Tiny garden

世界と引き替えにしても守りたいひと(3)

 その日、小坂は午後八時過ぎに退勤した。
「お先に失礼します!」
 帰り際にドアのところで立ち止まり、元気よく挨拶をしてくる。しかもお辞儀つき。こんな時間まで働いて疲れてないはずもないだろうに、いつもながらしっかりした奴だ。
 俺も仕事の手を止め、声をかけておく。
「お疲れ。気をつけて帰れよ、小坂」
「はいっ、ありがとうございます!」
 そしたら満面の笑みをお返しにくれたから、可愛いなあとにやにやしたくなるのが半分、あいつが帰ると急に静かになっちゃうのが寂しい、が三割。残りの二割は純粋に、あいつ頑張ってるよなという感心だ。
 一人で仕事するようになった直後だとは言え、入社一年目からこんなに残業してて、大変だろうなと思う。小坂は仕事に対する愚痴は零さない性格のようだが、疲れが顔に出てて隠しきれてないことはこの数ヶ月間にも何度かあった。それでも仕事の後、今みたいにいい笑顔を作れてしまうところはすごい。俺はいつもつられて笑ってしまうし、その後で妙にしみじみした気持ちになる。あいつ可愛いよなって改めて実感しつつ、それが何だか、何と言うかささやかに幸せ、みたいな。自分で言ってて気色悪いが、事実なんだからどうしようもない。

 小坂が帰ってしまった後、俺は仕事を再開しようと一度はラップトップに向き合ったが、ふと閃いて手を止めた。
 デスクトップに置きっ放しだった画像フォルダを開く。
 デジカメから取り込んだ画像が並ぶそのフォルダは、今年度の名札と名刺用の写真を保存していたものだった。その中にはもちろん小坂の写真もある。今年の五月、配属されたての頃に撮ったばりばりのがちがちに緊張した顔。眉がいつもより中央に寄っていて、前髪の影が落ちているせいか暗い表情に見えて、口元は作った笑みだと言わんばかりに引きつっている顔だった。俺のカメラの腕をもってしても、実物のように可愛くは取れなかった。お陰で課の連中からは俺の腕まで疑われる始末だ。
 でも、俺は知っている。俺の撮影技術が悪いわけではなく、断じてなく、小坂の魅力は写真なんかには納めようもないものだってことを。あの真面目さも純粋さも愛嬌もタフさも全部、一枚には入りきるはずがなかった。刻一刻とめまぐるしく変化していく細かな感情表現を、静止画で保存したがる方が間違ってる。だから俺は定期入れに小坂の写真を入れとくことはないだろうし、欲しいとも思わない。
 パジャマ姿の写真は惜しかったが――欲しくないとは言い切れないが、もし小坂が鈍感さと純粋さの合わせ技一本で奇跡的に、撮って送ってくれたとしてもだ。俺は貰った直後こそテンション上がりまくりで大喜びするだろうけど、後から虚しくなったことだろう。俺が欲しいのは写真じゃない、実物だ。もっと言うと中身だ。写真じゃ触れないし黙ったまんまで反応もくれない。逆に中身さえ手に入れば何を着てもらうことだってできるわけだし、あいつは無限のポテンシャルを秘めている。間違えたふりをして平然と手渡せば、首は傾げつつも何だって着てくれそうだ。
 だから俺は実物を手に入れたいと思っているのに、小坂はそうじゃないんだろうか。あの名刺についてる小さい写真だけで満足なのか。そんなもんじゃ何の足しにもならないだろうに、虚しくはならないのか。
 この分だと例のルーキーイヤーが終わってからと宣言された告白も、言うだけ言ったら『じゃあもう満足したのでいいです』で締められそうな予感がする。主任のことは好きですけど、お付き合いするつもりまではないんです、と写真と同じ顔つきで切り捨てる小坂を想像して、俺は一人勝手にへこんだ。自分からメールはくれないのにあの名刺自体は大事に大事にしまい込んでおくような奴だ、そういうストイックな恋愛ぶりもありえなくはない。
 そんな恋愛が楽しいとは、俺には到底思えんが。――と言うか恋愛のお楽しみって付き合って以降にほぼ集束してるもんじゃないのか。小坂はそういうのを何にも知らないから、先のことに期待できないだけなのかもしれない。だから俺がじっくり教えてやるって言ってるのに! その為にも時間を、とにもかくにも二人っきりで過ごす時間を!

