Tiny garden

遅咲きの薔薇(3)

 家に帰ると、部屋の明かりが点いている。
 それだけでもしみじみ、いいよな、幸せだよなと思う。

 おまけに夕飯がもう用意されていると言うんだからありがたい。出来合いのものとは違う、とても温かい手料理だ。美味しそうな匂いは玄関のドアの外まで漂っていて、中に入るまでもなく、本日の献立が一発でわかった。日本のどこのご家庭でも間違いなく定番中の定番であろうあのメニューだ。
 そういえばまだ藍子の作ったのは食べたことなかったなとか、そもそも俺は和食派だからあんまり選択肢になくて、だから食べるの自体すっげえ久々だ、なんてことを考えながら玄関を開ける。
 すると、聞き耳でも立てていたんだろうか。俺が声をかけるよりも早く、中からぱたぱた可愛い足音が近づいてきた。
 そして、
「お帰りなさーい!」
 藍子が飛び出してきて、満面の笑みで迎えてくれる。愛用のブルーハワイ色のエプロンを着けた彼女は、結んだ髪を尻尾のように揺らしながら俺に駆け寄ると、すかさず両手を差し出してきた。
「お疲れ様です、隆宏さん!」
 結婚当初は差し出されたその手の示す意味がわからず、帰ってくるなりハグをせがむなんてそうか一人でのお留守番がそんなに寂しかったかと速攻で抱き締めてやったものだ。すると腕の中からもごもごと『そういう意味じゃないです……』というくぐもった否定の言葉が聞こえてきて、俺もようやく彼女の意図を察した。
 今は意味も意図もちゃんとわかっているので、俺は犬みたいに待ち構えている彼女に鞄を渡す。
 ただ、それはそれで夫婦っぽくてこそばゆくも嬉しいものなんだが、それだけだと何だか物足りない気がするので、三回に二回くらいでそのまま鞄ごと抱き締めてしまうことにしている。
「ただいま」
 腕の中に向けて声をかけると、鞄を抱えたままの藍子が楽しげな顔で見上げてくる。
「今日のお夕飯、何だかわかります?」
「カレーだろ」
 間髪入れずに俺は答える。
 言い当てられると思っていなかったのか、藍子は驚いていたようだった。息を呑むような声を立てた後、ちょっとばかり悔しそうに言った。
「何でわかっちゃったんですか? 匂い、しました?」
「してたしてた。外からでもわかるくらい美味しそうだった」
「味も、今日はばっちりだと思います! 私、カレーにはとても自信あるんです」
 そう言うなり藍子は俺の腕から飛び出そうとするから、俺は逃がすまいと彼女を改めて強く引き寄せる。
 朝とは違い、ちゃんとつやつやしている唇にキスをすると、藍子はまるでつられたように目を閉じた。そのくせ、唇が離れて目を開けてからは取ってつけたようにうろたえた顔をする。恥ずかしいから困りますと言わんばかりの表情に、こっちも思わず突っ込みたくなった。
「この距離からなら、するってわかるだろ。お約束だ」
「でも……いきなりだと、びっくりしますから」
「そんなこと言って、今のは受け入れ態勢ばっちりだったな」
「き、気のせいですよ、多分」
 目を逸らしながら言われても説得力などない。
 何にせよ、こういう些細なところにも彼女の成長が窺えるのがまたいい。こんな新婚さんらしいコミュニケーションを、藍子の方も楽しんでくれるようになったら更に望ましいんだが。
「とりあえず、ご飯にしますか?」
 藍子は話を変えようとしたんだろう、慌てたように聞いてきた。
「カレーは温めてあるので、すぐに出せますよ。もちろん、先にお風呂でもいいですけど」
 そう聞かれたら俺としては、形式に則って答えなければならない。
「お前がいい」
「え?」
「だから、ご飯じゃなくて風呂でもなくて、お前がいい」
 呑み込むまでに数秒かかってはいたが、意味を理解したらしい藍子はまた慌て始めた。
「あの、そういう意味で聞いたんじゃないです……」
「何でだよ。これもお約束だろ」
「そんなお約束、隆宏さんからしか聞いたことないですよ!」
「じゃあ我が家だけでいいからお約束にしようぜ。毎日の恒例行事として――」
 言いかけた俺の腕を、藍子は鞄と一緒に抱きかかえるようにして引っ張った。いつになく強引な誘導に、彼女の狼狽が見て取れる。
「と言うか、玄関でしていい話でもないですから! 中に入りますよ隆宏さん!」
「可愛いな。そんなにうろたえることないだろ」
「からかわないでくださいっ!」
 確かにからかってはいるが、本当に心から可愛いと思っているのもまた真実だ。
 藍子を傍に置いてひたすら構い倒すだけで、俺は生涯退屈することなどないだろう。

