Tiny garden

世界で一番すきなひと(5)

 名前を書いておきたい、って思ったことが何度もある。
 現実的にはそんなことできないし、書いたところでそんなに効力ないってのも事実だ。見えるところに書かないと誰にもわからないし、しかし見えるところに書いてあるとみっともない。
 俺が藍子に鬱血とか噛み跡とかいろいろつけたくなったのも、その代償行為なんだと思う。
 それだって服着てしまえば絶対見えないようなところにつけるようにした。そうしないといくら藍子にだって嫌がられるかもしれないし。噛み跡に至っては、むしろ跡が残らないように極力気をつけて噛みつくようにした。本当はもっとがぶっとやってしまいたかったが、もうちょっと痛がらないことを確かめてからの方がいいと思って、抑えた。藍子はどちらも目をつむっただけで受け入れてくれたし、相変わらず『くすぐったい』と言うばかりで、他にどうこう言ってくることもなかった。
 後になってからその痕跡に気づいたら、藍子はどんな反応するだろう。

 一気に波が引いた後、部屋の中はアイスを食べていた頃並みに静かになった。
 俺が後始末のあれやこれやを終えていそいそとベッドに戻った時、藍子はまだ服を着ていなかった。壁際の方を向き、真っ白い背中を晒したまま、まるでもう寝ついたみたいに黙っていた。相変わらず無防備な背中にべたっと手を置いてみたら、未だにしっとり汗ばんでいる。呼吸は大分落ち着いてきたらしく、それほど大きな動きはない。
「こっち向けよ」
 ベッドの中でにじり寄りながら、俺は声をかける。
 もったいつけた長い長い沈黙の後、藍子の身体がのろのろ反転した。気まずげな顔がくるりとこっちを見た。
「あんまり、見ないでください」
 酷くかすれた声が、乾いた唇から発せられる。湿らせてやろうと思って軽く舐めたら、気だるげな動作で逃げようとする。
「見ないでください、顔……」
 逃げながら、もう一度言われた。
 そんなことお願いされても、こうも至近距離にいてお互い向き合ってたら自然と目に入っちゃうもんだろう。一人暮らしの部屋にそこまででっかいベッドが置いてあるはずもなく、二人で寝そべったら肩がくっついちゃうくらいの狭さだ。横を向けばまさに目と鼻の先に藍子がいる。俺はその狭さが幸せなのに、彼女は居心地悪そうだった。
「顔以外なら見てもいいのか」
 覗き込んだら伏し目がちにされた。隠すように胸の前で両手を組んだ彼女は、しかし少し経ってからぎこちなく顎を引く。
「……いいです」
 キャミソール一枚で攻防戦を繰り広げた相手とは思えぬ寛容な回答だった。いくら全部見せてもらった後とは言え、あの藍子がそんな発言をするとはなかなかに信じがたい。
 むしろそこまでして、今の顔を見られるのが嫌なのか。
「何で顔は駄目なんだよ」
 俺はそう尋ね、直後に彼女が息をつく。その吐息すら嗄れていた。
「だって、変な顔してますから、恥ずかしいんです」
「変じゃない、可愛いって」
 すかさず訂正してやったところで頑なに聞き入れない。喉を震わせて繰り返す。
「絶対変です。だから、恥ずかしくて」
 顔よりもそのかすれた声の方が、よっぽど恥ずかしがるべき変化じゃないかと俺は思う。
 もちろん、今の空気がそういう、いろいろ盛り上がっちゃった後にクールダウンした流れにあることもわかっている。ようやく呼吸も落ち着いてきて、ぐったりするほどくたびれていて、でも頭は妙に冴えていてついさっきまで目の当たりにしていた別人みたいな自分と相手の言動を反芻し始める頃なんだろう。
 気になるんなら鏡でも見てくりゃいいのに。藍子は本当に変な顔なんてしてないし、ちゃんと可愛い。薄暗くてもはっきりわかるほどに真っ赤になってる。終わった直後に顔も拭いてやったのにまだ額とか頬っぺたとかにほつれた髪が張りついてる。目は涙に濡れてるけど、それが怖さや悲しさから来る涙じゃないことも見ればわかる。そこだってさっき拭いたばかりなのに直に潤んできて、いたたまれないそぶりで枕カバーを見つめ続けている。可愛い。
