Tiny garden

世界と引き替えにしても守りたいひと(4)

 夜の社員食堂は絶好の薄暗さと静けさを備えている。
 まずは小坂を、隣からちらちら観察してみた。少し背を反らせばつむじや髪の束ねた辺り、それにうなじが見えるいい位置関係。こんな日にポニーテールというのがまたおあつらえ向きだ。艶のある髪は毛先までするっと滑らかで、触ったら気持ちよさそうだった。肩や肘をくっつけようと思えばたやすくできる距離感は、微かな吐息やココアを飲み下すこくっという音まで拾えてしまう。姿勢を戻して、冷たいココアを大切そうに味わう小坂の白い喉元を盗み見た後、俺はそわそわとコーヒーを飲む。
 さっきまでの狼狽ぶりが嘘のように、今の小坂は落ち着いている。むしろあの時の反動と、冷たい飲み物のお陰で、今になってようやくクールダウンできたのかもしれない。落ち着いてる小坂というのもそれはそれで貴重な気がする。黙って伏し目がちにしている姿もなかなか、いい。
 それにしても、さっきの慌てようはすごかったな。
 俺は霧島と一緒に長谷さんがいる光景にもすっかり慣れてしまったし、二人のうららかな仲睦まじさも飽きるくらいよく見てる。うちの会社は社内恋愛には比較的おおらかで、むしろ結婚前提なら歓迎する向きさえあったから、霧島たちも目立った障害のないままほのぼのカップルぶりを継続してきた。俺も含めて皆がそういう空気に慣れっこで、初めて目にした奴がどんな反応をするかまでは頭が回らなかった。
 何の予備知識もないままあの二人を見たら、やっぱびっくりするもんかな。するよな。俺も霧島の超マイペースかつ倫理的な恋愛観にはついてけないことが多分にあるが、苦もなくついていけてる長谷さんも逸材じゃないだろうか。小坂は驚きすぎだと思うが、あの二人が今時珍しいカップルだというのも確かだ。

「しかし、羨ましい連中だよ」
 いろいろ振り返ってたら笑えてきた。声に出して呟いてみる。
「霧島たちほど平和的に社内恋愛やってる人間も見たことないな。いい歳した大人が、何のいざこざもなくほのぼのお付き合いしてるんだから穏やかなもんだ」
 ある意味理想の一つではある。この歳になると恋愛だけに体力注ぐなんて真似もできないから、波風は立たないのが一番いい。波乱万丈山あり谷ありな恋愛はもうしてられない。そんなので次の日の仕事に支障が出るとか、辛いし面倒すぎる。
 だから霧島は、そういう意味では楽な――って言うと語弊がありそうだが、精神的に負担にならない恋愛をしてるんだろうなと思う。
 小坂が顔を上げる。明るい表情になって相槌を打ってきた。
「喧嘩なんて絶対しなさそうですよね」
「実際、したことないんじゃないか。少なくとも俺は聞いてない」
「そうなんですか。すごいなあ……」
 溜息交じりの感嘆の声が可愛い。そこだけ丁寧語じゃないのも可愛い。
 いつもは敬語遵守を徹底している小坂が、今のこの瞬間だけはつい油断しちゃったのか。常に一生懸命気を張ってる子の、こういう一瞬の隙みたいなのはぐっと来る。二人でいる時はもっと隙だらけでもいいんだけどな。
 そして霧島たちがすごい、というのには同意だ。喧嘩するほど仲がいいってフレーズが当てはまるケースはそう多いものでもなく、恋人と喧嘩なんてしない方がよりいいに決まっている。もちろん所詮は他人同士、一緒にいればどうしても諍いがなくもないわけで、それを起こさずに済んでいる霧島たちは相性がベストマッチなのか、そもそも諍いの種が生まれる環境にないのか。どちらにしても稀少種だ。
「憧れちゃいますよね」
 目をきらきらさせて、他人事のように小坂は語る。
 確かに理想的ではあるんだろうと思うが、現実に喧嘩をせずに済むほど相性のいい相手とめぐりあえる可能性なんてなきに等しい。あんなレアケースを理想にされたらこっちが困る。
