Tiny garden

とろけるくらいあまく(2)

 一軒家の立ち並ぶ通りに入り、小坂家の佇まいが目視できるところまで来た時、
「あっ……いる」
 藍子が小さく呟いた。
 何が、と彼女の方を振り返れば、やけに気まずそうな顔が俺を見る。
「父が、いるんです。玄関の前に」
 それから俯いて呻くように、
「中で待っててって言ったのに。迎えに出なくていいって……」
 恥らう娘の気持ちを知ってか知らずでか、玄関のドアの前に立つ中年男性が、こちらに向かって軽く手を振った。次に深くお辞儀もしてきたから、俺も同じく頭を下げる。

 藍子のお父さんはポロシャツにツータックのチノパンという、きっとどんな格好をすべきかいくらか悩んだ末に選んだであろう服装でいた。着ているもの自体はカジュアル方向に振れているものの、シャツのボタンはしっかり一番上まで留めているし、髪もこれから出勤されるのかと見紛うほどきっちり整えている。俺もスーツで来といてよかった、と密かに安堵した。
 俺たちが家の門をくぐると、再びお辞儀をして、
「どうも初めまして、藍子の父です」
 人のよさそうな笑顔でそう言った。
 恐らく五十代入りたてってとこだろうか。整髪料で固めた前髪の辺りにだけ白髪がちらほら目立っている。笑いじわの印象的な人で、初対面の相手にも愛想のいいところと、目元の優しい、いかにも温厚そうな顔つきは藍子に少し似ていた。前にちらっとだけ見たとおり、優しそうな人だと思った。
「初めまして。石田と申します」
 立ち止まって挨拶を返せば、藍子のお父さんは少しはにかみながら語を継いだ。
「いつも娘がお世話になっております。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそお招きいただきまして、ありがとうございます」
 俺たちのやり取りを、すぐ傍で藍子が落ち着かない様子で見ている。仕事ではマナー遵守を徹底している彼女も、さすがに身内の前ではどうしていいのかわからないらしい。
「お会いするのは初めてですが、石田さんのお顔は何度か拝見してましたね」
 藍子のお父さんが言う。
 実際、藍子を迎えに来た日なんかに、玄関先まで見送りに出てきたご両親の姿を見かけたことが何度かあった。そういう時、挨拶をしようかと俺が申し出ても、彼女は頑なに拒んだ。――うちの両親は話が長いですから! とか何とか言って。それが事実かどうかはまだわからないが、道すがら聞いた話によれば、正しい選択ではあったのかもしれない……。
 ともあれ、一応は詫びておく。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
 俺の言葉にお父さんは、いえいえと片手を振った。
「藍子には前から言っていたんですが、なかなか首を縦に振りませんでね。ご存知かと思いますがうちの娘は非常に恥ずかしがり屋でして」
「……だって」
 ぼそっと、藍子が口を開く。しかしその後には何も続かず、藍子のお父さんが間を繋ぐみたいにそこで苦笑した。
「何せ、今の今までうちに彼氏を連れてくるなんてこともなかったほどなんですよ」
「い、言わなくていいから!」
「藍子はそういうことには全く晩熟と言いますか疎いと言いますか――」
「お父さん!」
 辺り近所に響きそうな声を上げる藍子。それでお父さんは楽しそうに笑いながら、玄関のドアを開ける。
「まあ、立ち話もなんですから、どうぞお入りください」
「お邪魔します」
 そうして、先に入ったお父さんの後を追い、俺も立ち入ろうとしたところで――くいっとスーツの袖を引かれた。
 早くも茹蛸状態の藍子が、上目遣いで訴えてくる。
「話題を変えるのにどうか協力してください……っ!」
 いや、そう言うけどこれはちょっと難しくないか。どうも藍子のお父さんはなかなか饒舌そうな人のようだし、そこに愛想のよさや人懐っこさが加わったらそれはもう無敵だろう。俺が初対面だろうとまるでお構いなく、いろいろぶっちゃけてきそうな予感がする。ひしひしとする。