 現在に至る小一時間を振り返ってみても、惚れた欲目を差し引いても間違いなく可愛かった。いつもと違う顔はしてたが、でもそれだって変じゃないし、可愛い。
 それに、我ながらおっさんくさい感想だけど、どの瞬間でもにやけたくなるくらい初々しかった。声をどう出していいのかがわからなかったみたいで、代わりにずっと俺を呼び続けていた。あの鼻にかかった、いつもと違う甘えたような声で――結局最後まで名前じゃなくて役職呼びだったが、あらかじめ宣言もされていたし、別に雰囲気が壊れるとも思わなかった。それどころか。
 結果、彼女は声を嗄らしてしまって、さっきから喉をひゅうひゅう言わせている。
「痛くないか、喉」
「……ちょっとだけ」
 短く答えたところからもダメージの深刻さが窺える。戻ってきたばかりで離れがたいが、放ってもおけない。
「何か飲むか」
「お、お構いなく」
「そんな声して遠慮すんなって。お茶系でいいよな?」
「じゃあ、あの、何でもいただきます」
「わかった、取ってくる」
 俺がベッドを抜け出した途端、藍子は勢いよくこちらに背を向けた。
 初々しいにもほどがある。そんな反応されたら俺まで恥ずかしくなってくる。

 冷蔵庫から買い置きのウーロン茶を一本取る。お茶と水とアルコールしかないラインナップが男くさくていかんな、と思う。次からは藍子好みなのも仕入れておかねば。
 それからペットボトルを指の先にぶら下げ、寝室へと取って返す。
 戻ってみれば薄暗い部屋の中、藍子はベッドの上に起き上がっていた。さっきまで結構ぐったりしていたからもう起きれるのかって点にも驚いたが、彼女が既にキャミソールを身に着けて、更にはフリースのルームウェアまで着込もうと頭に被っていたところだったからより驚いた。鬱血しているはずの部分も、もう見えなくなっていた。
「もう着るのかよ!」
 つれねえな、と俺は落胆したが、彼女は彼女で愕然と聞き返してきた。
「だ、駄目なんですか?」
 一生裸でいろと命令されたわけでもあるまいに、俺の反応がどうしてかショックだったらしい。そのまますとんとルームウェアを下ろし、一時間ほど前と同じ姿になってしまってから、ぼそぼそ言った。
「でも、寝る時は着なきゃいけないですよね」
「むしろ着るな。素っ裸でいちゃいちゃしながら寝つくのがいいんだろ」
 情緒のない奴め、と俺は霧島みたいなことを藍子に対して思う。考えてもみて欲しい、余韻を楽しむということの大切さを。ただやって、終わったら服着て、じゃあ寝ますおやすみなさいなんて義務的で寂しすぎる。お互い好きだって思ってんだし、俺なんてお前の為なら人生だって賭けられるぜってとこまで来てるし、お前だって半端な恋愛感情だけで泊まりに来たんじゃないんだろ。だったらもうちょっと、さっきまでの時間をあっさり済んだことにしないで欲しいって言うか。性欲抜きでべたべたするのも俺は好きだし、お前とは是非そうしたいんだけどな。
「き、着ないで寝る……んですか」
 すっかり元通りの格好をしてる藍子が、唯一元通りじゃないかすれ声で呟く。それから俺の方は頑として見ないまま、苦し紛れの口調で続けた。
「だけど、主任は……」
「何だよ」
「その、パンツをはいていらっしゃいますよね」
 藍子は、さっきからずっと俺のことを見ないように見ないようにしてる割には、俺がパンツははいてるって事実を知っているらしい。なぜだ。でもそこを追及すると、藍子は真剣にへそを曲げてがっちり着込んだまま布団の中に立てこもりそうだったから、触れないでおくことにする。
 と言うか、はくだろ。パンツは。
「そりゃお前、いくら俺の部屋だからってお前のいるとこで丸出しで歩くのは……」
 できないよな。間抜けだもんな。
 でも、とそこでふと考え直して、俺は彼女に持ちかける。