 小坂は、あんまり他人と喧嘩をするタイプには見えない。だがこう見えても譲れないものとか、誰に何を言われても揺るがない信条も持ち合わせてたりするようだから、絶対に喧嘩にならないとは言い切れない。既に仕事で叱っちゃったこともあるし、公私の区別をつけるってお題目を掲げようが何しようが、一緒にいる限りいつかはぶつかることもあるだろう。俺としては他人同士が時々喧嘩になるのはどうしようもないと思ってるから、なるべく次の日まで引きずらないように終わらせたい。そしてめでたく仲直りできたら、喧嘩したことも忘れてしまえるくらいいちゃいちゃしたい。その程度でいい。小坂も目の前の理想的カップルなんかに憧れてないで、現実的に考えてくれたら嬉しいんだが――というのはお付き合いできてから存分に言い聞かせることにして。
 とりあえず、アピールしとくべきところはしておく。
「憧れるか? いい歳した男が、何年も付き合ってる彼女を未だに名字にさん付けで呼ぶとか、俺はどうかと思うがな」
 俺は霧島みたいにマイペースなのは嫌だ。さん付けはいかにも他人行儀だし、付き合ってるのに呼び方も変わらないんじゃ、いるかもしれない恋敵をつけ上がらせる可能性だってある。売約済みって周囲にわからせる為の手段でもあるのに、霧島はそういうところが疎いと言うか鈍いと言うか。
「素敵ですよ。こう、大切にしている感じがして」
 と、同じように疎くて鈍そうな赤ずきんちゃんは言いますが。
 こいつはいつになったら『主任』って呼ばなくなるんだろうな。放っといたらいつまでもそう呼んでそうな気がする。むしろこっちが慣れちゃったりしてな。それはないか、さすがに。
「大切にしてるって言うなら尚更、とっとと名前で呼んでやればいいのに」
 俺はわずかな皮肉も込めつつ語る。
「そしてとっとと結婚すりゃいいんだ。時間掛け過ぎなんだって、あいつは」
 付き合うまでだってやたら掛かった。あの花火大会の時、俺と安井は既に長谷さんを取られる覚悟をしていた。霧島をやっかみつつも、仕方ないから祝ってやるかって気分になってた。それがいつの間にか秋になり、冬を迎える頃になっても何の動きもなかったから、最後の方はこっちがやきもきやきもきしてた。もう、ちょっとした親心だったなあれは。結局、正式に報告貰ったのは忘年会の頃だったっけ。遅すぎる。
 同じ轍は踏まない。俺はそんなに待ってられる歳でもないからな。いざとなったら――。
 ある考えが脳裏を掠めた時、
「でも、さっきは羨ましいっておっしゃいましたよね、主任」
 含みのある口調で、小坂がそんなことを言った。
 思わず彼女の顔を見る。その表情は妙にうきうきしているようで、今しがたの発言と合わせて意外に感じた。そういうこと、こいつでも言ったりするのか。
 考えてみれば、誰かにからかわれてる小坂は何回も目にしてきたが、誰かをからかったりひやかしたりする小坂を見たことはなかった。でもそれはこいつが一番若いルーキーで、会社にいる他の連中が年上ばかりだからだろう。小坂だって同期の連中やら、友達やらといる時は、こんな風に他人をからかっては楽しそうな顔をすることだってあって当然だ。
 だとすると今のも、隙を見せてくれたってことなのか。
「小坂も言うようになったな」
 俺が切り返すと途端に首を竦めている。
「す、すみません、今のは調子に乗った発言でした」
 怒るどころか。俺に気を許してくれてるのかと浮かれたくなる。何ならもっともっと調子に乗ってくれてもいい。俺の膝の上に乗って頬っぺたつっつきながらタメ口利かれても小坂なら許す。むしろ乗れよ遠慮なく。
「別に怒ったわけじゃない。事実そう言ったし、羨ましいのも本当だ」
 口ではまともに答えると、小坂はほっと胸を撫で下ろしていた。
「あ……ありがとうございます!」
 そしてなぜか、感謝された。
「何でそこで礼を言う?」
「いえ、お気持ちが嬉しくって……」
「はあ?」
 怒ってない、って言ったからか?
