Tiny garden

世界で一番すきなひと(6)

 帰さなきゃいけないのはわかっていたから、残りの時間も心して過ごした。
 日曜はずっと二人でいちゃいちゃしていた。結局どこにも出かけることなく、一歩も外には出ず、藍子の頬っぺたが磨り減りそうな勢いでくっついていた。もちろんあのぷくぷくした頬は俺がいくらくっつこうと頬擦りしようとちゅーしまくろうと一ミリたりとも減ることはなく、いつまでもいつまでもぷくぷくと柔らかかった。そして、こっちまで焦げつきそうなくらいに熱かった。まだまだ寒い二月に暖を取るならちょうどいい、だから俺は、彼女を片時も離す気になれなかった。
 楽しい時間ほどあっという間に過ぎてしまうもので、夕方になると俺は、彼女を家まで送っていくという実に憂鬱かつ面白くもない理由で車を出さなければいけなくなった。ここでぐだぐだしようものなら三十歳のしょぼさここに極まれりという感じだから、黙って潔く連れて行ってやった。彼女は彼女で別れ際に自分から手を握ってくれたり、寂しそうにしながらも微笑みかけてくれたり、『すぐ明日にはお会いできるんですよね』なんて言い聞かせるみたいに言ってきたりして、本当に帰すのが辛かった。しかしノーベル忍耐賞受賞者としてここでとんぼ返りなんぞしたら大顰蹙だと、我慢に我慢と我慢を重ねて彼女が車を降り、家に入っていくまでを見送った。
 明日、月曜には会える。それは事実だから、男らしく胸張って一人で帰った。

 ――まあ、何だかんだでその晩に電話しちゃったんですがね。
『すぐに会えるのは嬉しいですけど、どきどきしますね』
 と、数時間前に送ってったばかりの可愛い可愛い声が言う。
『どんな顔してたらいいのかなあって……あ、あの、変な顔してても笑わないでくださいね。私もなるべく、普通にしてますから』
 お前に平然と普通の顔なんてできるのか、と俺はこっそり思う。
 だが、どんな顔して会えばいいのかってのは案外他人事でもない悩みだ。俺だっていざとなったら思いっきりにやにやしてしまいそうな気がする。少なくとも普通にしてるには努力が必要となりそうだ。営業課の連中に気づかれたら冷やかされまくって面倒なことになるだろうし、用心せねば。
「俺も気をつける。顔はともかく、勤務中は名前じゃ呼べないからな」
 そう言って何となく溜息をつくと、藍子ははにかむように笑って、
『わかってます。いつも通り呼んでください』
 いつも通り、か。そのうちに名前呼びの方がいつものことになったりするんだろうか。是非ともそうなりたい。だがその前に、俺の方も名前で呼んで欲しい。いつまでも役職呼びだとちょっとな、まるで悪いことしてるみたいな気分になる。
『私は呼び方、変わらないですけど……それでもやっぱり、何だか恥ずかしいです』
 折りしも藍子がそんなことを言ったので、ああこれは当分先の話になりそうだ、と苦笑いしたくなった。もうあれだ、しばらくは俺の顔見るだけでどぎまぎしちゃう感じになるんだろ。本当に、結婚するまでずっとこんな調子だったりしてな。
「恥ずかしがるなよ、いつも通り呼べばいいだけだろ」
『そうなんですけど』
「素直に名前で呼んどきゃ恥ずかしくなかったんじゃないか」
『それはそれで、絶対に恥ずかしかったような気がします』
「詰んでるなお前、明日大丈夫か?」
『……が、頑張ります。ご迷惑だけは絶対にお掛けしません』
 藍子は、健気さだけはいつも通りだ。いたいけな子、と過去に霧島だったかが評していたが、そんな子を大変美味しくいただいちゃった俺はまさに悪いことを、むしろ大悪事を働いたのかもしれない。
