Tiny garden

Sugar is sweet, And so are you.

 我が社の創立記念日は三月の半ばにある。
 私にとっては就職して迎える初めての創立記念日だ。考えてみれば当たり前のことなのにそんな日があるは思っていなくて、一ヶ月ほど前に石田主任からお話を聞いた時、それはもうわくわくしてしまった。

「他の会社だと休みってパターンも多いんだがな」
 朝礼前の営業課内でそう語る主任は、私のテンションとは裏腹に悔しそうだった。
「あいにくうちの会社は違う。何十周年とかの節目の年にはホテルの大ホール貸し切って式典やるらしいが、そうでない年は挨拶聞いてジュースと軽食で乾杯して終わり、あとは普通に仕事だ」
「楽しそうですね!」
 私が相槌を打つと逆にびっくりされてしまった。
「楽しいか?」
「絶対楽しいと思います、納会の時みたいで」
 仕事納めの時もそうだったけど、勤務時間中に皆で何か飲んだり食べたりするのってちょっと楽しい。特別な、晴れの日のイベントだからかもしれない。
 学生時代にもやっぱり開校記念日や創立記念日があったけど、その日は普通にお休みだった。それが悪いというわけではないし、正直に言えば私もお休みの方が嬉しいけど、お休みじゃないなら記念日を皆で祝うというのもいいと思う。
「確かにお前、納会の時も楽しそうだったよな」
 主任は腑に落ちたように頷いている。
「楽しかったです。あの時も皆で乾杯して、お寿司も食べました」
「その感想、『美味しかったです』の方が正しいっぽいな」
「そうかもしれません……玉子美味しかったです!」
 優しい主任がお寿司の玉子を私にくださったことも記憶に新しい。あれは美味しかった。私はお寿司のネタなら玉子が一番好きだ。別に通だからじゃなくて、甘くて美味しいから。
「なら喜べ小坂。創立記念日にも何かしら出るぞ」
 私を見ておかしそうに破顔した石田主任は、その後で少し考え込み、
「去年は確かサンドイッチの折り詰めとオードブルだったか、霧島」
 傍にいた霧島さんに水を向けた。
「そうです。一昨年もサンドイッチでしたよね」
「何年か前は寿司折りだったこともあったよな」
「ありましたけど、担当者が変わってケータリング先も変わったんですよ」
「……というわけだから毎年微妙に違うんだよ。何にせよ昼飯浮くくらいは貰える」
 そこで私に向き直った主任が、テーマパークのキャストみたいないい笑顔で言った。
「だからお前の楽しみは保証済みだ。わくわくして当日を待ってろよ」
「はいっ」
 私も嬉しい気持ちで返事をする
 学生時代から学園祭や体育祭といった晴れの日にはわくわくして、前の日から眠れなくなるような子だった。それも模擬店や屋台や打ち上げの焼肉なんかが楽しみだった、と言えばそうかもしれないけど、あの頃に似た気持ちを社会人になっても味わえるなんて思ってもみなかったから嬉しい。
「小坂さんはそういうとこ、前向きでいいですね」
 どこか懐かしむように、霧島さんがしみじみと言った。
「俺も新人時代を思い出します。こんな気持ちの頃があったなって」
 すると石田主任が口を挟んで、
「霧島にこんな可愛い時代なんて一日でもあったか? 俺の記憶にはないぞ」
「先輩に幻滅する前の俺はもう少し素直でしたよ」
「俺のどこに幻滅される要素があるんだよ。理想の先輩、理想の上司だろ」
「自分で言ってて恥ずかしくなりませんか、それ」
 霧島さんは溜息をついていたけど、主任はちっとも恥ずかしそうではなかった。むしろ堂々としていて素敵だった。会話の途中で『可愛い』なんて言われた私の方がよほど恥ずかしがっていたかもしれない。
 もちろん私としては理想の上司だと思ってます。もうじきルーキーイヤーも終わるけど、その気持ちに変わりはありません。