 それだけで礼を言われるのも変な感じだ。怒るような話でもないだろうに。
 大体、からかって反省して感謝してって、一人で随分と忙しい奴。ちゃかちゃかしてるところも可愛いけど、時々出方が読めないことあるよな、こいつ。
 そうこうしている間にも小坂は一人で気持ちを切り替えたらしく、改まった態度で尋ねてきた。
「あの、やっぱり主任も、霧島さんたちのことが羨ましいって思うんですね」
 しかも話を戻された。いやいいけど。
「そりゃそうだ。始終目の前で見せつけられて、どうでもいいなんてスルー出来るわけないだろ。そりゃ思うよ、長谷さんみたいな彼女が欲しい、とかな」
 可愛いし優しいし料理も上手いししっかり者だし、知る限りでは非の打ちどころがない。俺もお付き合いしたいって思ったことはあるが、実際付き合えたらどんな日常がやってくるのか、想像しようにも上手くいかない。何もかもが抜かりなく完璧で、デートにしろ日常生活にしろ、俺の出る幕がなくなりそうな気さえする。そのくらいハイスペックな女の子だ。
「ですよね。長谷さん、素敵ですもん」
 小坂から見てもやはりそうらしい。素直に誉めるのを聞いて、溜息が出る。
「もったいないよなあ。何で霧島なんだろうな」
 長谷さんに欠点があるとすれば、そのくらいのものだろう。目が悪い。
 もしくはああいう、真面目だが生活面においては無頓着な男の方が世話の焼き甲斐があってよかったのかもしれない。あるいは同い年だから、話の合うことが多かったのかもしれない。安井が言ったように『気持ちのいい恋愛』を求めた結果、霧島を選んだのだとしたら――それでもちょっと、納得いかないがな。
 それか、実は長谷さんにも霧島にしか見せない顔があったりするのか。二人きりになると度を越えた甘えん坊さんになるとか、逆に妖艶な小悪魔になるとか。そういうのは俺的にもかなり好みだが、所詮他人の彼女だしな。真相を暴こうという気にもならん。
 目下暴きたいのは、すぐ隣にいる子の方だ。
 何となく視線を向けてみたら、タイミングよく小坂も俺を見ていた。その両目が、気づかれた、とばかりに見開かれる。肩が跳ねたのか前髪も浮くように揺れた。
 わかりやすい時は恐ろしくわかりやすい。
 今度は俺が、調子に乗ってみる。
「俺は、もうちょい年下の方がいいけどな」
「え!?」
 小坂は声を上げて凍りつき、
「今、ちょっと動揺しただろ?」
 ダメ押しのつもりでそう告げたら、たちまち真っ赤な顔になる。そして何を思ったか、ココアのカップに向き直って自棄酒みたいにぐいと呷った。
 震える息をついてから一言。
「――か、からかわないでください」
 声が上ずってる。思いっきりうろたえてる。予想通りの反応をくれる小坂がもう、可愛くて可愛くて可愛くて堪らない。年下、最高。
「からかってるわけじゃない。今は本気でそう思ってんだよ、付き合うなら若いのがいい。ぴちぴちした奴な」
 そりゃまあ、七つの歳の差に壁を感じることもたまにある。ちょっかいのつもりで俺が言ってることを小坂は必ずしも全部理解しているわけではないようだし、大人とは言えど二十三歳、もうちょっと落ち着けよとか、現実見ればいいのにとか、そういう物足りなさも皆無ではない。
 しかし、若さとはイコール伸びしろ。教えてやれる楽しみもあるってことで。
「で、でも。私の反応を見ておかしそうにしていらっしゃいますよね?」
 まだどぎまぎしてるらしい小坂が、そんなことを聞いてくる。即座に頷く。
「面白いんだからしょうがないだろ」
 本気は本気なんだけどな。ただ初々しい小坂の反応を楽しめるのも今のうちかと思うと、存分に堪能しときたい気持ちもある。一方で、早く場数を踏んだ小坂が見てみたいのもあるし、贅沢な悩みだ。
 こっちの答えを聞いた小坂はどことなく寂しげに俯き、またココアを一口飲んだ。今度は短く可愛らしく。
 それから言った。
「……弄ばれているような気がします」
 予想外のことを言った。
「何だって?」
 俺はすぐさま聞き返す。
 小坂も自分の言葉を引っ込めようとするみたいに大急ぎで付け加えてくる。
「いえ、その。主任のさっきのお言葉が、本当だったらいいのになと思ったんです」
「本気だって言った」
 何聞いてんだお前。ちゃんと言っただろ。
「伺いましたけど……」
 笑い飛ばしてやっても小坂はすっきりしないそぶりで、表情もまるで晴れない。これ以上どんなことを言えば理解してくれるのか。

 ちゃんと前から言ってるだろ。両立の仕方も教えてやるって。
