Tiny garden

世界と引き替えにしても守りたいひと(6)

 その日は霧島をアパートまで運んでやって、それから帰宅したのが午前一時前。
 さすがに小坂は寝てるだろうと、返事は夜が明けてからにしようと決めた。それならそれで貰ったメールを読み返しつつ、どうやって三倍返しにしてやるか楽しく考えつつ寝ついちゃえばいいと思いつく。早速いそいそと着替えを済ませ、ベッドに寝転んだまではよかった。
 寝つけなかった。
 自分でもおかしいくらいに興奮してるのがわかる。そりゃあんなラブレター貰っちゃった後なら鼻息も荒くなろうと自分でも思うんだが、変な意味じゃなくて、やたら悶々とする羽目になった。顎を枕に乗っけて、うつ伏せの姿勢でメールを読み返せば、直に顔を伏せたくなる。枕に埋まったまま、うおおお……と意味もなく唸り声を上げたくなる。てか実際、ちょっと唸った。三十にもなって年甲斐のない浮かれっぷりだが、しょうがあるまい。久々にむちゃくちゃ幸せなんだから。
 女の子からのメールを手前勝手に深読みするのは男の性だ。いつもは恋心が読み取りづらい礼儀正しい小坂から、あんなメールを貰ったりしたら当然のように深読みしてしまう。俺の励みになりたいとか、それってつまり逆プロポーズだろ。
 一旦そんな風に考えてしまったらもう駄目で、いくらなんでも早まりすぎだってツッコミを入れる理性を蹴っ飛ばし、脳内には幸せ一杯夢一杯の未来ビジョンが着々と築かれていく。残業終わって帰ってきた俺を迎えるのが誰もいない部屋じゃなくて、小坂のいる家だったらいいなとか。仕事が忙しくてくたびれた日でも、あいつがお帰りなさいって笑顔で出迎えてくれたら、いくらでも頑張れそうな気がするとか。前にもちらっと思い描いたことがあったが、小坂はいい嫁になると思う。一人でぱたぱたしてるのを見てるだけで退屈しないってのもあるし、それ以上に俺を真っ直ぐ見ていてくれてるってところが、一緒にいるにあたって最も大切な条件だ。結婚なんて真面目に考えたことなかったけど、ここまで来ると悪くないんじゃないかって気分になってきた。石田藍子、なんて、いいじゃないですか。割と自然に馴染むじゃないですか。
 あいつの未来が全部欲しい。代わりに、あいつが欲しがる俺の全部をくれてやってもいい。本物は写真よりも世話が面倒くさくて大変だろうが、でもできる限りの力をもって幸せにしてみせるから。俺は小坂がいてくれたら他には何にもなくたって、それだけでいくらでも走れてしまう。小坂の存在だけで、本当に、永久機関になれそうな気がするんだ。
 ――そんなことを考えていたら当然眠れなくなって、俺は午前四時くらいまで一人で盛り上がっては枕に埋まったり唸ったり寝返りを打ちまくったりしていた。

 寝てない分、メールの返事をどうするか考えられたかと言うと、全くもってそんなことはなく。
