Tiny garden

救い上げて(1)

 これが本当に犬の話なら、躾け方を間違ったと言うところだ。
 だが小坂藍子は犬じゃない。
 ついでに言えば、まだ俺の彼女でもない。

 時は既に年を跨ぎ、一月三日になっていた。
 にもかかわらず、小坂は俺の彼女じゃない。
 どう考えてもおかしい。去年の五月の段階で、俺は小坂からの好意を確認済みだった。七月、俺の誕生日には向こうからの申し出で楽しくお祝いもしてもらった。その夏のうちに会社の屋上で一緒に花火も見た。秋にはデートもしたし俺の部屋にも呼んだ。クリスマスにはお互いプレゼントを贈り合った。
 ここまでしていても尚、小坂は俺のところに落ちてこない。
 やっぱり、あいつは本気でルーキーイヤーの終わりを待つ気なのかもしれない。それまで俺を焦らしに焦らすつもりなのかもしれない。
 おかしい。これでは俺の方が『待て』をされてる犬みたいじゃないか。
 いつの間にあいつがブリーダーになったんだ。

 年が明け、俺はようやく認める気になれた。
 この恋に、俺は今、めちゃくちゃ手こずっている。
 もちろん表立っては死んでも言わない。ぽろっと零してしまおうものなら、手ぐすね引いて待ち構えている安井と霧島に『ほれ見たことか』と散々からかわれるに決まっているからだ。
 でも自覚はしてる。手こずってる。小坂は手ごわいし、俺のことをあんなにきらきらした目で見るくせに、抱き寄せても全く抵抗しないくせに、最後の最後で落ちてこない。もうあと一押しだ、そう思ってから何ヶ月が経っただろう。
 かといって、こちらの気持ちはのっぴきならないところまで来ている。
 要は、めちゃくちゃ惚れてしまった。
 そして惚れた弱味を突かれるかのように、このお預け期間にだらだら涎を垂らしつつ、小坂のちょっとした言動にいちいち尻尾を振っている有様だ。どう見ても馬鹿犬である。

 かくしてブリーダーを目指していたはずの俺は、だらしなく服従のポーズを取る馬鹿犬と化した。
 今日も今日とて小坂を連れ回しては、ささやかな幸せを噛み締めちゃっている。
 ちなみに本日は結婚を控えた霧島の部屋にお邪魔して、長谷さんの手料理をごちそうになったり、結婚祝いの品を贈ってやったりした。その結婚祝いだって小坂と一緒に選んだものだ。どう見ても彼女なのに、まだ彼女じゃない。おかしい。
 ともあれその帰り、俺は小坂を助手席に乗せ、午後の街を車で走っていた。
「楽しかったです、とっても」
 助手席の小坂は今日も可愛い。大勢と会って一緒に飯食った後だっていうのに、疲れた様子一つ見せずに笑っている。
 オフの日はふわっとしたスカートが多いようで、今日も今日とてひらひらした膝丈のスカートをはいていた。コートの代わりにニットのポンチョを着てくるところも非常に小坂らしい。色気はないが可愛いからいい。
「そうか。よかった」
 俺は小坂の返事にほっとする。
 今日のホストである霧島と長谷さん、そしてもう一人の招待客安井も、小坂にとっては旧知の相手だった。だがオフの日に会うのは初めてだろうし、先輩ばかりと来れば気を遣わないわけにもいかないだろう。彼女を連れていきたかったのも事実だが、楽しめたかどうか気がかりだったのもまた事実だ。
 食事会の最中はよく飯も食ってたし、緊張こそしていなかったようだが――楽しかったか、そうか。本当によかった。
「長谷さんも言ってたが、次は飲み会がしたいよな」
 ハンドルを握りつつ、俺は早くも次回に思いを馳せる。
「明日が仕事始めでなけりゃ構わなかったんだが」
「次も誘っていただけたらうれしいです」
 すかさず小坂が言ってくれて、それだけでテンションが急上昇する。
 そう言われちゃったら誘わないわけにはいかないよな。よしよし、誘ってやるから待ってろよ。
 でも、そういう場に俺の連れとして出席するってことにどういう意味があるのか、小坂はちゃんとわかってんのかな。俺だけが外堀を埋めてる気になってるだけじゃないといいんだが。今や埋めすぎて、ジェリコの壁より堅牢強固な壁になりつつあるが。
「お前さえよければいくらでも誘ってやる」
 内心の悲喜こもごもはさておき、俺は小坂にそう告げた。
「ありがとうございます。楽しみです!」
「楽しかったか、今日」
「はいっ」
 こくっと頷くのが視界の隅に見える。
 それから小坂は、屈託のない口調で続けた。
「皆さん、すごくいい人たちです」
「まあな。断じて、全員がとは言わないが」
 長谷さんはいい子だ。彼氏の先輩なんぞ面倒くさくて扱いづらい存在に違いないのに、俺達をいつも歓迎してくれて、美味いものをごちそうしてくれて、小坂のことも可愛がってくれてる。
 肝心の彼氏の方は、いつまでたっても生意気盛りだがな。
「え? そうですか?」
 小坂が怪訝そうな声を上げる。
「一部性格の悪い奴や、生意気な奴もいるからな。小坂も慣れたらどんどん突っ込み返してやるといい」
 俺はそう教えてやりつつ、その『性格悪い奴』や『生意気な奴』の顔を思い出して苦笑する。
 すると小坂もつられたか、やがて助手席で微かな笑い声から聞こえた。
「笑うな、小坂」
「す、すみません。ちょっと楽しくって」
 謝った後はもう抑えられなくなったのか、小坂は朗らかに笑った。
 運転中だからその顔は見えないが、女の子らしい笑い声だけは聞こえてきて、今度は俺の方がつられて、にやにやしてしまう。
 こういうのもいいよなあ。隣で小坂が、ほんのちょっとしたことで笑ってて、そいつを俺は妙に幸せだと思っている。特別面白いことがあったわけでもないのに、二人で話をしているだけでお互い笑える。そういう幸せだ。