 社会人同士なら仕事のことでもいろいろあるし、まして同じ職場の上司と部下なら面倒事も多そうだ。この間みたいなトラブルも、喧嘩も、仕事そのものの行き詰まりだってあるだろう。そういうのも全部、俺に頼れって言ってるのに。手取り足取り教えてやるから、忙しくて会えない時の楽しみ方とか、喧嘩の後に仲直りしていちゃいちゃする時の妙な充実感、安心感とか、一緒に帰って次の日も一緒に出勤するのがどんなにいいものかとか――こうして羅列してみると俺も大概だなって思うが、でも社会人には社会人なりの恋愛の仕方があるんだよ。それは別に身構えて取りかかるべき大事でもなく、息をするように自然と日常の中に溶け込んでいくものだ。小坂も大げさに捉えてないで、物は試しってノリでまずはやってみればいいのに。
 わざわざ『一人前になってから』とか、『新人じゃなくなるまで』とか、枷にしかならない目標作んなくていいからさ。むしろ上司を誑し込めてラッキーだって思いつつ、上手い具合に活用していくべきだ。こっちは一度期待しちゃってる手前、当の小坂に踏み止まられると肩透かし感も半端ない。また小坂も思わせぶりと言うか、俺が期待するタイミングでわかりやすい態度を取るもんだから。

「弄んでるのはどっちだって感じだけどな」
 思わずぼやいた。
 少なくとも俺は、今すぐにでもって気持ちでいる。小坂がもたもたしているのを見て、どうにかしてこっち側に引きずり込めないか、いつも考えてる。
「でも、だからこそ面白いってのもある」
 小坂の態度に焦れてはいるし、もう一刻も早く俺のものにしたい、『売約済み』の札を提げてしまいたいって気持ちも確かにある。ただ、こうやっていろいろ教えていく過程もそれはそれで楽しくもあるわけで。本当はもっと、十段飛ばしくらいで行きたいんだが、まあそのうちにでも。
 今も、小坂は真面目な顔して俺の話を聞いている。いつまでそういう顔をしてられるのか、一つも漏らさず観察していきたい。
「他人事じゃない方が面白いんだよ。恋愛なんてのは、圧倒的にな」
 俺はカップに残っていたコーヒーを飲み干し、改めて思う。
 他人事じゃなくなったのは久々だ。こんな風にじっくり向き合ってるのは実に三年ぶりだった。
 あれから多少なりとも成長したし、学習もした。二十三の女の子に振り回されてもがいてるほど情けなくもないつもりだ。
 だからいつでも、小坂が隙を見せたら今すぐにでも、打って出てやる。
「さっきより、今の方がどきどきするだろ。違うか?」
 空になったカップを置いてから、そう聞いてみた。
 小坂はまだ俺を見ている。わかっているのかいないのか、さっきよりは気の抜けた表情でじっとしている。手にしたアイスココアはそろそろ温くなっていそうなのに、まだ三分の一ほど残っているようだ。全くのんびりしている。
 でも小坂だって子供ではないし、何にも考えてないってわけでもないんだろう。『弄ばれてるみたい』と口走ったのも、俺の言動にいくらかは心動かされたり、振り回されたりしてるからなのかもしれない。自分が振り回してる自覚がないのは厄介だが、手ごたえはある。確実にある。
 現に、黙って見つめ続けてやったら、小坂もこの状況に気づいたらしい。急に困ったような顔つきになって、微かに喉を鳴らした。声を上げたいけど声にならないのか、軽くだけ開いた唇が可愛い。よく食べるのにこうして見ると意外に小さい。そして頬にも負けないくらい、ぷくぷくと柔らかそうだ。可愛い。
 ちゅーしたい。
 ものすごく、したい。小坂は前に、お付き合いしてからするのが普通だみたいなことを言ってたから、今ここで無理やりやっちゃったところでいい効果はなさそうな気がする。と言うか確実に、明日の仕事に影響が出る。俺はいい励みになっちゃうけどな。
 今日はしない。こうして見つめてるだけでも、大分どぎまぎしてるらしいから。あと、非常に残念なことに、まだ仕事が残ってるから。それさえなければ連れて帰れないか考え始めてるとこだ。
「小坂はわかりやすいな」
 極度の緊張のせいか、目まで潤ませ始めた彼女に俺は言う。
 本当に泣きそうな調子で、小坂は柔らかそうな唇を尖らせる。
「……主任は、ずるいです」
「何がだよ」
「だって……」
 それから萎れたように視線を落とし、切々と続けた。
「私の気持ちをご存知なのに、そういう態度でいらっしゃるのはずるいです。私、どう反応していいのかわからなくなります」
 どうもこうも今のお前に、そうやってまごまごする以外の反応が取れるのか。そこまで言うなら俯いてないで堂々としてみせたらいい。ばればれなのは誰のせいでもなく、小坂自身のせいなんだから。
