Tiny garden

世界で一番すきなひと(4)

 本来ならここは劇的な場面になるはずだった。
 諸々あって長らく飛び込めなかった領域にそろそろと足を差し入れた時、恋人が初めて名前を呼んでくれたら、それも優しく優しくその名前を口にしたら、きっと麻酔みたいに不安も怖さも震えも取っ払えて、自然に身を任せられるようになるんじゃないかって――我ながら都合のいい想像ではあるものの、ともあれそんな計画を密かに立てていて、俺はこの時に呼んでやろうと思ってた。
 なのに彼女の反応はさほど劇的でもなく、麻酔にかかるどころか思いっきり身構えてしまっている。動かなくなっただけならまだしも、どうして俺が今になって名前を呼んだのか、ちゃんとわかってる顔をしてる。運動会で号砲が鳴ったらこんな感じになるんだろうなっていうような、覚悟の面差し。別にそれが駄目だってわけじゃないが、何で驚かないのかは疑問に思った。
 間違いなく誰かがばらしたんだろう。俺が彼女を大分前から『藍子』って呼んでること。でも本人に対しては一度も呼んだことがなかったから、それで彼女はいつ呼ぶのかという点を推測して、今日の覚悟に至ったに違いない。あるいはその推測の段階までもが誰かの――どっちかの入れ知恵なのかもしれない。十分ありうる。
 どっちか、だよな。二択までは簡単に絞り込める。
 問題は二人のうちどちらなのかって点だが、どっちにしても嫌な感じだ。霧島なら倫理的な観点からとか何とか、せっかく前向きになってる彼女に冷や水を浴びせてそうだし、安井ならもっと、彼女が理解しきれないディープな内容までべらべら喋ってそうでやばい。

「誰から聞いた?」
 内心少々焦りつつ、それを表面に出さないよう俺は尋ねる。
「誰か、ばらしてたんだろ? 俺がお前のこと、陰では名前で呼んでたって。誰から聞いてた?」
 そこで彼女はようやく、驚いてくれた。
「え、どうして……」
「そりゃわかるよ。お前、ちっとも驚いてないもんな」
 本来ならもっとドラマチックな場面になる予定だったんだ。
 次の展開に向けて弾みをつける為の。
「俺だってばれないとは思ってなかった。聞いてるのも無口じゃない連中ばかりだしな。ただ、ありのままを話されてたら困るとこもある、だから聞いてる」
 彼女は答えずに、一瞬だけ目をぎゅっとつむった。
「教えたのは霧島か? それとも安井か? 霧島ならまだいいが、人事課長殿ならいろいろと厄介だ。――他にも俺について、聞いてることがあるだろうから」
 霧島がどんな馬鹿真面目なことを唱えようが、こうして二人でここにいるって時点で問題はほぼない。でも安井は、女の子相手に言うなよってことまで暴露したがるから本当やばい。男同士だからそういうのも気軽に言えてんのに。しかもこの子はあれだぞ、純粋培養のまっさらな二十三歳だぞ。あんまり変なこと吹き込んだら耳に毒だ。と言うかそういう教育は俺がするから。
「誰から聞いた?」
 指通りのいい髪を梳いていたら、指の先が柔らかい耳に触れた。彼女はまた目をつむる。長い髪はいつまでも触っていたいくらい気持ちがいい。
「何か、他に聞かされたか? 例えば、お前の口からじゃ言いにくいこととか」
 なかなか答えてくれないから、もうちょっと踏み込んで聞いてみた。
 するとためらいがちに口を開いて、
「誰から聞いたのかは言えません。約束、しましたから」
 と言ってきたから、嫌な予感は一層深まった。
 約束。そういえば以前、してたよな。二人だけの秘密だからとか何とか思わせぶりなことを――あいつか。あいつなのか。
「俺にもか」
 どうにかして白状させたい。しかしこっちの確認にも、彼女はあっさり頷くばかりだ。
「……はい」
 どこまでも素直なのは長所でも欠点でもあるな。俺に対しては素直でいて欲しいが、他の奴はいいよ。放っておけよ。じゃないと俺が一人でじりじりする羽目になる。