 悪いことしてるみたいな気分が、悪かった、とは言わない。藍子の俺に対する呼び方こそいつも通りではあったものの、その声音はまるで違った。初めて聞く舌足らずな口調で、助けを求めるように許しを請うようにずっと俺を呼び続けていたのが堪らなかった。日本中に『主任』と呼ばれる人間なんてきっと大分いるだろうが、あの時の彼女は俺しか呼んでいなかったし、俺しか欲していなかった。そうして声が嗄れるまで繰り返し繰り返し呼ばれていたことを悪いなんて思えるはずもなく、今でも甘ったるい感覚ごと脳裏にはっきり再生できるくらいに覚えていて、いつまでも忘れられなくなりそうな――。
『――主任、あの』
 いきなり、耳元でそう呼ばれた。
 それで俺は一瞬、あれ、藍子まだ傍にいたっけ、なんて錯覚をしてしまい、
「えっ? あ、え、ええと、何だ?」
 すぐに我に返ったものの、格好つかない返事をする羽目になった。
『あ、あの、何ってこともないんですけど』
 藍子も俺の反応に驚いたのか、吐息混じりの上ずった声で続ける。
『何て言うか、バレンタインデーを一緒に過ごせて、う……嬉しかったです』
 相も変わらず彼女の不意打ち戦法は効果的すぎた。俺はその一撃で呆気なく陥落し、人にはもはや見せられないでれでれの態度で、そのくせたっぷり十秒間くらいの深呼吸の後に、俺も、と答えた。そして彼女がくれたチョコレートリキュールの味を唐突に思い出し、今夜はあれ飲んでから寝ようか、などと柄にもなく浸っちゃってる心境になるのだった。
 俺、いつかときめきすぎて倒れるんじゃなかろうか。

 彼女を帰した後の日曜の夜さえそんな具合だったから、俺は月曜の朝を異様なほどのハイテンションで迎えていた。
 朝七時に家を出て、もちろん営業課に一番乗りした。自分でも認める、ただの馬鹿だ。別に彼女に会う為だけに会社来てるんじゃないだろうに、その分の給料が出るわけでもないのに、今週はまだ始まったばかりなのにここまで張り切っちゃって大丈夫か俺。
 しかし誰もいない職場でとりあえず備品の補充とか、書類の整理なんかをしていると、じわじわと込み上げてくるものがあったりする。――先週の金曜日もここにいて、普通に仕事したり何だりしてたわけだが、あの日とは気分がまるで違いすぎた。あれからたったの三日しか過ぎてないのに、その間いろんな出来事が、しかももれなく幸せな出来事ばかりが起きてしまった。夢のような土日の記憶は、気が重くなって当然の月曜日さえ浮つかせてくれる。一人でいてもにやにやしてくる。やばい。笑わないでくださいね、なんて言われてたのに、この分だと彼女の顔見て笑ってる、みたいに誤解されちゃいそうだ。引き締めておかねば。
 さて、その笑われたくないかわいこちゃんは一体いつ頃やってくるだろう。
 あいつも真面目な奴だから結構な頻度で朝早くに出勤してくるが、今日みたいな日はそうであって欲しいなと切に願いたくなる。早く会いたいってのもまあちょっとはあるが、それ以上に大事なのはあれだ、他の連中がいる時に顔合わせたりしたら若干照れるというか、面食らっちゃうよなってとこだ。普通に挨拶とかしてるつもりでも俺はにやにやしちゃいそうだし、彼女はもじもじしてそうだし、そんなところを誰かに見られたらまた冷やかしの材料作ってしまうだけだ。だから最良なのは二番乗りが彼女で、他に誰もいないうちにシミュレーション的にいくつか会話を交わしておくことだ。そうでもして慣れとかないと、仕事にも差し障りがありそうでまずい。
 いや、俺は全然平気だけどな。
 別にどうってことないけど、でもあいつはそうでもないだろ、間違いなく。

 そして俺が出勤してから五分後くらいに、営業課のドアが再び開いた。
 何だか予感でもしているみたいに、そろりそろりと開いた。ドアの蝶番が金属の音を立てる中、ドアの隙間から慎重に、見慣れた顔が覗いてきた。室内にいるのが俺一人だと確かめたか、気まずげに口を開く。
「お、おはようございます……」
 やっぱり、そうでもなかったか。
