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残業時夜食列伝(1)

 営業の仕事をしていると、私は八方美人なんじゃないかって思うことがある。
 いくら顧客が相手でもできないことはできない、駄目なものは駄目だと言わなければならない。先方の言いなりになっているようではそのうちこっちが潰れてしまう、と石田主任にも忠告されたことがあるし、私もその通りだとは思っている。主任の言うことに間違いはないからだ。
 ただ、できないというほどでもなく駄目というわけでもない、要は『ちょっと無理して頑張ればどうにかなりそうな』案件はついつい呑んでしまうのが私だ。この仕事も二年目だけど、まだ頑張ればできることと無理をしなければできないことの違いがわかっていない。

 今回のお客様は定時前ぎりぎりの時間に注文の電話をかけてきた。その上で、今日発注でなるべく早めの納品をと言われた。
「これから見積もり出して発注となると、本日分としてお受けできるかどうか微妙なところなのですが……」
 営業課内で電話を受けた私がそう答えると、取引先の担当の方は食い下がってきた。
『そこをなんとかお願いできませんか。前回と同じ注文内容なんですから、デザインも見積もりもそのままで通りますし』
 顔を合わせなくてもわかるくらい焦った声をしている。かなり急いでいるみたいだった。
 大切なお客様の力になりたいとは思うけど、こちらにだって都合というものがある。発注と納品は私の仕事だけど、商品を作ってくれるのは製造部の皆さんだ。定時前ぎりぎりに連絡をして受注してもらえるかどうか微妙なところだった。
『期日に間に合わないとうちの在庫が切れちゃうんですよ。そうなったらうちは販売できないんですから』
 先方は市内にある老舗の和菓子店で、我が社からは新作菓子の個包装袋とシールを納品している。その新作菓子の売れ行きが予想外に好調で、在庫が切れかけていることに気づけなかったのだそうだ。営業に行ったついでにごちそうになった件のお菓子は確かに美味しかったし、売れ行きがいいのも頷けた。
「今から担当部署に問い合わせます。なるべく努力はいたしますが……」
『どうにかお願いしますよ、小坂さん。こっちは死活問題なんです』
 私が予防線を張ろうとするのを素早く制し、釘を刺された。
 せめてもう少し早めに在庫に気づいて、連絡をくれていたらなあ。私は壁掛け時計で現在の時刻を確認し、押し問答を続けている猶予もないと判断した。すぐに告げた。
「なるべく、最大限の努力をいたします。確認の上でこちらから折り返しご連絡差し上げるということでよろしいでしょうか?」
 電話片手に、見えもしないのに私はぺこぺこ頭を下げる。
 その声が聞こえていたんだろう。営業課に居合わせた石田主任がちらりとこっちを見たのがわかって――あとで叱られるかもしれないな、と私は思う。

