Tiny garden

救い上げて(3)

「ところで小坂、今日の門限は何時までだ」
 俺の部屋へ向かう車の中で、俺は彼女に尋ねた。
 この場合の『彼女』とは三人称代名詞ではなく、名実共に可愛い可愛い俺の恋人という意味である。胸張ってそう言えることがもう幸せでたまらない。小坂の回答如何では交際初日に美味しくいただいちゃうこともやぶさかではない。
 ところが、小坂からの答えはなかった。

 何をしてるのかと横目で窺えば、彼女はぼうっと俺を見ていた。
 助手席から無言のまま、まさに夢見心地という表現がぴったりの顔でこっちを見つめてくる。
 小さな唇を薄く開き、ぷくぷくのほっぺたをほんのり染めて、瞳を潤ませたその表情――それはもう頬擦りしたくなるとびきりの可愛さなのだが、運転中は勘弁して欲しい。手出しもできん。
 それと俺の質問に答えてくれ。大事なことなんだから。

「――おい、聞いてるか」
 俺が再度尋ねると、小坂がびくっとしたのが目の端に見えた。
「は、はいっ! あああの、すみませんでした!」
 めちゃくちゃ動揺している。
 俺に見とれてたってことですね。ああもう全く可愛いな藍子ちゃんは。
「だから運転中は止めとけって。時間さえあれば、後でじっくり見せてやるから。な?」
 そう釘を刺してから、俺は改めて大事なことを尋ねた。
「で、どうなんだ。今日は門限あるのか」
「あ、ええと、一応は夕飯までに帰ると言ってあります」
 はきはきと小坂は答える。
「明日からは勤務ですから、遅くならない予定だからと」
 何だ、そうか。
 確かに明日は仕事だ。でも小坂のいい子の回答に、俺はものすごく落胆していた。
 しつこいようだが今日から彼女は名実共に俺の彼女、なのである。
「遅くなっちゃ駄目か、今日くらい」
 ついつい、そんな誘いをかけたくもなる。悪い大人だ。
「えっ、あの」
 すると小坂は明らかにうろたえ、迷いを見せたので、もう一押ししたくなる。
「俺はもう少し、お前と一緒にいたい。何なら明日、二人で一緒に出勤したっていい」
 むしろ是非そうしたい。
 と言っても相手は小坂だ。今の言葉も額面通りに受け取って、『じゃあ駅で待ち合わせしましょうか!』みたいなこと言いだすんだろうな――こっそり苦笑いを噛み殺した俺に、ところが小坂は慌てふためいてみせた。
「な、何を仰るんですか! 駄目ですよそんなの!」
 驚くことに、ちゃんと意味が通じたらしい。
 純粋無垢な天然娘だと思ってたが、無知なだけってわけでもないのか。それとも『好きな人』ができてから、いろいろ自習したりしたのかもな。だとしたら可愛すぎるな。
「小坂でも意味、わかるのか」
 俺が大げさに驚くと、彼女は声を震わせながら反論した。
「それはその、私も二十三ですし、何となくですけどわかりますっ」
「じゃあ、どうして駄目なのかを説明してもらおうか。わかってるなら言えるよな?」
「……どうしてって、それはその、つ、付き合ったばかりですから」
 この辺は、さすが小坂って感じの倫理観だ。
 付き合ったばかりで駄目だというなら、どのくらい経てばお許しが出るんだろうな。小坂がそれを積極的に許してくれるとは到底想像がつかない。
 だから俺はあの手この手でもぎ取っていこうと思っていたんだが。
「付き合ったばかりって言ったって、俺たちは以前から付き合ってたようなものだったんじゃなかったか」
 俺は笑うと、表向きは紳士的に続けた。
「まあいい。今日も親御さんに見送ってもらってたしな、さすがに帰さないわけにはいかないから、門限遵守と行くか」
 帰宅時間は守らせる。
 ただし、何もしないとは言ってない。

