Tiny garden

世界で一番すきなひと(1)

 霧島の結婚式も無事に済み、時は二月中旬。

 ちょうど小坂と付き合いだしてから一ヶ月が経ったし、後輩の結婚なんていう身につまされるイベントもあったりして、そろそろ俺たちの関係を見つめ直すタイミングなんじゃないか、と思う余裕も生まれてきた。
 見つめ直すと言ってもそう小難しいことを考えてるわけじゃない。小坂との交際は今のところおおむね順調だ。仕事が忙しくて満足なデートができてないものの、その分メールや電話で埋め合わせたり、帰りの時間が合えば車に乗っけてやったりとかしてる。
「会社へは電車通勤だって申請してるのに、いいんでしょうか」
 俺の車に乗せたのも、もう何度目になるかわからない。助手席にスーツ姿の小坂がいる光景も馴染んできたように思う。なのに彼女は、未だそんなことにこだわっている。
「お前も変なとこ気にするよな」
 それこそ何度も言ってるのにな。
 気にするくらいなら、別のことで返せって。
「そりゃ行きも帰りも送ってもらって、交通費をそっくり浮かしてるっていうなら問題だがな。お前の場合はちゃんと定期買ってるんだし、帰りも毎日送られてる訳じゃないだろ。問題ない」
 不正な届け出してるってわけでもない。規則違反には当たらない。そう説明してやったらやったで、小坂は申し訳なさそうにする。
「ただ、主任にご負担が掛かってるんじゃないかなって……」
「いつも言ってるだろ、負担なら端から送ってない」
 手間だのガソリン代だの、二人でいられる時間に比べたら実に瑣末な事柄だ。お互い社会人同士じゃ休日だって時々自由にならないし、忙しい中で少しでも一緒にいる為に送ってるんだってこと、そろそろ理解してもよさそうなもんだがな。
「お前がそこまで気にするんだったら、いっそ行きも一緒に通うか? 会社にもそう申請して」
 俺が冗談でもなく吹っかけてみれば、たちまち小坂は黙ってしまう。運転中だからその姿をずっと眺めていることはできないが、信号で停まった時なんかに横目で見ると、真っ赤になっておろおろしてる様子を拝めたりする。
 感覚のちょっとずれてる奴だが、全く何も理解できないってほどでもないようだ。特に最近は、そういう理解が以前よりはましになってきたように思う。
 そして、顔に出やすいところは相変わらずだ。
「わかりやすい顔してるよな」
「……すみません」
 指摘してやると小坂はなぜか謝り、膝の上に置いたバッグをぎゅっと抱きかかえた。俯いた時にほつれた髪の筋が柔らかそうな頬をかすめて、眺めてるこっちがくすぐったさを覚える。別に小柄でもないのにちっちゃく見えるのは春先と何ら変わらず、でもふとした仕草に以前とは違う気配が窺えるような気もする。
 今は何を考えてんのかな。
 どんな内容にせよ俺のことには違いないから、単純に喜んどこうか。
 ずっと観察していたくても運転中ではままならない。そのうちに信号が変わって、再び車を発進させると、張り切ったような小坂の声がした。
「あの、せめて私が車を持っていたら、順番に送りっこできたのかもしれないですね」
 もしかして、次に何を話そうかって考えてたのか。可愛い奴め。しかも『送りっこ』って単語がいいよな。滾るよな。
「車か。そういえば、小坂は車持たないのか」
 可愛かったので話題に乗ってやることにする。
 小坂は意外なくらい運転が上手いから、仕事でしかその腕を使わないのはちょっともったいない。前に聞いた時は、主にお父さんの車に乗ってるとか言ってたっけ。何回か家まで迎えに行った時にわざわざ外まで見送りに来てた、あのお父さんのか。目元口元に小坂の面影がある、すごく優しそうな人だった。あの人が緑のギンガムチェックのパジャマを……とは、考えないことにして。
 ともかくそうやって車を借りられるところとか、見送りしてくれるところとか、親御さんにも大切にされてるんだなって痛感する。まさに箱入り娘ちゃん。
 一緒に出勤できるようになるまでは時間掛かりそうだ。
「欲しいとは思っているんですけど、まだまだ余裕がなくて」
 はきはきと小坂は答える。
「じゃあ、将来的には欲しいってとこか」
「はい。今のところは、他にお金を使うべき箇所もありますし」
 二十三歳にしてはなかなかしっかりした回答。貯金とかもしてそうだよな、真面目な子だから。是非とも嫁にしたいな。絶対するけど。