 ともあれ私は創立記念の日をすごくすごく楽しみに、心待ちにしていたんだけど――。
 好事魔多しとでも言うんだろうか。その日、予期せぬ事態が起きた。

「お客様に、朝一で来てくれって言われまして……」
 出勤してすぐ、私は朝礼前の営業課であたふたと支度を始めていた。
 先に出勤していた石田主任が、気遣う表情で私を見ている。
「クレームか?」
「はい、機械の不調らしいんです。修理が必要な案件かはまだわかりません」
 社用携帯が鳴ったのはまさに出勤中のことだった。我が社でリースしている機器の調子が芳しくないらしく、朝一で見に来て欲しいという客先からの要請だった。私は営業だから機器類の修理ができるわけではないけど、どこがどんなふうに不調なのかを調べて適切な部署に連絡するなり、操作方法に誤りがあればそれをご説明するなり、とにかく修理に出すより先にすべきことがあるのだった。実を言えばこういうケースで本当に修理が必要だったパターンはそう多くない。
 ただ、今日は待ちに待った創立記念日だった。営業課の皆で乾杯して創立記念を祝おうとわくわくしていた私は、正直に言うとちょっと気が重かった。
「そういうわけで、本日は朝礼前に外出してもよろしいでしょうか」
 荷物をまとめてから主任にお伺いを立てると、溜息まじりの答えが返ってきた。
「仕方ないな。課長が出勤してきたら俺から話しとく」
「ありがとうございます」
「戻りは何時になる?」
「状況にもよりますけど、午前中に戻れるかどうか……ちょっと遠方なんです」
 件の取引先は隣の市にあり、今から車を飛ばせばどうにか間に合う距離だった。さすがに時間厳守とは言われなかったものの、なるべく早くお越しいただきたいですと困り声で言われればこちらも『急ぎます!』としか答えられなかった。
 つまるところ私は創立記念日のお祝いに参加できないということになる。
「気をつけていけよ、焦らず安全運転でな」
 主任は私を慰めるみたいに笑うと、肩を叩いてくれた。
「あと、心配すんな。お前の分のジュースその他はちゃんと取っといてやる」
 主任はご存知なんだろう。私がいかに今日の創立記念日を楽しみにしていたか。仕事だから仕方がないとは言え、こうして乾杯に参加できないことを残念に思っていることも。
 現金なものだけど、主任が知っていてくれているというだけで頑張れそうな気になってくる。
「ありがとうございます、主任!」
 感激のあまり、さっきよりも大声のお礼になった。
 だからだろうか、石田主任は吊り上がった目を大きく見開いて、
「お、おう。まあな」
 数秒間遅れてからにやりと笑った。
「頑張って腹空かして戻ってこい、ご褒美が待ってるぞ」
「はいっ、頑張ります!」
 さすが主任だけあって、私のやる気を存分に高めてくれる人だ。私は意気揚々と営業課を飛び出し、社用車で客先へと向かった。

 予想していた通り、今回の案件は修理に出す必要はない程度のものだった。
 操作マニュアルと首っ引きでお客様に応対した後、機器の使用法についてどうにかご納得いただき、先方を発ったのは正午過ぎ。そこから真っ直ぐ帰社したものの、途中何度か別件の電話が入り、その度に車を停めて対応した。結局会社に戻ったのは午後一時半を過ぎた頃だった。
「お疲れ、小坂。どうだった?」
 営業課で出迎えてくれた石田主任は、開口一番心配そうに尋ねてきた。
「クレームにはなりませんでした。マニュアルだけで十分対応できましたし」
「そうか、そりゃよかった。昼飯は食ってきてないよな?」
 次の質問に、お腹ぺこぺこの私はかぶりつきで答える。
「食べてきませんでした!」
「よしよし。用意してあるから、早速休憩入るぞ」
 言うなり主任は課に備えつけてある冷蔵庫から大きなビニール袋を取り出した。そして私についてくるよう手招きしたかと思うと、先に営業課を出ていく。
 私は一瞬呆気に取られたけど、すぐに後を追った。
「あの、どちらへ行かれるんですか?」
 背中に尋ねると、主任は歩きながら振り返ってくれた。
「どうすっかな、無難に社食でいいか。今日は人少ないだろうし」
「そうなんですか?」
「ああ、創立記念日は休みなんだよ。軽食出るしな」
 手にしていたビニール袋を軽く揺すると、中に入った細いスチール缶が二本、それに折り詰めと思しき箱がいくつか透けて見えた。
 もしかしたら主任も召し上がっていないんだろうか。社員食堂まで階段を上がりながら、私は白いシャツを着た主任の広い背中をじっと見つめた。ぱりっとしたシャツ越しには肩甲骨の形はわかりにくい。でも重そうなビニール袋を下げた方の手が階段を上がる動きと共に揺れた時、その形が背中に浮かび上がってどきっとする。
 主任がどうして食べていないのか、なんて聞くまでもないことだ。今の私にはそれがわかるようになった。でも今になっても、それをどう受け止めていいのか、戸惑いがあった。
 嬉しさと申し訳なさがごちゃ混ぜになって、いても立ってもいられなくなる。