 部屋に辿り着くと、俺は小坂を急かした。
「ほら早くしろ、時間がないぞ小坂。とっとと靴を脱げ」
 何せタイムリミットがある。これから二人で過ごす時間はまさに貴重、タイムイズマネーってやつだ。
「は、はい。善処します!」
 小坂はそう言いつつも、玄関でブーツを脱ぐのに手間取っていた。もたもたしているのは別に緊張のせいでもなく、単に脱ぎにくいだけらしい。
 俺はその様子を辛抱強く見守った。おりこうさんで待っていられたのは、部屋に引き入れたという安心感のお蔭だ。ここまで来ればもう逃げられないし逃がさない。
 そして小坂がめでたくブーツを脱ぎ終えたところで、背後からがばっと行った。
 後ろから手を差し入れるように腕を回し、小坂を縦抱きの姿勢で持ち上げる。
「わあ!」
 たちまち彼女が声を上げ、ちょうど耳の高さだったから響いて聞こえた。
「声が大きい」
 俺は小坂に注意する。
「この部屋も意外と響くからな、よく覚えとけ」
 お前の可愛い声が隣に筒抜けになっちゃったら困るだろ。
 まあ、どうしても抑えきれなくて聞こえちゃうこともあるだろうから、その時はその時だ。声抑えようとする方が盛り上がることもあるし。
「すみません、でも私、重たいですから!」
 わかってんのかわかってないのか、小坂は必死に訴えてくる。
「自分で歩きますから、本当に、全然お構いなくっ」
 困惑している彼女を、俺は黙って粛々とリビングへ運んだ。
 肘で明かりを点け、明るくなった部屋の中、ソファーの上まで連れて行く。そこに小坂をなるべく優しく横たえると、小坂はこわごわと天井を見上げる。
 その視界を遮るように、俺もソファーに膝をつく。
 そして彼女に覆い被さるなり、その唇をゆっくりと塞いだ。
 暖房が入っていない部屋の中で、小坂の唇は少し冷たかった。微かにココアの甘い味もした。でもめちゃくちゃ柔らかくて、冷たい皮膚の向こうに熱を感じて、そうするとこっちも火をつけられたみたいに熱くなる。
「あの、待ってくださ――」
 息継ぎで唇を離したその一瞬、小坂が声を上げかける。
 だが俺はそれを許さず、角度を変えて唇を重ねた。
「ま、待ってくださいって――」
 言葉と共に唇の隙間から漏れた、温い吐息ごと貪り尽くす。
「あ……主任、お願いですから……」
 喘ぐような懇願が、むしろ誘惑の言葉に聞こえた。
 そうじゃなかったとしても俺の頭は都合よく解釈するようにできている。小坂が押し退けないのをいいことに、付き合う前にはしなかったやり方でじっくりキスをした。