「考えてみりゃそれも今更か。じゃあ脱ぐかな、もう俺も全部見せたもんな」
 すると藍子は首が取れるんじゃないかって速度で面を上げ、
「見てないです!」
「嘘つけ、見ただろ?」
「見てないです!!」
 あれ、そうだっけ。俺はにやにやしたが、藍子が頭から煙の出そうな勢いで震え始めたから、やはり追及はしないでおく。
 彼女の座ってる横に腰を下ろして、とりあえず持ってきたペットボトルを、蓋を開けてから差し出す。彼女はそれを会釈をして受け取り、こくこくと数口飲んだ。そして深く息をついてから、少しだけ回復した声で言った。
「本当ですから」
 何が、とうっかり聞きかけてすぐに気づき、俺はまたにやにやする。
「わかったわかった、そういうことにしといてやるよ」
「しとく、とかじゃなくってです! 本当に本当なんですよ、だって――」
「わかったって。お前は見てない、絶対見てない」
 俺は、見たけどな。それはもう網膜に焼きつけるぞってくらい。
 ただ心のメモリ容量にも限界はあるんだよな。こればっかりは買ってきて増設なんて真似もできやしない。だから他のどうでもいい記憶を押しのけて、何より一番印象的で鮮明な思い出として取って置く為に、五感全部でこの夜と、お前を覚えておきたい。お前とはこれからもずっと一緒にいられるだろうけど――つか俺がもう逃がしませんけど、でもこの夜はあと何時間かしたら確実に終わっちゃうんだ。どうしたって避けようもなく。
「明日も予定空けてるだろ? お前も夕方くらいまでは帰るなよ」
 ペットボトルを二人で回し飲みしつつ、話の続きをする。
「でも、このままずっと帰さないってわけにもいかないだろ。明日はなるべく家まで快く送り届けてやりたいし……だからほら、今くらいは俺に譲れ」
 わざとタイムリミットについて触れてやったら、藍子はまんまと神妙な顔つきになった。さっきまでの恥じらいすら忘れて、じっと強く俺を見て、それからゆっくり俯く。
 小声で、答えがあった。
「じゃあ、歯磨きしてきますから、その後でもいいですか」
「歯磨きと来たか」
 あまりに唐突な単語が来たから、俺は危うくウーロン茶でむせかけた。藍子は妙に慌て出して質問を重ねてくる。
「ね、寝る前にはしますよね、歯磨き! それも何か変でしたか? こういう時、普通しないものなんですか?」
「変じゃない。するよ、するけどな」
 そうだよな、虫歯になったら困るもんな。でもせっかくいい雰囲気になってるって思ったのに歯磨きの話とか、なあ。――いや、さっきまでパンツの話とかしてたからムード云々は元から微妙な線か。ただ藍子の今の一言で、日常の空気が戻ってきたことは否定しきれまい。
 むしろそういうのも悪くないよな。日常も夢みたいな時間も一続きで、その全てに藍子が存在しえるっていうのは実に幸せな生活だと思う。歯磨きの話もパンツの話もいつか当たり前みたいにするようになるんだろうけど、だからっていいムードが作れないってわけでもないだろ。そうやって行ったり来たりしながら暮らしていくのが一番幸せに違いない。
 そんなことを思いながら、俺も日常的な話題を提示してみる。
「俺は朝イチで洗濯機回すから。そしたらお前が帰る頃には確実に乾いてる。だからその可愛いパジャマとか、キャミソールとか、洗濯機に放り込んどけ」
「あ、ありがとうございます……」
 藍子は素直に応じると、やがてベッドから下りて立ち上がる。
 それからぎこちない動作で部屋を、よろよろ出て行こうとするもんだから、俺もつい黙っていられなくなって聞いた。
「筋肉痛か?」
「違いますっ!」
 思いっきり否定されたが、多分明日には違わなくなってると思う。

 お互いに歯磨きやら何やらを済ませ、居間の電気も消して、さっきよりも暗い寝室にいる。
 約束通り藍子はルームウェアもキャミソールも脱いでくれた。どうせなら脱いでるところも見たかったが、頼んでも強硬に拒まれた。そして子犬みたいにすばしっこく布団に包まって完全防御の態勢を取る。
