Tiny garden

遅咲きの薔薇(1)

 目が覚めると、隣に藍子がいるのがわかる。
 それは世界一素晴らしい朝の始まり方だ。

 まだ目も開けきらなくて、頭も霞がかったみたいにぼんやりしているのに、彼女の存在は確かに感じ取ることができる。
 耳を澄まさなければ聞こえないような微かな寝息、ほんのりとわかる彼女の匂い、触れ合う肌の温かさと柔らかさ。だんだん意識がはっきりしてくると、薄暗がりの中に彼女の顔を見つけることもできるようになる。相変わらずあどけなくて、隙だらけの穏やかな寝顔だった。このままそっとしておきたくも、悪戯してみたくもなる顔。相反する気持ちに葛藤するのも幸せなものだった。
 長い髪が幾筋か、彼女の寝顔を覆い隠すみたいに下りていたから、邪魔じゃないかと指先で掬い上げる。そのまま髪を小さな耳にかけると、くすぐったかったのか彼女の瞼がわずかに動いた。長い睫毛が影を落としているのが女の子らしいなと思う。軽く開いた桜色の唇は乾いているように見えたが、キスしてみたら十分に柔らかかった。
 唇を離した後、彼女の唇はほんのちょっとだけ微笑んでみせる。どうやら藍子も、まどろみながらも俺の存在を感じ取ってくれているようだ。まだ夢の中にいるのなら、それこそ俺の夢でも見てくれているのかもしれない。
「藍子」
 起きるにはまだ早いし、もう少し寝かせておいてやりたいと思っている。そっと呼びかけてみたのも起こそうとしたわけじゃなく、ただ呼んでみたかったからだった。もちろん藍子は返事をしなかったが、心なしか唇が動いたようだった。
「……可愛いな」
 俺の呟きはこの状況下ではただの独り言だ。でもこんなふうに藍子を眺めていたら、ついそう言いたくもなる。それに今ならいくら誉めても、藍子は恥ずかしがって俺の言葉を否定したりしない。それどころか当然だと受け止めてくれているようにさえ見える。
 可愛いって言葉がふさわしいだけの寝顔だと俺は思う。
 まだ目が開く気配はないから、もうしばらくベッドの中で、彼女を鑑賞していよう。

