Tiny garden

ポニーテールとスカート

 七月には石田主任――隆宏さんのお誕生日がある。
 今年も去年と同様に平日のお誕生日ということで、お祝い自体は土日にしようと決めていた。
 でもせっかく当日も会社で顔を合わせるんだから、何かできないかなと思って聞いてみた。
「隆宏さん、お誕生日にして欲しいことってありますか?」
 すると隆宏さんは三秒考えてから答えた。
「ポニテ」
「えっ?」
「お前がポニテにしてくれたら俺の仕事が捗る。是非頼む」
「ど、どうして私がポニーテールだと、隆宏さんのお仕事が捗るんですか?」
 疑問に思い率直に聞き返すと、隆宏さんは迷いのない表情できっぱりと、
「知らないのか藍子。『女子のポニテは五割増』ということわざがあるんだぞ」
「あるんですか? ちなみにどういう意味なんですか?」
「読んで字の如く、五割増で輝くという意味だ。ちなみに俺が今作った」
「作ったんですか!?」
 うっかり鵜呑みにしちゃうところでした!
 隆宏さんがあまりにも堂々と言ってのけるから、まさか嘘をついてるなんて思いもしなかった。
「と言うかそういうのも、ことわざって呼んじゃっていいんですか……?」
「いいんじゃね。こういうのは作ったもん勝ちだろ」
 あっけらかんと答える隆宏さんの笑顔を見て、私はこのことわざを後世に伝えていくべきかどうか少し迷った。もしかしたらここからほうぼうに伝わって、ことわざ辞典がまた一ページ増えてしまうことになるのかもしれない。ならないかも、しれないけど。
「ともかくそういうことだ。俺の誕生日はポニテで頼む」 
「わ、わかりました」
 私が気圧されるように頷くと、隆宏さんはまた思いついたというように口を開いた。
「あと、スカートな。パンツスーツじゃなくて」
「スカートですか」
「ああ。けどそっちは仕事に差し支えなければでいいぞ。どっちかって言うとスカートがいいってだけだから」
「差し支えは、ないです」
 私はぎくしゃく頷いた。
 もちろん隆宏さんが喜んでくれるんだったら私はポニーテールでもスカートでも構わないんだけど、そもそもそういうことじゃなかった。私が聞きたかったのは。
「誕生日が今年も平日だ。泣く泣く仕事に行かなきゃならん俺に、せめてもの癒しをくれ」
 隆宏さんが嘆くように肩を竦めたので、私は照れていいのか戸惑っていいのかわからないまま苦笑する。
「こんなことで癒しになりますか?」
「なるなる。俺にとってはお前が最高の癒しだからな。おまけにポニテでスカートと来ればもう無敵だ」
 そんなにポニーテールとスカートが好きだとは存じませんでした。私はもう二十四歳だし、ポニーテールはさすがにそろそろ子供っぽいかなって思ってたんだけど、隆宏さんの好みなら覚えておかなきゃ。
「そうなんですか……じゃあ隆宏さんを癒せるよう、当日は最大限頑張ります!」
「よし、任せた。その意気で誕生日当日はちゃちゃっと乗り切ろうな」
 にまっと笑った隆宏さんが、その後で当然のように言った。
「で、本祝いは土日でじっくりやろう。ちょうど俺も出かけたいとこあったんだよ」
 そういう提案に異論があったわけじゃない。私も隆宏さんのお誕生日プレゼントを買いたかったし、それなら隆宏さんに選んでもらう方がいいと思っていたからだ。
 ただ、そういうことじゃなくて。
 お誕生日が平日だから、土日にデートの約束をする。そのこと自体はいい。
 でもせっかくのお誕生日当日、それも職場が一緒だから間違いなく確実に会えるのに、他に何にもしなくていいんだろうか。
「もしよければ、営業で出たついでにケーキでも買ってきましょうか」
 私の提案は即座に一笑に付された。
