Tiny garden

世界で一番すきなひと(3)

 小坂が何を買ってきたのか、十三日の夜にわかった。

 俺の部屋に泊まりに来て、風呂に入った小坂は、真新しいパジャマを着ていた。
 いや、パジャマで括っていいもんなのか――ふわふわしたフリースの、名称としては恐らく『ルームウェア』な服。上は膝上くらいの長い丈で、裾に控えめなフリルがついてる。下は普通のズボンで、上下共に小粒のドット柄なのが可愛い。ワンピース部分はそういう作りなのか身体の線を隠すようにだぶついていて、それを小坂は腕まくりだけして着ている。
「その服、いいな」
 誉めて欲しいって言ったのは、きっとこのパジャマのことだろう。違う品だと思ってた俺はちょっと拍子抜けしたが、そっちだって買ってきてないとは限るまい。まだ期待を残しつつ、まずは今の姿を堪能する。
 湯上がりの小坂は髪を下ろしていて、頭巾みたいにバスタオルを被っている。水分を含んで重たそうな髪は、こうして見ると胸元に届きそうなくらい長い。指でそっと退けてみても、ふかふかの生地は中身を包み隠して想像もさせてくれない。女の子ってこういうゆったりした格好が好きだよな、お蔭でいつも見たいものが見えない。
 でも小坂がそういうガードの固い格好をしてると、むしろちゃんと俺の目を意識してるんだっていうのがわかって、逆にそそられる。
「いつもそんなに可愛いの着て寝てるのか」
 俺の問いに、小坂はおずおず答えた。
「いいえ、普通のパジャマだと失礼に当たりますから、思い切って買ってきました」
 真面目な顔に、ぱたぱた揺れる耳と尻尾が見えてくる。可愛い。
 化粧を落とした顔を見るのは初めてだったが、睫毛以外は大きな変化もない辺り、さすが二十三歳だと思う。入浴時間は驚くほど速かったのに、頬はほんのり赤らんでいる。今日もとても柔らかそうだ。そして美味そうだ。
「今日の為に、か?」
 嬉しさが込み上げてくる。にやにやしたくなる。
 以前メールで聞いた時は、シャツパジャマを着てるって言ってたはずだ。青のギンガムチェックで、お父さんと色違いのやつ。小坂が言うには少しよれっとしてるから、俺には見せられないって話だった。
 今日の格好はそれとは違って新品だし、気合の入ってる可愛さだし、しかし気になるところを上手いこと隠すようなデザインだ。どこを取っても俺に見られること前提の、むしろ見せる為の買い物。嬉しくないはずがない。
 最終的には隠してる中身まで全部見ちゃうんだけどな。

 ここまでの流れは予想以上に順調だった。
 事前の懸念をことごとく跳ね飛ばすが如く、小坂は駅で待ち合わせた後、俺の部屋にちゃんと来た。とりあえず一緒に買い物もしたし、一緒に晩飯を作ってくれて、緊張の割にはいい食べっぷりを披露した。一緒に風呂に入ろうという誘いはすげなく断られたが、ばらばらでもお互いに入浴は済ませた。今は並んでソファーに座り、アイスクリームを食べている。
 いつもは俺しかいないこの部屋に、小坂がいる。髪を下ろした姿も化粧を落とした顔もパジャマ姿もレアな彼女が、ぎこちなくスプーンを口に運んでいる。アイスには彼女が買ってきてくれたチョコレートリキュールがかかっていて、その程度で酔っ払うほど俺も彼女も弱くはないが、でも酔えるだけの雰囲気ではあると思う。
 テレビを消してしまった部屋は、呼吸が聞こえてくるほど静かだった。でも俺一人の時とは違って、すぐ傍に気配がある。触れる前から体温を感じられるような距離に、いつもとは違う彼女が座っている。そのことにわくわくする。
 時刻は午後八時を過ぎた辺り、寝るにはまだ早いからレアな小坂を目で楽しんでおく。その時間もそう持たない気がするものの――目だけで楽しむしかない時間が、俺にはちょっと長すぎた。