 カレーライスは、彼女が料理の練習を始める前からの得意料理らしい。
 かつての藍子はカレーの他には豚汁しか作れなかったと言っていた。今ではレパートリーも増えたし、元々真面目な性格が幸いしてか、安定して美味しいものを作り出せている。俺としては頭が上がりません。
 本日のカレーも割とオーソドックスな味つけだったが、久々に食べる人間としてはそれがかえってこれぞカレー! というふうで大変美味かったし、秋らしくきのことカボチャを入れているのもよかった。つけ合わせはアボカドとトマトのサラダだ。俺はこれまでアボカドを食べる機会があまりなかったんだが、藍子はどうもこれが大好きらしく、結婚以来頻繁に食卓に上っている。一人では食べないものを食べられるのも、新しい食文化に触れるのも、結婚の醍醐味ってやつだろう。
 子供の頃は当たり前だった休日のホットケーキや夕飯のカレーライスが、この先の未来ではやはり定番として戻ってくるのかもしれない。自分の好きなものだけ食べる生活も悪くはなかったが、忘れてしまった懐かしい味が揃う生活だって悪くはない。
 というよりも、彼女と過ごす時間の全てがそうだ。新鮮な驚きと、不思議な懐かしさに溢れている。俺はこれからもそういうものを、藍子と一緒にたくさん見つけていけたらいいと思う。
 二人で築く家庭には、一人暮らしではなかなか行き届かないような、平凡ながらも温かい幸せがある。

 夕飯の後、風呂に入って寝巻きに着替えてから、藍子と二人で軽く酒を飲んでいた。
「……幸せだ」
 グラスの中身をちびちびやりながら、ほろ酔い加減の彼女を眺めていたら、ついつい内心が口に出た。
 半乾きの髪を緩くまとめた藍子は、俺の隣でやはりグラスを傾けている。化粧を落とした頬には早くも微かな赤みが差していて、そこにほつれた髪がいかにも湯上がりらしく張りついている。パジャマ姿は相変わらず隙だらけで可愛いし、床の上で三角座りをすると裸足の爪先がよく見えて、丸っこい足の指と小さくてピンク色の爪がまた可愛いと思う。
 これで一緒に風呂に入ってくれたら、もっと可愛くてたまらんと思うのですが――そちらはずっと断られっ放しだった。恥ずかしいですから、とお決まりの台詞で拒む藍子を、しかし俺は時間をかけてでもいつかどうにかして再び口説き落としてやるつもりでいる。前みたいにイベントに託ければいけそうな気がしている。
 ともあれ、俺の呟きを聞いた彼女は深々と顎を引いた。
「本当ですね。秋の夜長に美味しいお酒、すごくぴったりです」
「お前はつくづく色気より食い気だな」
 そう言ってやったら藍子は怪訝そうな顔をする。目を丸くしているのが更に可愛くて、俺はつい吹き出してしまう。
「誉めてんだよ。お前のそういうとこもいい」
「それはそれでちょっと……私、隆宏さんの中ではずっと、食いしん坊ってイメージですよね」
 藍子が眉根を寄せ、考え込むそぶりを見せた。
 実際、藍子の食いしん坊っぷりは、イメージどころかもう書き換えようがないレベルで俺の中に根づいている。もし仮に、藍子が食い気より色気の方を尊重するようになったとしても俺は全くもって困らないが、しかし今の食い気重視な藍子も健康的でいいと思うし十分可愛い。
「できたらもうちょっと、歳相応くらいにはなりたいんです」
 と、彼女は主張する。
「歳相応って?」
「ですから……その、もう少し大人っぽくって言うか」
 俺が追及すると、藍子は言いにくそうにしながらもぼそぼそ続けた。
「七歳差ってやっぱり、まだまだ大きいと感じてるんです。なので、何て言うか……」
 ちらっと、一瞬だけこっちを見る。酔っ払った時特有の少しとろけた目は、それでも夜の照明の光を映してきらきらしている。
「もっと、らしくなりたいと思ってます」
 決意表明のような口調で、彼女は言った。
 何についての『らしく』なのかは聞くまでもない。俺が嬉しさについにやにやすると、藍子は拗ねたようだった。顔を真っ赤にしながら訴えてくる。
「笑わないでください。私も、いちいち言うまでもないことだとはわかってるんです」
「いや、これは喜びの笑みだからな。別に馬鹿にしてるんじゃない」
「それなら、いいんですけど」
「見てみたいな。お前の思う、俺の奥さんらしさってどんなふうだろうな」
 聞くまでもないことを言葉にしてみたところ、藍子は赤面したまま気まずげに身を縮こまらせた。変わっていく彼女もそれはそれで楽しみだが、今のまだまだ初々しい彼女も俺にとっては最高に可愛い自慢の嫁だ。
 誇らしい気持ちで彼女の肩を抱くと、藍子はぎくしゃくと硬い動きで俺にもたれかかってきた。きっと真っ直ぐ座っていた方がまだましじゃないかというほど力が入っている。
「楽にしろよ」
「……じゃあ、そうします」
 俺の勧めに藍子は場違いに意気込むと、テーブルの上にグラスを置いた。
 しばらくしてから俺の肩には彼女の体重と少し冷たい束ね髪がかかり、ごく近くからシャンプーのいい匂いとほろ酔い気味の体温を感じ取る。秋の夜は静かで穏やかなのに、心臓の音が馬鹿みたいにうるさい。俺は俺で年甲斐もなく、未だに彼女にときめかされている。
 思えば俺も、彼女と出会っていくらか変わったようだ。
 こんなにどきどきするような、振り回されてばかりの恋愛を、この歳になってからさせられるとは思っていなかった。久しぶりに、真っ当に『好きな人』ができてしまって、その人物の一挙一動にあれこれ考えさせられたり、やきもきさせられたり、とても幸せな気分にしてもらったりした。それだって別に今まで知らなかったわけじゃない、単に忘れていただけの事柄ではあるのだが、俺は随分と長い間、忙しさにかまけて合理的な恋愛ばかり追いかけてきたように思う。その逆を行くような合理性もなければスマートでもなく、時に無様だったり滑稽だったりする恋愛を思い出させてくれたのは、藍子だった。
 おかげで格好悪いところも相当見せたような気がするが、それでも彼女は俺を愛してくれている。やはり頭が上がらない。そして、幸せだった。