「ケーキか……。さすがに勤務中に食べんのはきついな」
「駄目ですか」
「ああ。お前が食べたいんなら買ってきてもいいけど、俺はいいや」
 そう言うと隆宏さんは私の頬をむにむにと指で触りながら言った。
「ま、最終的にはあれだ。お前がプレゼントってことでいいからな」
「そんなものでいいんですか? せっかくのお誕生日なのに」
「そんなものなんて言うな、俺のかわいこちゃんに」
 隆宏さんが私の頬を抓る。別に痛くはなかったけど、胸の奥がきゅっとした。

 二人で一緒に、隆宏さんのお誕生日を祝うのもこれで二度目だ。
 去年はラッキーなことに隆宏さん――石田主任から誘っていただいて、一緒にご飯を食べに行った。私にとってはすごく幸せなデートだった。けど、よくよく考えたら私はちっとも主任のお誕生日を祝えていなかった気もする。乾杯の音頭も外してたし、あれよあれよという間に恥ずかしい暴露話までしていたし、そのくせ肝心なことはほとんど言えてなかったし。
 あれから一年が経ち、私たちの関係はすっかり変わってしまった。もちろんいい方向に。
 だから今年こそは彼女として、きちんと、抜かりなくお祝いをしたいと思っている。
 隆宏さんの言うように土日を本祝いとしてプレゼントしたり一緒にご飯を食べたりするのはもちろんだけど、当日も何かできたらなって、思ってはいるんだけど。

 だけど実際に誕生日を迎えても、私がするべき『何か』は一向に思い浮かばなかった。
 とりあえず髪はポニーテールにして、スーツの下はスカートをはいていった。石田主任は嬉しそうな顔をしてくれて、ちょっと恥ずかしかった。
 ただ私は外回りの仕事があって、日中はほとんど席を空けていた。だからポニーテールもスカートもそれほど意味はなかったんじゃないかな、とも思う。
 それならお誕生日らしくクラッカーでも買っていこうかと思いついたけど、営業課が散らかるのは困る。ケーキが駄目なら主任の好きなものをお土産にすればいいのかもしれない。だけど主任の好きなものはお魚だ。例えば焼き魚なんて買っていっても、勤務中に落ち着いては食べられないだろう。ちゃんとご飯もないと。
 あれこれ考えているうちに外回りも済んでしまって、私は不完全燃焼の気分ですごすごと帰社した。

 営業課に戻り、報告書を仕上げようとラップトップに火を入れた時だった。
「あれ。用紙がない」
 石田主任の独り言が聞こえて、私は思わず顔を上げる。
 すると最近新しくしたばかりのプリンタの前に立つ主任が、顔を顰めているところだった。
「誰だ、使い切ってそのままにした奴。紙入れとけよなあ……」
 主任がぼやくのも無理はない。プリンタが新しくなってからというもの、やたらと用紙の消費が激しくなっているそうだ。皆、新しい備品に興味津々で、ついついいろんなものをコピーしたがるかららしい。気持ちはわかるけど。
 そして主任はコピー用紙を保管しておくスチール棚に歩み寄り、建てつけの悪い戸を開けて中を覗き込む。途端にいっそう深くぼやいた。
「しかもここにまで紙がないと来たか。何だこの地味な嫌がらせは、ったく……」
 七月は何かと忙しい時期だから、皆も自分の業務以外にはつい気を抜いてしまいがちだ。だけど忙しい時こそ空気が悪くならないよう、お互いに思いやりの気持ちが大切だと思う。
 そこですかさず私は立ち上がり、
「あ、それなら私が取ってきます」
 手を挙げながら申し出ると、主任は驚いて振り向く。
「小坂。お前はさっき戻ってきたばかりだろ、悪いからいいよ」
「いえ、大丈夫です。それにパソコン立ち上がるまで時間かかるので、暇なんです」