 去年の夏頃、俺は小坂に外回りの指導を始めていて、二人で車に乗りあちこち営業する機会がしばらくあった。
 あのエアコンすらぼろっちい社用車が、しかし夏場の女の子を眺め倒すという点では実に有益であったことを俺は知っている。小坂は俺に勧められるがまま上着を脱ぎ、半袖のブラウス姿でハンドルを握っていた。運転中や仕事中は猫背気味の彼女が、透ける背中や肩甲骨、袖から伸びる色白の二の腕を惜しげもなく見せてくれたから、俺は役得とばかりにしげしげ観察していた。しかしブラウスの下にキャミソールを着ていた点はいただけない。見えないだろ。
 無防備そうで実はそうでもない、というのが小坂の特徴の一つだ。そうやって上着は脱ぐくせにキャミソールを着込んでるところもしかり。外回り指導一日目はスカートだったのに二日目以降からパンツスーツに切り替えた点もしかり。だがパンツスーツもなかなか見どころがあるもので、運転席にわずかに沈んだ太腿が、アクセルやブレーキを踏む度に焦らすようにちょっとだけ動いて、布地がぴんと張ったりたわんだり、肌に張りつくように皺を寄せたりするのが眼福だった。胸はないくせに脚は案外しっかりむっちりしていて、そのせいか私服の時はいつもふんわりしたスカートが多い。確かに小坂には似合ってるんだが、俺としてはやっぱりいただけない。と言うか、もったいない。
 ともかく、夏頃にはもう既に、俺は小坂をそういう目で見ていたし、それなりに好きだった。霧島に聞かれてはっきり答えられるくらいには好きだった。
 今に至るまでに何が変わったかなんて言うまでもないが、小坂をそういう目で見ている点だけはどれほど時を経ても、ちっとも変わっちゃいない。今のパジャマ姿を観察しつつも、身体のラインがまるでわからないことをもどかしく思う。早く中身が見たい。今まで一度も見たことはないが、でも俺は確実に、小坂の中身だって好きになる。
 小坂のことで気に入らないところなんてあるはずもない。お前なら何でも、どこでも可愛い。だから隠してないで全部曝け出せばいい。

 浮かれる俺とは対照的に、小坂はものすごく緊張しているようだった。
 アイスを食べる動きは硬い。手が震えているのか、時々スプーンがガラス鉢の縁を叩く、引きつるような音がした。表情からはすっかり笑みが消え、代わりに浮かんでいるのは不安の色だ。少し、怯えているようでもあった。
 そんな風に怖がってるくせに、これから何するか大体わかってるくせに、よくここまで来てくれたもんだと思う。しかも今日は家に帰さずに済んで、このまま泊まってってくれるっていうんだから、幸せすぎる。怖くても、不安でも、俺が好きだから来てくれたんだよな。それだけ好きになってくれたってことなんだよな。
 ここまで来たら俺の責任も重大だ。まずはその緊張を解すところから始めてやろう。
「小坂は夜更かし平気な方なんだろ?」
 アイスを食べながら話しかける。
 途端、小坂の肩がちょっと浮いて、
「あ、はい。それなりに……」
 まずは控えめに答えてくれた。
「なら、映画でも観るか? お前の好みに合うかどうかはわからんが、いくつかあるぞ」
 せっかくテレビ消したのにまた点けるのも抵抗あるが、小坂の為なら手間でもない。それで少しはリラックスできるんだったらかえって都合がいい。
 小坂はどんな映画が好きなんだろう。俺が持ってるのは潜水艦が出てくるのとか戦闘機が出てくるのとかそういうのばっかだ。女の子の好みからは確実に外れてそうだが、小坂もこのまま黙り込んでるだけなのは辛いだろうし、とりあえず何枚か持ってきてみて選ばせようか。BGM代わりに垂れ流しておくのなら問題あるまい。
 俺がそこまで考えた時、
「あ、あの、お気遣いなく」