 むしろ本格的に明るくなってから俺は慌て出した。そろそろ返事を打たねばならん、さすがにあれだけ貰っといて普段みたいな会話的文章じゃ釣り合わない。しかしあんまりつらつら長文ってのも性に合わないっつうか……俺は仕事以外であんなに長いメール打った記憶ないぞ。小坂にとってはあれが普通なのか、それともラブレターだからなのか。ラブレターの返事ならやっぱこっちも『俺も好きだー!』くらいは言っとくべきか。でもそういうのはやっぱ顔見て言いたいよな。ちゃんと会ってからで――あ、そうか。今日明日って二日も会えないんだ。今日は後で出かけるし、明日は多分しばらく酒が残ってる。さすがに酔っ払いの顔で愛の告白なんてわけにはいかない。明日一日でベストコンディションに戻して、いい顔で小坂に会いたい。となると、月曜か……遠いな。そんなに待てっかな。
 で、メールの返事はどうした俺。
 何の考えも浮かんでこないのは本当にどうしたものやら。あんまり返信が遅いと今度は小坂がやきもきしちゃわないか。いや、別に、ちょっとはすればいいって思うけどな。俺をこんなに弄んどいて、あいつが休日をのほほんと過ごしてたら癪じゃないか。ちょっとくらい気を揉んで頭の中が俺ばっかりになってればいい。昨日、あいつは俺をずるいとか言ったが、本当にずるいのはそっちだ。メールたった一通でこんなに浮つかせて悩ませて眠らせもしないで。
 その上今日どころか明日も会えないなんて。
 あーもう、いっそ結婚したくなってきた。あまりにも短絡的な理由だが、それで全部解決するんだから他に手はない。あいつに会えない日があるとかもう耐えられない。結婚までの下準備が面倒ならとりあえずの半同棲でもいいか。でもそれやったら霧島に、『ほら先輩、結婚するまでって時間かかるものなんですよ!』みたいなしたり顔されそうなのが嫌だ。俺は奴ほどマイペースじゃないしそんなに悠長にできる歳でもない。なのに実際にやってみたら、半同棲でも意外と楽しくてずるずると何年も……ってのがありえなくないから嫌だ。
 お前と結婚したいって言ったら、あいつはどんな反応するだろう。
 それもメールで告げるには微妙な言葉だ。顔が見えないしな。でもそんなこと言ってたら、書ける話なんてもうなくないか? 俺が今すごく言いたい、腹の底辺りにわだかまっていそうな本心の数々が全部メールには相応しくない内容ってことにならないか。それなら、何て送信すればいいかなんていくら頭ひねったところで閃くはずもない。
 睡眠不足の頭で考えに考えて考えまくった末、夕方になっても結局メールの返事ができなかった。これはやばいと、俺はもう半分自棄になって小坂に電話をかける。

 時刻は既に午後四時過ぎ。昨夜メールを貰ってから実に十六時間も経過している。
 その間、小坂には一言の返信もしてなかったわけで、もしかしたら『変なメールを送っちゃったかも……』などと要らぬ心配をしてる可能性だってある。やきもきすればいい、とは思ったものの、本当にやきもきさせたらそれはそれでかわいそうな気がしてならない。甘いか?
 ともかく、ぷつりと電話が繋がった瞬間、俺は即座に呼びかけた。
「小坂」
『は、はい』
 彼女は彼女でとても素早く返事をしてから、息もつかずに続ける。
『あの主任、昨日は……』
 少し緊張しているような声だった。そして何か言いかけていたから、こっちはとっさに焦った。――待て待て! いつもみたいに主導権は渡さないぞ。お前は毎回そうだ、不意打ちみたいなタイミングで意外な台詞を口走るから、俺はその奇襲攻撃に始終振り回されてる。思い返せばずっと前からそんな調子だ、あの五月の歓迎会の時からだ!