 こちらの不満を見て取ってか、彼女は弁解するみたいに続けた。
「でも、他に聞いたのは別におかしな話でも、悪い話でもなかったです。主任が私のことを幸せそうに語っている、っていう話だけです。それを見ていたらその人も、幸せな気持ちになってくるんだって」
 その弁解も素直すぎた。あまりに素直で、もう白状したようなものだった。
 霧島も安井もそんな人のいい物言いは絶対にしない。賭けてもいい。そうなると他に、俺の裏の発言を知ってる人物と言ったら、あと一人しかいない。
 まさかあの人が喋っちゃうとは予想だにしなかったが――先に名前を呼ばれた件も含めて、全く油断ならないお人だよ。女の子同士の繋がりはまさにミステリー、男の知らないところでどんな情報が行き交ってるかわかったもんじゃないな。
 よし。俺もそのうち、霧島の裏の発言を吹き込んでやろう。
 悪巧みは後でゆっくり考えることにして、
「そこまで言ったら、誰から聞いたのかばればれだ」
 思わず苦笑すると、彼女の声も表情も引きつった。
「え!? う、嘘、冗談ですよね?」
 むしろ今のでばれないと思っちゃうのが見込み違いだ。らしいと言えば、実にらしい。
「嘘でも冗談でもない。……でもまあ、俺も知らないふりをしといてやるよ。そこまでわかれば十分だ」
 ばればれって言うなら俺の方こそ、なんだよな。
 俺が営業課の可愛いルーキーを気に入って、やらしい目で見てて、いつの間にやら普通に惚れ込んでて、って過程を霧島たちは全部知ってる。多分、俺が自分で開けっ広げに打ち明けた以上のことをあいつらは察してて、面白がられたり、冷やかされたりしてた。それも気がつけばあいつらだけじゃなくなってて、もう既に社内の噂にすらなってるようだ。もう何にも隠せてない。
 でも彼女に対しては、本当に、もう隠す必要がないんだと思う。単純に好きってだけの気持ちのみならず、この後やらしいことしちゃうから逃げないで付き合ってくれって気持ちも、この先何年何十年とずっと離したくないくらい惚れてるんだって気持ちも、ここまで来たら隠しとく意味すらない。知られたくないこと、でもない。
 お前が俺の発言集を洗いざらい聞いたら、どんな反応するか読めないけど――でも、俺はその駄目なところや変態じみたところも含めて全身全霊で、お前のことが好きだ。お互い曝け出しちゃえば恥ずかしくもないだろ。少なくとも俺はいいよ、どれだけ見られようが知られようが。
 だから、藍子。お前の全てもこれから、見たい。
 髪の隙間から覗く可愛い耳の輪郭を、指で軽くなぞってみる。
 それだけで藍子はまた目を閉じ、すぐに開けてから身をよじった。
「くすぐったい、です」
「くすぐったい? 違うだろ」
 逃げる気配を察したから、顔ごと身体ごと寄せて追いかける。単にくすぐったいだけなら、目を開けてられないなんてことはない。
 藍子も気づいたような顔をして、その後で全身を強張らせた。肩も声も唇も寒いみたいに震え始める。
「あの……本当は、その、笑っていられたらよかったんでしょうけど、無理みたいです。ご、ごめんなさい……」
 それでも殊勝な思いをたどたどしく伝えてこようとする。そんなに頑張んなくてもいいのに、俺がついてるんだから。――軽くキスして、こっちも伝えておく。
「気にするな。明日、ちゃんと笑ってくれてたらいい」
 俺も努力はするけど、もし八方手を尽くしても上手く笑えなかったとして、お前が申し訳ないなんて気持ちになることもない。こうして二人で過ごした時間を幸せだって思ってくれて、明日起きた後くらいにでもまた思い出して、その時に噛み締めるみたいに笑えたらそれでいい。
 幸せにする。これから先もずっと。
「そ、それと、あの」
 何から話していいのかわからない様子で、藍子は口だけをぱくぱくさせる。少ししてからやっと聞こえてきた声は、やっぱりまだ震えていた。
「私、このルームウェア、今日の為に買ってきたんです」