 何にせよ、請け負ったからには責任を持って取り組まなければならない。
 私は前回使用した見積書のデータを呼び出しながら、製造部に連絡を取った。これこれこういう事情で、先方はとても困っていて、急いでいらっしゃるようなので……と言い添えたら、製造部の担当者も大急ぎで対応してくれるとのことだった。とは言え無理を通してしまったのは事実だし、あとでお詫びをしなくてはいけないと思う。
 そして見積書を何点か書き換えた後は折り返しお客様に電話をかけ、何とか対応できますと告げた。先方には大変喜ばれ、助かりましたと繰り返し言われたので、お役に立てそうで本当によかったと思う。電話を切った後は見積書を送信し、向こうから発注書が返ってくるのを待つ。返ってきたらその内容を検めた後、今度は注文請書を作成しなくてはならない。
 この時点で私は一旦席を外し、家に電話をかけた。
「お母さん、今日は遅くなるから晩ご飯要らないと思う」
 電話に出たお母さんは少し驚いたように聞き返してきた。
『何時くらい?』
「わかんない。もしかしたら日付変わる頃までかかるかも」
 私も今回の件だけを担当しているわけじゃなく、今日もまだまだ他の仕事があった。急ぎでないものを後回しにしても、後に回した仕事が消えてなくなるわけじゃないから、この件が一段落したら今度はそっちを片づけなくてはならない。
 八方美人なんじゃないかって思うのはこういう時だ。できもしないことを引き受けたとは思っていないけど、既に結構キャパシティぎりぎりなんじゃないかって自覚はある。頑張れば何とかなると思う一方で、私は頑張っているんじゃなくて、単に無理をしているだけなんじゃないか――そんな考えが頭をもたげることもあった。
『そんなに残ってたら電車がなくなるでしょう。石田主任もご一緒なの?』
 お母さんが脈絡なく主任の名前を出したので私は慌てた。別に変な意味で出されたわけではないけど、それでもだ。
「う、ううん、まさか。主任だってそこまで遅くは残られないと思う」
『じゃあ何で帰ってくるの?』
「できれば電車のあるうちに帰りたいけど、もしなくなったらタクシーかな」
『あら。タクシーでご帰宅なんて芸能人みたいね』
 お母さんは私を元気づけようとしているのか、少し明るい声でおどけてみせた。
『あまり無理はしないようにね、藍子。お父さんには心配しないように言い聞かせておくから』
「うん、ありがとう」
 私はお母さんにお礼を言って、電話を切った。
 就職する前は家の二階にあった私の部屋は、就職後程なくして一階、玄関入ってすぐの部屋へと移った。こういうふうに帰りが遅くなる日があることを見越しての移動だった。父も母も夜十時には寝てしまっているから、それ以降に帰宅する時はなるべく物音を立てないよう、忍者のような抜き足差し足で部屋へ直行するのが常だった。そういう場合でも何かしらの夜食を用意してくれているお母さんには全く頭が上がらない。
 もっとも今夜の場合、夜食を取るとしても社内でということになるんだろう。
 滅入りかけた気分を奮い立たせて、私は営業課の自分の席へと舞い戻った。

 こちらに発注書が送られてきたのは午後八時を過ぎた頃だった。
 私はその内容を確認した後、注文請書を作成した。その頃には他の課員もぼちぼち退勤し始め、営業課からはどんどん人が減っていた。
 そして午後九時過ぎ、私がようやく和菓子屋さんの案件を一段落させ、後回しにしていた仕事に手をつけ始めた頃、最後まで残っていた石田主任が席を立ち、私に声をかけてきた。
「小坂、俺もそろそろ上がるぞ」
「あっ、お疲れ様です。お先にどうぞ」
 私も一旦手を止めて、主任の顔を見ながら答える。主任は見るからに心配そうな目で私を見ていて、申し訳ない気分になりながら続けた。
「私はもう少しかかりそうなので……施錠して、電気も消しておきます」
 そう答えると主任は眉を顰めて言った。
「あんまり根詰めるなよ。身体壊したら元も子もないからな」
「大丈夫です、こう見えてもめっぽう丈夫な方ですから」
 私は胸を張る。実際、就職してから体調を崩したことなんてほとんどなかった。思いつくのはせいぜい、去年飲みすぎて二日酔いになったくらいだ。
「まあ、お前は若いからな。今のうちはまだ無理が利くんだろうが」
 石田主任は机の上を片づけ始めた。帰り支度を開始したようだ。
「でもな、無理してまでやる必要がある仕事なのかってことは、ちゃんと考えた方がいいぞ」
 手を動かしながら、私に向かってそう言った。
 それが何についての忠告なのかは考えるまでもなかった。そして何かしら言われるだろうということも覚悟していたけど、いざ言われると何よりも後ろめたい気持ちになった。
「あの……すみません。私、いつも主任から言われてるのに……」
 私が口を開くと、主任はそれを制するみたいに首を横に振る。
「謝ることじゃないからな。お前が真面目にやってんのは俺が一番よく知ってる」
「ありがとうございます、主任」
「ただお前の頑張りを、他の人間が俺と同じように評価するとは限らない。前にも言ったよな」
「……はい」
 それはわかっているつもりだった。頷く私を、石田主任も笑いの気配一つない真剣な顔つきで見ている。
「お前が無理してやってることを、普段のお前を知らない人間は当たり前のことだと思うかもしれない。お前が陰で頑張ってることなんて他社の人間にはそうそうわからないもんだからな。無理が当たり前になると向こうだって平然とそれを要求するようになるし、できないと言えば『前はできたのになぜ今回は駄目なのか』と言い出すに決まっている」
 主任はそこまで語ると溜息をつく。
「そういう先のことまで考えた上で、必要な時だけ無理をするべきだ。わかるだろ?」
「はい」
 またしても、私は神妙に頷く。
 石田主任の言うことはいつだって正しい。私はその事実を一年以上もじっくりと目の当たりにしてきて、主任を心から尊敬しているというのに、自分の力をもってその正しさを証明することがなかなかできていなかった。主任の下で仕事のいろはを学んできた者として一番の恩返しは、学んできたことの成果を仕事で証明することだと思うのに。
「俺だったらそういうサービスは、客単価のめちゃくちゃ高い上客だけにするがな」
 真剣だった表情が不意に柔らかくなり、主任は凝り固まった空気を解すように肩を竦めた。
 確かに今回のお客様はまだ二回目のご注文で、客単価も高いとは言えない。私はちょっと笑って答える。
「でもあの和菓子屋さん、うちの商品を気に入ってくださってるみたいなんです」
「ならこの先、取引を拡大できる可能性はあるわけか」
「前回の納品の時にちらっとそういうお話はしました。頑張ってみます」
「そうだな。お前の頑張りが報われればいいと、俺はいつだって思ってる」
 優しく目を細めた主任は、そこで帰り支度が済んだのか、鞄を閉じて持ち手を掴んだ。
 そして椅子を戻し鞄を持ち上げて、そのまま営業課から出て行くのかと思いきや、わざわざ私の席まで立ち寄ってくれた。傍らで身を屈めて、椅子に腰かける私の顔を覗き込む。
「せっかく二人きりだってのに、仕事の話ばっかりってのも色気がないよな」
「し、仕事中ですから」
 顔を近づけられて、どきっとした。動揺のあまり私がどもると、石田主任はそれが面白かったのかすごく楽しそうに笑んだ。
「それもそうだ。邪魔しちゃ悪いし、今日のところはおとなしく帰ってやるか」
 おとなしく帰らない場合はどうするつもりだったんだろう。どっちにしてもうろたえる私をよそに、石田主任はベルトループに留めていたキーチェーンを外して、営業課の鍵を私の机に置いた。
「帰りに施錠頼むな。それと電気、点けてたら空調も」
「わかりました」
「くれぐれも無理しすぎるなよ、疲れたと思ったら素直に帰るように」
「そうします」
「あと、帰ったら連絡寄越せよ。俺が心配する」
「はいっ」
 最後の返事は一際大きく答えて、顎を引いた。
 それで石田主任も勤務中とは違う趣の、満面の笑みを浮かべてみせた。
「いい返事だ。それじゃあお先に」
「お疲れ様です、主任!」
 主任が鞄を提げて営業課から出て行くのを、私もちゃんと見送った。一度振り返った主任が励ますように笑いかけてくれたから、まだまだ頑張れそうだと思った。

