Tiny garden

ウィークポイント

「主任、コピー用紙取りに倉庫行きますけど、他に持ってくるものありますか?」
 小坂に声をかけられ、俺は仕事の手を止め顔を上げた。
 どことなく空気が澱んだ夜の営業課で、小坂の笑顔はまさに太陽の如く輝いている。その眩しさに比喩でもなく目を細めながら俺は答えた。
「いや、特にない。コピー用紙もう切れたのか?」
「切れてました。繁忙期だからか消費量がすごくて……」
 確か先月のうちに倉庫から運び出して補充を済ませたはずだった。しかし小坂の言う通り先月そして今月は半端なく忙しく、その分消耗品の出入りも激しくなっていた。なくなったら手の空いている奴が備品倉庫から補充、というのがうちの課のルールで、今は小坂が行ってきてくれるようだ。
「一人で大丈夫か? 手が足りないなら俺も、霧島もいるぞ」
 営業課には彼女と俺の他に、霧島も居残っていた。それ以外にもまだ外回りから戻ってきていない課員がちらほらおり、午後七時過ぎの営業課はまだ電気が消える見通しもない。
 名前を呼ばれて霧島も顔を上げかけたが、小坂は素早くかぶりを振った。
「いえっ、台車持っていくので一人で大丈夫です。では行って参ります!」
「わかった。気をつけてな」
 行き先は同じ階にある備品倉庫、気をつけるも何もあったもんじゃないのだが、小坂にはそう言ってやらずにいられない。いや社内にだってどんな危険が潜んでいるとも限らないから気をつけるに越したことはない。誰かがバケツの水を零して滑りやすくなっているかもしれないし、備品倉庫の中は冷房がなく蒸し暑いから熱中症にかかってしまうかもしれない。備品はどれも重いから小坂の可愛い足の上に落としたりしないか心配になるし、古い台車の車輪が上手く回らなくて壁に突っ込んだりしたら――と心配の種を挙げればきりがないほどだ。しかしここで俺がついていくと過保護だ何だと皆に冷やかされてしまうし、小坂だってもうぴよぴよ可愛いルーキーではない。彼女が一人で行くと言ったらそれを温かく送り出してやることこそ上司の務めである。思いきり甘やかすのは俺が小坂に何をしようと誰に見咎められることもない休日限定でいい。
 こんな時刻でも軽い足取りで営業課を出ていく彼女を、俺は上司らしい温かい目で見送った。
「いちいち目で追いますよね、先輩」
 ドアが閉まるや否や、霧島がぼそりと呟いた。
 俺は先程までの温かい目をオフにして、霧島をきつく睨みつける。
「いちいち見てんなよなあ、お前も」
「見てるんじゃないです、目に入っちゃうんです」
「嘘だろ、実は俺のことが気になって気になってしょうがないんじゃねーの」
「……気色悪いんで冗談でもやめてください」
 霧島はわざわざ身震いまでしやがる。
 とは言え俺も自分で、本当だったら気色悪いなと思っていたところだ。素直にやめておく。
「気になってしょうがないって言えばですけど」
「ん? 何だよ」
 ふと霧島が思い出したように口を開き、俺は仕事に戻りながら聞き返す。
 すると奴が軽く笑うのが聞こえた。
「先輩は知ってます? 今年もどなたかが我が社の屋上で花火を見たようですよ」
「初耳だよ。誰と誰だ?」
「そこまではさすがに……と言うか、お二人連れで見たとも限らないんじゃないですか」
 我が社の屋上から花火大会の花火が見えることは、俺も小坂もよく知っていることだ。何せ去年、この目で実際に見てきたんだからな。
 うちの社屋の隣に同じ高さのビルが立ち、営業課の窓から花火が見えなくなってから早四年。俺以外にも屋上の可能性に気づく奴くらいはいるだろう。いい眺めだったし、今年やったっていう奴らもさぞかし花火を楽しめたはずだ。
 俺も去年のことはよく覚えてる。花火はもちろんきれいだった。でもどっちかって言うと小坂のことばかり鮮明に覚えてるな。花火の光に照らされて俯きながら弁当食ってるあの姿。犬みたいだって言われて目を丸くしていたあの顔も。俺には小坂限定の録画とエンドレス再生機能がついているのでいつでも何度でも彼女の名場面を思い返すことができるのだ。うっかり勤務中に思い返してまずいことになったりもするのはご愛嬌。
 さておき、今年はいったい誰が花火を見たのやら。
「学生時代ならともかく、いい歳したおっさんどもが連れ立って花火見物ってのもないだろ。まして会社で」