 見て欲しいってことなんだろう。
 その申し出には粛々と従い、俺は改めて彼女の姿を眺める。ゆったりしたデザインのルームウェアは起きてる時こそ身体の線を上手く隠してくれるけど、こうして仰向けの姿勢だと大体の形が浮かび上がってしまう。微かに膨らんでる胸も、柔らかそうな腹も、両手で抱えてみたくなるような腰も、頬っぺた並みに食べ応えがありそうな脚も――そう思うと小粒のドット柄も裾のフリルも、何だか色っぽく煽るみたいに見えてくるから不思議だ。
「よく似合ってる」
 誉めてやると、藍子はちょっとだけ嬉しそうにした。
「あ……ありがとう、ございます」
 男の家に泊まるのにこんな可愛いパジャマを買ってくるような女の子を、俺は今から好き放題しようと企んでいる。けしからん。藍子だって、脱がされる為に新品のパジャマを買ってきたわけではないだろうに。
 いや、そうでもないのか。俺の目を意識して、今日の為に買ってきたんだもんな。
「少し、もったいないくらいだ」
 にわかに惜しい気もしてきた。だってこのパジャマは藍子の意思表示みたいなものだ。今後、このパジャマを着た姿も着てない姿もいくらでも見ることはできるだろうが、今日、この瞬間の為にこれを身に着けている姿を見られるのは、今だけだ。
 取っておけたらいいのに。
 俺の為にって懸命になってる彼女を、後で繰り返し再生できるように記録しておけたらいいのに。
 でもどんなに上手いこと記録しておいたって、生で見たものの破壊力には敵いっこない。それはもう散々わかってることだ。せいぜい悔いのないよう夢中になるしかない。
「お、お気付きかもしれないですけど私、その、あんまりスタイルのいい方では、ないです」
 藍子は更に、そう続けた。
 見ればわかる、と思った。
「馬鹿。そんなことまで気に病むなよ」
 俺がいつからお前を見てきたと思ってる。中身を見てないうちから大方の予想はつくから、そこで駄目だと判断したら端から惚れたりしてない。大体、何を着てようと可愛いんだから、何も着てなくても可愛いのだって間違いない。心配するようなことじゃないだろ。
「気に病んじゃいます、だって」
「俺はお前なら何でもいい。せいぜい揉めるだけあればいい」
 フォローのつもりで言ってやったのに、どういうわけか藍子はそこで考え込む表情になる。
 揉めるだけあるだろうか、なんて考えてるのか。いくらなんでもそのくらいはあるだろ、普段から詰め物してるとかでなけりゃ――詰めるんだったらもうちょいかさ上げしといた方がいいくらいだ。随分と盛り控えめだから。
 控えめなのが嫌いだとは言わないので、そこだけはお間違いなきよう。
「他に、言っておきたいことはあるか、藍子」
 彼女の意識を引き戻すべく、次の言葉を急がせてみる。ここまで持ち込んでも焦らされるなんて実に苦行だ。もう何もないなら、そろそろ。
「ええと、私――主任のことを、主任って呼んだままでも、いいですか?」
 そこで藍子はいろいろと台無しな発言をした。
 既に俺が、ちゃんと彼女を恋人らしい呼び方で呼んでいるにもかかわらずだ。一応、俺にだって名前はあるんだけどな。『主任』って呼ばれ方よりはよっぽど付き合いの長い名前が。お前にあげた名刺にも、それはしっかり印字されていたはずだ。
「せっかくだから名前で呼べよ」
 そう要求すると、えらく困ったように頭を振られた。
「む、無理です、全然無理ですっ」
 やってみたら案外大したことないかもしれないのに。今までだってそうだったじゃないか、手を繋ぐのも休みの日に会うのもちゅーするのだって、やってみたら思ってたほどには大変じゃなかったし、悪くないもんだっただろ。違うか。
 そんな風に気軽に気楽に、俺のことを呼んでくれたら。
 ――もっとも、そっちに意識を取られて他のことに集中できなくなられても困るか。仮にここで強引にやらせてみたとしても、そのうち混乱し始めたらいつもの呼び方に戻ってしまいそうだ。今日くらいは、この程度はまあ、大目に見てやる。
