Tiny garden

世界に背を向けたひと(4)

 下見した時と同じように、屋上には人気がなかった。
 既に打ち上げは始まっていたが、こんなところまで来てわざわざ花火見ようって酔狂な奴は他にいなかったんだろう。そりゃそうだ、今の時刻まで居残ってる奴は普通仕事があるもんだろうし、そうでないなら会社なんぞで花火を見てやる必要もない。ビールでも飲みながら見ればいい。俺はたとえ終業後でも興味ないけど。
 俺の場合は残業の真っ最中だからこそ見る気になれた。息抜き、自分へのご褒美、そして一ヶ月前からなかなか捕まえられなかった機会、の為に。
 音のうるさいのさえ我慢すれば、夏の夜空の下に二人きり、次々と上がる眩しい光に照らされる彼女、なんて絶好のシチュエーションではありませんか。女の子は得てしてきれいな景色が好きだし、小坂自身が花火を好きだと言っていた。時間の制約はあるものの、ちょっとは期待できそうだ。
 屋上のベンチは利用する人間も多くないのか、触るとざらざら砂っぽかった。払っても払いきれない気がしたので、とりあえずハンカチを敷く。そこに小坂を座らせて、俺は隣に、直に座った。
 礼儀に適ってないとでも思ったか、そこで小坂がうろたえた。
「あ、あの、よろしければこれをお使いになってください!」
 そう言うと、スーツのポケットから転げ落ちるみたいにハンカチを引っ張り出す。わかってない奴だなあと、その申し出はもちろん断った。
「いいんだよ、どうせ書類片付けたら帰るだけなんだし」
 わかってない奴だ。
「でも……」
「それより、さっさと食え。花火見ながらな」
 促せば小坂は申し訳なさそうに頭を下げ、それから唐揚げ弁当を膝の上に置き、蓋を開ける。食べる前にはちゃんと手を合わせて、箸も両手で割ってから、食べ始めた。一連の行動をしっかり見届けてから、俺も倣って弁当を開けた。

 花火は本当にうるさかった。
 霧島が俺を指して『情緒がない』と言っていたが、実際その通りだと思う。遠くのビルを茎みたいに、てっぺん辺りでぱっと散る花火はいかにも子供っぽい画に見えたし、これ一発いくらくらいだっけとか、そう言やちょっとやばいって言われてるあの会社、今年花火上げられなかったらしいなとか、現実的な考えばかりが頭をかすめてしまう。
 もっともそれは俺の三十年の人生経験がそうさせるわけだが――三年前の、トラウマには全然なりきれないようなどうでもいい出来事とか、社会人なりたての頃、花火大会が平日開催だと気づいて少しがっかりした記憶とか。あるいはもうちょっと遡ると、学生時代なんかは集団で花火を見に行ったりしていたなと思い出したりする。それも別に花火が見たいからじゃなく、要は気になる女の子が一緒に行くからとか、デートだからとか、はたまた遊び半分のナンパ目的だったからとかで、やっぱり花火自体には興味がなかった。
 一番古い思い出は幼稚園児の頃で、花火大会の日に出る縁日の、ブリキっぽい車のおもちゃを買ってもらえなくてぐれたことだ。あの時の俺は一丁前に悪ガキで、でもやっぱりただのガキだった。買ってくれないなら飯なんて食わねーよと決め込んだハンストを一食で断念した。だって朝飯がホットケーキだった、しかもホットプレート出して、好きな形に焼いていいって言うからさ。そりゃ焼いたよ。夏の朝の暑い最中に、姉ちゃんとお玉を取り合いながら焼いたさ。
 欲望に忠実な、駄目な大人の素養はこの頃から既に萌芽していたのかもしれない。まさに三つ子の魂百まで。
 そういうわけだから俺は花火自体にはこれっぽっちも興味ないが、俺よりもずっと若くて、駄目じゃないおりこうな人生を歩んでそうな小坂は、純粋に花火が好きなんだろう。きっと目をきらきらさせて花火に見入っているはずだ。好物の唐揚げを頬張りながら、好きなものだらけで幸せそうにしているはずだ。でもって俺のことも、ちょっと頑張れば、真面目に考えすぎないで軽く捉えてみれば、割とあっさり手に入るくらいの『好きなもの』だって思ってくれたらいい。
 そんなことを思いながら横を見たら、目が合った。
 隣に座っている小坂が、なぜか俺を見上げていた。
 視線がぶつかったのを俺は何でだ、と思った。だって下心はさておき名目としては花火を見に来てるのに。おまけに弁当はお前の好きな肉だ、あそこの弁当屋の唐揚げは結構美味いだろうに、あんまり食が進んでないのが一見してわかった。
 小坂も、まさか目が合うとは思っていなかったらしい。驚きに大きく瞠っている。