「やるだけやってみるが、無理だったらごめんな」
 とうに無理そうな気がしたので、先に謝っておく。
 すると藍子も神妙な顔つきになって、
「私も頑張りますから」
 とは言っていたが、分の悪い戦いだと思う。
 そして、俺にとっても他人事ではないなという予感もまた、ひしひしとする。

 小坂家の居間に招かれた。
 一軒家だけあって居間は広く、ざっと十八畳。三人掛けのソファーとアームチェアがテーブルを囲むように配置されている。すぐ隣に対面キッチンがあり、そこから藍子のお母さんがぱたぱた歩み出てきた。薄茶色のワンピースの上に、クリーム色のエプロンを着けている。
「あ、いらっしゃいませ。今日はようこそお越しくださいました」
 声質が藍子によく似ていて、ちょっとどきっとした。
「初めまして。お招きいただきましてありがとうございます」
「ええ、初めまして。藍子の母でございます」
 恐らくお父さんと同世代ではないかと思われるお母さんは、次にじっと俺の顔を見た。細面の顔立ちはやや涼しげで、上品な立ち振る舞いのご婦人だったが、俺を見ている時の表情は好奇心旺盛そうで実に若々しい。その後で浮かべた表情は明るく、藍子が嬉しそうにする時と印象がそっくりだった。顔のつくりはお父さん似で、表情はお母さん似のようだ。
「あら本当、藍子が言っていたとおりの素敵な方ね」
 お母さんが言うと、それに俺が反応するより早く、
「いや、お父さんもびっくりした。本当に男前なんだもんな、文句のつけようもない」
 先に居間に入っていたお父さんが同意する。
 俺だって見てくれを誉められて悪い気なんぞちっともしないんだが、二人が妙に納得したそぶりなのが気になった。とりあえず、それほどでもと謙遜しようかと思えば、
「藍子ったら、去年からずっとあなたの話ばっかりなんですよ。すごく格好いい主任さんにお仕事教わってるんだって」
「ち、違うよ! ばっかりってほどじゃないもん」
 お母さんの言葉を素早く否定する藍子。しかしそれをお母さんは、からかう風でもなくむしろ真面目な口調で否定し返す。
「ばっかりってほどだったじゃない。大体あなた、営業課に配属になった最初の日に浮かれて帰ってきたでしょう? 覚えてない? 『おじさんかと思ってたら、素敵なお兄さんが新人指導の担当だった』って」
「それは……確かに、言ったけど」
 言ったのか。
 浮かれて帰ってくる藍子を想像すると可愛い。素敵なお兄さん、だなんてファーストインプレッションから思われてたのは嬉しい。でもこういうのって当事者としては反応に困る。せっかく誉められたのににやけてちゃまずいよな。
 ちらっと隣に目をやったら、居た堪れなさそうに目を伏せていた藍子も、ふと俺を見た。途端に大慌てで弁解してきた。
「あ、あの、浮かれてたところは確かにちょっとだけあったかもしれないですけどっ! でもルーキーとしてお仕事を頑張ろうという気持ちもちゃんとありましたから! 本当です!」
「大丈夫、わかってるよ」
 藍子の真面目さは十分に知ってる。知ってるからこそ逆に、真面目な彼女にもそういう現金さがあるってところに親しみが持てると言うか、いとおしくなる。
 俺が新卒の女の子! ちょっと前まで女子大生! って日々浮かれていた頃、藍子も俺ほどではないにしても似たようなことでうきうきしたり、仕事頑張るぞって気持ちになってたかって思うと、ときめくな。しかも当時三十歳目前だった俺を捕まえて、お兄さんと来ましたか。そんなことを親御さんに浮かれて話している藍子を想像するだけでしばらくご飯三杯はいける。
「石田さん、どうでしょうか。うちの娘、ちゃんと働けてます?」
 仕事のことに話が及ぶと、藍子のお父さんも生真面目そうな顔つきになる。
 ここは目一杯誉めてやらねばと思い、力を込めて答える。
「もちろんです。二年目にして毎月の予算もきっちりこなす戦力となってくれてます。それに藍子さんがいると、課の空気が明るくなるんですよ」
