Tiny garden

遅咲きの薔薇(2)

 営業課で彼女の姿を見ることがなくなってから、既に一ヶ月が過ぎていた。
 何だかんだ言って、俺もしばらくは感傷的な気分になってしまうんだろうと思っていたが、案外と彼女の不在をあっさり受け入れ始めている自分に気づいた。そもそものんびりと感傷に浸れるほど暇な職場でもなかった。
 せいぜい、皆が何かと言うと藍子のことを気にするから、奥さんどうしてますかと聞かれる度に、そうだよなーもう『小坂さん』じゃなくて俺の『奥さん』なんだよなーと誇らしさ幸福感優越感その他諸々をしみじみ噛み締めるくらいのものだ。

 それでも霧島に言わせれば、
「俺の目には十分感傷的に見えますし、寂しそうですよ、先輩」
 とのことだが、奴は奴で俺を貶す場合に限っては結構話を盛るところがあるから信用できん。俺と霧島のどちらが正しいかは、周囲の評価によって自ずと明らかになるだろう。
 俺だって結婚した以上、いい加減な仕事はしないつもりだ。嫁さん貰った途端に腑抜けたなどと言われないよう、気を引き締めてかかることにしている。
 そういうわけで俺は言う。
「寂しいってよりも、あいつがここにいたらな、って考えることがまだあるってだけだよ」
 相対的に見れば俺は、法律上はまだ誰のものでもなかった小坂よりも、俺の嫁になってくれた藍子の方をより深く愛している。それは当然のことだろう。
 でもそれは、より近しい存在に、家族になったから、なってくれたからという部分が大きいのであって――営業課にいた小坂のことも、言うまでもなく好きだったし愛してた。ここで起こった彼女にまつわる様々な出来事は、小さなものも大きなものも残らず全て忘れがたい。いつもにこにこしている愛想のいい顔も、忙しい時にふと見せるちょっとくたびれた様子の微笑みも、誉めてやった時のはにかみ顔も、逆にどうしても叱ったり注意しなくちゃいけなかった時の、本当に申し訳なさそうな顔も、これから二人で暮らす上で増えていく思い出とは別の、畑違いの領域に取っておくことになる。
 そりゃあもちろん、あいつがここにいたらいい、って思うことはたまにある。勤務中だろうが何だろうが一緒にいられるならそれに越したことはないし、俺はいつだって彼女の顔を見ていたい。
 ただそれは、俺たちが手に入れた別の幸せとは両立できるものじゃない。
 それなら俺はいつだったか彼女に話したように、彼女のことをちゃんと覚えていよう。この後もいろんな人間が入ってきたり、異動の為に出ていったり、あるいは辞めていくかもしれない営業課に、彼女もまた働いていたんだって事実をしっかり記憶しておこう。そうして必要になったら誰かにその話をする。それがいつかのルーキーへの励ましになるか、はたまた惚気全開の馴れ初め話になるかはわからない。どちらにしても、二年半の勤務で彼女が残していった確かなものを、機会があれば誰かに伝えてみたいと思っている。
 俺はもうしばらくは営業課へやってくる新人の指導に当たる役目を負わなければいけないようだし、それならこれまで出会った多くの同僚、上司、部下と同様に、彼女と過ごした時間も財産に違いない。いつかその経験が役立つ日も来るだろう。それが遠い未来の話でも、俺の中にはずっと残り続けて、役立つ時を待つ記憶になるだろう。例えるなら植えてからずっと音沙汰のなかった木の苗に、ある日急に花がついて遅まきながらもきれいに咲くみたいに。
 ――あ、今の比喩を見るに、やっぱり俺は結構感傷的になってるのかもしれん。
 しょうがないよな。寂しいのは事実だ。
「それは先輩だけじゃなく、皆思ってますから」
 霧島はあっさりそう言ってのけると、発破をかけるように続けた。
「でも、戻ってきてもらうことはできませんしね。奥さんが心配にならないよう、俺たちでしっかりやりましょう」
「わかってるって。俺だって仕事中は余計なこと考えないようにしてるしな」
「そう言いますけど先輩、最近ずっと口元緩んでますよ。主任の顔がだらしないって評判になってます」
「だらしないって言い方あるか。幸せオーラが出てると言え!」
 こう見えても仕事には真面目な方なんで、勤務時間中に余計なことは、まあそれほどは考えないようにしている。ゼロだとは言わないがほんのちょっとだけだ。大丈夫。
 でも考えてなくたって、日常的に顔が緩んじゃうのは致し方あるまい。新婚さんですので。