 大体今のそれ、中にいるのが本当に俺一人だったからよかったものの、他に誰かいたらあからさまに怪しがられるじゃないか。今みたいな、いかにもびくびくしてますよっていうわかりやすい態度でいられたら、俺だって困る。
 仕方なく、なるべく平然と応じてやる。
「おはよう、小坂」
「……はい」
 消え入りそうな声の後、彼女は――小坂は、室内に入ってきた。
 静かにドアを閉め、コートとマフラーまで固まってそうなぎくしゃくした動きで自分の席へと向かう。その不審さと言ったら、社内中の皆さんに気づいて欲しいと言わんばかりだ。
「普通にしてろよ」
 思わず声をかけた。
 途端、びくりとした小坂はカバンを落っことしそうになり、それを両腕で抱えてから俺の方を見て、必死に弁明してきた。
「だっ、大丈夫です! 全然大丈夫です!」
 頬っぺたが真っ赤なのも、外が寒いからという理由だけではないはずだ。
 しょうがない奴め。
「そうは見えないから言ったんだ」
「すみません……でもあの、普通にしてますから! もう少ししたらちゃんと!」
 言い張る彼女はそのぎこちない動きのままで机の陰へと消えてしまい、程なくして椅子の軋むぎいっという音がした。しかしその後には何の音も続かない。コートを脱ぐ気配も、カバンを開ける気配もない。
 壁掛け時計がこちこち言うのが聞こえるくらい、静かになる。
 俺も話しかけるべきとは思いつつ、下手なこと言って余計に動揺させるのもなあ、と困惑してしまう。今の小坂ならどう声をかけてもうろたえてしまいそうだ。だからと言って放っておくのもかわいそうだし、どうしたものか。
 ぼんやりと考えをめぐらせていれば、その間はまんまと重たい沈黙が続き、息苦しさに耐えかねた次第に俺も焦ってくる。とにかく黙ってるのがきつい、何かないか、何か適当な話題を早く見つけないと――などと頭を捻っているうちに、はたと気づく。
 どうして俺が、話題探さなきゃなんておろおろしてんだ。
 いや、そもそもうろたえてるのは小坂だけだろ。俺は別にどうってことないし、女の子と一夜を共にしました、なんてのが初めてなわけでもなし。次の日に顔を合わせた時にどんな話をするかなんて大した悩みでもないはずだ。そりゃ確かに、会社でそういうシチュエーションになったのは初めてですがね、だからって何話しかけていいか悩むとかないわ。俺は上司であいつは部下なんだから、それっぽい仕事関係の話を振ればいいんじゃないのか。と言うか無理に話さなくたって沈黙が重いとか感じる必要ないだろ。こっちが息苦しくなるとかおかしい、つい昨日までは顔眺めてるだけでも幸せだって思ってたのに。
 あ、そうか、顔か。顔見ないで考えてるから駄目なのか。
 それだって昨日電話もしてるんだしおかしな理屈ではあるんだが、でもあの可愛い顔見れば話題も湧くだろうと思って、視線をそっち向けた時、
「小坂」
「ああああの、よろしいですかっ」
 俺の声と彼女の声がまたいいタイミングで被った。
 ついでに勢い余った様子で立ち上がっていた彼女と目が合い、彼女の方がいち早く、わかりやすく赤面した。まずった、と声を失う俺をよそに、真っ赤になった小坂は目を逸らしながらも言葉を続ける。
「主任が……お、お先にどうぞ」
「は?」
 何が、と思った次の瞬間には、
「話をする順番、です」
 説明があって、俺はすぐに理解したものの。
 あれ。
 どんな話をしようとしてたか、とっさに忘れてしまった。
 いや、忘れたんじゃなくて――そうだ、違った。何話そうか考えてたんだよな。小坂の顔見ながら考えようと思って、それでとりあえず呼んでみただけで、特にまだ決めてはいなかったんだ。だから順番を譲られても困る。大層困る。
「お前、先でいいぞ」
 逆に俺が譲ってみたら、小坂の方も戸惑った表情になった。まさか何も考えてなかったのか。
「あの……では、仕事のことで、質問があるんですけど」