 小坂は俺の彼女になってからも揺るぎなく淀みなく可愛いくて、俺はもう何を差し置いてもとにかく一緒にいたくて仕方がなくなっていた。こんな風に、帰り際のわずかな時間さえ掻き集めては二人でいられるようにした。その為に消費するものなんて大したことない。疲れてようが腹が減ってようがガソリンが値上がりしようが、送ってやれる時は絶対に捕まえて、送ってやるようにしていた。
 彼女の方も、最近は交わす会話の端々に積極性が窺えるようになってきた。話を繋げよう盛り上げよう俺を楽しませようという努力の色が垣間見えるので、その成果はさておいても可愛くてしょうがなかった。頑張る女の子ってのはいいもんだ。しかも他でもない俺の為、ってやつだぞ。ぐっと来る。
 そういう小坂を見てると、俺もつい、思う。
 そろそろいいんじゃないか、みたいなことを。

 健全な三十男として、そろそろ恋愛のお楽しみってやつを謳歌したい。
 めでたくお付き合いを始めてから一ヶ月。あれこれ忙しかったのも徐々に落ち着いてきて、でも人肌恋しい寒さはもうしばらく続きそうで、そんな時に可愛い彼女ができちゃったんだからこれはもう、突っ走らない方がおかしいですよね。
 しかも、忘れちゃいけないことがある。俺たちの交際期間は厳密に言えば一ヶ月ちょいかもしれないが、その前からなかなか微妙な関係にはなってたわけだ。告白の返事をお預けにされたり、お休みの日に手繋いでデートしたり、大義名分を掲げて俺の部屋に誘い込んだらのこのこやって来たり、部屋に入れたその日にちゅーしてみたりと、そこまでしといて付き合ってくれねーのかと突っ込みたくなるようなスウィートメモリーの数々が蘇る。振り返ってみれば生殺し期間の長いこと、長いこと。俺の忍耐力はもはやノーベル賞ものである。
 ファーストキスの日なんかは記憶にも鮮明だ。小坂はそれだけでぐったりしちゃって、全身力入りませんみたいな風体だったのがもう、気だるい事後の空気みたいで大変やばかった。こういうのが見たかったんだよ! と心の中で叫んでしまう素晴らしい姿。目をつむる動作さえ慣れてない感じは、初々しくてよだれが出るほど可愛くて、でも目をつむった後の顔には二十三歳らしい色気もあったりして、これで手を出すなってのが無理な話だ。だが小坂は恋愛に関しても真面目で、真剣で、そして経験不足ゆえに臆病だったから、ためらわれたり怖がるそぶりをされるとこっちもつい、でれでれ甘やかしてしまう。年上はこういう時に不利だよな。余裕なくても虚勢張って余裕あるふりしなくちゃいけない。
 そろそろ、これらの苦労が報われてもいい頃ですよね。
 最近の小坂は会話以外でも積極的で、この間の結婚式の帰りなんて、外で頬っぺたにちゅーしても嬉しそうにしてくれた。酒が入ってたからというのもあるんだろうが、でもとりあえずあいつの意識が改善されつつあるのは間違いない。だから俺も、ノーベル忍耐賞のご褒美が欲しい。

 そんな考えに囚われつつ、小坂の家まで走る道。
 次の信号停止のタイミングで、不意に小坂が息を吸い込んだ。そして、
「ところで、あの、もうじきバレンタインデーですよね!」
 姿勢正しく切り出したのは時候の話題だ。
 それで俺の思考は一気に、現実的かつ無機質なラインまで引き戻される。
「ああ」
 二月だもんな。近いんだよな、例の日が。
 憂鬱になりながら語を継ぐ。
「そうだ、バレンタインな。お前に言っとかなきゃと思ってたんだ」
「は、はい!」
 小坂はなぜかやたら気合が入っている。
 やっぱあれかな、俺にチョコとかくれる気だったのかな。主任はどんなチョコが好きですか、なんて無邪気に聞いてくるつもりだったのかな。あーもう可愛い! 小坂可愛い! 俺はチョコよりお前が食べたい。
 そんな可愛い奴がどうして営業課なんて危なっかしい部署に配属になっちゃったんだ。しかも上司としてこんなことを言わなくちゃいけないとか。へこむ。
「得意先へのチョコレート、忘れず用意しとけよ」
「……え?」
 当然、小坂の表情もあっさり変わった。予想もしてなかったようで、きょとんとしている。
「え、じゃなくて。バレンタインだろ、売り込みのいい機会だろ」
「でも、ええと、そういうのって、配ってもいいんですか?」
「どこでもやってるよ。義理チョコならぬ、営業チョコだ」
 はっきり言うが、悪しき風習だと思う。
 そもそも最初に義理チョコなんてものを考えついた人間に俺は言いたい。――お前はお前の好きな子が、他の男に義理とは言えチョコレートを渡して回るのを容認できるのか。もし仮に女だったらその理屈は通用しないが、……ならせいぜい毎年の資金繰りに苦しんでいるがいい!