 喉詰まりでもしたみたいな声で、小坂は俺の提案を拒んだ。
 それでちらっと顔を見たらもうばりばりに強張っていて、ああこれは……と理解する。映画観る余裕もないって風だ、そりゃ要らないって言うよな。
 かと言って、このまま押し倒しちゃうのもちょっとな。勢い任せになだれ込んで泣かせでもしたらかわいそうだし、せめて一瞬だけでも、笑ってくれないかな、と思う。
 例のジンクスも所詮は自己暗示、俺は自分が安心したいから小坂を笑わせたいだけかもしれない。だとしても、お互い笑ってるのに幸せじゃない、なんてことはありえないはずだ。俺だけじゃなくて、小坂にとっても幸せな時間であって欲しいから、今こそ笑わせてやりたい。
 そうして思案に暮れた後、ふと閃いた次の一手は、
「しりとりでもするか」
「しりとり?」
 今度は素の反応が返ってきた。強張っていた顔もあっさり解けて、小坂は目を丸くしている。
 好感触と見た俺は、早速自信の程をアピールしておく。
「言っとくが俺は強いぞ。負けるのが嫌なら止めとけよ」
 自慢じゃないがしりとりは強い方だ。姉ちゃんに鍛えられたからな。
 幼い頃、まだ純真だった俺はしりとりで何十回も敗北を喫し、その過程で人生とは何かを学んだ。勝てば官軍負ければ賊軍、ルールとは守るべきマナーではなく狡猾さと卑怯さのボーダーラインに過ぎない。いかにしてずる賢く、しかしルールの範囲内で相手を追い詰め屈服させるか、そのノウハウがしりとりという競技には詰まっている。
 俺がこんな性格になったのも姉ちゃんのせいです。弟ってマジ不遇。
「えっ! そんな、嫌ではないですけど……」
 小坂は不思議そうな顔をしている。勝負事にはそれほどこだわらなさそうな性格は、長女ならではと言ったところか。
 だが俺は知っている。この小坂も負けず嫌いってほどではないものの、なかなか強気な態度を見せることがあるのだ。ちょっとくすぐってやればすぐに火が点いて、むきになるに違いない。またそのむきになった感じが可愛くて大変よろしい。
「やるなら全力で掛かってこい、小坂」
 ここぞとばかりに挑発してみた。
 それで小坂はきりっと表情を引き締め、すかさず頭を下げてくる。
「あの、よろしくお願いしますっ」
「よし。お前からでいいぞ」
 先手は譲ってやった。紳士的態度と見せかけて、相手の出方を窺う作戦だ。
「では、しりとりの『り』から、リス」
 小坂の初手はルールに忠実に則った、いかにも彼女らしい単語だった。結構真剣に競技に臨もうという様子も窺えて、こんな子を屈服させていいものか、と一瞬だけ迷った。
 でもここで小坂を追い詰められないと、延々しりとりだけをして過ごす夜、なんてことにもなりかねない。やっぱ屈服させよう。それはもう全力で。
「鈴」
「ず、図画工作」
「葛」
「ず、ず……頭痛」
「渦」
「また『ず』ですか? ええと、じゃあ……ズッキーニ」
「ニーズ」
「――ちょっと待ってください主任、さっきから『ず』ばっかり回してませんか?」
 俺の策に、この段階でやっと小坂が気づく。ちょっと遅くないかと思う。
「これが俺のプレイスタイルだ。相手を一文字攻めで追い込んで、勝つ」
 ず攻めはしりとりにおいて特に効果的な手法で、大抵の相手は四、五手くらいであっさり行き詰まってしまう。ちなみに『み攻め』や『る攻め』なんかもいい。
 やられた方は堪ったもんじゃないらしいが――小坂は心底悔しそうに、上目遣いで俺を睨む。
「ずるいです、主任」
「ずるい、か。じゃあ、伊豆」
「しりとりじゃなくってです! ず、ず……もうっ、ずの付く言葉なんてそうそう思いつかないですよ!」