「もう全部見たって」
 俺は藍子の気持ちをわかってるくせに、やっぱりそういうことを言いたくなってしまう。
「自分でも言ってただろ、顔以外なら見ていいって」
「それは、あの、さっきまでです。今はもう駄目です」
「何だよ、意外と移り気だな藍子は」
「で、でも、何だか恥ずかしくなってきちゃって」
 言い張る気持ちはよくわかる。藍子もいろいろ思い出してじたばたし始める時間帯なんだろう。俺とは違って純粋な彼女が、さっきまでの出来事を一体どんな風に顧みたりするのかはちょっと興味がある。家に帰ってからとか、仕事中とかでも、ふとした瞬間に今夜のことを思い出しちゃったりして一人で赤面したりするのか。うわ、想像したら俺がやばい。
 それでもこうしてもう一回脱いでくれたのは、藍子にとってもその時間の記憶が気持ちいいものだったからじゃないかと思う。――いや、性的な意味じゃなくて。本当はそれも含めたいけど一旦は置いといて、何にも着ないで直に体温感じたり、直に触れ合ったり、こんな時じゃないとありえないほど近いところから他愛ない会話を交わしつつべたべたする時間が、彼女にとっても不快ではなかった、ってことじゃないか。
 現に、ぴったりくっついても彼女は逃げなかった。抱きしめて足を絡めたらびくっとされたが、嫌だとは言われなかった。俺が差し出した腕枕に、おずおずとながらも頭を預けてくれた。
「重くないですか」
「全然。……あ、お前の頭が軽いとかそういう意味じゃないからな」
 明日ちょっと腕がだるくなってるかもしれないが、この幸せなひとときと比べたらどうってことない代価だ。また至近距離から彼女の顔を眺められる。
 くりくりした目や柔らかい頬っぺたや、よく食べる割に小さな口。長くてさらっさらの髪の毛とその隙間から見えるちょこんとした耳。パーツの一つ一つが可愛くて好きだ。仮にどこが一番好きかって聞かれたら真っ先に頬っぺたを挙げるけど、でも他のところだって好きだ。形がどうこうじゃなくて、もちろん形も悪くはないが、何よりそれらが藍子のものとして意思を持って動かされたり、ままならない感じで言葉よりも正直になったりするから、だから好きなんだと思う。
「中身相応に軽かったらよかったんですけど」
 と、藍子は本気の調子で言う。
「中身も軽くないだろ。いろいろ詰まってんじゃん」
 たまに俺でも予想のつかないようなぶっとんだ考えが入ってるよな、この頭には。軽く撫でてやったらほんの少し、嬉しそうな顔になった。
「でも、主任には全然敵わないです」
「何がだよ」
「中身の詰まってる度合いって言うか……やっぱり知識量がすごいなって、いつも思ってます」
 余計な知識も満載だけどな。
「お前より七年多く生きてんだし、知識量で負けてたらまずいだろ」
「それは言わば年の功ってことですよね」
 事後の余韻とかいい雰囲気とかそういうのを全く酌まず、至って真面目に藍子は語を継ぐ。
「時々思うんです。私がもし三十歳になったとして……」
「もうそんな先のこと考えてんのか」
「考えてます。三十になったら、主任みたいな立派な大人になれてるかなって」
 立派って、買い被りすぎじゃないのかと俺は思う。藍子はそうやって他人には過大なくらいの評価をするくせに、自己評価はものすごく低く置いてるきらいがある。と言うか、自分で設けるハードルが高いんだよな。あれができなきゃいけない、これができてないとおかしいって、そんなことばかり考えてる。
 営業課ではルーキーゆえにマスコットみたいな扱い受けてて、皆にこぞって可愛い可愛い言われてて、愛想がいいとか挨拶がはきはきしてるとか、その程度のことでも誉められるようなルーキーイヤーの真っ只中にいるのに。藍子は、そういう立場に甘んじているのが納得いかないみたいなそぶりをよく見せる。面と向かって誰かに反発できるような性格ではないからか、その納得のいかなさを全部自分の能力のせいにして、やたら重い荷物を背負い込んでる。俺と付き合ってからも相変わらず、肩の力を抜いてる気配は見受けられない。