 最愛の彼女とする『初めて』のキスをたっぷり味わった後、俺はようやく唇を離した。
「は……っ」
 苦しげに息を吐き出した小坂は、それでも目をつむっていた。ぴくぴく動く瞼と一緒に、濡れた睫毛も震えている。唇は腫れたように赤く色づいていて、照明の光にてらてら光っている。両手を胸の前で握り合わせたその仕種が、まるで胸を隠そうとしているみたいに思えた。コート代わりのポンチョを着たままのその胸は、荒い呼吸に上下している。
 無防備すぎて、これでは食べてくださいと言わんばかりの姿勢だ。
 俺は、彼女の瞼にキスをする。
「目を開けろ」
 こっちも呼吸が乱れていた。妙に興奮している自分に気づいて、今更ながら恥ずかしくなる。
「怯えてる方が余計に可愛くて、どうしてやろうかって気になるんだぞ」
 小坂が動かないので脅してみると、彼女は慌てて目を開けた。
 うるうると濡れた瞳が俺を見上げて揺れる。
 その目に笑いかけてやると、小坂は覆い被さる俺の肩にしがみつき、顔を隠してしまう。
「怖いか」
 ソファと彼女の身体の間に手を差し込み、背中を撫でながら尋ねた。
 くぐもった声が返ってくる。
「あんまり、びっくりさせないでください」
 そうか、びっくりしたか。
 そうだよな、初めてだもんな。
 でもこの先には、お前がまだ知らないびっくりすることが山ほどある。俺はその全部をゆくゆくはお前に試したいと思っている。もちろん一日じゃ終わらないから何年という長いスパンでだ。だからお前も、初めてのことに怖がって逃げ腰になるんじゃなくて、俺を信じてついてきてくれればいい。
 それに、びっくりっていうならお前の方だって。
「それはお互い様だ」
 今日は運転中に心臓を鷲掴みにされた。言うなればこれは仕返しだ。
「心配するな。今日のところはキスしかしない」
 俺は尚もしがみついてくる小坂を安心させようと、そう告げた。
 まあ、唇だけにとは言わないが――ぷくぷくの柔らかいほっぺたを軽く噛んだら、彼女はくすぐったそうに身を竦める。
「だが俺の気持ちも察してくれ。お前にどれだけ惚れてるか、そしてどれだけ長い間待たされて、お預け食らって、焦れた思いでいたかも、二十三のお前なら想像つくだろ?」
 それはもう、さっきのキスでも足りないくらいの長い長いお預け期間だった。
 小坂には、俺を飼い慣らして服従させたって自覚がどのくらいあるんだろう。お前のブリーダーぶりは見事だった。俺はすっかり手懐けられて、今日もお前をこのまま帰してやるつもりでいる。
 でも、ただじゃ帰さない。
 お前の飼い犬は噛み癖があるんだ。覚えとけよ。
「だったら黙って、されるがままになっとけ。ちゃんと門限までには帰してやるから」
 俺はそう言うと、暖かそうなニットポンチョの襟から覗く白い首筋に噛みつこうとした。ほんのりと香るのはあの香水だ。そのラストノートが、今は妙に色っぽく鼻をくすぐる。
 だが首筋に軽く歯を立てると、びくんと身体を固くした小坂が俺の肩を押してくる。
「で、でも、その、ほどほどにしてくださいっ」
「何でだよ」
「だって、あ、明日は仕事始めで、あんまりすごいことされたら私、明日主任とどんな顔を合わせていいか、わからなくなっちゃいます」
 片言みたいなたどたどしさで、小坂がまくし立てた。
 小坂が思うすごいことってどんなことだろう。是非根掘り葉掘り聞き出してその通りにしてやりたいところだったが、それより先に俺は吹き出してしまった。
「本当に可愛い奴だ。待った甲斐もあったな」
 ああもうマジで可愛い。小坂の可愛さ、世界最大級。
「これで怯えた顔してなけりゃもっといいんだがな。笑えないか、小坂」
「む……無理です、全然無理です」
 ぶんぶん首を振る小坂を、俺は少し身体を離して見下ろした。
 恐る恐る俺を見返してくる顔が可愛く引きつってるのを見るや、俺の悪戯心――あるいは小坂構いたい心に火がついた。
「だったら強硬手段だ、こうしてやる!」
 言うなり俺は小坂のなめらかな顎の下や、ふにふにと柔らかい脇腹、スカートに覆われた太腿などをくすぐった。
「きゃっ! やめ、止めてくださいっ! わあ!」
 小坂の反応は敏感だった。ちょっとの刺激で身体をくねらせ、悩ましげに息を弾ませたかと思うと、くすくす笑いながら声を上げる。
「やっ、駄目です、本当に勘弁してくださいっ!」
「どうだ参ったか。参ったら俺をどう思ってるか言ってみろ!」
「くすぐったい、じゃなくて、わあごめんなさい間違えました、好きです、大好きです!」
 彼女が素直に答えてからも、俺はくすぐり攻撃をやめなかった。脇腹をふるふる揉みしだきつつ、その上にあるものの感触にも思いを馳せていたが、小坂はそれがどうしてもくすぐったくてたまらなかったらしい。やがて俺の下から逃げようと這い出しかけて――ソファーからぐらりと落っこちかけた。
 俺はとっさに腕を伸ばしてその身体を支え、ソファーの上に引き戻した。
 だが小坂は笑いも引っ込んだようで、目を丸くして俺を見つめる。
「あ、危なかったですね……」
「本当だ。初っ端からお前に怪我させたんじゃ、洒落にならないからな」
 ちょっとふざけすぎたかな。小坂を可愛がりたい構いたい気持ちは確かにあるが、それと同時に思いっきり大切にしてやりたい気持ちもある。
 でもって、せっかくだから幸せになりたいよな。二人で。
 もちろん俺はお前がいれば他には何にも要らないくらい幸せだが、二人でならそれを更に高めることだってできるはずだ。
 いいカップルってやつになろう。
 あの霧島夫妻にも負けないように――いや、目指すんだったら目標は大きく、世界一だ。

 俺は抱き締めた小坂の耳元に唇を寄せる。
 そして世界最高を目指すべく、俺にできるかぎりの優しい声で囁いた。
「俺も好きだ、小坂」
 小坂はくすぐったそうに首を竦めつつ、上目遣いになって俺を見た。
 それからようやく嬉しそうに、少しだけ恥ずかしそうに、その小さな唇をほころばせて笑ってくれた。

 今日、俺に世界一可愛い彼女ができました。
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