 ああ可愛い。このむきになってじたばたしてる様子が最高に可愛い。口調も勤務中より砕けてて、気を許してくれてるように思えるし、上司を立てようって礼儀よりも、俺に勝ちたいって欲求の方が強いらしいのも何だかいい。もっともっと困っちゃえばいいと思う。とことん追い詰めたくなる。
「降参するか、小坂」
 喜びに打ち震えながら俺が尋ねると、小坂はアイスを食べるのも放棄して、眉間に皺なんか寄せながら考え込む。唇から時折漏れるのは唸るような吐息で、何だか苦しそうな感じが更に可愛い。ぞくぞくする。
 そうこうするうちに小坂は何か閃いたらしく、ぱっと表情を明るくした。
「ず、ズック! ズックって単語ありますよね?」
 あるけど。それをぴちぴちの二十三歳が口にするとは。
「お前、随分古めかしい言葉を持ち出してきたな。うちの親がよく言うよ、それ」
「うちも、祖母は未だに言うんです」
「……まあいいや」
 今、ちょっとジェネレーションギャップを感じた。
 そうか、おばあちゃんが言うのか。七つも違えば親の歳も違うもんなのかな。まあこっちは姉持ち、向こうは姉妹の長女だから、その分の差もあるんだろうけどさ。
 さておき小坂がうきうきと答えたから、
「黒酢」
 俺はすかさずとどめを刺してやる。
 喜色満面だった小坂がそこからあっという間にしぼんで、がくり、と項垂れた。
「――参りました」
 よっしゃ。勝った。
 力なく落とされた彼女の肩を、俺は勝者の余裕で叩く。
「そうしょげるな。お前はよく戦ったよ、頑張った」
 もちろん善戦も称えておく。しかし一旦むきになった小坂は敗北をそう容易く受け止められないらしく、ショックを滲ませながら語る。
「でも、でも私……何だかすごく悔しいんです」
 その気持ちが大事なんだ。負けて悔しいという思いさえあれば、お前は何度でも立ち上がれる。今日だって予想以上にいい抗戦をしていた。頑張ったじゃないか。
「なかなか見込みのある戦いぶりだったぞ。もう少し粘られたらこっちの方が弾切れだった。次はお前の勝ちかもな」
 誉めてやると、小坂は勢いよく顔を上げ、
「主任……! そんな、もったいないお言葉ですっ」
 嬉しそうに口元を綻ばせた。
 いい笑顔だった。すっごく無邪気で、今日俺の部屋に何しに来たのかなんてもう忘れてんじゃないかってくらいの会心の笑み。さっきまでがちがちに緊張してたことも、怯えてさえいたこともどっかに吹き飛んでしまって、見当たらなくなっていた。
 お前は度胸があるのかないのか、どっちなんだ。
「やっと、笑ってくれたな」
 俺は思わず、呟いた。
「今日はもう、笑ってもらえないんじゃないかと思ってた」
 この笑顔だって見とれていられるのは今だけで、直に消えてしまうんだろう。小坂の可愛さはどうしたって写真に留めておけない。ここで一時停止だってできない。だから俺は一度笑わせたくらいで気を抜いてちゃいけない、常に怖がらせないよう不安がらせないよう努めていかなくては。
 でも、今のでわかったはずだ。その努力もそんなに難しいことじゃない。
 俺にはできる。小坂を笑わせてやることも、幸せな気分にしてやることも。むしろ、できなきゃ一緒にいる資格はないだろ。
「お前が笑わないうちはどうしようもないからな」
 自己暗示でしかないジンクスも、しかしひとまずは達成した。
 小坂が思い当たったみたいに笑みを消し、腑抜けた顔で俺を見る。
 次にどんな表情になろうと構わない。もう決めた。
「だがこれで、心置きなく手を出せる」
 そう告げたら、小坂にはびくりとされた。
 手にしたガラス鉢の中では、バニラアイスとチョコレートリキュールとがマーブル模様を描いている。しりとりに興じている間にえらいことになってた。ぶきっちょなのは相変わらずだ。
「アイス、溶けてるぞ。早く食っとけ」
「わ、わあ」