 石田主任の足音が閉じたドアの前から遠ざかり、やがて聞こえなくなると、辺りは本格的な静寂に包まれた。
 聞こえるのは古いラップトップのファンの音、同じように古い冷蔵庫のモーター音、そして私がキーボードを叩く音だけだ。夜のオフィスは少しだけ不気味で、ものすごく寂しい。
 今の時間、残業をしている人は私だけではないようだ。時々、遠くから足音が聞こえたり、エレベーターが動く音が廊下の向こうから響いてきた。寂しさが紛れるというほどではないけど、頑張ってるのは私だけじゃないんだと思うと気合だって入る。
 ただ、静かだと私の立てる音が響くというデメリットもある。
 例えば今、お腹が鳴った。
 きゅるるるるるると南国に住む鳥の鳴き声みたいな音がして、私は慌ててお腹を押さえる。
「わあ……恥ずかしい……!」
 誰に聞かれるわけでもないんだけど、お腹が鳴るのは恥ずかしい。石田主任が帰ってしまった後で本当によかったと思う。これは好きな人に聞かせていい音じゃない。
 そしてお腹に手を当てれば、今になって急速に空腹を覚えた。
 思えばお昼はコンビニでおにぎりを買って食べただけだった。夜食を買っておけばよかったと思う。発注書を待っている間はそわそわしてファックスが動くのをひたすら待っていたので、結局買い物には出られなかった。
 つまり私の手元に、今、食料は何もない。
 だけどすごく、お腹が空いている。
 むしろ何もないと自覚すると空腹は一層増すようだった。空っぽの胃はきゅるきゅると音を立て続け、そうなると私はお腹を押さえ、たちまち作業効率は落ちる。仕事をしながら食べたい物のことを考えてしまう。家に帰ってもご飯ないし、この辺りで休憩も兼ねてご飯食べとこうかなあ。だけど何を食べよう。この時間だとコンビニくらいしかやってないけど、夜も更けゆくこの時間に外へ出るのはためらわれた。何と言うか、帰りたくなっちゃいそうで。
 でも食べ物がない。お腹は鳴る。ひもじい。
「やっぱり何か、食べとこうかな……」
 もっと早い時間なら出前という手もあったんだけどな。こんな夜遅くじゃどこも――そう考えかけて、ふとひらめいた。
 いや、こんな夜遅くでもやっている出前がある。
 ピザ屋さんだ。
 大抵のピザ屋さんは日付が変わるくらいまで営業している。当然宅配サービスも行っているはずで、そこにお願いすれば美味しくてできたてのピザを届けてくれるはずだった。
 問題は、会社でピザを食べることの是非――。
 だけど社内でピザを食べていけないなどという社則はない。普段なら人目も気になるしちょっと食べる気にはならないけど、今は人目もない。私が仕事をしながらピザを食べたからと言って誰が咎めるはずもない。
 そしてピザについて思いを馳せると、そういえばしばらく食べていないことも思い出して一気に食べたくなってきた。
 食欲に背を押されるがまま、私は我が社を配達エリアに含んでいるピザ屋さんを検索した。幸いにして一軒あった。そこに電話をかけて、宅配をお願いする。さすがに社内まで入ってきてもらうのは無理なので、通用口で受け取ることにする。注文したのはピッツァマルゲリータ。バジルとモッツァレラチーズとトマトという、まさにイタリアの象徴のような彩りのスタンダードなピザだ。
 私は一旦席を離れ、社屋一階にある通用口まで下りて配達員さんを待ち構えた。配達員さんはアルバイトらしい学生風の男の子で、屋根付き三輪バイクで駆けつけてくれた。代金とピザの入った薄く平たい箱を交換すると、配達員さんはにっこり笑ってこう言った。
「残業ですか? OLさんも大変なんですね」
「そうなんです。でも頑張ります!」
 ありがたく受け取ったピザの箱を両手で持ち、私は営業課へと取って返す。箱のほんのりとした温かさ、蓋を開ける前から漂ってくるいい匂いが救いだった。これを食べて、今日の分の仕事をやりきろう。

