Tiny garden

私の白馬の王子様

「小坂さん、君の白馬の王子様はもう来てる?」
 朝礼前の社内の廊下で、偶然行き会った安井課長は、挨拶の直後にそう言った。
「……えっ?」
 私の口からは寝惚けたような声が出る。起きてからもう時間も経っているし、頭も冴えていたと思っていたけど、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
 白馬の王子様? 私の?
 目を瞬かせる私を見て、課長は嬉しそうににやりとする。
「いや、あいつの場合は柄じゃないか。王子様っていうからにはもっと品行方正じゃないとな」
 そんなふうに言われてようやく思い当たる私も私だけど――私としてはとても尊敬できるそれこそ品行方正な人だと思っている。でも安井課長や霧島さんがそう思っていないらしいことも知っていたから――、何よりもその例えようにうろたえてしまった。
 王子様だなんて、考えたこともなかった。
 だからと言って柄じゃないとも思わないけど、とにかくすごく、予想外な一言だった。
「い、いえいえそんな、そんなことは全然……!」
 私は精一杯否定したい気持ちと、でも始業前とは言え社内でこんなことを話していいものかという葛藤とで混乱しながらかぶりを振る。
 確かに石田主任は王子様と呼んでも差し支えないくらい素敵な人だ。つり目がちな目元がすごく格好いいし、スタイルもいいし、真面目な表情は見ていて惚れ惚れするくらいだし、でもたまにちょっと可愛いななんて思うような顔つきをすることもあったりして。
 それに、とても優しくていつも前向きで気配りに溢れている。王子様はやっぱり誰にも分け隔てなく優しく、公明正大な人でなければいけないと思う。その点ではまさに、主任こそ王子様と呼ぶにふさわしい。
 でも、私がそう呼ぶのはちょっと恥ずかしいって言うか……駄目じゃないけど、間違ってないけど、さすがに照れるかなって……。王子様なんてそんな、考えもつかなかったくらいなんだから、私の口からはとても言えません。
「全然っていうのはどっち? 柄じゃないってこと?」
 課長からのツッコミに私ははっと我に返り、姿勢を正した。
「とにかくその、えっと……私としては、とても立派な方だと思ってます」
 まさか会社の廊下で主任の魅力について力説するわけにもいかない。言葉を選びながら答えておく。
「もちろん、柄じゃないなんてこともないです」
「立派ねえ」
 安井課長は笑いながら首を竦めた。気のせいか今日は随分と機嫌がいいようだ。どこか浮かれているようにも見えた。
「君にはそう見えるって言うんなら、夢を壊すのはやめとこうか」
 そして口調はいつも通り、落ち着いたトーンで続ける。
「では君の立派な上司であるらしい、石田主任はもうおいでかな」
「はい。もう既に、営業課に」
 私は頷いて答えた。
「ありがとう」
 課長は一度微笑んだ後、営業課のある方向へと廊下を歩き出す。
 私は会釈をしてそれを見送り、その後でちょっと物思いに耽ってみる。
 白馬の王子様かあ。確かに、そうなのかもしれないな。