 それでご両親は揃って胸を撫で下ろし、藍子も口元が緩むのを堪えるようにして息をつく。ご期待に添う答え方ができたかと俺も安堵した拍子、お母さんが口を開いた。
「いつも、こんな風に誉めてくださってるんですね。誉められて帰った日の藍子は、本当に嬉しそうなんですよ。子供みたいにはしゃぎながら着替えもしないで、主任が、主任がってそればっかり――」
「わああ、お母さん!」
 藍子が悲鳴に近い声を上げたので、俺はすかさず持参してきたウイスキーの箱を差し出し、
「そうだ、これ、つまらないものですが」
「おお、わざわざすみません」
 それをお父さんが恭しく受け取り、はたと気づいたようにお母さんに声をかける。
「お母さんも座らせないうちから長話ってことないだろう。まず乾杯だ、乾杯」
「そうでしたね。じゃあすぐにお料理持ってきます」
「あ、お母さん。これも主任が買ってきてくださってて……」
 ケーキの箱を掲げる藍子に、お母さんは目を瞠り、『お気を遣わせたみたいで』と頭を下げてくる。居た堪れない話題はひとまず、無事に打ち切られたようだ。
 しかし、手土産を差し出したことでもはや俺の残機はゼロである。次に件の話題が来たら一体どうやって話を逸らすべきか、悩ましい問題は終わらない。なんて無理ゲー。

 乾杯の前に、藍子のお父さんとは名刺の交換もした。それによるとお父さんは県庁にお勤めの地方公務員であらせられるとのこと。安定職、羨ましい。
「どうぞ寛いでください、足も崩して」
 勧められたので俺は上着を脱ぎ、下座に着いた。
 キッチンからは藍子が顔を覗かせて、
「主任、何飲みます? まずビールでいいですか?」
「ああ」
 今、さりげなく俺を『主任』って呼んだな。やっぱり親御さんの前じゃ、名前では呼びにくいんだろうか。やっぱり恥ずかしがり屋さんなんだなあ。
「お父さんは? ビールでいいの?」
「うん。チルドに入ってるやつな、グラスも一緒に持ってきて」
「はーい」
 藍子のいつもより甘えたような返事の直後、冷蔵庫の開く音が聞こえた。すぐに、缶ビール三本とグラスを三個抱えてきた彼女が、居間まで戻ってくる。
「何だ、藍子も飲むのか」
 お父さんは驚いていたが、彼女は口を尖らせて答えた。
「だって、素面だとやってられない気がするんだもん」
 確かに。俺も内心密かに同意する。
 それから藍子と藍子のお母さんは料理の皿を次々に運んできた。食事というよりはまさに酒の席という印象のメニューばかりだ。刺身の盛り合わせにたけのこや昆布の煮しめ、枝豆、魚介類のマリネ、小魚のフライなどなど。
「石田さんはお魚が好きなんですもんね」
 藍子のお母さんはそう言って、軽く微笑む。
「今日のメニューは藍子が考えてくれたんですよ。『主任はお魚が好きだから』って言って……ね、藍子?」
 水を向けられた彼女は、うん、と聞き取りづらいほど小さな声で答えると、俺の隣にちょこんと座った。
「最近はお料理の練習もしてるんですよ」
 お母さんは更に続ける。
「今までは私たちが言ってもなかなかやろうとしなかったのに、最近になって急になんです。やっぱり彼氏ができると変わるものなんですね」
 それに対して、藍子からの反論は特になし。ただ、横目でちらっと俺を見てきたので、話題を変えて欲しいのかなと思った。いや俺的にも今の話は少々興味あるところなんですが。やっぱりしてるのか、練習。次は何作ってくれんのかなー。楽しみだなー。
「お父さんには、何にも作ってくれないのになあ……」
 ビールのプルトップに手をかけながら、お父さんがぼやく。その言葉と猫背気味の姿勢からは哀愁を感じて、さしもの俺も罪悪感を覚えた。すみませんお父さん、藍子さんは必ず俺が幸せにしますから。
 缶ビールを冷えたグラスに注いで、ひとまず乾杯。
 お父さんと藍子は普通にぐいぐい飲んでいたが、お母さんだけはお神酒用みたいな小さな小さなコップで、ほんの二口ほど飲んだだけだった。そういえば藍子も『母はあんまり飲めないんです』って言ってたっけ。