 俺が反論すると、霧島はもっともらしい顔をしてみせる。
「おっさんはないでしょうけど、女性の方々ならありそうですよ。皆できゃーきゃー言いながらとか」
「あー……まあ、なくはないか。けどそんだけ大勢で屋上上がれば、誰が見たのかわかるだろ」
「そうでもありますね。と言うか、花火見た人がいるっていうのも俺の推測なんですけど」
 そこで霧島はひょいと首を竦める。
「花火大会の日にエレベーターがRのところで停まってたんです。だからそうかなと」
「何だ、はっきり見たわけじゃねえのか」
「はい。石田先輩なら何か知ってるんじゃないかって話を振ってみただけです」
 みただけですと言う割に、霧島はその相手のことが気になって仕方がないようだった。むしろある程度心当たりがあるか何かで俺に確かめようとしていたのかもしれない。
 俺も心当たりがあるわけではないが、去年俺と小坂が花火を見たことは営業課の連中なら誰もが知っていた。何だか知らないがいつのまにか知れ渡っていた。ただ他の課にまでその噂が及んだかどうかは定かではない。俺達が花火を見たことを知った誰かが『じゃあ今年は俺が』と行動に移したという可能性もなくはないわけだが、そうなるとまず身近なところから疑うのが筋だ。
「うちの課の誰かかな」
 ぼそっと口にしてみたら、霧島もそれは既に考えていたようだ。
「かな、とも思ったんですけどね。あの日、花火上がった時って皆揃ってましたっけ」
「いた気がするな、そう言や。繁忙期だしな」
「じゃあ営業課の人間ではないですよね。あと考えられるのは――」
「人事課長とかか?」
 他に思いつくあてもない。去年俺があいつに屋上のことを尋ねたから、花火が見えることは当然知っているだろう。俺の推測に、霧島も笑った。
「一番あり得そうじゃないですか。安井先輩、そういうことやりそう」
「やりそうだよな。でもって花火見ながらめちゃくちゃベタな口説き方してそうだ」
「いるんですかね、安井先輩にそういう相手。最近怪しいなと思ってるんですけど」
「どうだかなあ……あいつは常に怪しいっちゃ怪しいからな」
 その点については心当たりがゼロではないが、まだ確定事項とも言えない。
 俺が最近あった出来事を何となく振り返っていると、廊下をハイペースの足音と台車を引きずる音が戻ってきた。小坂だな、と思って戸口を見れば、妙に忙しないノックの後でドアが開き、小坂が顔を覗かせた。
 なぜか顔面蒼白だった。
「あっ、あの、主任。ちょっとよろしいですか……」
 ただごとではないとすぐに察した。俺は急いで席を立つ。
 返事もせずに営業課内を突っ切って戸口へ向かうと、途中で霧島が心配そうに振り返るのが見えた。小坂は俺を待つようにドアを開け、俺が廊下へ出るとドアを閉めた。霧島には聞かせたくない話なのかもしれない。
 何だ。何があった。まさか本当に危ない目にでも遭ったのか。背筋を駆け上るような悪寒を覚えながら俺は尋ねた。
「どうした小坂。何があった?」
「じ、実は……」
 小坂の声は震えていた。何かとても恐ろしいものを見た後のように血の気が引いた顔で、瞳を潤ませながら俺を見上げている。
 一呼吸置いてから彼女は声を潜め、怪談でも語り出しそうなトーンで言った。
「クモが、いたんです」
「……クモ?」
 俺が聞き返すと小坂はぶんぶんと激しく頷き、
「はい、こんなに大きいのが! 備品倉庫に!」
 取り乱した様子で可愛い両手を肩幅の大きさまで広げた。
 さすがにそれはでかすぎだろ。日本にいるのか、そんなサイズが。
「でかいな」
 俺が突っ込むと、小坂はぷるぷる震えながら言い直す。
「あっ、もしかしたら……このくらいの大きさだったかもしれないですけどっ」
 さっきの半分くらいまで手の幅を狭めてみせたが、それでもまだでかいと思う。
 しかし逃がした魚は大きいじゃないが、冷静じゃない時に見たものが正しい姿形で記憶中枢に刻み込まれるとも限らない。今の小坂は恐怖のあまり、見たものを正確に記憶できなくなっている可能性がある。
「何だよお前、虫苦手なのか」
「と、得意じゃないです。ちっちゃいのならまだ平気ですけど、大きいのはできればお会いしたくないです」
 俺の問いに小坂は深刻な顔で頷く。こりゃ倉庫戻れそうにないなと、俺はすぐさま申し出た。