 性分みたいなもののようだから、勤務中はもうしょうがないとしてもだ。だったらせめて、俺といる時くらいは気楽にしてればいいのに。ハードルなんて最初のうちは思いっきり低くていいんだ。もうスキップでも跳べちゃうくらいでさ。で、不満足だったとことか、上手くできなかったとことかは場数を踏んでいくことでカバーすればいいんだよ。俺もそうやって、お前に立派と言ってもらえるくらいには鍍金できてる三十歳になったんだから。
「なってみろよ、三十に」
 前にも言った覚えのある言葉を、俺は彼女に囁く。
「案外大したことなくて、お前、きっと『なーんだ』って言うぞ」
「大したことないんですか? そうは見えないです」
「全然しょぼい。俺がしっかり見届けてやるから、せいぜい覚悟しとけ」
「ふうん……」
 藍子は目を丸くしている。そういう表情は二十三歳にしてもちょっとあどけなく見えて、それはそれでなかなか可愛い。しかし、こいつが三十になったら俺は三十七か――直視したくない現実だ。そして俺は三十七になったって、大したことない、しょぼいって毎日のように思い知らされてそうだ。藍子と一緒なら間違いなく。
 直視に堪えない現実は置いておこう。
「違う話していいか」
 俺は真面目な路線から脱却すべく、そう水を向けてみた。
「どうぞ」
 すぐさま藍子は頷いてくれたので、早速尋ねる。
「お前、寝る時ノーブラなのか」
「ええ!? な、な、何でですか!」
「いや、キャミの下に着けてなかったから。いつもそうなのかと思って」
 どうせすぐ外すから、とか、下着の線がついちゃうと興ざめだから、なんて理由で着けてこない場合は考えられる。が、藍子がそんなところにまで頭回るとは思えない。だから多分、いっつも着けてないんだろう。
 やっぱあの時、パジャマ画像送ってもらうべきだったか。
 彼女は焦ったように答えた。
「そう、ですけど……だって、苦しくないですか? 寝る時も着けてたら」
「俺が知るか。着けたことないし」
「あ、確かに」
 今初めて気づいた、といった風に藍子は瞬きをする。次いでどういうわけか、くすっと油断したみたいに笑った。
「すみません。馬鹿みたいなこと言いました」
「いいよ」
 ほんの一時ではあったが、久々に笑顔も見れたし。
 久々ってほどでもないんだろうけどな。ただ、小一時間くらいは見てなかったから、不意打ち食らってどきっとした。
「俺は馬鹿みたいな話だって、お前とならしたい」
「本当ですか? よかった……」
「いつでもいいからな。どーんとぶつけて来い」
「わかりました。考えておきます!」
 それで彼女はいやに意気込んでたようだが、馬鹿みたいな話でも肩に力入っちゃうのかと、今度は俺が笑ってしまった。そんなに張り切って考えとくようなことでもないんじゃないか。楽しいから、いいけど。
「明日の朝飯、何がいい?」
 また違う話題を投げかけてみる。藍子は難しげな面持ちになる。
「ええと……何でもいいです」
「遠慮とかすんな、好きなの言え。さすがに朝から甘いのは無理だけどな」
 朝からケーキ、なんて藍子ならやりそうだ。でもどうしてもって言うなら、起き抜けにコンビニまで行ってやらんこともない。俺はいつもご飯に味噌汁派だが、こういう時は合わせてやるから。
 しかし彼女は考えあぐねているようで、やがて困ったように息をつく。
「あの、私、あんまり考えられなくて」
「何食べようか迷ってんのか。贅沢な悩みだな」
「そうじゃないんです。……何か、胸が一杯で」
 もじもじと口元を覆った後で、微かな声が続いた。
「食べたいものが浮かばないんです。今はまだ」
「……そうか」
 思わず、どう応じていいのかわからなくなった。