 しばらくの間、彼女の重みと温かさと、いい匂いを堪能していた。
 するといつしか、俺の肩に頭を乗っけた藍子はすやすや寝息を立て始めていた。思わず顔を覗き込むと、口元は軽く微笑んだまま寝入ってしまっている。
「藍子?」
 俺がそっと名前を呼んでも答えはない。
 これは付き合ってから初めて知ったことだが、彼女は取り立てて酒に強いわけではないようだった。課内の飲み会ではいつでもしっかりしていたものの、それは職場の皆さんの前で醜態を晒すわけにはいかない、という彼女らしい真面目さからくる頑張りによるものだったらしい。現に小坂家などで飲んだ際、藍子は割と早い段階で酔いが回っていたようだった。
 今ではここが彼女の家だ。俺の前でならいくら酔っ払ってくれても構わない。むしろ、気を許してくれているようなのがとても嬉しい。
 ただ、せっかくの秋の夜長だっていうのに、もう寝てしまうのか。少しもったいなくも感じるが――まあ、明日は休みなんだし、たまにはいいか。もう一度呼びかけても起きなかったら、ベッドまで運んでいってやろう。
「藍子」
 俺は彼女の、可愛い名前を呼ぶ。
 彼女は答えない。すやすや、安らかな呼吸だけが聞こえる。
 それで俺は自分のグラスを置き、彼女の温かくて柔らかい身体を抱きかかえた。そして持ち上げようとして、その前にと唇に軽く、ごく優しくおやすみのキスをしておく。
 途端、彼女の唇がわずかに動いた。
「……隆宏、さん」
 微かな、まさに寝言らしい声ではあったが、彼女も俺を呼んだようだった。
 眠りが浅くて寝惚けているのか、それとも俺の夢を見ているのかはわからない。どちらにせよ俺はその瞬間、急に胸が苦しくなって、彼女をぎゅっと抱き締め直した。起こしてしまうかもしれないと思っても、そうせずにはいられなかった。
 こんな気持ちになるなんて、最初は考えもしなかった。
 いとおしい、とか、切ない、とか。世間的にはありふれているのに滅多に口にすることのない言葉が、感情として胸のうちに息づくようになっていた。それだってごく普通の、当たり前のことなのに、改めて直面すると甘酸っぱくてこそばゆい。結婚したからって一息に落ち着くわけでもなく、俺は未だに彼女の可愛さと恋の魔力にしてやられている。
 しみじみと、恋愛舐めてました、と項垂れたい気分になった。いくつになったら落ち着くんだろう、この気持ち、動悸の速さ。いや、年齢の問題じゃないのかもしれない。長年一緒にいたらいくらかは慣れるだろうか。それとも俺、一生こんなふうに彼女に振り回されていくことになるんだろうか。どうも、そうなりそうだ。
 腕の中では藍子が、重たげな瞼を抉じ開けるように目をこすっていた。寝惚け眼が俺をとろんと見つめている。
「あれ……私、寝てました……?」
 寝起きらしい舌足らずな口調で聞いてきたから、振り回される前に振り回してやろうと、俺はその問いにキスで応えた。
 目覚めたからには今夜は、もう少しばかり付き合ってもらおうか。
▲top