 そして口にした話題も俺のアイディア候補と大差ない。職場で話すにはぴったりだけどな。お互い話題探しに苦心してるってことか。
「ああ。何でも聞け」
「ありがとうございます!」
 胸を撫で下ろした小坂が、そのまま俺の席まで駆け寄ってくる。しかしまだコートを着たまま、マフラーを巻いたままだったから、このうっかりさんめと注意をしてやりたくなる。
「待て。まずそれ脱いでから来い」
 俺がそう言った途端、小坂の歩みがぴたりと止まり、
「え? あっ、えっと」
 その時の顔がいかにも何か思い出したような、溶け出しそうな恥じらいっぷりに見えたので、さしもの俺も慌てた。
「ば、馬鹿、違うって! 脱げって言ったのは変な意味じゃなくて!」
「わわ、わかってます! 大丈夫です!」
「わかってんだったら普通にしてろよ!」
「どっちかって言うと何が普通なのかわからない感じなんです!」
 そりゃもう重症だ。俺も他人のこと言えてないけど。
 ともあれ小坂は不器用そうな手つきでマフラーを解き、コートも脱いで、畳んでから、改めて俺の席までやってきた。項垂れた姿勢でおずおずと、質問を切り出してくる。
「ええと、質問があるんですけど」
「……ああ」
 目の前に立たれると、視線の置きどころにも困る。男相手ならこういう場合、ネクタイの結び目見ろとか言うが、女の子の場合はなあ……ましてそこに何があるか、知ってるんだから尚まずい。
「ホワイトデーのことなんですけど」
 小坂は俺の視線にも気づかず続ける。
「お返しって、大体いくらくらいにしたらいいんでしょうか」
「お前がお返しすんのか? 三月に?」
 またすっとぼけたこと言ってるのかと俺は吹き出しかけた。が、小坂は紛れもなく本気のようだ。更に続けた。
「実は、営業チョコをいただいちゃったんです」
「お前が? あげたんじゃなくてか」
「はい。営業先で、受付のお姉さんに」
「へえ……まあ、目的考えりゃおかしなもんでもないのかもな」
 カレンダーとか手ぬぐい並みの品なんだから、小坂がチョコ貰ってきたって別段おかしくはない。まして甘いものなんか、おっさん相手に配るより女の子にあげた方が確実に喜ばれるだろうしな。小坂なんて格好の贈り先だろう、実に食べさせがいのある食いしん坊だ。
「それで来月、お返ししようと思うんですけど、どのくらいのがいいのかなって」
 小坂は話しながら、胸の前辺りで両手を組み合わせた。女の子らしいその仕草につられて、俺の目もついそちらへ留まってしまう。
 スーツとブラウスに包まれて全く見えなくなってはいるが、一昨日つけた跡はまだ残っているはずだ。消えないようにって念入りにやったんだから間違いない。もっともそれを、土日のうちに小坂が気づくことはなかったわけだが――それはもう、目に入っていないかのように完全スルーだった。明るいところでも見たはずなのに、着替えだってしたくせに。もしかしたら気づいてはいたが、やっぱり『ぶつけちゃったのかな?』程度で済まされたのかもしれない。小坂ならありうる。
 別に気づいてくれなくてもいいんだけどな。次の機会には教えるから。今のところは俺が知ってるってだけでも満足だ。でも正直、ちゃんとついてるかどうかを確かめたい気持ちはある。そのスーツのジャケットや白いブラウスに包み隠されている中身を、すべすべしてて瑞々しかった肌を是非とももう一回眺めて、ちゅーしまくって、今度はもうちょっと跡のつくように噛みつきたい。彼女がまた、俺を呼び続けていないと正気を保ってられないくらいに、
「――主任?」
 違う。もうちょっと色っぽく。
 そんな勤務中みたいな呼び方じゃなくて。
「あの、主任……大丈夫ですか?」
 ぼんやり眺めていた視界が切り替わる。スーツの隙間に見える白いブラウスの胸元ではなく、彼女の顔に。それも酷く心配そうな。
 俺の思考も切り替わる。――と言うか待て待て待て! 今何考えてた俺!