 手短にしろって言っただろ馬鹿。お前は挨拶もラブレターも全部長すぎるんだよ。そんなんだからわかりやすい時はものすごくわかりやすくて、食らったこっちの調子が狂う。
 そう思ったら、考えるより先に呻いていた。
「弄ばれてるのは、確実に俺の方だ」
 間違いない。どう見たって哀れな被害者はこっちだ。
『え?』
 そして俺を弄ぶ悪い奴は、意味がわからないというように声を上げた。
『あ――の、ど、どういうことでしょう?』
 自覚はないらしい。
 ないもんかな、あんなメール送っといて。あれ読んで俺が一ミリも動じないなんて、誰もが自分並みに鈍感で疎いんだって小坂は思ってんだろうか。俺は一ミリどころか、一晩で地球三周くらいした。もう虚勢張る気力もない。
「昨日のメール」
 だから短く答えたら、
『はい……。あの、やっぱり問題でしたか』
 小坂は早とちりでもしたのか勝手にしょげた。
 やっぱりって何だ。お前はあれが問題のある文章だと思って俺に送りつけたのか。俺が喜ぶだろうと自信持って送信してくれたんじゃないのか。ここまで来て俺をへこませないでくれ。普通に話してても振り回すとか、どこまでずるいんだ。
「問題はない。でも」
 電話してるだけで胸がきりきりしてきた。何この痛み。恋ですか。
 振り絞るように告げる。
「かなり、動揺させられた」
 むしろ過去形じゃなく、現在進行形で動揺してる。
 なのに電話の向こうはノーリアクションだ。理解が追いつかなくてぽかんとしてるのか、しばらく沈黙が流れたりするもんだから堪らない。何か言えよ。黙ってると俺が更に恥ずかしいことを言っちゃうぞ。
「夜にラブレターなんて読むもんじゃないな。昨日はちっとも眠れなかった」
『す、すみませんっ』
 俺の恥ずかしい発言をかわすがごとく、小坂が詫び始めた。
『あの私、励みになるようなメールにしたいと思っていたんですけど、書き方が悪かったですね。何と言うか私も、気分が高揚しちゃってて』
 あれで書き方が悪いなら、ベストの出来はどんなもんだったんだろう。きっと例によって折り目正しくて堅苦しくて、恋する乙女心を読み取るのが至難の業っていう文面に仕上がってたに違いない。
 わかってないな。それならいつも、よくない書き方でいい。常に浮ついた気分でメールして来ればいい。
「別に悪くない」
 伝わらないもどかしさに溜息も出る。
 ラブレター、の部分はスルーしないで欲しかった。否定されなかっただけましか。
「ただ、ものすごく食らった」
 みぞおち辺りに来た。今も痛い。
『食らった、んですか』
 おうむ返しの小坂は可愛い。言うまでもなく全部可愛いけど。
「確かに霧島にも見せられないメールだったな。恥ずかしいを通り越してた」
『あ! あの、霧島さんには……!』
 ここに来てようやく、彼女は期待通りの慌てふためきっぷりを見せた。気にすんのそこなのか、やっぱずれてる。霧島に見られたくない気持ちはわかるが、当の俺に対しては恥ずかしさとかないのか。
「だから見せてない。見せられないっての」
 そして俺が正直に教えてやると、
『本当ですか? よかった……』
 たちまちほっとした声に変わるから、このわかってなさとずれてる感じをもう本当にどうしてやろうか、って気分になる。お前ももっと動揺して浮かれて一人悶々とする夜を過ごせばいいのに。俺みたいに。
「ちっともよくない。お前のメール、ちょうど帰り際に受信したんだけどな。読み終わったところを霧島に見られて、もう少しで怪しまれるところだったんだぞ。あんなメール貰って平然としてられるか」
 霧島は、自分が名指しで『見せるな』と言われたことを訝しがっていた。それを口実にしつこくしつこく内容を知りたがった。もちろん全力で死守したが、しばらくは言われそうで兢々としている。
 ラブレターとか、他人に自慢できるもんじゃないよな。こっちが照れるわ。
『すみません、ご迷惑をお掛けして』
「迷惑じゃないよ馬鹿」
 またしても謝る小坂に苦笑しつつ、俺は宣言する。
「でも、食らいっ放しは悔しいからな。――三倍にして返す」
『さ、三倍ですか?』