「どれ、俺が見つけて追い払ってやるよ」
 そうして欲しくて戻ってきたんだろうに、小坂はそこで申し訳なさそうに俯いた。
「すみません主任、お忙しいのに……あの、私、本当に怖くて、逃げてきちゃって……」
 そんなに駄目なのか。
 まあ虫が好きです平気ですって女性の方が珍しいのかもしれんが、何だかんだマイペースで前向きな小坂にそこまで苦手なものがあるとは思わなかった。そういうことなら助けてやらなければなるまい。
「気にすんなって。コピー用紙は皆使うもんだし、もともと俺も手伝うつもりでいたし」
 俺は営業課内で気を揉んでいる霧島に『ちょっと倉庫行ってくる』とだけ告げて、彼女が押してきた台車をごろごろ言わせながら倉庫へ向かう。
「それに部下が助け求めてんのに放っとけないだろ、上司として」
 ついでに格好いい台詞でアピールしたら、後をついてくる小坂がぎこちなく笑った。
「あ、ありがとうございます……」
 相変わらず顔色が悪い。
「お前、怖いんだったら先戻っててもいいぞ。見たくないんだろ?」
「い、いえっ! 元は私の仕事ですし、主任に嫌な仕事任せて逃げ帰るのもどうかと思うので!」
 口ではそう言いつつも腰が引けている。無理しているのが丸わかりの態度である。
 ここは俺が華麗に、小坂の視界に入らないようクモにご退去いただかねばなるまい。

 備品倉庫のドアを開け、中の照明を全て点ける。
 少し埃っぽい倉庫内をざっと見回したが、それらしい姿は見当たらなかった。目を凝らしてみてもあるのは棚に収められた各種備品や段ボール箱、それにたまに使うような什器類などだ。勤務中の疲れた目に、俺達以外に動き回るものの姿は映らなかった。物音だってしない。
「小坂、奴はどの辺にいた?」
 聞きながら振り向くと、小坂は倉庫の中を見ないようにしながら震える指で指し示す。
「あの、OHPの辺りに、床の上を歩いてて……」
 灰色のカバーをかけられたOHPはそろそろお役御免かと言われている年代物だが、そちらを見てみてもそれらしいものは見当たらない。これだけごみごみと物が置かれている空間だ、物陰や棚の下なんかに逃げ込まれたらすぐに目標ロストだろう。
 埒が明かないので、俺は小坂を倉庫の外に待たせるとドアを閉め、単身倉庫を見て回ることにした。倉庫に備えつけの充電式懐中電灯を引き抜き、棚やら段ボールやらの陰と隙間をくまなく検分する。冷房のない倉庫は蒸し暑くて自然と汗が滲み出てきた。だが念入りな捜査にもかかわらず、結局奴の姿を見つけることはできなかった。五分粘っても駄目で、さすがにしんどくなってきたのでやむなく俺は奴を追うのを諦めた。
「駄目だ、見当たらない。どっかに逃げたのかもな」
 俺がそう告げると小坂は絶望的な顔をしたが、持ち前の責任感だけで気持ちを奮い立たせたのだろう。深く頷いた。
「わ……わかりました。じゃあ私、用紙取ってきます」
「無理すんな。俺が取ってきてやるから、お前はここでドア開けて待ってろよ」
「大丈夫です。……もし一緒に来ていただけたら嬉しいです、けど」
「任せろ!」
 こそっと言い添えられた言葉にまんまと釣られた俺は、意気揚々と台車を押して、再びむっとする暑さの倉庫内へと突入した。小坂も俺の後ろにぴったりついてきた。
「い、いませんね」
 落ち着きなく辺りをきょろきょろする小坂が可愛い。お化け屋敷に入った子みたいに恐る恐る周囲を見回しては、もうちょいで背中に抱き着かれるんじゃないかって近さで俺の後ろを歩いている。時々息を呑むのが聞こえて、本当に怖いんだろうなとわかる。
 小坂には悪いが、俺は世に溢れる数多のホラー映画に美女のヒロインが欠かせない理由がわかった気がする。確かに可愛い。怖いものに怯えてびくびくしながら俺にひっついてくる小坂が可愛い。もちろん怖い目に遭わせたいわけではないが、こうして彼女の盾になるように倉庫の中を進んでいると、俺は俺で映画の中のヒーローになったような気分になるから妙なものだ。
「何か出てきたら俺がちゃんと守ってやるよ」
 思わずそれっぽい台詞も口をついて出る。
「もし怖いんだったらほら、俺の袖でも掴んでろ」
 そう告げると小坂は俺のシャツの袖をちょこんと掴み、かすれた声でこう言った。
「すみません、主任。でも……ありがとうございます」
 可愛い子に頼られるって素晴らしいな!