「うわ、えっと、悪い! ちょっとぼうっとしてた!」
 急いで頭を振ると、屈んで俺の様子を窺おうとしていた小坂が気遣わしげになる。
「いえ、ぼうっとしてただけならいいんです」
「悪かった。本当ごめん」
「あ、謝っていただくようなことでは! 具合悪いのかなって思ってたから、よかったです」
 話を聞いてなかった俺に、天使みたいな優しさを向けてくる。罪悪感がずーんと来た。
 すみません。具合悪いどころか超元気にいかがわしいことを考えてました。もう頭の中はピンク一色でえらいことになってました。この変態駄目人間って容赦なく罵ってくれても構わないのに、藍子ちゃんと来たらどうしてそんなに優しいのか。愛してる。結婚しよう。
「年度末ですから、お身体とか、大事にしてくださいね」
 俺の内心の求婚を知ってか知らずでか、小坂は照れたように微笑む。可愛い。
 それで俺はまたトリップしかけたものの、ここは職場だと思い直して話題を戻した。
「ホワイトデーの話、だったよな」
「そうです」
「お返しは……まあ、営業チョコの時と同じくらいでいいんじゃないか。あんまり張り込んでも気を遣わせるだけだしな」
 本当は貰ったチョコの値段を調べられたらいいんだが。でもそういうのをピュアハートの持ち主にやらせるのも気が引けるというか、せっかくの夢がなくなっちゃうよな。
「そんなものでいいんですか」
 小坂が驚いたように唸ったから、俺はすかさず突っ込んでおく。
「まさか三倍返しとか、律儀に考えてたんじゃないだろうな」
「えっ! どうしてわかっちゃったんですか?」
 本当に考えてたのか。
 そもそもお前は本来なら貰う側だろうに――ということはあれか、貰う側としても三倍返し希望ってことなのか。小坂の性格なら営業チョコにそこまでの期待は寄せてないだろうが、それ以外についてはどうか。本命だったら、あげた分の三倍くらいは貰っても当然と考えたりしてるんだろうか。
 彼女がどう思ってようと、俺は元よりそのつもりだ。ただ貰った分の三倍となると、何で返せばいいのか皆目見当もつかない。猶予は一ヶ月しかないから、早めに決めとかないとまずいな。
「そっか、チョコと一緒くらいでいいんですね。忘れないように用意しておきます」
 張り切る小坂の顔も可愛い。仕事に差し障りそうなレベルで可愛い。

 そんなこんなで彼女と、ぎこちないながらも仕事の話を続けていると、三番乗りで霧島が現れた。
「おはようございまーす」
 眼鏡を曇らせつつ営業課に乗り込んできた霧島は、それでも俺と小坂の影には気づいたようだ。こちらに向かって挨拶をし、すぐに小坂が応じた。
「あ、おはようございます霧島さん!」
「小坂さん、おはようございます」
 口元だけははっきりと笑んだ奴は、そのまま自分の席に向かうと、コートを脱ぐよりも先に眼鏡を外してそれを拭いた。そして掛け直してから、あれ、と訝しげにする。
「先輩。いたんですか」
「いたよ。気づけよ」
「だって挨拶しても返事もないですし……それに何ですか、その顔」
 顔がどうしたって。こっちも負けじと訝しがってやれば、霧島は呆れたように答える。
「何か引きつってません?」
「は? 何でだよ」
「いや、すっごい微妙な顔してますって。小坂さんとのひとときを邪魔されて、むかついてるんですか?」
 霧島は無神経にもからかう調子で言い、
「そ、そんなまさか! ちっともそんなことないですよね、主任!」
 俺に先んじて慌てふためく小坂を、当の俺は何とも言えない気持ちで見ていた。
 おかしい。どうしてこんなやり取りに、ここまでどぎまぎしてるのか。霧島にやり返せないほどとかどうなんだ。やばくないか。

 まさか本当に、ときめきで倒れる瞬間が近づきつつあるのか。  
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