 ……などともどかしい思いを持て余していたら、フォルダを閉じて仕事を再開してからも上手く集中できなくなった。今、俺の頭の中は雑念と煩悩だけでできてる。いつもそうか。
 普段なら能率の上がらない日なんてとっとと帰るに限るんだが、今日ばかりはそうもいかない。明日に備えて片づけておかなければならない。霧島も遅くまで居残る予定だと言っていたし、今夜は最終的にあいつと二人っきりで過ごす羽目になりそうだ。そっちは誰も望んでないのに、願望と現実のギャップがでかすぎる。
 ぐだぐだ考えても埒が明かない。頭を切り替えるべく、社食へコーヒーでも飲みに行くことにする。

 廊下へ出た時、すぐ傍の階段にふと気配を感じた。
 何の気なしにそちらへ目をやると、手すりに掴まるようにして立っている人影を見つける。誰なのかわかった瞬間におっと思って、ためらわず声をかけた。
「小坂? お前、まだ帰ってなかったのか」
「しゅ……主任っ」
 彼女は振り向いた直後からものすごく驚いていたようだった。怯えたようにも見えるそぶりで口を開く。
「どどど、どうかなさったんですか」
 いきなりどもった。
 しかも質問がおかしい。俺はまだ残業中なんだから営業課から出てきて当然だろうし、そこで小坂を見つけたから声をかけただけだ。そして小坂はもう三十分近く前に退勤しているはずだし、まだいたのかって疑問に感じるのも間違ってないだろう。
「どうかなさったって、何がだよ。お前こそどうした、そんなに慌てて」
 大体、何をそんなにうろたえているのか。俺が逆に聞き返せば、小坂は空いている片手を振りながら答えた。
「い、いえ別にっ! ちっとも慌ててなんかないです!」
「慌ててるようにしか見えない」
 と言うかいつもの五倍はまごまごしている。そんなに俺に声をかけられたのが嬉しかったのか、と調子に乗りたくなるところだ。頬っぺた真っ赤にしちゃって、仕事の後だろうと見劣りもせず全くもって可愛い。
「あの、主任は……どちらに行かれるんですか?」
 そんな可愛いルーキーが、声を震わせて尋ねてくる。
「ちょっと社食まで。コーヒーが飲みたくなってな」
 こっちは全く正直に、冗談のつもりもなく答えたのに、小坂はなぜかびくりとした。
 なぜだ。別に『早く帰らない赤ずきんちゃんを食べに来たところだよ!』なんて言ったわけでもないのに。さしもの狼さんも今日は仕事やって帰んないとまずいからさ。
 とは言え、せっかくこうして会えたんだから小坂で気分転換するのもいいな。
「小坂は帰るところなんだろ? 途中まで一緒に行くか」
 俺は誘いをかけてみる。そうやって得られる時間はエレベーターホールまでの一、二分ってとこだろうが、二人の時間には違いない。社内はそろそろ人気もなくなる頃ですし。
 それで彼女は待ち構えていたように頷き、
「はい! あの、せっかくですから階段で行きましょう!」
「階段?」
 あまりの噛み合わなさに、俺は呆気に取られた。
「階段だと一緒には行けないだろ、何言ってんだ。俺は社食に行くんだし、お前は通用口に行くんじゃないのか?」
 ここは三階で、社食は五階にある。当たり前だが通用口は下にあるから、階段で途中まで一緒に……なんてのはどう逆立ちしたって無理だ。
「そ、そうでした……ええと」
 指摘されれば小坂はもごもごと口ごもる。あからさまに違う言葉を探しているっぽい。
 何だこれ、遠回しな拒絶? ばったりまた会えて嬉しいとか思ってくれてんのかと喜んだ矢先にこの態度じゃ、俺だってちょっと傷ついちゃうぞ。ナイーブなお年頃なんだから。
 もっとも、誰かといたくないくらいに疲れてる日ってのもなくはない。小坂だって年中明るいいい子じゃいられないだろうし、一人でいたい気分の時だってあるだろう。俺が拒否られてるんじゃないよな、と半ば自分に言い聞かせつつ大人の対応を取ってみる。