 負けず劣らず溶け始めてるような不安定さで、ふらふらとアイスを食べ始める小坂。
 俺はそれをじっくり見守る。待ち時間はもう残りわずかだ。 

 食べたのか、飲み干したのか、小坂はとにかくアイスを片づけ、空のガラス鉢をテーブルに置いた。
 その硬い音を合図にして、俺は彼女に手を伸ばす。勢いをつけてがばっと両腕で捕まえてみる。
「ひゃ……っ」
 腕の中で小さな悲鳴が上がった。
 でもそのくらいで思いとどまるつもりはなく、むしろ一層勢いづいた俺は、そのまま小坂を抱え上げてみた。前に『重いですから』と言われていた身体は確かに軽いなんてお世辞にも言えず、しかしその重さこそが幸福感と期待値を倍増しにしていく。ちょっとくらいむちむちしてる方が俺は好きだ。ほんのり温かくていい匂いもして、抱き心地も最高にいい。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
 ソファーから離れた辺りで小坂が制止の声を発したが、それで待ってもらえると思ってるなら読みが甘い、甘すぎる。
「もう十分過ぎるくらい待った」
 夏からずっとだぞ。そりゃこっちもどこまで本気だったかを追及されたら言葉濁してしまう部分もあるが、のっぴきならないくらいに本気になってからも大分焦らされた。待ち時間だけで頭がおかしくなりそうなほどだった。既に相当おかしいのかもしれない。
 小坂を抱え上げたまま、肩と肘で寝室のドアを開ける。
 そっちの照明はあらかじめ消しておいたから、隙間明かりでいい具合に薄暗くなっていた。暖房がないせいで空気は冷えていたものの、どうせすぐに暑くなるから関係ない。そのままブラインドのすぐ真下にあるベッドへ直行する。
 彼女を下ろす時は細心の注意を払った。ゆっくりと横たえてから俺も膝をつくと、スプリングの軋む音がいつもと違って聞こえた。いかにも二人乗ってますよって言いたげな音。気合が入る。
 身じろぎもしない彼女の上に覆い被さるようにして、まず唇を重ねておく。舌先にアイスクリームの味がした。甘かった。それに押し潰したくなるほど柔らかくて、じわじわと温かくて、離すのが惜しくなる。これから何回でも何十回でも好きなだけできるんだってわかってても、離れたくない。ずっとちゅーしてたい。
 でも、やめないと話ができない。人間の身体はつくづく不自由な作りだ。テレパシーとかでキスしながら話ができたらいいのにな。そしたら俺なんかもう大喜びで両方やっちゃうし活用しちゃうよ。しかしそうなると、こういうことに及ぶ直前の下心が、隠しきれないのが問題になるな。今考えてることを全部小坂にばらせるかって言ったらそうでもないしな。
 やっぱ俺にはテレパシーは向かない、ちゃんと話をしておこう。
 初めに、前々から決めてた言葉を告げる。
「――藍子」
 唇を数センチ離しただけの距離から、そっと名前を呼んでみる。
 案の定、彼女は動かなくなった。目を瞠っている。薄暗い中でもその表情は読み取れる。
「藍子。……ようやく、呼べた」
 彼女の肩の両側に肘をついて、その長い髪を撫でてみる。もう大分乾いていて、実に滑らかにしっとりしていた。
 名前を初めて呼ばれたはずの彼女は、それでもじっとしていた。あまり驚きの色は窺えず、ただ俺を黙って見上げている。呼ばれるのを前々からわかってたみたいに、覚悟を決めるようなそぶりで息を呑んだ。
 もっとうろたえるかと思ったのに。
 動かなくなっただけで、呼ばれたこと自体には意外さも何もないらしい彼女を、俺はややしばらく眺めていたが、やがてその様子から事の次第を察した。

 誰かばらしやがったなこの野郎。
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