 そして迂闊にも、感動してしまった。俺が、この俺が、南蛮揚げだのパフェだのを遂に凌いで彼女の心を独占したという、これはつまり歴史的勝利の瞬間じゃないか。食いしん坊で名を馳せる藍子が、まさか食べ物のことすら考えられないまでになるとは――今夜のことは一生忘れられなくなりそうだ。いろんな意味で。
「私、何て言うか……」
 電気を消しておいたお蔭だろうか、藍子は真っ直ぐに俺を見てくる。声はごく小さいが、拾えないこともなかった。
「すごく、びっくりしたんです」
「何が?」
 俺が聞いても答えはなく、
「何だか本当に、びっくり、したんです」
 ボリュームを一層絞って、同じ言葉が繰り返された。
 それで俺が、彼女の驚きの理由を推察し始めれば、彼女の方も聞き取れないほどに小さく、かすれ気味に言う。
「だから、私、変な顔してなかったかなって……心配だったんです」
 こいつは、余裕があるのかないのかどっちなんだ。
 でも、そんなものなんだろうな。女の子のこういう時の気持ちとか、全くもってわからないけどさ。やっぱすっごい不安で、ちょっとしたことにびっくりさせられて、身体にも結構な負担かかったりして、それで後になってからどうでもよさそうなポイントばかりに気を取られて、反省したりやきもきしたりするものなんだろうな。で、合間合間で緊張を誤魔化すみたいに口数多くなったりして。
 そんな彼女に対して、俺はどこまで年上らしいフォローができただろうか。わずかに気になった。
「可愛かったよ、めちゃくちゃ」
 俺は半分くらいの本音で応じる。残りの半分は口にしちゃいけないと思ったから――ぶっちゃけ、もっかいしたいって思った。もう本当、駄目な大人だって自覚あるけど、ほんの数秒前に女の子の不安とか負担とか緊張とかをあれこれ気遣うようなことを考えてみたくせに、その裏側では全く逆のことを思っちゃうんだから手に負えない。本能はどこまでも正直で、こうやって本音で打ち明けてくれた彼女にも欲情する。絡めた足がひんやり冷たくなってて、興奮してんのは俺だけなんだよなって思っても、そういう熱はなかなか引いてくれない。
 そのくらい可愛かったんだって。
「全然変じゃなかった」
 本音の半分を覆い隠したまま、俺は彼女に告げる。彼女の反論も遮る為に素早く、
「だから、また泊まりに来いよ。じゃないと寂しいからな」
 と言った。
 そしたら藍子は無言のまま、ごく小さく頷いた。改めて抱き寄せたら俺の胸に彼女の胸が当たって、馬鹿みたいに無性にどきどきした。

 ほどなくして藍子は、いち早く目を閉じ、安らかな寝息を立て始めた。
 もしかしたら大分前から眠たかったのかもしれない。電池が切れたみたいにこてんと寝てしまった。俺も少し眠くなっていたけど、もったいない気もしていたから頑張って起きていた。
 布団を軽くまくったら、彼女の胸の上辺り、鎖骨の下に連なるように鬱血がいくつかあった。さっきは何にも言わなかったけど、藍子は気づくだろうか。気づいても何だかわからないって思うんじゃないだろうか。どっかにぶつけたかな、なんて考えそうな気もする。
 それがいいってわけじゃないが、最初はこんなもんかもしれない。だんだんとわかっていけばいい。俺と寝る度にそういう痕がついて、それで何をされた場所に残ってるかって考えるようになって、そのうちに痕を見るだけで思い出すようになっちゃえばいい。書いておけない名前の代わりに、そういうのを事あるごとに、刻み込むみたいに残しておきたい。
 最初のうちは、本人も気づかないくらいでいい。
 明日の朝だってどうせ、ひたすらあたふたしてそこまで見る余裕もないだろうし――だから明日は、笑ってくれたらそれでいい。さっきみたいに可愛く、でもいろいと思い出しつつはにかみつつ笑ってくれたら、俺も次に向けての希望とか期待とか持ちつつ、百パーセント確実に惚れ直すから。
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