 主任の言葉通り、社員食堂にはほとんど利用者がいなかった。ひっそり静まり返っている。
「その辺、適当に座れ」
 空いているテーブルを指し示して主任が言う。
 私が椅子を引いて腰を下ろすと、主任は私の前にビニール袋を置き、中身を取り出した。ストレートの紅茶と緑茶の缶が一本ずつ、折り詰めのサンドイッチが二箱。それともう一つ、ケーキ屋さんで貰えるような持ち手のついた小さな箱が現れた。
「まず乾杯からな。小坂、どっちがいい?」
「私が選んでいいんですか?」
「俺はどっちでもいいからな。好きな方にしろ」
「じゃあ……」
 私が紅茶を選ぶと、主任は私の隣の椅子を引いてそこに座った。そして緑茶の缶を手元に引き寄せ、人差し指をプルタブに引っかけて一気に空ける。
 同じように私も紅茶のプルタブを開ける。すかさず主任が缶を掲げて、一歩遅れた私の缶に軽くぶつけてきた。スチール缶同士、こつんといい音がした。
「乾杯。朝から大変だったな、小坂」
 目を細めて、主任が優しくそう言ってくれた。
「は、はい。ありがとうございます」
 慌てて頭を下げつつ、創立記念のお祝いなのに私が労ってもらってるなと思う。嬉しかったけど。
「私を待っててくださったんですよね? お腹空いてないですか?」
 私が尋ねると、石田主任は途端にいたずらっ子みたいな笑い方をした。
「空いた空いた。でも小坂と乾杯したかったからな、我慢した」
「わあ……何かすみません」
 お腹を空かせたままでいるのは絶対辛いだろうに、待っててくれたんだ。申し訳なさと、じわじわ込み上げてくる嬉しさに、私はちょっとどぎまぎしていた。
「本当は皆も、お前を『待とうか』って言ってたんだよ」
 サンドイッチの折り詰めを私に差し出しながら、主任は続ける。
「でも外回り多いうちの課じゃ、足並み揃えんの難しいだろ。お前ほど早くなくても客先回る予定の人間も何人かいたしな。それで惜しくも断念して、乾杯は済まさせてもらったんだがな」
 皆での乾杯、どんな感じだったんだろう。居合わせたかったけど、まだ来年があるからいいか。
 今年は隣に主任がいる。それだけでもすごく嬉しい。
「ただ、俺くらいは待っててやるかと思ったんだよ。お前が一人でジュース開けてサンドイッチ食ってんの、想像すると何かこう、切なくてな」
 主任はそう語った後、ちょっと得意げに、
「ま、これも主任の役得ってやつだ」
 と付け足した。
 役得というならむしろ私の方だけどな。皆とはできなかったけど、主任とだけでも乾杯できてよかった。サンドイッチは一人で食べても美味しかったかもしれない、でも誰かと一緒の方がもっと美味しくなる。それが石田主任となら言うことなしだ。
「ありがとうございます。何てお礼を言っていいか……」
 サンドイッチを受け取った私が感謝を述べようとすると、主任は片手を挙げてそれを制した。
「腹減ってんだろ、まず食べてからにしようぜ」
「あっ、じゃあそうします。実はお腹ぺこぺこだったんです」
「見りゃわかる」
 どうしてわかるんだろう。その点は疑問だったけど、本当にお腹が空いていたのでさて置くことにした。サンドイッチはポピュラーなハムサンドとポテサラサンド、それにツナサンドの三種類。パーティなどで食べやすいようにか小さく四角く切ってある。蓋を開けただけでパンのいい香りが漂ってきて、私は早速ポテサラサンドを手に取った。
 すると、
「ああそうだ、これも渡しとかないとな」
 主任が私の目の前に、小さなケーキの箱を置いた。
「……これも、軽食ですか?」
「開けてみな」
 私の問いに、短い答えが返ってくる。