 閑話休題、俺なら嫌だ。義理だろうと嫌だ。だって小坂がいくら義理です、営業ですって言い張っても誤解される可能性はあるじゃないか。深読み大好きな男なんて俺に限った話じゃなく、それはもうわんさかいるんだから。そういう奴が出しゃばってくるんじゃないかともう今から気が気じゃない。
 しかし小坂には仕事頑張って欲しいって気持ちもある。やむなく、苦渋の思いで勧めておく。
「そんなに立派なのじゃなくていいからな。小さい奴でいい、年賀状と一緒で気持ちが伝わればいいんだから」
 むしろ誤解されないように、スーパーとかで買えばいい。包装紙もピンクとかじゃなくていいぞ。店のロゴが入ってるやつにしてもらえ。
 ……と言いたいのを無理やり飲み込んで、
「お前みたいに若い子が配ったら、先方の心証だって良くなるだろうしな。絶対喜んでもらえるから可愛く配ってやれ」
 それはもう大好評だろうな。うちの課ですら可愛い可愛いとマスコット扱いの現状だ、外でだって可愛がられてないはずがない。よその飲み会にもちょくちょく呼ばれてるようだし、前なんてそれで、どのくらい飲んだかわからないくらい飲まされてきてた。そりゃあ心配しますよ。はらはらしますとも。
 でもそれは、こういう仕事の彼女を持つ男全員に共通する不安なんだろうな。俺も結局は腹据えて、小坂を信じてやるより他ない。
「もしかして、主任もお配りになられるんですか」
 俺の不安を置き去りにして、小坂は突拍子もないことを言い出した。
 いやいや藍子ちゃん、バレンタインデーですよ。何を言うか。
「何でだよ。俺が配ったって誰にも喜ばれないだろ」
 むしろ気味悪がられるだろ。
「あの、営業チョコって言うから、てっきり営業職の人なら皆配っているのかと……」
「ないない。俺らは貰う側だ」
 そういう意味では、やきもちも焼くばかりじゃないってことだ。俺がチョコとかいっぱい貰ってたら、小坂も気にしてくれたりするだろうか。
 いや、駄目だ。あいつがそんなつまんないことでちっちゃい胸痛めてんの想像するだけで罪悪感がきりきりするわ。たまにやきもち焼かせたいとか、振り回したいとか思っちゃうくせに、いざとなると小坂が可愛すぎて無理だと思ってしまう。つくづく俺はこいつに甘い。
「あ、じゃあ取引先でも用意をしているってことなんですか」
「向こうだっていい機会だからな。バレンタインなんてのは最早ビジネス的チョコが行ったり来たりするイベントへと成り代わってるんだよ」
 実際、妬かれる要素なんて微塵もない。貰うのは企業カレンダーや手ぬぐい並みのチョコレートばっかだし、妄想力一千万パワーの俺もさすがに深読みする気にならん。
 だったら小坂のことも気にしすぎんなって話だな。頑張ろう、俺。
「お蔭でホワイトデーが近くなると面倒でしょうがなくてな。お返し一つにも気を遣うし、男にとっちゃ厄介でしかないイベントだ」
「大変なんですね」
 小坂が気遣わしげに呟く。
 胸よりもまず財布が痛むという点では男も女も同じかもしれない。早く廃れろ、こんな風習。
「もっとも、お前の場合はチャンスだと思っていい」
 廃れるまでの間は、小坂にとって有益な日になればいい。何だかんだで俺は、あいつが一生懸命になってるとこ、見るのが好きだ。それで結果が伴えば言うことなしだ。
「公然と若さを武器にしていい機会なんてそうそうないぞ。頑張って気を引いてこい」
「わ、わかりました!」
 嗾けると小坂はものすごく凛々しい声を上げた。
 その意気込みは運転中の俺にも、顔を見なくても伝わってきたから、こっちはやっぱり複雑な気分になってしまう。いや頑張って欲しいんだけどな。それも嘘ではないんだけど。