 用を済ませてから営業課に戻ると、安井課長の姿はなかった。
 もう来た後なんだろうかと主任に声をかけてみる。
「主任。安井課長はいらっしゃいましたか?」
「来てった。小坂も会ったのか?」
 石田主任が聞き返してきたから、私はついさっきのやり取りを思い起こしつつ返事をする。
「はい。さっき廊下で……今朝は何だかご機嫌みたいでしたね、課長」
「やっぱそう見えるか」
 たちまち主任は呆れ返ったような顔つきになり、
「あいつ、昨日は映画観てきたんだと。それですっかり影響されちゃってるらしい」
「映画、ですか?」
「ああ。顔合わせて開口一番、『営業課の王子様!』って呼びかけられて吹いた」
 次に思い出し笑いでもしたのか、改めて吹き出してみせた。
 恐らくそのやり取りは営業課内にも筒抜けだったんだろう。課内には思い出し笑いが伝染してあちらこちらからくすくす聞こえた。
 唯一、霧島さんだけがいつものように溜息をついていたけど。
「その後も酷いんですよ小坂さん。石田先輩、何て答えたと思います?」
 水を向けられたけど考えてもわからないから、すぐに聞いてみた。
「何て答えたんですか?」
「偉そうにふんぞり返って『何だ家来よ、聞いてとらすから申してみよ』って」
 既に疲れ切っているみたいに肩を落とし、霧島さんはぼやいている。
「朝っぱらから馬鹿ですよ、二人とも」
 でも私からすればそれはまた楽しそうなやり取りに聞こえてしまう。居合わせたかったなあ。王子様然としている主任の姿、見てみたかった。
 それにしても、あの安井課長が映画に影響されて浮かれちゃうっていうのも意外だ。よっぽど楽しい映画だったのかな。王子様が出てくるくらいだからもしかすると恋愛映画なのかもしれないけど、そういうものを好んで観る人ってイメージもなかったから、余計に驚きだった。それで私にも、『君の白馬の王子様』なんて言い方をしたんだろう。
 その映画、課長は一人で見に行ったのかな。そこは聞きたいけど聞けないところだ。
「そりゃ王子様って呼びかけられたら偉ぶっちゃうだろ」
 閑話休題、石田主任はむしろ当然というように胸を張る。
「大体、安井も映画観たくらいで影響されすぎなんだよ。なあ、小坂姫?」
「えっ? わ、私ですか?」
 とっさの呼びかけに私が慌てふためくと、主任はうきうきとした口調で言った。
「いいなこれ。俺はもう今日一日、王子様のテンションで行くかな」
 そしてご満悦の面持ちで顎を撫でながら、
「とりあえず今日の朝礼のスピーチはこのネタで決まりだな。よしよし」
 と続けたから、誰よりも早く霧島さんが唸った。
「やめてください。先輩こそ安井先輩に影響されまくりじゃないですか!」
「何で駄目なんだよ家来二号」
「いい大人が恥ずかしくないんですか! ってか俺まで家来にしないでくださいよ!」
「むしろ楽しい。ほら見ろよ、小坂だってお姫様扱いされて楽しそうだ」
 主任の言葉に霧島さんがはっとしたようにこちらを向く。
 小坂姫、という呼び方にときめいていいのかびっくりしていいのか、はたまたもしかすれば戦国時代にいそうな名前だなあと半端な知識で納得してしまってもいいのか、まごついていた私は、お二人プラス営業課内のほうぼうから向けられた視線に大いに慌てた。
「あ、あの、楽しいってわけでは……何かすみません、顔赤くなっちゃって……!」
 平然としていられたらよかったんだろうけど、赤面するのだけは自分の意思じゃどうしようもない。いかにも王子様だなあと思っていた人からあんなふうに呼ばれたら、照れてしまうのもしょうがない、はず。
 居た堪れずに私が顔を背けると、再び石田主任と霧島さんの会話が聞こえてきた。
「おまけに俺が王子様やると、恥らう可愛い小坂が見られるんだぞ」
「やめてあげましょうよ、からかったら小坂さんがかわいそうですよ」
「からかいじゃない。本気で言ったんだ」
「うわあ……随分と駄目な大人ですね先輩は」
 それで結局、私としては若干残念なことながら、でも精神的には非常にありがたいことながら、石田主任による王子様的朝礼スピーチはあっさりお蔵入りしてしまった。