「それに私、主任って呼ぶの、好きです」
 藍子はそういう言い方で、俺に許しを請う。
 確かに、初めて出会った時からずっと、彼女にとっての俺は『主任』だった。恐らく初めて好きになってくれた瞬間もそうだったんだろう。それからもずっと、彼女の中の記憶は勤務中だろうと勤務時間外だろうと、俺は営業課主任として存在していたわけだ。すぐには切り離せまい、思い出もたくさんあるだろうから。
 俺も同じだ。思い出はたくさんある。お前にそう呼ばれるの、嫌いじゃない。
「わかった。今日のところはその呼ばれ方、堪能しとくか」
 そのぎこちなさも初々しさも全部楽しんでやるつもりで、俺は彼女に許可を出す。
 すぐに彼女の顎を掴むと、軽く上を向かせて口を塞いだ。都合よくわずかに開いていたから、舌でそこに割り入った。唇を押しやりながら口内まで滑り込めば、藍子はやっと我に返ったようにごくささやかな抵抗を見せた。彼女の苦しげな吐息を、舌先や粘膜に感じた。
 もがきながらさまよう彼女の手が、俺の寝間着代わりのTシャツを掴む。しがみつくその仕草に、いち早く妙な達成感を覚えた。

 軽くないキスが拒まれなかったのをいいことに、調子に乗って長々と舌を絡めていたら、さすがに肩を押された。
「苦し……しゅ、主任っ」
 離れた唇の隙間から絶え絶えの呼吸で藍子は呻き、それから本当に怯えたように、
「窒息、しそうでした」
 と言われた。
「そのくらいは手加減するって」
 軽くあしらいながら彼女のルームウェアをまくってみる。フリースの生地の下に手を差し込んでみたら、そこにあったのは素肌ではなく、別の生地だった。もう少し下着っぽい、綿っぽい何か。
「……お前、随分キャミソール好きだな」
「え? いえ、好きで着てるってほどではないですけど……あああ待ってください主任! そっちはめくっちゃ駄目です!」
 夏場の恨みが甦り、復讐を果たそうと言う気になった。俺は藍子の制止も聞かずにキャミソールの裾も跳ね除け、その下にある柔らかい腹を撫でる。
 しゃっくりみたいな声が、彼女の口からは漏れた。
「駄目って、言ったのに」
「いいじゃん、こんなにすべすべなんだから。触り心地いいなー」
「く、くすぐったいですってば」
 そう言って藍子は身を捩ったが、それが本当に『くすぐったい』なのかはこの機会にちゃんと考えてみるべきだ。今も可愛らしく目を閉じたから、俺は違うと踏んでいる。
 それにしても彼女の肌はすこぶる触り心地がよくて、つい夢中になって撫で回したくなる。柔らかいだけじゃなくて吸いつくように瑞々しい。これが若さか。
「やめてください主任、そこ、ぷよぷよしてますから」
 よくわからない理由で藍子は俺を止めようとする。しっかり手を伸ばしてきて、こっちの手首を掴もうとする。その隙に耳を舐めたら一度びくりと引っ込められたが、結構地道な抵抗を繰り返してくる。
「なら、腹じゃないとこ触っていいか」
 そう聞いたら、閉じた目を開けて激しく面食らわれた。
「え……ええ!? いえあの、他のとこならいいって話でもなくってですね!」
「胸ならいいのか?」
「よくないです! だって、ちっちゃいですから……」
「さっき言っただろ。揉めるだけあればいいって」
 ちっちゃいのも知ってるって。藍子がそれで黙ったから、とりあえずキャミソールごとがばっと大きくまくって、その下に控えたすべすべした肌を、
「わあ! ちょちょちょ、待ってくださいっ! 駄目です本当に駄目です!」
 ものすごい勢いで、藍子がキャミソールの裾を俺の手から奪い取る。それを伸ばすみたいにして元に戻そうとする。もちろん俺も戻させたくはないから、しばらく大岡裁きみたいに布地の取り合い引っ張り合いになる。
「駄目とか言うなよ寂しいだろ!」
「だ、だって! 主任が急にめくったりするからです!」