「覚えてろ。次の機会にはお前を、昨日の俺の三倍分は動揺させてやる」
 電話だと見えないから、俺がどんな顔してるのかもわかんないだろうな。
 俺だって自分の顔がどんなもんかって見えないし、見たくもない。今はもうごまかしようもないくらいにだらしねー面になってるはずだから。小坂にはこの三倍は、にまにまと幸せそうな顔をさせてやりたい。顔はでれでれなのに、でも妙に胸がきりきり痛んで苦しくなって、好きすぎて壊れそうでやばいって感じに、一緒になって欲しい。
『あの、昨日のメール、励みにはなりましたか?』
 今のところ、小坂の声は普段通りだ。ちょっとだけはしゃいでいるような気がしないでもない、とりあえずは嬉しそうな声。盛んに振ってるふっさふさの尻尾が見えるようだ。かわええのう。
「なったなった」
 誉めて欲しそうだったから、多少は肯定しておく。
「あまりにもベタな趣味で正直どうかと思うけどな。お前があの名刺を励みにしてるって言うなら、好きにすりゃいい。俺だってまあ、悪い気はしない」
 そりゃあんなこと書かれちゃった後だもんな。頭ごなしに駄目だなんて言えないよな。
 その代わり、本物のこともお忘れなく。俺は誰かさんと違って『待て』ができるおりこうさんじゃないからな。もう近々、待てなくなる。でもって待ちきれないからと言って見切りをつけられるような段階でももはやないから、そうなるとすることは一つだ。
 デートをしよう。三倍返しの為に。
『ありがとうございます!』
 まだ何にも知らない小坂が声を弾ませる。可愛い。
 本当に、用事がなけりゃ会いに行ったのにな。全然寝てない顔だけど。目の下にクマとか作ってったら、さしもの小坂にもばれるだろうか。
「ところで小坂、今は何してた」
『私ですか? 今日はずっとのんびりしてました』
「お前らしいな」
 やっぱやきもきさせてやればよかった、とこっそり思った。
 のんびりしてたのか……どこにそんな余裕があるんだお前。人を弄んどいていい度胸だなおい。
「俺はこれから、霧島の部屋に行くところだ」
『あ、そうでしたね。今日はお食事会ですよね? ものすごく楽しそうで、いいですね』
 小坂は羨ましそうにしている。今日の面子は小坂にとっても見知った顔ばかりだから、交ざりたいって気持ちにもなるのかもしれない。
 俺も、交ぜたい。あの面子の中に小坂がいたってちっともおかしい気がしないし、むしろ自然だ。安井や霧島には冷やかされるだろうが、それを差し引いても絶対楽しいと思う。って言うか冷やかされる前に胸張って紹介してやる。俺の彼女です、ってな。
 妄想力なら人一倍の俺は即座にそこまでを考えて、小坂に対しても前向きに言った。
「お前も連れて行きたいな」
『い、いえ、その、そういうつもりでは!』
 自分で羨ましそうにしといて、小坂は急に遠慮がちになる。
 別にいいのに、遠慮せずどーんと甘えてくれたって。
 お前は俺を尊敬してるらしくて、そういうのももちろん嫌ではないけど、でも同時に好きだとも思ってくれてるんだろ。だったら、立派になるとか俺の為に何かするとかと同じように、俺に何か、ただの上司なら普通はしてくれないようなことをしてもらう、みたいな選択肢を持ってたっていいんじゃないか。俺だってお前の為ならすっげー頑張るし、何でもするんだからな。
「俺は、そういうのもいいなと思った。お前を連れて行って、もっともらしく紹介してやりたいなと思った。お前みたいな彼女がいたら、さぞかし自慢になるだろうしな」
 安井は何だかんだで素直に羨ましがってくれそうだ。霧島は……まず文句を言うな。『小坂さん、考え直した方がいいですよ』とか。あ、それは二人ともそうか。二人して熟慮を勧めるだろうな。俺がいかに変態かとか、付き合う前にどんな酷いこと言ってたかとか力説し始めたりして。
 でも小坂はいい子だから、あいつらが俺の本性を吹き込もうが何しようが『主任はそんな人じゃないです』って言い張りそうな気がする。俺がこの先どんなに変態ぶりを露呈しようと、そんなものなんだ、って真面目に受け止めてくれそうな気もする。