 となると、藍子が割かし行ける口なのはお父さんの影響なのかもしれない。
「しかしこういうの、憧れだったんですよ」
 気を取り直したようにお父さんは、俺に向かって語る。
「ほら、うちは娘二人ですから。息子ができて一緒にお酒が飲めるなんてのはもう、憧れでしてね。それでなくてもずっと三対一で、私の立場が年々弱くなってく一方で」
 お父さんの視線がすっと動いて、居間に置かれた立派な食器棚の中へと留まる。
 曇りのないガラス戸の向こう、きれいなグラスやティーカップの並ぶ中で、同じように大切そうに置かれているのは大判のフォトスタンドだった。どういう場面で撮られたものなのかはわからないが、藍子の背格好から察するに、最近の写真であるのは間違いないと思う。藍子とご両親、それにもう一人、藍子と背丈のそう変わらない女の子が、おめかしした格好で並んで写っている。この距離からだとはっきりとした顔つきまではわからないが、もう一人の女の子が恐らく、藍子の妹なんだろう。
「下の娘は去年、大学に行きましてね。家を出て一人暮らしをしてて、そっちはそっちで心配なんですが」
 話しながら、お父さんの視線が戻る。俺の隣でビールを飲む藍子に、優しい目を向けている。
「藍子は藍子で、これまた気がかりだったんですよ。石田さんならご存知かと思いますが、誰に似たのかやけに真面目で、融通の利かない性格になってしまったもので、この歳まで浮いた話の一つもなくて」
「……主任、遠慮せずどんどん召し上がってください。お煮しめとか、美味しいですよ」
 話を逸らす気満々の藍子が、小皿に煮しめを取ってくれた。その気配りはもちろん嬉しかったが、俺としては語りたがってるお父さんの気持ちだって蔑ろにはできないし、困ったものだ。
「親としては、そんなに急いで結婚することもないって思うんですがね、しかし浮いた話がないならないで不安にもなるものなんですよ」
 お父さんは実に気分よさそうに話し続ける。グラスのビールもいいペースで減っている。
「でも去年辺りから急に、ついに藍子も色気づいてきたみたいで、ああこれは……と思ってた矢先に石田さんの話ばかりするようになって。父親としては覚悟半分、嬉しさもまあ半分くらいでしばらく見守ってきたわけなんですが」
「主任、ビールの次は何飲みますか? 水割りですか、それともまたビールですか?」
 ものすっごい強引な割り込みを試みてきた藍子。いや待て、その振りは無茶だ。
「まだ半分も飲んでないよ」
 持っていたグラスを見せると、藍子は一瞬ぐっと詰まった。しかしすぐに気を取り直した様子で、勢い込んで聞いてくる。
「じゃあ、ケーキはいつ食べましょうか?」
「……お前、話題変えるの下手だな」
 そのぶきっちょさがあばたもえくぼみたいな感じで、俺には可愛く見えちゃうんだが、思わず笑ってしまったところにお父さんの声が飛んできた。
「石田さん、どうですかうちの娘。親の私が言うのも何ですが、可愛いでしょう」
 瞬間、藍子がはっとしたように俺を見た。
 既に酔っ払ってしまったみたいに――って、俺は彼女が酩酊してるところを生で見たことはまだないものの、頬を赤らめて目を潤ませた彼女は俺を見つめてから、上擦ったような声で訴えた。
「あああの、こ、答えなくていいです。本当にいいです。スルーしてください是非っ!」
 そうは言っても、スルーなんぞできっこない。
 お父さんは俺が答えるのを今か今かと待ち構えているし、お父さんの語りっぷりをにこにこと見守っていたお母さんも、今は俺と藍子の方へ視線を移してきているし、答えないわけにはいくまいて。
 何より、ここで適当にお茶を濁したり、スルーしたりするような男など、大事な大事な娘をくれてやるに値しないって親御さんなら思って当然だ。俺は子供なんていたことないしそもそも未婚だが、それでもそのくらいはわかる。親ってのはそういうもんだ。そして男ってのは、こういう時にびしっと答えられるようでなくちゃいけない。
 だから、答えた。
「可愛いです、とっても!」
 力の限り答えた。