「普通にしてたらいいんじゃないか。普通にしてたってわかりやすいんだからな、お前の場合」
「う……」
 小坂は言葉に詰まったようだ。
 それでも顔を上げようとしないから、追い討ちをかけてやる。
「定期入れに写真なんて入れてるうちはまだまだだ」
 ようやく、彼女は再び俺を見た。
 俺は笑ってみる。今度は意図的に、あの名刺についてる小さな写真よりはましなように。
「動きもしないし喋りもしない写真より、もっと面白いものが、すぐ目の前にあるってのに」
 写真の中に納まる情報量なんてたかが知れてる。小坂と同じく、俺だってあんなので気が済むほど味気ない男じゃないつもりだ。少なくともただ名刺隠し持ってるよりはずっといい思いをさせてやれるんだがな。
 対して、小坂は弱々しく宣言してきた。
「頑張ります」
「何を?」
「ええと、まずはメールを。今日にでもお送りします」
「そこから始めるのか。長い道程になりそうだな」
 さっきよりは進んだか。『近いうちに』が『今日にでも』になった。それにしたって牛の歩みよりのろいぞ小坂。
「それはその、不慣れな人間ですから……私、目上の方と接する機会だってそうありませんでしたし」
 何やらもごもご言い訳している。
 とりあえず、目上って思われてるうちは駄目だな。もっと気を許してもらわなければ。
「勤務時間外まで気を遣うこともないだろ」
 俺はそう言いつつ、腕時計の時刻を確かめる。もうじき九時半になるところだった。しまった、楽しいからってちょっと長居しすぎたか。
 そろそろ戻らないと帰りが遅くなる。小坂はもう上がった後だし、あまり遅くまで引き止めてもおけない。残業さえなければな、つくづく惜しい。
「お忙しい中、お付き合いくださりありがとうございました」
 ココアを素早く片づけた小坂が、席を立ちながら礼を言ってきた。
 そういえば誘ってきたのはこいつの方だったっけ。思い起こしつつ答える。
「元々コーヒーが飲みたかったのは俺の方だからな」
「あ、そうでしたね、あの」
 お互いにきっかけのことは忘れつつあった。
 まあどうでもいいよな、霧島のことなんか。他人事じゃない方がいいのもお互いに、だといい。
「こちらこそ楽しかったよ。コーヒーはほとんどおまけだった」
 言葉を継いだ俺に、小坂は心底ほっとしたようだ。
「よかったです」
 安心しきってる様子に、一転してこっちは心配になった。椅子から立ち上がったついでに念を押しておくことにする。
「期待してるからな、メール」
「え」
 え、じゃない。これは忘れるなよ。
「残業の後、疲れ切った心の励みになるようなやつを頼む」
 そしたら俺は小坂から、恐らく一時間以上はかけて入念に書き上げられたメールを楽しみに残業を終え、そして帰り際かあるいは家に帰って一息ついてる頃にその中身を見て、にやにやして、お前をうろたえさせるような返事を速攻で書いて送ってやる。
「む……難しいですけど、頑張ります!」
 小坂も張り切っている。ぐっと拳を握ってる姿が可愛い。て言うか小坂なら何でも可愛い。きっと今夜のメールもたいそう可愛いに違いない。
「頑張れ。俺も小坂のメールを楽しみに頑張る」
 空いたカップ二つをゴミ箱に放った俺は、不意に思いついてもう一つ、条件を出す。
「ああそれと、霧島に見せて自慢できそうなやつがいい」
「――み、見せるんですか、霧島さんに!?」
 ちょうどあいつも残業だし、帰り際にでも見せびらかしてやりたい。その為にはなるべく早めにメールが欲しいんだが……間に合わなければ明日でもいいや。とにかく自慢しがいのあるメールでお願いしたい。
「あいつにはいつも見せつけられてるんだし、そのくらいの仕返しはしてもいいだろ?」
 当然のつもりで俺が言えば、小坂は例によってあたふたとまくしたてた。
「駄目ですよだって私からのメールが自慢になるとは到底思えませんし、何より私が恥ずかしいです!」
「そんなに恥ずかしいメールを送ってくる気なのか、小坂」
 それは一層楽しみだ。
 もっともどうせ小坂だから、せいぜいいつもの折り目正しい文章で、今日のココアの礼なんかを述べてくる程度のような気がする。それでもいいけどな、とっかかりとしては。
 期待半分、でも過度にわくわくしすぎて後で落胆しないよう自重しつつ、メールを待つことにしよう。
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