 むしろ受け止めてくれ、多分一生治らないから。
 でもその代わり、そういうの全部お前限定にするから。
『――い、いえ、そんなものでは』
 小坂は謙遜でもしようとしたのかあたふたしている。心配すんな、どっから見ても申し分なく可愛い。本気で俺の名前書いておきたいほど可愛い。
 お蔭で俺も、久しぶりなくらい幸せになれてる。
 こんなにいいもんだったっけ。久しぶりすぎて、ちっとも覚えてなかったな。
「やっぱり、他人事じゃない方が面白いな」
 しみじみと、思う。
「もっともお前が相手なら、面白いなんて余裕もそのうち、言ってられなくなりそうだ」
 それも実感してる。ここまでで散々いいようにされてるもんな、早いとこ手綱握らせてもらわないと、永遠に小坂に振り回されてそうだ。それもいい、とか俺自身が思っちゃう前にどうにかしよう。
「月曜を楽しみにしてろよ、小坂」
 言い残した宣戦布告を、彼女はどこまで把握できただろうか。
 相変わらずピントのずれた解釈してんじゃないかって気もしたが、それでも月曜にはわかるだろう。俺はもう次の休みなんて悠長に待ってられないくらい、お前が好きなんだよ。そういうのも早くわかってくれたらいいんだけどな。

 小坂と話した後の何とも言えぬ幸福感を引きずったまま、俺は霧島のアパートに行った。
 そして連中に対しても、酒の勢いで零す羽目になった。
「三十歳って、意外と大したことないよな」
 霧島の部屋は初めて遊びに行った時よりもぐっと物が増えていた。床を覆うラグマットや意味深な二人掛けのソファー、俺が譲ってやったDVDプレーヤーもある。そして一番の変化は食器だ、俺と安井が押しかけても余裕で一人三皿は取り皿を貰える。ビールは冷えたグラスに注いであって、彫りのきれいなガラス鉢やサラダボウルもあったりして、そして飲み会ですらテーブルの上には栄養満点の野菜メニューが並ぶ。
 目の前の劇的な変化とは対照的に、俺は自分の未熟さを自覚しつつあった。
「遂に自覚したか」
 安井はむかつくほどにこやかに笑っている。
「どうせ、七つ下だからって舐めてたら痛い目に遭ったんだろ?」
「遭った。それはもう、いいように弄ばれちゃって大変なんだよ」
「小坂さんにですか?」
 一方、霧島は目を瞬かせている。部屋飲みの際も当たり前みたいに麺類を食しながら、
「そういうイメージとかないですけどね……無意識にしてくるってことですか」
「そうです、まさにそうです。あいつの魔性っぷりマジ半端ない」
「年下って言っても二十三だもんな。そりゃ舐めてる方が悪い」
 もっともらしく安井が言うので、俺は改めて三十歳という年齢を噛み締める。
 なる前は憂鬱でしょうがなかったし、二十代と違ってもう後もないし、この先は老いていくだけかと思っていた。
 でも実際三十になってみたら、悪い意味で大したことなかったと言うか。大人の余裕なんて小坂相手じゃ呆気なく吹っ飛んでしまうし、経験の差もかえって願望とのギャップにじりじりさせられる代物でしかない。逆に今更、あいつに教わってしまうことすらあったりして、俺にもまだまだ伸びしろがあるらしい事実に喜んでいいのか、がっかりしていいのか。
 現実にはいい歳なんですがね。後輩はもう結婚するし俺もあちこちからせっつかれてるのに、こんなに浮かれっ放し振り回されっ放しの恋愛をしてるんだから、三十歳なんて実にしょぼい。
「でも、弄ばれてるって割には幸せそうな顔してますよね」
 霧島からの指摘を受け、一層にやけてみる。
「まあな。俺、ドMだから」
「嘘でしょう……。絶対好きな子いじめちゃうタイプですよ」
「そういう性癖の奴は『ブリーダーになりたい』とか言わないだろ」
 二人がかりで全否定された。なぜだ。
 実際のところはSとかMとか関係ない気もするがな。可愛い子にいいようにされたい欲求と、可愛い子をいいようにしたい欲求と、どっちも普通に持ってるからしょうがない。小坂からラブレターを食らって眠れぬ夜を過ごすのも何かこう、うずうずしたし、あいつに食らった分の三倍は返してやろうと今からあれこれ計画練ってるのも実に、ぞくぞくする。どっちもいい。