 それで私はサンドイッチを一旦置き、ケーキの箱に手をかける。箱上部の合わせ目には賞味期限を記したシールが貼られていて、今日購入されたものだとわかった。
 中からは、ふわっとバニラの香り漂うシュークリームが現れた。ごつごつした生地の上に真っ白い粉糖を振りかけたシュークリームが二つ、入っていた。見るからに美味しそうだった。
「こ……こんなものまでいただけるんですか!?」
 まさかの洋菓子に、俄然テンションが上がってしまう。思わずうろたえる私を、主任は満足そうな面持ちで見ている。
「それは俺からのご褒美だ」
「え!? じゃあこれって、主任が……」
「たまたま外出の用があったからな。どうせ飲み物も買い足さなきゃならなかったし」
 こつんと緑茶の缶を爪で弾いて、目の前の人は笑っている。何でもないことみたいに、軽い口調で言う。
 そういえばさっき、『乾杯は済まさせてもらった』と言っていたっけ。主任はご自分のジュースを先に飲んでしまって、今飲んでいる分は私と乾杯する為にわざわざ買ってきてくれたんだ。シュークリームと一緒に。
「こ、こんなにしてもらうとその……本当に何て言っていいのか、わからないです」
 言葉に詰まってしまったのは、嬉しかったからだ。
 嬉しい、なんて言葉じゃ到底表しきれないくらい幸せだった。目の前にいるこの人はもちろん理想の上司でもあったけど、それ以上に理想の人、だった。この人と両想いで、お付き合いしてるんだってことが本当にすごく幸せで、どうしたらいいかわからないくらいだった。
「霧島にはしっかり『贔屓ですね』って言われたよ」
 肩を竦めて主任が言う。
「でも彼女が部下で、しかも仕事で大変な思いしたって日にはそりゃ贔屓もするだろうってな」
 そう、なのかな。そういうものなのかな。私も『申し訳ない』なんて思う必要はこれっぽっちもなくて、『頑張ってよかった』って思っていいのかもしれない。
 だって石田主任は、私の頑張りをちゃんと見ていてくれる。
「だったらやっぱり、私もすっごく役得ですね」 
 言いながら私は真面目な顔を作ろうとしたけど、どうしても口元がほどけてしまって無理だった。結局、笑いながら告げた。
「ありがとうございます、主任!」
 石田主任はびっくりしたのか、その時、吊り上がった目を大きく見開いた。
 それから珍しくあたふたと、照れ笑いを浮かべてみせた。
「あ……いや、まあ、何だ、他でもないお前の為だからな」
「嬉しいです、とっても! 二つあるので、是非一緒に食べましょう!」
「いいのか? 腹減ってんだろ、お前」
 一度は遠慮されたけど、是非にと薦めたら主任もやがて頷いてくれた。私達は一緒にサンドイッチを食べ、そしてデザートにシュークリームを食べることにした。
「そうだ、言い忘れてたがな」
 粉糖を振りかけたシュークリームを手に取って、主任がふと切り出す。
「こいつはホワイトデーのお返しとは違うからな。そっちはそっちで、後で渡す」
「え……」
 言葉に詰まったのは、先月、バレンタインデーの出来事を思い出してしまったからだった。
 でもそれは主任も同じだったみたいだ。照れのせいで込み上げてくる笑みを上手く噛み殺せず、困ったように笑いながら語を継ぐ。
「今していい話じゃなかったな、仕事が手につかなくなる。今日は早く帰るぞ、小坂」
「は、はいっ」
 思わず即答してしまった私は、やっぱりどぎまぎしながらシュークリームにかじりつく。
 主任が私の為に買ってきてくれたシュークリームは、とてもとても甘かった。
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