 何だかんだ俺も男ですのでこういうシチュエーションはやはり堪らんです。しかしながら現在は勤務中であり、営業課には仕事の山が俺の帰りを待っており、そしてこの倉庫にはもしかしたら逃亡中のあいつが身を潜めているかもしれないのだ。シチュエーションに浸るあまりいい雰囲気になったりしてはいけない。涙を呑んで、そういうのは休みの日にしよう。
 幸いにしてコピー用紙を台車に積み込み、そして管理台帳に記入する間、不埒な輩が俺達の間に割り込んでくるということはなかった。
 俺達は滞りなく作業を終え、倉庫の明かりを消して廊下へ戻ると、そこでようやく小坂が深々と息をついた。
「はあ……。いなかったですね、よかったです」
「だな。もしかしたらどっか安全なところへ逃げたのかもしれん」
「だといいんですけど。向こうだって私には見つかりたくなかったでしょうし」
「そのうち手が空いたら倉庫の中探してみるか。霧島にでも声かけて」
 お前の奥さんが遭遇する可能性だってあるんだぞ、などと一席ぶてばあの愛妻家はあっさり手伝いに来そうな気がする。しかし霧島はそれでいいが、安井はどうだろうな。あいつを釣るネタはまだ掴みかねてる。まあ安井なら、可愛い女子社員達の為にって名目だけで乗ってくるかもしれないが。
 もっとも小坂の恐怖心がやたら大きく見せただけで、本当はすごく小さいやつでしかなく、俺達には探し当てられないという可能性もなくはない。それならそれで平和でいいか。
「主任、本当にありがとうございました。私、あんなに大きいのはさすがに怖くて」
 営業課へ戻る道すがら、小坂はよせばいいのにまた思い出しては肩をぶるっと震わせた。弱点なんて誰にでもあるものだ。彼女だってそうだろう。
 だがその後で小坂は台車を押す俺を見て、ふと嬉しそうに笑った。
「もしかしたら主任が来てくれたから、逃げていってくれたのかもしれないです」
「かもな。俺に恐れをなしたんだろ、きっと」
「はいっ。先程の主任、勇敢でとても格好よかったですから」
 屈託のない口調で投げ込まれた言葉に、俺は多分、目を見開いたと思う。
 すると小坂はちょっと照れたように、
「も、もちろん主任はいつも素敵ですけど……でも、あの、さっきは特別格好よかったって言うか……」
 言えば言うほど自分で恥ずかしくなっていくのか、終わりの方は顔を真っ赤にしながら告げられた。
「何かすごく守ってもらえた感じがして……あ、ありがとうございましたっ。嬉しかったです!」
 そんな台詞、心臓撃ち抜かれるに決まってる。
 なんてこと言うんですか藍子ちゃん。そんな言葉を勤務中に聞かされた俺にどうしろと。だからそれは休みの日に言おうぜ。じゃないとほら、顔が緩んでにやにやしちゃうだろ。勤務中なのに。
 その時ちょうど俺達は営業課に辿り着き、小坂がドアを開けてくれたので、俺はコピー用紙を載せた台車ごと中へ入っていく。
「先輩、小坂さん。お帰りなさ――」
 たった一人で留守を守っていた霧島が顔を上げるなり、言葉を止めて眉を顰めた。
「何にやにやしてんですか、先輩。小坂さんと二人きりだったからって何やってんですか」
「何もやってねえよ。つかお前はいちいち見んなっつってんだ」
「見えるんですよどうしても! 小坂さんも赤くなってますし!」
「見てやるなよかわいそうだろ。本当に何にもしてねえからな」
 霧島がうるさいせいで小坂はいよいよ真っ赤になってしまって、黙々とコピー用紙を棚にしまい込んでいる。
 そして俺は口元が緩むのをどうにも止められず、霧島がうるさいのでしばらく手で隠していなければならないほどだった。

 弱点なんて誰にでもあるものだが、俺の場合は言うまでもなく小坂だ。
 去年の花火の時にも作動していた小坂限定録画機能、そしてエンドレス再生機能は本日も絶好調だ。これでしばらくは何があっても乗り越えられる。さっきの言葉があれば、この繁忙期もにやにやでれでれしながらいい気分で突破できることだろう。
 俺の弱点が小坂のそれと違うのは、俺はそいつをエネルギーにもできるって点だろう。むしろどんどん弱点を突かれたい。心臓撃ち抜かれ続けたいと思ってる。
 だから小坂。時々は今日みたいに、俺にお前を守らせてくれ。
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