「と言うか、先に注意しときますけど」
 ふと霧島が声を潜めて、居間のすぐ隣にある台所へ目をやる。
「今日は彼女がいますから、下ネタは控えてくださいね」
 その台所からは揚げ物でもしてるっぽいいい音が聞こえてくる。長谷さんが俺たちの為に何かつまみを作ってくれてるらしい。本当、よくできた子だ。
 しかも長谷さんは性格も素晴らしくて、俺たちがどんなに下品な話題に走ろうが気にするそぶりも見せない。いつも霧島が一人でストップをかけたり怒ったりして、最後には長谷さんに向かって『すみません先輩がたが下品で』とか何とか生意気な謝罪をするんだが、そういう時でも長谷さんはにこにこしながら、気にしてませんから楽しくお話してください、って言う。俺はそこに受付嬢のタフさを見出す。
 まあそんなわけで、霧島の注意なんか聞いてやる義理もない。
「わかってるって。小坂の胸の谷間画像が欲しいとか、そういうことは言ったりしない」
「言ってるじゃないですか!」
 むしろ霧島の声が一番でかい。そら長谷さんにも聞こえちゃうわな。
「そもそも小坂さん、谷間なんて作れた?」
 今日も安井はピッチが早い。既に酔いが回ってるようだ。
「見た感じ、なくはないけどってサイズじゃないか?」
「確かにちっちゃいけど、全く膨らんでないってほどでも……」
 俺は擁護するつもりで言いかけて、はたと気づいて安井に噛みつく。
「つかお前何見てんだよ! あいつをそういう目で見るな!」
「一番そういう目で見てる奴が何を言う」
「俺はいいけどお前は駄目!」
「しょうがないだろ、並んで座ってたりしたらつい目が行くもんだ。薄いな、とかさ」
 安井はへらへらと言い訳をしつつ、呆れ顔の霧島に視線を投げる。
「それに何食わぬ顔してる霧島くんも、さっき小坂さんの胸の話題が出た時には『そうだったっけ?』みたいな顔してたよ。あれは絶対思い出してる」
 途端に霧島はびくっとして、俺と安井の顔を交互に見ながら、
「い、いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ何でこっちに飛び火するんですか!」
 もちろん事実ならば断罪ものである。慌てるところが非常に怪しい。
「お前……二の腕好きなくせに胸もしっかり見てんのか! このむっつり!」
「何言ってんですか違いますって! だって俺、小坂さんとは毎日顔合わせてるんですよ! だからそういうつもりとか全然なくて、見ようとしなくても何となく視界に入っちゃうって言うか……」
 容疑者の自供が取れました。これより速やかに刑の執行を。
「長谷さーん! 霧島くんがぁ、精神的な浮気をしてますー!」
「わー! 何を言うんですか先輩!」
 俺の呼びかけと霧島の絶叫に反応してか、台所では明るい女の子の笑い声がした。それから長谷さんがひょいと顔だけ覗かせて、
「石田さん、霧島さんをあんまりいじめないであげてくださいね」
 なんてにっこり微笑む。
 それで俺と霧島は同時に黙る。女の子の笑顔はいいですなあ。場が和む。
 しかし騒動の張本人だったはずの安井は空気も読まず、酔っ払いっぽい笑い声を立てた。
「好きな子をいじめちゃうタイプなんだっけ、石田は」
「……いや。ないわ、絶っ対にないわ」
「俺もお断りします。間に合ってるんで」
「じゃあ本当にドM? 小坂さんに弄ばれ続けたいって思ってる?」
 それはそれでちょっとな。たまになら悪くないがやられっ放しは気に食わない。仕返しはしたい。そしてどぎまぎしたりあたふたしたりする小坂も見てみたい。三十歳なんて大したことないけど、しょぼいけど、それでも伊達にお前より七年多く生きてきたんじゃないんだぜってとこも見せたい。
「やっぱ目指すよ俺、トップブリーダー」
 だから決めた。
「で、じっくりしっかり育ててく。小坂のことも、俺自身のことも」
 伸びしろがあるなら、伸びるだろ。いつか歳相応に落ち着いて、そうそう弄ばれたり振り回されたりしなくなるはず。その時は小坂もすっかり落ち着いちゃってるかもしれないけど、それならそれでいい夫婦になってそうじゃないか?