「お前、何見てるんだ」
 尋ねてみたらたちまち肩をびくりとさせて、目を逸らし、たどたどしく答えようとする。
「え……えっと、そのっ」
 でも結局答えきれずもじもじし始める。
 ああなるほど、つまりはあれですか。『花火よりも主任に見とれちゃいました』みたいな感じですか。
 馬鹿、それは俺の言うべき台詞だろ。見とれられるのは悪い気しないが、週五で顔を合わせる俺よりも、年に一度かそこらの花火の方が貴重じゃないのか。そういうのはもうちょい後でもいいって。
「花火見ろよ。せっかく屋上まで来たのに」
 お前が好きだって言わなきゃ見に来なかったんだから。俺は下心を隠して、軽く笑っておく。
「あ、飯も食いながらな。ぼうっとしてると帰りが遅くなるぞ」
「はいっ」
 返事だけは最高だった。
 でもその後の小坂は試作段階のロボットみたいに、弁当を食べるのと花火を見るのとを規則的に繰り返すだけだった。くりくりした目は花火を見て輝いたりすることもなく、唐揚げを齧っても嬉しそうにすることもない。愛嬌が売りの横顔はばりばりに緊張していて、カラフルな花火のせいで顔色はよくわからないが、また真っ赤になってるのかもしれない。
 当てが外れたかな、と俺は思う。もっと喜んでもらえると思ったのにな、打ち上がった花火に飛びつきかねない勢いで、尻尾振り回してはしゃぐ小坂が見られるんじゃないかって期待してたのに。
 それとも、小坂なりに今の空気を察してるってことなんだろうか。
 仕事の休憩中じゃ起こり得ないようなことが、今なら起きるかもしれないって、わかってるんだろうか。
 探るつもりでもう一度目をやる。小坂はついに花火を放棄し、食事に躍起になっていた。しかし相変わらず、幸せそうな顔にはなっていない。時間もないし余裕もないけどとりあえず食べなきゃ、ってな感じだ。
 しょうがない奴。
「小坂はぶきっちょだよな」
 先に弁当を食べ終えた俺は、率直に感想を漏らした。
 わかりやすく小坂が俯く。
 だから俺もまた笑って、
「一つのことにしか集中してられないって感じだもんな。花火見ながら食えばいいのに、結局食ってるだけで全然見てない」
 他のことでもそうだ。一生懸命なのはいいが、二つの物事を器用に両立させるのができてない。それでもできてない方を完全に無視していられるのならまだいい、小坂の場合は手のつけられない方まで気にして、見とれて、でも今やってることが終わってないからって足踏みしたまま一向に前に進めてない。
「それとも、気乗りしなかったか?」
 俺が冗談半分で聞いた時、ちょうど空に花火が上がった。
 小坂の俯いたままの頭に赤やピンクや黄色の眩しい光が降る。せっかくお祭り騒ぎみたいにきれいなのに、何で項垂れてんだ。
「真面目だからな、お前。残業中に花火へ誘ったら、とんでもないとか言い出すんじゃないかって思った」
 前に、学生気分じゃいられませんから、なんて言ってたよな。花火見れないって知って結構へこんでたっぽく見えたのに。その無理してる感じを思い出したら一層おかしくて、俺はげらげら笑ってしまった。
 でも小坂は笑いもせず、顔を上げるなり張りのある声で答える。
「ち、ちっともです! 嬉しかったです!」
 本当かな、と駄目な大人の俺はそこで思ってしまう。こいつはとりあえず礼儀として嬉しかった、って言ってるんじゃないかなって。
 本心では嬉しいどころじゃなくて相当困ってたりするんじゃないだろうか。もちろん誘った相手――俺が、小坂にとってつい見とれちゃうレベルには好いてる相手だってことを踏まえた上でそう読んでいる。小坂は俺の誘いがどういう意味合いのものかを、はっきりではないにせよ、もしかするとただの勘だとしても、とにかく薄々察していて、でも真面目な性格ゆえに困っちゃってるんじゃないか。仕事中だから、相手が上司だから、落っこちちゃったらよくないって思ってるんじゃないかって。
 俺は別にいいんだけどな、易々と落ちてきちゃっても。
「そうか、よかった」
 ひとまず口ではそう言っておく。追及しすぎて残業に差し障ったらまずいし。
 それから、
「俺もどうせ花火見るなら、女の子と一緒の方がいい」
 お世辞にもならないようなことを付け足す。
 女の子、じゃなくてお前と、って言えばよかったんだろうが、そこまでは言う気になれなかった。
 何と言うか、苛立つような歯痒いような、複雑で情けない気分になったからだ。

 くしくもさっき、自分で言ったばかりだった。
 小坂は子供じゃない。子供みたいなところはあるが、二十三歳のれっきとした大人だ。