 そして俺は新婚さんゆえに、休憩時間中は思いっきり彼女のことを考える。
 考えると言うか、時間の許す限りメールなどで連絡を取り合うようにしている。
 藍子は昔と比べるとメールを打つスピードが格段に上がった。今休憩入ったとこなんだけどお前は何してた? とこっちからメールを送れば、遅くともものの数分で返事をくれる。
『お昼ご飯を食べ終えて、ちょうど後片づけを終えたところです』
 メールの文面でも畏まっちゃってるところは相変わらずだが、それはそれで可愛いのでよしとしておく。相変わらず、声が聞こえてきそうなメールを寄越すんだよな、藍子は。
 昼飯は何を食べたのか聞いてみた。やはりすぐに返信があり、
『ホットケーキです。実は前々から、ホットケーキに何を混ぜると一番美味しいかが気になってて、今は時間もできましたし、いい機会なので毎日あれこれ試してみてるんです!』
 張り切りぶりが窺えるようなびっくりマークつきで教えてくれた。
 気になったので突っ込んで聞いてみたところ、本日はホットケーキミックスに豆腐を入れてみたらしい。どんな味になるのか検討もつかなかったが、藍子曰く生地がふわふわもちもちで大変美味しかったのだとか。たくさん焼いてみたのに、ぺろりと平らげてしまったとメールは語っていた。
『でも混ぜ加減が足りなかったみたいで、ちょっとだけ、一部分だけなんですけど豆腐の味がしました……』
 藍子は可愛い顔文字つきでそうぼやいていたが、こっちはそんな豆腐ホットケーキを食べてみたくてたまらなくなってきた。ふわふわもちもちの焼きたてホットケーキとか最高じゃないか。それが本当に豆腐なんかで叶うのか。味の想像はやはりつかないが何だかめちゃくちゃ美味そうだ。
 考えてみれば俺も、ホットケーキが昼飯だったのはせいぜい小学生くらいの頃までだった。大人になってからは何となく食べなくなったが、嫌いになったわけじゃなく、ただ自分の為だけに焼くのが面倒くさいと思っていただけだった。それがこうして話題に上ったおかげで、すっかり食べてみたくなってきた。
『今度は炭酸水で混ぜてみるバージョンを試してみようと思ってます!』
 そう語る彼女はもちろん俺の気持ちもしっかり把握してくれていて、とりあえず美味しくできた豆腐ホットケーキを、休日のお昼にも焼きますから、と約束してくれた。実に優しく、健気で、献身的なお嫁さんである。
 仕事を辞めることになった藍子が日中をどう過ごすのか、俺は少し気になっていた。これまで忙しなく働いてきただけに、家にいて家事をする生活というのはもしかしたら彼女にとっていささか平坦で退屈じゃないかと心配していたわけだ。
 しかし今のところ彼女にはやってみたいことがたくさんあるらしく、そのうちの一つが昼食作りを兼ねた料理の練習、及び追求だった。その点において藍子は充実した日々を過ごしているようだった。
『今日のお夕飯もよさげな献立を思いついたので、慎重かつ丁寧に作るつもりでいます。どうぞお楽しみに!』
 藍子は朝に交わした約束についても自信ありげにそう語っていた。まるでテレビの次回予告みたいだと思いつつ、期待してる、と返事を送る。
 その後、彼女の手作り愛妻弁当を食べながら、今日の夕飯と休日のホットケーキに思いを馳せた。
 つくづく、結婚っていいよなと思う。特に食生活の潤いっぷりが半端ない。帰ってから自分で食事の支度をしたり、疲れてるところに外食しに出て行かなくてもいいのがまずありがたいし、自分一人ならなかなか食べようと思わないもの、思い当たらないメニューが出てくるところもいい。困ったら魚焼いとけばいいや、っていう俺の単調な食卓が一気に華やいだ。
 いや、本当に心から思うよ。
 結婚してよかった。