「むしろ愛を育んじゃうわけですね」
 霧島がすっげー恥ずかしい台詞を言った。こいつも酔ってきたな。
「胸も育ててあげるんだよな、石田」
 安井は更に更に酔っ払ってる。俺が連れて帰んなきゃ駄目かもしれん。
「いやまあ、俺が頑張っておっきくなるなら頑張っちゃうけどな!」
「そっちに話戻すんですか先輩……」
「何だったら声かけてくれればいつでも手伝うから」
「手伝うって何をだよ!」
「だからやめてくださいよ本当にもー!」
「いいだろ減るもんじゃなし、むしろ増えるんだから」
 駄目に決まってんだろ! 他の男には指一本触らせねー!
「藍子は俺んだからな。お前らは触るな」
 俺が鋭く牽制すると、安井が不意に酔いの冷めた顔をした。
「……あいこ?」
 と同時に、霧島もまた酔っ払いらしからぬ素の表情になって、
「名前呼び!?」
 何がそんなに驚きなのか、声を引っ繰り返らせた。
「え、なになになに。藍子って、小坂さんのこと?」
「ええ、まあ。でも石田先輩、付き合う前に名前で呼んじゃうとかどうなんですか」
「いーんだよ。もう俺のものって決まったんだから」
「お前が勝手に決めただけじゃないのか」
「そうですよ、小坂さんが嫌がるかもしれないじゃないですか」
「嫌がんねーもん。こういうのは早めに呼んどく方が有効なんだよ」
 主にライバル対策としてな。さすがに会社では呼べないから、こうして外堀から埋めてく地道な行動も大切だ。もちろんいつかは本人にも、ずっと前から呼んでたみたいに自然な声で口にしてやる。
「楽しそうですね、何のお話ですか?」
 と、そこに長谷さん登場。湯気の立つ唐揚げの皿を手にテーブルまで近づいてくる。
 その皿を持ってやりながら霧島が、要らん説明をする。――石田先輩がまだ付き合ってもいないのに、小坂さんのことを名前で呼ぶんですよ、などと。
「あいこちゃん、って言うんですか」
 長谷さんはすごく優しい表情で名前を口にしてから、俺に向かって尋ねてきた。
「どういう字を書くんですか」
「ええと、色の藍。で、藍子」
「へえ。可愛くて、ぴったりな名前ですね」
 そう言った時の長谷さんは何だかやけに嬉しそうで、ちょうどここへ来る前に、小坂と電話で話したことを唐突に思い出してしまう。
 いくら下ネタに強いとは言え、受付嬢スキルを磨いてるとは言え、やっぱ男三人に女の子一人じゃ寂しいもんかな。もし本当に、ここに小坂がいたら、長谷さんも嬉しいだろうか。余計なお世話かもしれないが、でも小坂だったら誰とでも仲良くやってくれそうな気するし、連れてくるのも楽しいかもしれない。
 ただそうなると、五人になっちゃうんだよな。俺は全然いいけど、安井に悪いって気も多少はあったりするし――とか何とかお付き合いする前から妄想全開もいいとこだが、そうやって考えられるのも幸せだな、としみじみ思ったりする。
「そうか。小坂藍子って名前なのか……」
 呟き声にちらと目を向ければ、安井も俺を見て、おもむろに笑った。
「俺も呼んでいい? 藍子ちゃんって」
 悪いって気持ちが一瞬で吹き飛んだ。
「ああ!? 駄目に決まってんだろ常識で考えろ!」
「常識で考えたら先輩の許可要らないですよね?」
 霧島は無粋なツッコミを寄越す。
 いちいち細かい奴だと俺は腹を立てたが、その隣に腰を下ろした長谷さんがくすくす笑いながら、
「じゃあ次は、小坂さんも一緒に飲み会ですね」
 って、俺に――霧島ではなく、もちろん安井にでもなく、俺に対してそう言ったから。
 やっぱ長谷さんはよくできた、わかってる子だと思いながら、張り切って頷いといた。
「連れてこれるよう、最善の努力を尽くします」

 あいつに会える月曜日が、今から待ち遠しくて仕方がない。
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