 別にそれはいい。俺もガキを守備範囲に入れられるような趣味はないから、そういう意味では二十三歳って手頃な年齢だと思った。可愛くて素直で真面目で、でも子供ではない。一般常識はしっかり勉強してきてるらしいのに、まだ何にも知らなさそうな感じもする。だから俺も素直にいい子だと思うし、好きだとも思うし、普通に欲情だってする。俺が考える『お付き合い』のレベルをぎりぎりクリアできるくらいの子。
 でも小坂は大人だから、その二十三年間だって空っぽなわけではない。積み重ねてきた経験やら記憶やら思い出やらがあって、初めて小坂藍子って人間として成立してるはずだ。
 いろんなことって言うのは、例えばあれだ。この間教えてもらった高校時代のデートの話とか。小坂はそいつのことを結構本気で好きだったようだし、そいつだって特に親しくもない相手といきなり遊園地には行かないだろうから、多少は脈だってあったのかもしれない。デートが失敗に終わってからはそれっきりだったと小坂は言ったが、そう思ったのだって小坂の方だけだった、のかもしれない。好きな人ができるとすぐばれると言っていたが、それだって好きな人って奴が、ある程度何人かいたから言える話だろう。深読みすればきりがない。小坂が車の運転に慣れてる理由だって、俺はともかく霧島程度なら物怖じせずに話していく態度だって、それから今、花火見てもはしゃがない理由だって、二十三年間を培ってきたいろんなことがそうさせているのかもしれない。
 苛立ちは、どっちかって言うと嫉妬に近い。大人げないが自覚はしておく。全部自分のものになんてできるはずないよなって、さっき気づいたばかりのくせに思う。でもってまた悔しくなる、小坂は一から十まで全部は知らないにしても、一と二くらいまでは知ってんじゃないかな、みたいな。それが駄目ってわけじゃないが、手取り足取り教える気だったからこう、もったいない気分にはなった。
 で、もう一方の感情、歯痒さの方はもっと厄介だ。

 俺がそんなことを考えている間も、小坂はずっと俺を見上げていた。
 それでいてじっとしていた。
 指示でも待っているように身じろぎもせず、でも俺がしばらく何も言わなかったからか、困惑したようなそぶりで瞬きだけを繰り返していた。
 そういう顔を見ると、やっぱり、
「小坂って、動物に例えたら犬だよな」
「はい。……――え? 犬?」
 俺の言葉に小坂は一度頷き、それから声を引っ繰り返らせた。食べ終えていた弁当の蓋を閉じてから改めて聞いてみる。
「言われたことないか? 犬っぽいって」
「ないです。そんなに似てますか?」
 小坂は夢にも思わなかったといった態度だ。まさか。
「似てる。小坂もよく肉を食べてるしな」
 途端、彼女は手元の唐揚げ弁当に視線を落とす。内心が手に取るように想像できた。肉にしなきゃよかったとか思ってんだろうな、でも手遅れだ。
「前から思ってたんだよな。小坂は犬に似てるって。道端で会ってちょっと構ってやったら、尻尾を振りながらじゃれついてきて、結局家までついてくるような犬」
 人懐っこくて無防備なところはそっくりだ。誘えばのこのこついてくるしな、こんな風に。
「主任は、犬を飼っていらっしゃるんですか?」
「いいや。飼ってないし飼ったこともない」
「あ、そうなんですか……」
「でも、お前見てると、犬を飼いたがる奴の気持ちもわかる気がする」
 犬の方がまだ楽かもしれない。小坂には真面目さがある分、ちょっと手強いし、簡単にはいきそうにないところが歯痒い。そんなに真面目じゃなくていいのに。
 でも子供じゃない二十三歳を目の当たりにして、でも俺は思う。
 二十三でこうなら、もう少し経ったらどんな風になってるんだろう。
 皆が『いい子』だと評する小坂に、その人生で学んできたことよりももっと踏み込んだことを教えてやったら、どんな女になるのか。例えば何年か過ぎても何にも変わってないなんてことはないだろうし、今のところ唯一とも言えるハードルの、その真面目さを崩してやることだって月日をかければできるかもしれない。そうやって変わってしまった小坂を見てみたい。ものすごく。
 全部が俺のものにならなくてもいい。
 ただもうちょっとだけでいい、気まぐれでもいいから一度らしくもなく不真面目になって、俺のところにふらっと落ちてくればいい。そうしたら俺は仕事以外にもお前に、いろんなことを教えてやって、お前がだんだん変わっていくのをじっくり眺めていく。何年か後の姿を楽しみにしながら、俺のものになる分だけは独り占めするつもりで。