 会社から貸与されているラップトップはおんぼろで、起動に時間は食うし変な音はするしと扱いにくい代物だった。プリンタの次はこれが新しくなったらいいなと思っている。
 それに石田主任には、お誕生日くらい心穏やかに過ごしてもらいたかったから。
「そうか。じゃあ……」
 主任は納得しかけた後、ぱっと表情を明るくして言った。
「なら、二人で行ってくるか。しばらく倉庫行かなくてもいいくらいたっぷり用紙掻っ攫ってこよう」
「そうですね。総務の方に怒られない程度に」
 私も頷き、そうと決まれば善は急げと二人揃って営業課を出た。課の皆からは多少冷やかしの視線を送られたけど、忙しい時期だからいつもより追及もされず、恥ずかしさも少なめで済んだ。
 廊下に出て、備品倉庫へ向かって歩く。
 社内では並んで歩くことはまずなくて、私は主任の後を追う格好になる。白いカッターシャツの広い背中を追い駆けながら、一年前もこうだったな、なんて感慨に耽ってみる。
 あの時も主任は私の先を歩いていて、そして今よりも憂鬱そうだった。三十歳になるのが嫌だったなんて、今でもちょっと信じられない。そして私は初めて主任の年齢を知って、随分歳の差があるんだなあってショックを受けていた。七歳も差があったら、私なんて子供扱いだろうなって密かに思っていた。
 記憶は次々蘇り、私たちは閉め切られていた備品倉庫の中へと入る。倉庫の中は真新しい紙の匂いで満ちていて、むわっと蒸し暑くて、ドアを閉じると社内のどこよりも静かになる。小さな窓から差し込む光が、空を舞う埃をきらきら照らしていた。記憶とあんまり変わりがなくて、いっそおかしいくらいだ。
「……よし。こんだけあれば、しばらくはいいな」
 コピー用紙を六冊も抱え上げて台車に乗せると、主任はどこか満足げな顔をする。
 私は倉庫に備えつけられた台帳に、備品の持ち出しの旨を記入する。コピー用紙、六冊、営業課、小坂……と。
 もちろん捺印も忘れない。前に一度注意されているから、ちゃんと覚えている。
「しかし、あれから一年か。懐かしいな」
 石田主任も、ちょうど去年のことを思い出していたみたいだ。
 私が台帳から視線を上げれば、あの時みたいに棚に寄りかかり、腕組みをしてこっちを見ていた。
 ただあの時と違うのは、もう不機嫌そうな顔をしていないというところかもしれない。
「懐かしいですね。今思い出すと、ちょっと恥ずかしいですけど」
「まあな。あの時の俺には、お前が眩しくてしょうがなかった」
 吊り目がちな主任が私をつぶさに眺めてくる。いつも勤務中にはしないような、少し熱のこもった眼差しだった。
 私は勤務中であることを忘れたつもりはなかったけど、二人きりであることはさすがに意識せざるを得なかった。
 とっさに俯き台帳へ目を戻せば、主任がくくっと喉を鳴らした。
「可愛さは変わってねえな。むしろ増したか、お前の場合」
「……ポニーテールにしたから、ですか?」
 ことわざの通り、五割増になっているだろうか。顔を上げずに聞き返すと、
「あの時も、そうやって結わえてたよな」
 主任が言って、ふうと息をついてみせた。
「犬の尻尾みたいだよなって思ってたよ。何かする度にぶんぶん揺れてたからな」
 私は自分の束ねた髪を何となく掴んで、撫でてみる。もちろん尻尾ではないから、私がどう思ったってひとりでに揺れたり垂れたりしない。
「でもって、スカートなのも同じだ」
 ちらりと視線を上げたら、主任は私の膝辺りを見ていた。やっぱり、恥ずかしいかもしれない。
 そう言えばあの頃は毎日スカートで出勤してたっけ。パンツスーツに切り替えたのは社用車に乗るようになってからだ。助手席に主任を乗せることになって、その時、スカートが短いのが気になってしまったから。