 ベッドがこんな他愛ないことでもぎしぎし言う。
「急じゃなかったら駄目じゃないんだな? 予告でもすりゃいいのか」
「そういうことでは……あ、ええと、そういう、ことなのかも……」
 藍子が言葉に詰まった拍子、裾を掴んでいた手の力が緩んだ。お蔭で引っ張り合いの勝者は俺となったが、お上の裁きはきっと藍子を真の親だと評するだろう。――まあ実際持ち主だしな。
 晴れてキャミソールの裾をまくり始めた俺を、藍子は仰向けのまま物問いたげに見ている。脱がされかかってる奴の表情にしちゃ不自然だから、手を止めてこっちから聞いてみた。
「どうした?」
 彼女の視線が横にずれる。恥ずかしそうな声がする。
「あの、主任。質問があるんですけど」
「何だ」
「やっぱり、……脱がなきゃいけないんでしょうか」
 今更みたいな疑問を呈してくる。
「何て言うか、さ、最終的には、全部脱いでなくちゃいけない、ものなのかなって……」
 恥らいつつも彼女の口調は真剣だ。真面目に悩んでいるのかもしれない。
 が、そういう風に聞かれると俺としては逆にいたずら心が芽生えちゃうと言うか、ついつい弄りたくもなってしまう。
「え、何だって。最終的にはってどういう意味だよ、どういう状況のことだ?」
「どうって、その……ふ、普通にこういう感じで、あの」
「だから『こういう感じ』って? どうなってたら全部脱いでそうだって言うんだよ」
「ええと、ですからそれは、察してください!」
「言ってくんないとわかんねーなあ……。ほら素直に答えろ藍子」
「……主任は、意地悪です」
 ちょっとからかいすぎたか、ものすごく悔しそうな顔をした藍子はそこでくるりと身体を裏返し、俺の枕に顔を埋めてしまった。ノーガードの背中をちらとだけ見やってから、俺は仕方なく詫びに入る。
「悪かったよ。ちょっとふざけすぎた」
「私、結構真面目に聞いてたんです。主任なら教えてくださると思って!」
「わかったって。教えてやるからこっち向け」
 俺も優しくしようって肝に銘じてはいたんだけどな。藍子が想像以上にあれこれ喋ったり話しかけてきたりするから、余裕があるんじゃないかって気になってしまう。もちろん事実はそうじゃなく、不安だからこその口数の多さなんだろう。
 枕にぽすんと横向きになった顔を、上から覗き込んでみる。彼女の目に微かな光が揺れている。
「別に、どうしても脱がなきゃいけないってわけじゃない」
 その彼女に、俺は何とも奇妙な新人指導を始める。
「でも全部脱がない方がかえって恥ずかしいもんだ」
「そ、そうなんですか? そう、かな……」
 藍子は腑に落ちない顔をしている。でも実際やってみればわかるが、半脱ぎくらいだとむしろ全裸より興奮しちゃってまずい。俺はそういうのも好きだけど、最初くらいは普通にしといた方が彼女の為だ。
「ほら、靴下だけとかって余計やらしい感じがするだろ」
「……よく、わからないです」
「わかんないかなあ。じゃ、機会があったら試そうな、それも」
 でも今回は最初ですから。せっかくの初回限定ですから。
「こうしなきゃいけないとかじゃなくて、ただ俺は、お前の全部が見たい」
 頬っぺたにキスしながら、お願いしてみる。藍子の頬はやっぱりすごく柔らかくてぷくぷくで、あれこれ騒いだ後だからか、熱でもあるみたいに火照っていた。唇に熱ささえ感じた。
「あ……!」
 息を吸ったのか吐いたのか、判別つかないような彼女の声。可愛い。
「お前がどうしても恥ずかしいなら、俺も一緒に脱ぐから」
 そう続けると横向きの肩が震えて、ぎこちないながらもまたこっちを向いてくれた。
「しゅ、主任がですか……?」
「ああ。脱ぐよ俺、お前が見たいって言うならためらいもなく惜しげもなく脱いでやる」
「み、みみ……!? 言ってない、言ってないですそんなこと!」
 藍子が思いっきり慌てふためている。可愛い。
「じゃあ何だよ、俺のは見たくないって?」