 結婚してからというもの、こうして毎日、幸せで素晴らしい朝を迎えている。
 どこが素晴らしいって、何はなくとも藍子が隣に寝ていることだ。もうどこにも帰す必要もないし、ここが俺たちの家だから、俺の家族であり最愛の妻である藍子は健やかなる時も病める時もその他どんな例外もなくずっと俺の傍にいる。そして当たり前のように同じベッドに寝てくれる。
 俺たちは結婚にあたり、いい機会だからと大きめサイズのベッドを購入したのだが、抱き合って眠る以上はそう面積も必要なかったということに後になってから気づいた。俺はたとえ腕が痺れても彼女を腕枕で寝かしつけたい所存だし、藍子も寝入ってしまうと案外甘えん坊さんで、こちらにしがみついてきたり擦り寄ってきたりと大変可愛い。是非とも起きてる時にもそれをやってくれ、と言いたくなるほど可愛い。少しずつ涼しくなってきた十月は、こうしてくっついて寝るにはおあつらえ向きの季節だった。
 しかし朝の時間とて永遠ではない。いつかは終わりがやってくる。
 目覚まし時計は五時半に鳴る。藍子が嫁入り道具として持ち込んできたその目覚ましは、割とポピュラーな電子音が鳴り響くタイプのものだ。それほどうるさい音でもないが、藍子曰く効果覿面、いざという時にはばっちり目が覚める代物らしい。
 とは言え俺の見たところでは覿面って程でもないらしく、彼女はそれを目を閉じたまま手だけ伸ばして探そうとするので、俺が先に起きている場合は時計を拾ってやって、彼女の手に握らせている。藍子はほとんど条件反射みたいにボタンを押して音を止めると、寝ぼけ眼で文字盤を覗き込む。
「あ。……起きなきゃ」
 もごもごと舌足らずみたいな口調で藍子は言い、その後で目をこすりながら俺を見る。
「おはようございます、隆宏さん」
「おはよう、藍子」
 俺が挨拶を返すと、彼女は開かない瞼を重力に任せたまま、子供みたいに笑んだ。
 これは結婚前からそうだったのだが、彼女は結構寝起きがよくない方らしい。こうしてふわふわとしばらくまどろんでは、夢の続きを追い駆けるように寝ぼけてみせたりもするし、時々昨夜見た夢の話を唐突にしてくることもある。だが夢の世界の住人になりきっている藍子もそれはそれで可愛いし、俺はそういう彼女を構うのが好きだった。
「目が開かないって顔も可愛いな」
 柔らかい頬を指先でもちもちと揉んでみる。
 すると藍子は無理に目を開けようと大きく瞠った後、困ったようにまた笑った。
「もうちょっとで起きられると思うんですけど……」
「何だったら寝ててもいいぞ。俺、自分で準備して出てくから」
「それは駄目です。起きます、あと五分で起きます」
 こっちも一人暮らし歴は無闇に長い。自分で起きて朝飯用意して片づけてから家を出ていくくらいどうってこともないんだが、藍子は藍子で何でも自分でやりたいという気持ちがあるらしい。俺の申し出が受理されたことは今のところない。
 だったらせめて目を覚ます手伝いはしてやろうと、必死になってぱちぱち瞬きを繰り返す藍子の額や頬や唇に、のべつ幕なしにキスしてやった。藍子もそれで少しは意識が覚醒したらしく、目を開けた後ははにかんでみせる。
「も、もういいです。目が覚めました」
「もういいとか言うなよ。まだこの辺とか、してない」
 彼女の首の後ろを指の腹で撫でると、藍子はまるで逃げるように身を捩った。ふふっと、屈託のない笑い声も立てた。
「くすぐらないでください」
 今のは、そういうんじゃないんだけどな。くすぐる時は俺もちゃんとやる。
 しかしあんまりやると俺が仕事に行きたくなくなってしまうので、朝のうちは程々にしておこう。藍子との、この朝の幸せかつ素晴らしい時間を守る為、今日も頑張らなくてはいけない。

 仕事がある日の朝食は、それほど量を食べないようにしている。
 しっかり食べると消化まで時間がかかるせいか、身体にエンジンがかかるのも遅くなるような気がするからだ。
 だからいつもご飯に味噌汁、あれば焼き魚くらいのメニューにしていて、結婚前には藍子にも、そういうふうにしてくれと頼んでおいた。彼女も俺の意向を酌んでくれ、朝は鮭の切り身を焼いたり、あとはおひたしなんかの小鉢をちょっとつけてくれる程度だ。結婚前、付き合ってた頃から比べると、藍子は格段に手際がよくなったと思う。
 だが彼女自身からすれば現状には物足りなさがあるらしい。一緒に食卓を囲みながら、時々聞かれた。
「私、もうちょっとレパートリーを増やそうと思ってるんですけど、どんなのがいいでしょうか?」
 以前と比べて手際もよくなり、料理の腕もめきめきと上げた彼女だが、今のところはまだレシピ単位でかっちり覚えているという感じのようで、つまりは応用に活かせるほどの腕はないらしい。材料一つ変わるだけで途端に難しくなるのだと、難しげな顔で語っていたことがある。
 正直、俺は魚でも焼いてあればそれだけでいいような人間なので、そこまでこだわらなくていいんじゃないかと言ってはいるんだが、藍子は藍子でやるからにはとことんやりたいタイプの子だから、まずは本人が満足するまで見守っておくつもりでもいた。
「たまには、お前の好きなものとか作ってみてもいいんじゃないか」
 俺の言葉に、藍子は箸を止めてきょとんとする。
「私のですか?」
「料理始めてからずっと、魚料理ばっかり作ってもらってるだろ。俺はいいけど、お前はどうなのかと思ってさ」
 そうやって俺の好物に配慮してくれるのは嬉しい。だが配慮しすぎて、この食いしん坊な藍子が好きなものを作って食べられなくなるのはかわいそうだ。それに好きこそ物の上手なれと言うし、料理の腕を上げるなら自分の好きなものを作っていく方が近道なんじゃないだろうか。
「私は、お魚も好きですから。と言うか、好き嫌いあんまりないからいいんです」
 藍子は食いしん坊らしく自信たっぷりに笑った。
 でもその後で少し考えてから、
「じゃあ、今日のお夕飯は私の好きなものにしてみてもいいですか?」
 と言い出したので、俺は二つ返事で了承した。
「もちろん。俺も、それを楽しみに仕事を頑張るからな」
「はい。だったらすごく美味しいものにしないといけませんね!」
 彼女の闘志に火がついたんだろうか、藍子は俄然張り切り始めたようだ。
 こういうところは相変わらずと言うか、入社したての頃と全然変わんないよな。むしろずっと変わらなくていい。俺もますます頑張ろうって気持ちになる。
 仕事から帰ってきたら、彼女が作った夕飯と、彼女が待っていてくれる。幸せなのは朝だけじゃなく、夜もそうなんだと思うと、何だかもうこの世の全てに感謝したくなる。