 小坂は不本意そうな顔をしている。そのくせろくに反論もせず、俺が次に口を開くのを待っている。気に食わないならそう言えばいいのに、言わないのはやっぱり真面目さゆえか、それとも本当は言われたいのか。 
「今の顔、『待て』をしてるように見える」
 駄目押しで言ってやると、小坂は逃げるみたいに目を伏せた。
「そ、そうでしょうか」
 実際逃げたいくらいなんだろう。でもそう容易くは逃げられないこともわかっているはずだ。そうして小坂の表情がぐるぐると変わる。困っているのか怖がっているのかわかりにくい顔の後、どういうわけかきりっと真面目な顔つきに落ち着いた。
 俺にとっては歯痒いばかりの、完全武装の表情だ。参った。笑った。
「可愛いな、お前」
 これは本当に、本心から言った。むしろ気づいたら言ってた。
 可愛いって。今すぐそのぷくぷくした頬っぺたに頬ずりしたいくらい可愛いって。でもって本気で飼ってしまいたい。とりあえず今日から連れ帰りたい。
「あ、あの……」
 ちょうどそこで花火が上がったから、小坂は再び震え上がった。そしてどぎまぎと目を泳がせて、数秒後、おもむろに息を吸い込んだ。
 また真面目な顔になり、
「で、でも私っ、せめて犬以上には仕事が出来るようになりたいですっ!」
「は?」
 何か、訳のわからんことを言い出した。
 え? 犬? 仕事?
 一瞬にして置いてけぼりになる俺に、小坂はあたふたと、しかし重い口調で語る、
「だってその、そういう意味なんですよね? 犬程度の働きしかまだ出来ていないっていう……」
「誰がそんなこと言った?」
「違うんですか?」
「違うだろ。可愛いって言ってるんだぞ」
 なぜか、小坂と話が噛み合わない。仕事の話なんて一っ言も言ってないじゃんよ。
 小坂も互いの認識の差には気づいているらしく、恐る恐る聞き直してくる。
「ですからそれは、犬のように可愛い、ということなんですよね?」
「ああ」
「だから私はてっきり、犬並みの仕事しかしないと思われているのかと……」
 えー何それ。天然なの?
 今まではわかっててボケてるか、あるいは真面目すぎて融通利かないだけかと思ってたけど、実はただの天然なのこの子? 何でそんな解釈になるんだ。て言うか犬って仕事すんのか? 盲導犬とか雪山で救助する犬とかか。いやあれはあれで働き者だろうけど、小坂だって真っ当に仕事してるだろ。と言うかそもそもそういう視点で比較してないし。何と言う段違い平行棒解釈。
「何だそれ! どこをどう捻ったらそういう解釈になるんだよ!」
「何だって言われましても」
 俺が声を上げて笑うのを、小坂は不思議そうに見ている。
「どこがどう、おかしかったんでしょうか?」
 しかも聞かなきゃわかんないと来たか。
 もうこれは懇切丁寧に教えてやるしかないでしょう。真面目さからの勘違いだろうと本物の天然だろうと関係ない。一から十までではないにせよ、手取り足取りでじっくり理解させてやろう。お前の価値観がそっくり変わっちゃうくらいにな。
 でも、今やる答えはこうだ。
「教えてやらない」
「えっ、そんな」
 小坂はがっかりとまでは言いきれない、肩透かしを食らった顔をした。明らかにわかってなさそうだ。
「詳しく説明したら、小坂は仕事が手につかなくなりそうだからな」
「主任っ、あの、訳がわかりません!」
 教えないって言ってんのに食いついてくる。
 でも今教えて、それで仕事が手につくのか。まだ両立なんて考えもつかないくせに。
「残業終わって、家に帰ってからじっくり考えろ」
 俺は命令のつもりで言い渡す。
 考えればいい。どうせ考えたって答えなんて出やしないだろうが、それでもしばらく考え続けて、その間中ずっと俺のことが頭から離れないようになってればいい。今日俺が言ったことと、お前が真面目なりに二十三歳なりに薄々感づいてるお前の知らない世界の気配を、何となく落ち着かない気持ちで心待ちにしてたらいい。
「とりあえず今は仕事優先だ。待っててやるから弁当片せよ」
 そう指示すると、小坂は我に返ってわたわたと唐揚げ弁当の残りを食べ始める。
 結局、花火は全然見てない。そういうとこは俺に倣わなくてもいいのに――もうちょっと違う箇所を真似て欲しいものですよ。
 ひとまずは、その辺りを教えるところから始めようか。
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