「……一つだけ注意しとくが」
 どうしても、釘を刺さずにはいられない。
「渡す時は営業用だって念を押せよ。間違っても、本命だと思われないように」
「え?」
 怪訝そうに聞き返してくる小坂。その頭がこっち向きに動いたのが視界の端に見えたが、俺は表情を取り繕う気にもなれなかった。だってそうそう簡単に腹なんて据わんない。
 バレンタインなんて早く済んじゃえばいい。もちろん、平穏無事に何事もなく。

 そうこうしているうちに車は、小坂家の前へと着いてしまう。
 デートの日に迎えに行く時は意外と距離あんな、なんて思うのに、こうして送っていくとやたら近く感じてしまう。そしてここから俺の部屋に帰るまでがまた長いんだ。寂しい。
 でも今日は、別れの挨拶の前にこう切り出された。
「すみません、もうちょっと、あと五分だけお時間いただけますか?」
「ん?」
 小坂の申し出を俺は一瞬だけ怪訝に思ったが、すぐににんまりしてしまう。いやもう引き止められるのとか大好きだ。もうちょっとだけ一緒にいたい、なーんていつでも言われたい。
 一応、すぐ目と鼻の先の小坂家を確かめる。ご両親の姿がないことを何となく確かめてから答えた。
「そういうおねだりなら大歓迎だ。……名残惜しくなったか?」
 尋ね返せば小坂は、いつもの困ったような顔をして、言いにくそうに口を閉ざした。別に深刻そうではなく、照れているようでもある表情。街灯の明かりがまた青みがかってて、小坂をより白くきれいに見せている。
 俺はいそいそとエンジンを切り、ついでにシートベルトも外す。静かになった車内では小坂が、意を決したように話を継いだ。
「実はバレンタインについて、お話ししたいことがあるんです」
「何だ、まだ質問があったか?」
「そうではなくて……あの、仕事じゃない方のバレンタインです」
 来た。
 チョコか。チョコの話か。それはもうお前から貰えるものなら何だって貰う所存だが、俺はまずお前の方が――って、いくら何でも早まりすぎか。小坂はまだ何かくれるとも言ってないのに。
 でも言うだろうなと思うから、
「ああ」
 俺は頷いておく。
「今年は上手い具合に日曜日だもんな。何か考えてたか?」
「はい。私、主任に何かプレゼントをしたいなって思ってたんです」
 プレゼントという言葉が出ると、胸に過ぎるのはクリスマスイブの出来事。
 あの日、小坂がくれたプレゼントを俺は、――大変美味しくいただきました。いや、確かに味はよかったです。ご飯にもよく合いましたしね。小坂が俺の為を思ってくれた、という事実だけでも十分だと思いました。
 でも、ムードはなかったな。うん。霧島が聞いたら『情緒がない』って言い切りそうなプレゼントだったな。美味しかったのは本当だが……クリスマスプレゼントってか、普通にお歳暮っぽいよな。鮭なんて。
 今回はできれば、ムード重視路線がいい。
「プレゼントなんていいよ、別に。今月はチョコ用意するのに金かさむだろうし、別に張り切らなくたって」
 そういうわけで俺は小坂に金を出させまいと告げたが、彼女は彼女でこの日の為に備えてましたみたいに胸を張って、
「予算については大丈夫です。ばっちりです!」
「そんなこと言われたってな……」
 あ、そっか。金の使い道ってこのことか。いくら用意したのかは知らないがつくづくしっかりしてんなあ……。あの鮭フレークだってちゃんと化粧箱入りだったし、ルーキーだってのによくやるよ。
 俺は、あの頃からずっと言い続けてるのにな。
 お前でいい、って。
「だったら、なるべく低予算で済むプレゼントにしてくれ」
「お気遣いなく。主任にはいつもお世話になっていますし、それにクリスマスの時とはまた別の、形に残る贈り物がしたいんです」