 俺の一日は幸せだ。朝も夜も彼女がいる。
 勤務中はまあ、藍子もいないし、幸せって言うかそこそこかな……くらいかもしれないが、それも藍子の為の労働と思えばどうってことない。あと近頃は愛妻弁当があるんで、そういう意味では楽しみがなくはないとも言える。
 ワイシャツを着てネクタイを結ぶと、藍子がすかさずスーツの上着を着せてくれる。こういうのはいかにも新婚さんっぽくて照れるんだが、聞くところによると小坂家では未だに続く朝の恒例儀式らしい。ってことで俺もお義父さんお義母さんに倣って着せてもらうことにしました。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい!」
 家を出る時は必ず玄関まで見送りに出てきてくれるのも嬉しい。藍子にとびきりの笑顔で見送られたら、うっかりスキップで出勤しちゃいそうなほど浮かれてしまう。藍子の可愛さは俺のエネルギーであり原動力であり生き甲斐である。そして俺は相変わらず低燃費で稼働する永久機関である。
 あとは、行ってらっしゃいのちゅーを自発的にしてくれるようになったらいいのですが。
 靴を履き終えた俺が立ち尽くす間、藍子も上がり框に姿勢よく立ち、どこか怪訝そうにこっちを見ている。何か忘れ物ですか、と聞きたそうな顔だった。俺が黙って自分の唇を指差すと、この期に及んでもじもじし始める。
「えっ、あの、わ、私からですか……?」
「ああ」
「でも、こんな明るいうちからだとちょっと……! 隆宏さん、スーツ姿ですし、何かあれかなって」
 俺がスーツ着てたらどんな支障があると言うのか。そこは藍子ちゃんから詳しくつぶさに説明が欲しいところだがあいにく出勤前なので時間が足りない。
 そして未だに、お付き合い期間を含めてももう二年近くこんなやり取りをしているのに、キスごときで恥じらう奥手っぷりがまた言葉には言い表せないほど可愛いので、結局こっちが我慢ならなくなって、
「しょうがないな。次はちゃんとやれよ、約束したからな」
 顎を掴んで引き寄せ、ほぼ強引にキスしてしまう。
 おかげでなかなか藍子の方からしてもらう機会がないのが困ったものだ。もちろん、不意打ちを仕掛けてどぎまぎと視線を泳がせている藍子を見るのも悪くないが。
「……行ってらっしゃい」
 すっかり上気した頬っぺたの彼女に見送られ、俺は実に気分よく家を出た。
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