「別に、無理に誘うつもりはないからな。気が乗らないならそう言えよ、どうせ大した距離を歩く訳でもないし」
 しかしそう言えば言ったで、小坂は失敗したとばかりに気まずげな顔をし、
「違うんです、あのっ」
 違うって何が。
「じ、実はその」
 声を潜めて溜めに溜め、今までになく言葉を選んでいる様子の彼女。そういえばさっきからやけに慌てているし、気のせいか何か隠しているようでもある。
「どうした? さっきから様子が変だぞ、小坂」
 俺もいい加減焦れてきて、とりあえず階段まで近づいてみる。そして手すりにしがみつく小坂の顔を覗き込めば、こちらを見上げた両目に決意の光が宿る。何かを伝えようとしている表情。
 直に重々しく切り出してきた。
「エレベーターは、つ、使わない方がいいと思うんです」
「……何で?」
 意味がわからず即座に問い返す。すると、
「だって、その、霧島さんが」
 意外な名前が小坂の口から出た。
「あいつがどうしたって?」
 そういえばあいつ、課にはいなかったな。どっかで飯でも食ってんだろうか。考えかけた俺に、小坂はすばやく答えを寄越した。
「長谷さんと一緒に、二人で、エレベーターホールにいるんです」
 ――なるほど。
 小坂の言葉で俺は大方の理解ができた。どうして小坂が、エレベーターを使っちゃ駄目だと言ったのか。そしてどうして小坂は、こんなにも慌てふためいているのか。
 一応確認してみた。
「あいつら、あんなところで何やってんだ? いちゃついてたのか?」
「ちち、違いますよ多分っ」
 自分の話でもないのに、小坂は首が取れそうな勢いでかぶりを振った。
 でも『多分』なのか。なるほど。
「じゃあ何してた? とても口では言えないようなことか」
 そして更なる説明を求めれば、
「そういうことでもないですっ! あの、お話を……」
 小坂は次第にたどたどしくなりながら白状し始める。
「話?」
「二人でお話をしていました。こう、すごく温かい感じで」
「……それだけ?」
「それだけじゃないです、何と形容していいのかわからないんですけど、超見つめ合ってるって感じだったんです!」
 別に大したことない話に聞こえるのは、気のせいではないだろう。
 大げさすぎるよ小坂、ちょっと期待しちゃったじゃないか。
「見つめ合ってるだけ?」
「え、だけって言うか……事実としてはそうなんですけど……」
 小坂は俺のがっかりを読み取ったらしく、不思議そうな顔をした。
「あの、主任はどきどきしませんか?」
「あいつらのことでか? いや、別に」
 俺にも一緒になってうろたえて欲しかったのか。いや無理だって。どきどきする要素もない、あれは通年行事みたいなもんですから。
「そ、そうですか」
 今度は小坂にがっかりされたようだ。むしろそんなのでいちいち動揺するのがおかしいのに、やたら真剣に説いてきた。
「とにかくですね、エレベーターホールには霧島さんたちがいますから、迂闊に近づいたら悪いかなと思うんです。邪魔になってしまいますし、目撃した方もこう、あてられてしまう感じですから」 
「面倒だな。あいつも場所選べばいいのに」
 今だって半同棲中なんだから帰ってからすればいいのに。その上、来年にはあいつら新婚さんだろ。これから人目につかないところで思う存分いちゃいちゃすればいいものを、何だって一番そういうのに慣れてない奴の前でやらかすのか。
 小坂が慣れてなさすぎるというのもあるかもしれない。何せこいつは、定期入れに写真入れとく赤ずきんちゃんだ。
 ちらっと見たその顔は未だに赤く上気していて、既にあてられまくりといった風情。他人事でそんなにのぼせられるんだから、自分のことともなればそりゃお祭り騒ぎだろう。実地で慣れてもらうのが一番いいと思ってたが、せっかく手近にいい教材があるなら活かさない手もあるまい。