 やがて小坂が笑うのをやめて、助手席から俺を見つめてきた。
 運転中でもそれはわかる。くすぐったいくらいの視線を、ほっぺた辺りに感じている。
 俺にとっての幸いは、小坂のその眼差しに疑いようもない好意を確信できることだ。
 それもただの好意じゃない。春先こそ尊敬の念の方が強かった眼差しも、今ではうっとりと熱を帯びた切望の目に変わっている。こんなにもわかりやすい変化に、恐らく本人が一番気づいていないんだろう。
 そんなに物欲しそうにしなくたって、その気になりゃいつでも手に入るのにな。
 今の俺達の間にある距離なんて、運転席と助手席よりもずっと小さなものでしかないはずだ。ジェリコの壁だってお前なら何なく乗り越えてくるだろう。
 あるいは俺が、お前の為にぶっ壊してやったっていい。

「なあ、小坂」
 まだ頬に視線を感じつつ、俺は運転しながら切り出した。
「俺と付き合ったらいいことずくめだぞ。今日みたいな楽しい思いはいくらでもさせてやるし、もっといろんなところに連れて行ってやる」
 今日も俺の方が尻尾を振る。
 お預けを食らった犬みたいに、それでも待ち切れなくて訴える。
「霧島が長谷さんを大切にする以上に、お前のことを大切にしてやる」
 あの二人、何だかんだですっかりお似合いだったろ。
 小坂もちょっとは羨ましくなったんじゃないか。あんなふうに、自分もなりたいって。
「ああそれと、ウェディングドレスだってそのうちに着せてやるぞ。長谷さんも似合ってたが、小坂が着たってきれいだろうなー」
「え、そんな、どうでしょうか……」
 ここでようやく、小坂が返事をした。まだ実感が湧かないのか、曖昧な言い方だった。
 でも心配しなくていい。小坂だって絶対にきれいだ。ちょっとずつだが変わっていくお前を見てきたから、わかる。
 だから、頼むから、もう一歩だけ踏み出してみてくれないか。
「ともかく、そろそろ覚悟を決めたっていいんじゃないか」
 こういう時に限って、車の流れがいやにスムーズだ。
 俺は運転を続けたまま、小坂に対して仕掛け続けた。
「年度末までなんて言わず、とっとと俺と付き合えよ」

 もちろん、いい返事がもらえるとは思ってない。
 でもこういうことは仕掛け続けるのが大事だ。しつこくしつこく言い続けていれば、厳しいブリーダー小坂も根負けしてお預け状態を解いてくれるかもしれない。
 俺だって惚れた弱みだ、待てと言われればある程度は待つ。って言うかもう十分待った。自分ではそのつもりだ。
 ただ小坂には、待たされる方も結構辛いんだってことくらいは知っといて欲しい。
 お前の隣で尻尾振りつつも、腹空かして辛くなってる奴がいるってことくらいは。