 本当に本音で答えるなら、俺は藍子のことを軽く一晩は語り続けられるくらいに可愛いと思っている。まあ語り続けたところで最後の方は、言葉にもならない呻きや荒い溜息なんかを連発しつつ、一人身悶えるだけで終わりそうな気もするが、とにかくそのくらい可愛い。藍子の為なら人生懸けてもいいって思ってるし、実際この先の人生設計を考えるにあたって、そこに藍子がいない、という可能性はゼロだと思っている。そのくらい可愛いし、好きだ。
 俺の答えを聞いたお母さんはほっとしたように笑い、お父さんはさっき言ったとおりに覚悟半分、嬉しさ半分くらいの表情になって、ゆっくり肩を下ろした。
「そうでしょう」
 しっかりした声で、心底満足した様子でお父さんは言葉を継ぐ。
「可愛いんですよ、藍子は。親の欲目だけでそう思ってたのかと不安でしたが、よかった。見る目のある方がいてくださって」
 後半はどことなく、冗談めかして続けられた。
 そういう見る目なら、いっそ俺だけが持ってるくらいでもいいんだが。そんなことを思いながらビールのグラスを傾けた時、隣からは吐息交じりの呟きが聞こえた。
「もう……!」
 抗議したいのにできない、言いたいことがあるのに言えないってそぶりで藍子は呟き、それから親御さんには見えないように、テーブルの下でそっと、俺の肘をつまんできた。別に痛くもなく、くすぐったいくらいの感触。
 俺は藍子のそういう態度が可愛くて堪らなくて、でもおおっぴらにでれでれできない時 にそういうことするなよお前、みたいな気分でちょっとむずむずする。仕方ないから俺の部屋に帰ったら、一人で思い出しでれでれしよう。って言うか、しようって決めておかなくても勝手になるだろうな。
「ところで……こんなことを聞くのも何ですが」
 いろいろ堪えてる俺に対して、藍子のお父さんが尚も問う。
「具体的に、うちの娘のどの辺が可愛いですかね」
「ちょっ、お父さん!?」
 藍子は噛みつくような勢いで、お父さんに向かって声を上げた。しかし向こうは向こうで娘の態度を不満に思っているようだ。どこかしら拗ねた口ぶりで曰く、
「だってお父さんは、藍子が石田さんをどのくらい好きかは散々聞いてきたけど、石田さんがどう思ってるか聞くのは初めてだからな。いろいろ聞いてみたっていいじゃないか」
「言ってない、散々なんて言ってないもん!」
 頑張って否定したがっている藍子だが、そこにお母さんも口を挟んで、
「言ってたじゃない。お母さんもちゃんと覚えてますよ、会社での話をする時は決まって石田さんのことを話してるんだから。主任が優しくて格好よくてって、もう本当にそればっかりで」
「お母さんも! これ以上ばらさなくていいから!」
 否定もできなくなったか、彼女は制止に入る。しかしお母さんは全く取り合わず、俺の顔を再びじっと見た。納得したように頷きながら、
「そうそう。目が好きだって言ってたのよね、石田さんの」

 藍子はもう俺の顔すら見なくなり、居た堪れなさの極みといった横顔のまま俯いた。
 そして俺に対し、早口気味にこう言った。
「わ、私、仕事中にそういうことだけ考えてたんじゃなくて、ちゃんと真剣に仕事のことだって考えてたんです。たまにはそういうことも思っちゃったりしてましたけど、でもごくたまにです。本当なんです……!」
 いや、わかってる。わかってるけどな。
 俺としても、親御さんから話に聞く藍子は正直意外すぎて、ちょっと面食らっている。俺と似たようなことを考えてたりしたのか。真面目そうに見えても、実際ものすごく真面目な性格してても、感情部分を簡単に切り離せたりするものではないんだろうな。そういう藍子の方が、親しみも持てるし可愛いけどさ。
 ただ、藍子のこと、結構知ってるつもりでいたのに、知らないことはまだまだあるもんなんだなって思った。
 あと、惚れ直してもらうつもりで来たのに、俺が惚れ直しちゃってどうするんだ、とも思った。
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