 そう考えた俺は、すぐ小坂を誘った。
「見物に行くか」
 小坂はぴこぴこ言いそうな速度で誘いの意味を分析していたようだが、しばらくしてから過敏に反応した。
「えっ! い、いや駄目ですよ主任!」
「小坂にそこまでうろたえられてちゃ、こっちだって気になる。どれだけすごい見つめ合い方をしてるのかと」
 後学の為にってやつだよ。俺が意気込んでも小坂は果敢に言い返してくる。
「だって、どきどきしますよ! 霧島さんの恋愛してる姿って見たことなかったですし」
「ああ、俺は見慣れてるから何とも」
「どきどきしないんですか? ちっとも?」
「ちっともしない。見てて面白いとは思うけどな」
 他人事でお腹一杯になるものか。楽しみたいなら自分でする方が手っ取り早い。その為にも小坂を鍛えておく必要がある。これはいい機会じゃないか。
「小坂、今後の為にも覗きに行こう。勉強になるかもしれない」
「な、何ですか今後の為って! 駄目ですよ!」
 むきになって止めにかかってる小坂も可愛い。何でもおとなしく言うこと聞いてるわけじゃないんだな。俺としてはこういうのも好みだ。
「お、珍しいな。お前が上司に逆らうとは」
「いえその、そういうつもりではないんですけど、でも!」
 からかってみれば、小坂は反論を途中で止めた。
 ふうと短く息を吐き、また何か考え始める。そして、
「――主任! 提案があります!」
 実にはきはきと述べてきた。
「私もお供しますので、このまま階段を上がって、社食でコーヒーを飲むのというのはいかがでしょうか!」
 むきになってる物言いも、きりっとした気の強そうな顔つきも、前にどっかで見たことがある。どこだっけと記憶を手繰れば――ああそうだ、俺の誕生日に『お祝いしたいです』と言い張った、あの時と同じだ。
 慣れてないとは言え、あの頃から比べたらなかなか成長したように思う。誘いの内容が進歩している。目指すところにはまだ程遠いが、場数を踏むのは大事だ。これも重要な過程ってとこか。
「そういうことなら乗ってやるかな」
 了承すると、小坂は安堵の笑みを浮かべた。
「……あ、ありがとうございます!」
 安心してる場合じゃないだろ、と突っ込みたくなる。
 そういう誘いをしかけてきたってことは、たった今この瞬間から他人事じゃなくなった、ってことだ。
「しかし、お前の方から誘ってくるとはそれこそ珍しいな。ようやく両立する気になったのか?」
 わかってなさそうだから、さりげなく釘を刺しておく。
 小坂は目を瞬かせた後、唐突に気後れした表情を見せた。だからと言って今更翻せると思うな。こんな絶好の機会、誰が逃すものか。

 食堂は無人どころか消灯済みだった。もうじき九時だから当たり前といえば当たり前。
 一ブロック分だけ明かりを点けると、テーブル三つ分の横一列がぱっと照らされる。自販機はその前からずっと煌々としていて、まずはそっちに歩み寄る。昼間とは違い、席を取っとく必要がないのがいい。
 財布から百円玉を出したところで、
「あ、わ、私が払いますから!」
 小坂が立場も弁えずにそんなことを口走った。
「もう遅い。金を出すのも早い者勝ちだ」
 言うや否や俺は硬貨を投入し、小坂がもたもた財布を取り出している間に自分のコーヒーを買った。
「小坂は何飲む?」
 そう尋ねたときには小坂も財布を握り締めていたが、百円ごときでそれを開けさせるつもりはなかった。
「自分で買います、申し訳ないです」
「駄目だ。とっとと言え、言わないとデタラメな注文をするぞ」
 ボタンを五つくらいいっぺんに押したらどうなるか、この自販機では試したことがない。普通の缶のやつはどう頑張っても一本しか出てこなかったが、紙コップ式のやつなら案外ミラクルブレンドで出てくるかもしれない。