 また意地悪なことを言ってしまって、もう一回拗ねられるかなと思いきや、そこで彼女は酷くうろたえてみせた。
「見たくないってわけじゃないんです、違うんです。それは確かに、見たいかって聞かれたらそうでもないって言うか、そうでもなくないって言うか、どっちかって言うとよくわからないくらいですけど、見たいとか見たくないとかそういうんじゃなくて、ただ、恥ずかしいですから……!」
 今の発言の論旨はつまり、恥ずかしいだけで見たくないってほどではない、って解釈でいいんだろうか。
「二人で脱げば恥ずかしくないって」
 俺は勧める。藍子はかぶりを振る。
「恥ずかしいですよ! 私よりもむしろ主任が脱いでしまわれる方が!」
「別に俺はどうってことないけどな」
「で、でも。だって、それって……」
 再びずぶずぶと、枕に埋まっていこうとする彼女を追い込むように近づく。今までは体重をかけないようにしていたが、上に重なるようにして逃げたがる藍子を全身で捕まえてみる。
 深い溜息が零れる。
「好きな人のとか……見たら、絶対、どきどきします」
 その言葉はボディブロー並みに効いた。
 俺は藍子の、何にもわかってない純粋無垢かつ天然系の物言いだって好きだが、でもこういう『わかってる』がゆえの可愛い物言いはより好きだし、非常にこう、何がしかの欲求が駆り立てられる感じがする。
 論旨はつまり――むらっとする。
「だから見たいんだよ」
 もう堪らなくなって、彼女を力ずくで枕から引き剥がした。唇に唇を押しつけながら、もう一回キャミソールの裾をまくり上げてみる。前面よりもガードの緩い背中に手を回して背骨沿いに指で引っかく。大きく身を捩った彼女が、少し外れた口から声を上げた。
「きゃっ……主任、それ、くすぐったい……!」
 だから違うだろ。まだわからないのか。
 首筋に軽く噛みついたら往生際悪くじたばたし始める。構わずそこらじゅうにキスしまくると、風呂上がりの石鹸の香りに混じって、彼女らしい匂いがした。
「しゅ、主任……っ! 待って、待ってください」
 苦しそうに呼ばれると、それが自分の名前じゃなくても気が狂いそうになる。日常的に呼ばれ慣れてる名称だからか、仕事中の些細な光景がこんな時でさえ切り離せずに一層興奮した。
 耐えられないといった様子で目を固くつむってしまった藍子が、そうやって仕事中とはまるで違う、鼻にかかった声で俺を呼ぶ。この顔も、この声も、確実に俺しか知らない。
「もう待てない」
 本当に、駄目だった。
 止めようがなかった。
「脱がせるからな、藍子」
 そう告げたら彼女はうっすらと目を開き、こわごわ聞き返してくる。
「主任も、あの、一緒に……ですよね?」
「やっぱり見たかったのか」
「ち、違いますよもう! 一緒なら、怖くないかなって……」
 藍子はじっと俺を見上げて、こんな時ですら真摯に語る。
「他のことでも長く、お待たせしてましたから……主任に、悪いなって思ったんです。もうこれ以上は待ってもらうこともないように、したいんです」

 話がめでたくついたので、俺はTシャツだけを脱ぎ、ついでに藍子のルームウェアの上と因縁のキャミソールとを手早く剥ぎ取ってしまった。
 パジャマのズボンだけはまだきっちり身に着けた、とてもアンバランスな格好の彼女。案の定俺は輪をかけてむらむらしてしまって、予想にたがわず小ぶりな彼女の胸に、最初は優しく触れてみた。
 すると藍子は声を上げ、
「あ、あの主任! 手を……」
「退けろっつっても聞かないぞ」
「そうじゃなくて……その、動かさないでください、くすぐったいから」
 結局まだまだ待たせる気じゃねーかと思って、俺はその頼みなんて聞いてやらなかった。
 聞かなくても藍子は、それほど文句を言わなかった。
 言えなかっただけかもしれない。
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