 営業課へ戻り、私はいそいそと箱の蓋を開けた。
 中から現れたピザはまさに検索したメニュー写真通りの仕上がりだった。かりっと薄く焼き上げられたクリスピー生地の上に、目の覚めるような真っ赤なトマトソースがたっぷりと塗られ、もちもちと白いモッツァレラチーズがふんだんに乗せられ、新緑を思わせるバジルが散らされている。これぞまさにピッツァマルゲリータ!
 こんな時刻にピザを食べる罪悪感はあったけど、でもピザ屋さんくらいしかやってなかったんだから仕方ないよねと思っておく。その辺は明日以降で帳尻を合わせればいい。
「早速、いただきまーす」
 誰もいなかったけど一応手を合わせて、それから私はピザを一切れ手に取った。あらかじめ八等分されたピザは本当に薄く、持ち上げるとチーズやトマトの重みで垂れ下がりそうだった。慌てて口のほうを持っていき、かじりついたところで――。
 こんな時刻になぜか、ノックの音がした。
 ピザにかじりついた私が返事をするより先にドアが開き、
「よし、まだ残ってたな。差し入れ持ってきたぞ、小坂――」
 コンビニのビニール袋を掲げた石田主任がそう言いながら顔を覗かせ、私を見て言葉を止める。瞬きもせずにこちらを凝視している。
 私もピザを咥えたまま、とっさに言葉が出なかった。
 戸口を挟んで数秒間無言で見つめ合った後、
「……ふゅにん」
 私がピザを口にしたまま恐る恐る呼びかけると、主任は笑いを堪えきれてない顔で言った。
「九年勤めてるが、社内でピザ食ってる奴に遭遇したのは初めてだ」

 好きな人にお腹の音を聞かれるのと、ピザMサイズを食べているところを見られるの。
 果たしてどちらの方が恥ずかしいのか、私には判断つきかねた。
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