 デタラメな注文をされるのが嫌だったか、小坂はアイスココアをお願いします、と答えた。そしてそのカップに甘いのが注がれた直後くらいに、おずおずと言ってきた。
「あの、代金を……」
「いいって。百円も出さない上司とは思われたくない」
 こういうところは頑固だ。でもって、忘れっぽい。
「お前も学習しない奴だな」
 小坂には何回かご馳走してやってて、その時にどんなやり取りをしたかってことも覚えてる。小坂も覚えててくれてるんじゃないかと思ってたんだが、そうでもないのか。どうせ警戒心なんて皆無なんだろうし、素直に奢られとけばいいのにな。
 俺は明かりの点いてるテーブルの一つにさっさと着いた。
 ついでに、すぐ隣の椅子を小坂の為に引いてやる。これは昼間のリベンジ。
「ありがとうございます」
 礼を言ってから椅子に座った小坂は、しかしまだこだわっているらしく、その後も音吐朗々と言い訳を始めた。
「主任のご厚意を無駄にしたい訳ではないんです。でも、一度くらいは私も日頃の感謝を示したいと思っていますし、たまには――」
「しつこい」
 俺はそれを遮って、すぐ隣で俯く姿を見下ろす。
「いいからお前は金以外のものを出せ」
 小坂も首を動かしてこちらを向いた。どことなく歯痒そうにしている顔までは大体頭一つ分程度、だが背丈以上にちっちゃく見えた。いつもそうだ。
 ちっちゃい頭が少し傾き、尋ねてくる。
「お金以外って言いますと」
「そのくらいは小坂でもわかるだろ?」
 いろいろあるだろ、返し方。恩着せがましいことは言いたくないが、何で俺がお前にあれこれ誘ってやったり奢ってやったりしてるのか、その先行投資的な意味を考えてみて欲しいもんだ。
「ええと……」
 小坂は真面目に考え出す。それから自信なさげに、思いついたらしいことを口にした。
「例えば、メールとか、ですか?」
 ああ、うん、まあそれもあるけど。
 メールだけじゃもはや物足りないと言うか――いやそもそもメールからしてこいつの方からはくれてないんだし、ご厚意を無駄にしたくないだの何だのと言うくらいならまずそっちをどうにかしろと。
「そうだったな。メールもだ」
 目指すところへの道程は、どうやら果てしなく遠い。俺は苦笑いして続ける。
「百円ぽっちでしつこく食い下がるくらいなら、俺の喜ぶことをすればいい。簡単な話だろうが」
 そう教えると小坂は甘ったるそうなココアのカップを見下ろし、そこに映る自分とにらめっこを始めた。例によってやたら真面目な、政治経済世界情勢について思いを馳せているような顔つきでいたから、傍で見ていた俺の方が吹き出しそうになった。にらめっこじゃこいつには絶対勝てない。
 しばらくしてから答えがあった。
「では、私の方からもメールします。なるべく近いうちに」
 言ったな。近いうちにって言ったな。
 俺も時々忘れっぽいが、それでもお前のことにかけてはうっかり忘れたりしないという自負がある。もうしつっこいくらいに覚えとくぞ。お前もうっかり忘れてみろ、髭剃る前の顎でお前の頬っぺたずりずりしてやるからな。
 ――と、忘れられた場合のダメージ軽減策も考えつつ、俺は妙に楽しい気分で答える。
「わかればよろしい」
「ありがとうございます、主任」
 小坂はなぜか礼を言い、それからとろけるような顔でココアを飲み始めた。
 飲み物でもそういう、幸せそうな顔するんだな。しかも惜しみなく繰り出してくるから飲ませがいも食わせがいもある。先行投資だと言ってはみても、大前提に下心があったとしても、とどのつまり好きでご馳走してやってるだけなのかもしれない。
 だからこそ、なのか。
 お礼にはもっと別のものが欲しい。
PREV← →NEXT 目次
▲top