 とは言え石田主任、そして隆宏さんが影響されやすい人というのはあながち間違いでもないのかもしれない。
 次の週末、部屋を訪ねていった私を隆宏さんは、レンタルビデオ店へと連れて行ってくれた。
「俺も何か映画観て、テンション上げたいと思ってな」
 隆宏さんはそう語った後、ちょっとだけ悔しそうな顔をする。
「安井に影響されたみたいで癪だけど。たまにはいいだろ、そういうのも」
 当然、私に異論なんてあるはずがない。私こそ影響されやすさにかけてはちょっとしたものだという自負がある。ちょうど映画が観たいと思っていたし、でも突発的に劇場へ駆け込むには下調べができていなかったのもあった。それにここのところ少し忙しくて、のんびりできるならそうしたいって気持ちもお互いにあったから、隆宏さんとお店で映画のDVDを吟味することにした。
「何にしましょうか」
「何にするかなー。いつもは見ないようなやつがいいな」
 まずは新作、準新作のコーナーを二人で練り歩く。ついこの間まで劇場公開中とCMを打っていた作品がもう店頭に並んでいたりして、時の流れの速さを実感する。
 大人になると月日が経つのって本当に早い。ついこの間までルーキーだった私も、もう既に二年目を終えようとしている。来年の今頃はもうあの会社にもいないんだと思うと、やっぱり寂しい気持ちにもなる。営業課の人たちは皆いい人ばかりで、一緒に仕事ができるのが楽しかった。もちろん、尊敬できる立派な上司にもめぐり会うことができたのも大きい。
 とても指導熱心で、仕事もできて、何より未来まで見据えるほど広い視野を持った人――私は上司としての隆宏さんをとても尊敬していたけど、同時にその気持ちが行き過ぎた時期もあったことを自覚している。何だかまるで遠い憧れのような人に思えていた。私みたいな未熟なルーキーでは、とても釣り合わないんじゃないかって。
 だから、なんだろうな。私はずっと隆宏さんを、あるいは石田主任をとても素敵な人だと思っていたのに、白馬の王子様だ、なんて考えたことはなかった。
 でも今は――。
 ぼんやりと追い駆ける視線の先で、隆宏さんはDVDのパッケージを一つ取り、そのジャケット写真をつぶさに観察している。つり目がちな眼差しは真剣そのもので、熱心に見つめられているパッケージが少し羨ましくなるほどだった。こうして見ていても横顔は大人っぽくて、やっぱり素敵だ。お休みの日には勤務中と違って、前髪を固めずに下ろしているところも、どきどきする。
 一体、どんな作品に心惹かれているんだろう。
 私は近づいていって、すぐ真横から声をかけた。
「隆宏さん、いいのありました?」
 さっと面を上げた隆宏さんが爽やかに笑う。
「ああ。時々観たくなるんだよなこういうの。お前はどうだ?」
 言われて私は、その手に握られたDVDのパッケージに視線を落とす。
 見事に顔面が崩れ、片方の眼窩がぽっかり開いた、緑がかったゾンビの顔がそこにあった。
「――み、観るんですかこれ」
 思わず一歩後ずさりする私に、隆宏さんは怪訝な顔をする。
「あれ、お前駄目なのか、ゾンビ映画」
「得意ではないです……」
「何だよ藍子、意外と怖いの苦手なんだな。可愛い顔が可愛く引きつってるぞ」
 なぜか隆宏さんには嬉しそうにされてしまった。
 怖いのが得意というわけではない。でもそれ以上に、ゾンビ映画には、と言うかゾンビという存在には人を選ぶ要素が目白押しだと思う。いい匂いはしなさそうだし、話し合いで分かり合える相手でもなさそうだし、何より見た目が怖い。もうちょっと可愛げがあったらいいのにって思うけど、それじゃホラーとしては成立しないんだろうな。
「何かこういうのって、どろどろしてるから苦手なんです。夢に出てきそうで」
 私が言うと、隆宏さんは目を瞬かせてからDVDに目を向ける。
「まあ、どろどろはしてるな。腐ってるもんな」
「なのでできれば別のがいいかなって……駄目ですか?」
 手を合わせてお願いしてみた。
 すると隆宏さんはちょっと笑ってからパッケージを棚に戻した。
「しょうがないな。怯えてるお前も可愛いけど、俺を差し置いて夢に出られるのは心外だ」
 それから、胸を撫で下ろす私に向かってこう言った。
「じゃ、今回はお前の希望で決めていいぞ。付き合ってもらってるし、譲ってやる」
「いいんですか?」
 私はおずおず問い返す。
「でも私の好みで決めたら、隆宏さんは退屈じゃないですか? 私の好きな映画ってあんまり飛行機とか戦艦とか出てこないですよ」
「大丈夫だろ。今日は何か、まったりしたやつ観たい気分だったし」
 そう言って軽く首を竦めると、隆宏さんはにやっとした。
「それにもし万が一退屈だったら、映画に夢中になってるお前の顔見てるからいい」
 きっとその発言も、私が遠慮しないようにと気遣ってくれたものなんだろう。
 隆宏さんはまさに王子様と呼んでも差し支えないくらい、優しくて素敵な人だ。
「……じゃあ私、ずっと観たい映画があったんです」
 お言葉に甘えて私は切り出した。
「邦画なんですけど、南極観測隊の料理人さんのお話で……戦闘シーンとかは全然ないですけど、美味しいご飯が出てくるいいお話みたいなので、よかったら一緒に観ませんか」
「いいぞ。じゃ、そのコーナーまで案内してくれ」
 快い返事の後、隆宏さんは私に手を差し出してくる。
 私はちょっと照れながらもその手を握って、まるで子供みたいに引っ張りながら歩き始めた。
 手を繋いで歩くのは幸せだった。こんな日がやってくるなんて、ルーキー時代の私は想像だってできなかっただろう。