 小坂は、すぐには返事をしなかった。
 一体、何を考えているんだろう。車のエンジン音に紛れて微かな呼吸が聞こえてくる。ちらりと横目で窺えば、ぷくぷくしたほっぺたの可愛い横顔が、ものすごく真剣な表情をしているのが見えた。
 おおかた何か崇高な決意でも胸に秘めてて、それをまたしても俺に訴えてくるつもりなのかもしれない。
 そうすれば上司でもある俺は、小坂の気持ちを無下にはできない。何か軽いご褒美でもねだって、まんまとそれが与えられれば犬みたいなテンションで『待て』を続行するだろう。毎度のことながら、七つも歳下に随分いいように弄ばれてるもんだ。
 ま、それならそれで美味しいご褒美貰っちゃうかな。
 沈黙の間に、俺は早くも気持ちを切り替えた。

 小坂は、それでもしばらく黙っていた。
 よっぽど自分で納得のいく言葉が浮かばないのか、あるいはちょっとくらいは迷ってくれてんのか、とにかくなかなか答えをくれなかった。
 あんまり黙られるとこっちも期待しちゃうんだがな。まあ、どんな返事が来るのかは予想ついてる。何でもいいからひとまず答えてくれりゃいいのに。
 そんなふうに思いながらハンドルを握る俺の耳に、
「――はい」
 小坂の声が、そう言った。
 
 何のことか、一瞬わからなかった。
「ん?」
 いや、その一瞬が過ぎたところでちっともわからなかった。
「はい、って、何がだ」
 俺は訳がわからず聞き返す。
 そんな短い返事を貰ったところで、ぴんと来ないんだが。
 すると小坂は声だけでもわかるくらいもじもじして、
「あ、あの、その、恋人になるかどうかという話について、です」
 と続ける。
「へえ……え?」
「ですからつまり、私を、主任の恋人にしていただけたらなって……」
 次第にボリュームが絞られていく小坂の声。
 だが逆に、俺の耳にはその消え入りそうな言葉がくっきりと聞こえ、いつまでも残っていた。
 小坂が。
 ――恋人に?
「何だって?」
 俺は思わず聞き返したが、聞こえなかったわけではもちろんない。
 ただあまりにも突然のことでうろたえた。いや、うろたえたなんてもんじゃない。心臓が跳ね上がった。
 だって何だ、『はい』って。
 今まであんなに焦らすに焦らして待たせといて、なぜ今、このタイミングで。
「ちょ、ちょっと待て小坂」
 運転中に意識を逸らすこともできず、そうなるとどうしても言葉が上滑りしていく。
「今の本気か? さすがに冗談じゃないよな? 俺に対してそんな酷な冗談は言わないよな?」
 滑稽な物言いになった俺の問いに、
「ももも、もちろんです!」
 小坂も思いっきり動揺し、声を裏返らせながら答える。
 マジかよ。
 ちょうどそこで、ようやく信号に引っかかった。俺は車を停めてから、助手席に向き直り改めて尋ねる。
「ってことは本気か? 本気にしていいんだな!」
 無様にも何度も聞き返してしまう俺に、小坂は真剣な顔で頷いてくれた。
「はい!」
「と言うかお前どうしてそんな大事な話を運転中に!」
 可愛くてとても大事なお嬢さんを隣に乗せてる最中だぞ。そういう心臓鷲掴みにする話題はもっと落ち着いた場所で言って欲しいもんだ!
「え、その、何と言いますか……聞かれたから、です」
 小坂は恥ずかしそうに弁解したが、酷い責任転嫁だ。
「じゃあ俺のせいか!」
「い、いえ、そんなことは全くもってないです! むしろ私の方こそ今日まで大変長らくお待たせしてしまって本当にどうお詫び申し上げたらいいのか――」
「とりあえず待て、ちょっと待て! 車停めるから!」
 また何かとんでもなくハートを直撃することを言われそうな予感がしたから。
 信号が変わると同時に、俺は道沿いに建つコンビニに狙いを定め、すかさずその駐車場に乗り入れた。

 みっともなく動揺してるのはわかってる。
 だが気持ちを落ち着けないことには――心臓がばくばくいってて、何か言おうにも言葉にならないとか俺らしくもない!
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