 小坂は強気に押してくる。一体いくら貯めたんだ、俺の為にわざわざそこまでしなくたって。可愛いけど、嬉しいけど、少しだけ胸が痛んだ。
「まあな、鮭も美味かったが、今度は違うものがいい」
「ですよね。今度は食べ物以外でって考えてます」
 はにかみながら首を竦める彼女も、きっと思い出したんだろう。クリスマスプレゼントのこと。あれはあれで忘れがたい、いい記憶だ。でも――。
 俺たちはあの頃と比べて、確実に変わった。
 贈り合うものだって、変わっててしかるべきだと思う。
「むしろ買ってくるような物じゃなくてもいいだろ? 俺は小坂がいてくれればそれで十分だからな」
 言いながらちらと目を向ければ、小坂は笑うのをやめて息を呑む。そのタイミングを見計らい、声を落として誘いをかける。
「十三日、泊まりに来ないか?」
 閉じていた色のいい唇が、軽く開いた。ぽかんとしている。
「上手い具合に日曜だからな、バレンタインデー。どこか旅行に連れ出すのもいいかと思ってたんだが」
 両目はぼんやりと俺を見上げていて、わかってるのかわかってないのか、少し不安になった。
 でも、いい。わからないなら理解できるまでとうとうと口説き落としてやる。
「今のお前の張り切りようを見るに、遠出でもしようものなら日中だけで電池切れそうだからな。最初はもう少し落ち着いて過ごすのがいいんじゃないかと思った。どうだ?」
「え、ええと……」
 小坂が震える声を絞り出す。
「主任のお部屋に、ってことですか」
「ああ」
 俺は顎を引く。わかってるじゃないか、と少し安心する。
「二人だけで、ですか」
「当たり前だ。他にいたら邪魔だろ」
 俺が笑っても小坂は笑わない。だとしても、他の奴が必要だとは思っちゃいないだろう。そういうことだ。
「嫌か?」
 運転席から助手席側へ身を乗り出し、固まっている小坂の顔をそっと覗き込んでみる。彼女はまだシートベルトに捕まっていて、俺がどんなに近づいても逃げ場がないようだった。こわごわと俺の動きを視線で追う。その瞳に街灯の光が揺れる。
 すぐ目の前で唇が動いた。
「い、いいえ。そんなことはちっとも、ないです」
 息が切れたみたいな口調で小坂は返事をした。
 そうやって答えたくせに、まだ迷うみたいに下を向こうとする。逃げられないのをわかってて、拘束されていない部分だけで逃げ場を探している。
 拍子抜けするくらいあっさり了承しといて、及び腰になってるのはどうなんだ。俺はもう答えを聞いたし、翻らせるつもりはない。
 逃がさない。どれだけこの機会を待ってたと思ってる!
「じゃあ決まりだな」
 だから俺はその顔を、シートベルトの代わりに捕まえる。両手で頬を挟んでぐいと上を向かせて、もう決まったことだって念を押しておく。
「十三日と十四日。忘れるなよ、小坂」
 小坂は黙ったまま、目を潤ませて俺を見ている。笑ってない不安そうな表情は、だがちゃんと『わかってる』風でもあった。手のひらには彼女の頬が持つ熱が伝わる。熱くて、柔らかくて、俺はこの感触が大好きだった。頬ずりしたい。かぶりつきたい。一つにくっついちゃうくらいに密着したい。もっと、傍にいたい。

 忌々しいばかりだと思っていたバレンタインデーにすら、一筋の光明が差してきた。
 やっぱ早く済まなくていいや。十二日が平穏無事に終わったら、十三日と十四日はできるだけゆっくりのんびり過ぎたらいい。誕生日と言い花火大会と言いどこまでも現金な俺だが、せっかくだから思いっきり謳歌してやろう。
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