 私は石田主任を、そして隆宏さんを白馬の王子様と呼ぶにふさわしい人だと思っている。
 だけど安井課長に言われるまで、王子様のようだと思ったことはなかった。
 それは単に私が、石田主任及び隆宏さんを、こんなふうになりたいという目標、憧れの人だと捉えていたからだろう。私はお姫様として王子様に迎えに来て欲しかったんじゃなく、目標として自分から追い駆けていきたかった。
 正直、今でも憧れのその人に追い着けた気はしない。七歳の年の差は大きすぎるし、時々、自分の子供っぽさに自分で呆れてしまうこともある。広い視野をもちたいと思っているのに、目先のことばかり囚われてしまうのもしばしばだ。
 だけど、こうして手を繋いで歩けるようになった。お休みの日には一緒に過ごせるようにもなった。これから先の未来でも、ずっと一緒にいる約束をした。
 私が憧れの人に追い着くまではまだまだかかりそうだけど、その途中で私は、私の王子様を見つけられた。
 少なくとも見失うことはないだろう。手を繋いでいられたら、はぐれる心配だってない。

 私が選んだ映画のDVDを借りて帰り、隆宏さんの部屋で一緒に観た。
 怖くもなく、戦闘シーンもないその映画は、それでもとても楽しくて、笑った後にほろりとできる大変いい映画だった。隆宏さんも映画に見入っていたようで、一安心だ。
「でもこれいい映画だけど、観てると腹減ってくるな」
 観終わってから隆宏さんが大きく溜息をつく。
「全くですね!」
 私は心の底から同意を示した。そしていい頃合いだとばかりに尋ねた。
「お昼ご飯、何にしましょうか。よかったら私が作りますよ」
「じゃあ、伊勢海老のエビフライ」
「それは無理です!」
「でも食べたくなるだろあれは。あんなの見てたら絶対食べたくなるって!」
 隆宏さんの主張ももっともだけど、最近料理を覚えてきた私にとって、伊勢海老なんて未知の存在だ。到底捌ける気がしない。もしかしたらゾンビよりも手強いかもしれない。
 でもエビフライ食べたい気持ちはすごく共感できたので、本日のお昼ご飯は標準サイズのエビフライにしようと思います。
「隆宏さんも意外と影響されちゃうタイプなんですね」
 私がツッコミを入れると、隆宏さんは照れを誤魔化すみたいな顔つきで応じた。
「まあな。男なんてのはこんなもんですよ」
 いえいえ、女の子だって似たようなものです。
 私も、こう見えても大変影響されやすい人間なんです。
「……隆宏さんは私の、王子様です」
 会話の切れ間にぼそっと、影響された考え方を口にしてみた。
 隆宏さんは一瞬目を瞠ってから、控えめに笑んで答える。
「もちろん。俺はお前だけの、白馬の王子様ですよ」
 私よりはずっとはっきりした口調で、自信たっぷりに言い切られて、私は思わず息を呑む。

 やっぱり私、しばらく隆宏さんに追い着ける気がしません。
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