんを好きだったか、ご存知ですか」
 例によって真面目な調子で、そんなことを聞かれた。
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