 連絡と言えば、退勤後にも彼女に連絡をするようになった。
 いわゆるところの帰るコールってやつである。
「さっき上がったから、これから帰る」
 俺が電話で報告をすると、藍子は実に嬉しそうな声を立ててくれる。
『あっ、お疲れ様です! じゃあご飯温めて待ってますね』
 ちょっとテンション上がったっぽいのが非常に可愛い。俺の帰りを待っててくれて、喜んでくれてるんだなというところがもう! 何て言うか! 藍子の方も俺が家にいなくて寂しかったのかなーとか想像しちゃうとむしろこっちのテンションが上がりすぎて振り切れるわ!
 内心の浮かれっぷりも電話だとばれにくいのが救いだ。俺は落ち着き払って格好いい旦那様を演じておく。
「何か、買ってきて欲しいものとかあるか?」
『特にないです』
「じゃあ……酒でも買って帰るか。明日、休みだし」
『いいんですか? 隆宏さん、お疲れですよね……?』
 藍子が少し心配そうにしてくれたので、そこでも俺は幸せを噛み締めてしまう。何て優しくて可愛い子なんだろう。是非こんな子と結婚したい。もうしてるけど。
「疲れたから、ちょっと飲みたい気分なんだよ。よかったら付き合ってくれ」
 俺は言い、それで彼女も納得したようだ。
『そういうことならお付き合いします』
「よし。買って帰るから待ってろよ」
 それから俺は飲む酒について彼女の希望を聞き、買い物をしてから家に着くまでの予想所要時間を伝えてから電話を切った。
 藍子は、
『気をつけて帰ってきてください!』
 と、これまた可愛い口調で言ってくれたので、俺はほのぼのしてるんだがどぎまぎしてるんだかわからない心持で携帯電話をしまう。やばい、幸せすぎる。一分一秒でも早く家に帰らねば。
 そうして浮かれ調子で歩き出そうとした時、不意に背後で笑い声が響いた。
「奥さんに帰るコールか。言語に絶するだらしない顔しやがって」
 なぜか背後に安井がいた。鬼の首を取ったような笑みを浮かべて俺を見ていた。
 見知った相手とは言え、今の会話を聞かれていたならさすがに慌てざるを得ない。俺は照れ隠しにもならない調子で唸る。
「聞いてんなよな……!」
「聞こえたくないなら外出て電話しろよ。社内で電話しててその言い分は通用しないぞ」
 そんなこと言ったって、一刻も早く藍子の声を聞きたかったんだからしょうがないだろ。
 それでも一応、退勤して帰り支度済ませて、ほとんど人気のなくなった廊下を歩いているうちはまだ我慢していた。でもエレベーターホールに辿り着いたところで、何かこう、待てなくなっちゃったんだよな。駐車場まで下りて車の中からかけた方が聞かれる心配なくて安全っていうのもわかってるんだが、どうにも待ちきれなかった。
 しかしそのせいで安井に聞かれたのは不覚だった。
「評判通りの酷い顔を拝ませてもらった」
 安井はにやにやしながらそう言うと、そのくせ俺を宥めるように肩を竦めた。
「幸せそうで何よりだよ」
 そんなふうに言われたら、こっちも開き直るしかない。今更のようにエレベーターを呼びつけた後で言ってやった。
「まあな。俺、今、すっげー幸せ!」
「大丈夫だ、見ればわかる」
「藍子のいる家に帰れるのがもう……な、とにかく嬉しくてしょうがないんだよ!」
「わかったわかった。そこまで言うなら気をつけて帰れ」
 安井はそこで、どこか心配そうに俺を見る。
「そんな浮かれっぷりで安全運転ができるかどうか、そっちの方が気がかりだ。くれぐれも可愛い奥さん泣かすなよ」
 確かに俺は浮かれてこそいるものの、藍子を泣かせる気はさらさらない。
 言われるまでもなく、愛する妻の待つ我が家へは安全運転で帰ります。
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