 主任の記憶力は素晴らしい。私が忘れかけていたことすら覚えている。
「すごいです。そこまで覚えてるなんて」
 私が驚くと、主任は当然だと言わんばかりに胸を張った。
「俺には録画再生機能がついてんだよ。お前に関することだけは脳内再生ばっちりだ」
 それもあながち嘘ではないのかもしれない。少なくとも主任ご自身はそう確信しているみたいだった。
「もしかして、それで今日はポニーテールとスカート、って言ったんですか?」
「そういうことだ。去年と比べてどんなもんか、じっくり見てみたかったしな」
 去年と同じいでたちの私を、主任はやはり熱っぽく注視して、それから満ち足りた様子でにやっとした。
「今年も可愛いぞ、小坂。それに去年よりぐっと色っぽい」
「え……えええ!? い、いや、そんなこと全然ないですよ!」
「そんなことあるって。仕事終わったら、また後でじっくり拝ませてくれ」
 誉められて嬉しくないわけじゃないけど、こういう誉め方は困る。すごく困る。
 やがて主任は用紙を載せた台車を押して倉庫を出て行き、私も台帳を元の場所に戻してからそれを追う。
 倉庫の扉をきちんと閉めたところで、一足先に廊下に出ていた主任がぼそりと言った。
「小坂可愛い、こさかわいい」
「な、何ですかそれ」
 謎の言い回しに私が戸惑うと、主任は気軽に笑う。
「『こさかわいい』は俺が今作った慣用句。意味は小坂が可愛いってことだ」
「え……な、なななっ」
 一年経ったくらいじゃ変わらないものもある。私は今、呆気なく上昇してしまった体温のせいで声を失くしてしまっている。顔中がかっと熱くなって考えるどころじゃない。
 でも頭の中ではいろいろ思ってる。それって慣用句って呼んでいいんですか、とか。そこまで可愛くはないですよ、とか。そういうのやっぱりちょっと恥ずかしいです、とか――。
「お前のおかげで、割とすんなり三十一歳になれた。去年はあんなに駄々捏ねてたのにな」
 ごろごろと台車を押し始める主任は、自分の発言に全く照れるそぶりがなかった。いつでも堂々としている。それが大人の余裕と言えば、そうなのかもしれない。
 そしてそういう人に言われる『可愛い』って言葉は、謙遜や遠慮の壁を突き破ってすとんと胸に落ちてくる。不思議なことに。
 嬉しい、から、なのかな。
 だからもっと可愛くありたいな、とも思ってしまう。
 もしかすると、私がプレゼントって、そういう意味なのかもしれない。お仕事のある日に満足のいくお祝いなんてできるはずがないんだから、そのくらいなら主任は私を、私は主任の存在を励みにして、ひとまず目の前のお仕事をやっつけて、それから楽しい週末を迎えようっていう意味。
 だから主任は、私にポニーテールとスカートを、去年と同じ格好をするよう言ったのかもしれない。それが主任には楽しいから――っていうのも、私としてはすごく照れると言うか何と言うかだけど、主任がそう思ってくれてるなら私もそれでいい。
「主任、お誕生日おめでとうございます」
 白いシャツの背中をまた追い駆けつつ、私はそっと呼びかけた。
 石田主任は台車を押しながら振り向き、
「ありがとな。頑張って、今日はなるべく早く帰るぞ」
「はいっ」
 ポニーテールのことわざが本物なら、きっと主任の言葉の通りになるはずだ。仕事の捗りようも五割増、かもしれない。
 慣用句の方は、正直ものすごく恥ずかしいけど、でもそう言ってもらったからには私が頑張って本物にしよう。
 私は背筋を伸ばして、主任の後を追う。
 私の頭の後ろでは、ポニーテールに結んだ髪が、本物の尻尾みたいに揺れていた。
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