Tiny garden

後天性ロマンチスト(1)

 去年のクリスマスの、何日か後だっただろうか。

 雑談の合間にふと、石田が俺に知恵を求めてきた。
「安井、空き瓶があるんだけどな、何か有効利用できたりしねえかな」
 唐突にも程がある質問だった。
「有効利用って? 漬け物でも入れておけばいいんじゃないか」
 おまけに俺の答えは奴のお気に召さなかったようだ。すぐ苦笑交じりに拒絶された。
「いや、そういうんじゃなくて。ちょっと取っておきたいやつがあるんだよ」
 随分とまあ思わせぶりな言い方をするものだ。
 それはそれはよほど大切な瓶なのだろうと俺は察した。だったらきれいなビー玉とか、ビーズとか、そういう可愛い代物でも入れとけばいい、と答えたように記憶している。
 俺としては石田にとって大切な空き瓶の用途よりも、それがどういう経緯で石田の手元にあるのかという話の方が気になった。
 この頃にはもう石田は営業課の一年生の可愛い可愛い女の子といい感じになっていて、付き合うか付き合わないかいい加減はっきりしろよと温厚篤実な俺ですらくちばしを入れたくなるほどのじれったい状況にも陥っていた。だから石田がそうやって後生大事にしたがるものなんて、当然あのお嬢さんがらみの品に違いない。そんなのは俺でなくてもわかるだろう。
 だから、相談を持ちかけたからには全部話せよ、と俺は思った。その空き瓶は一体誰から贈られたものなのか。元々は何が入っていたのか、いつものように惚気ついでにぶちまければいいのに。
「何を貰ったのか、話してくれたっていいんじゃないか」
 俺が興味本位で問い詰めると石田は言いにくそうにしていたが、やがて柄にもなく照れた顔で言いやがった。
「藍子がクリスマスプレゼントをくれたんだよ。で、その空き瓶を」
 しかも予想を裏切らぬ面白みのない答えだ。俺は二重の意味で呆れた。
「取っておくって言うのか。それこそ柄でもない!」
「いいだろ別に。ぶっちゃけ貰えるとは思ってなくて、だから余計にな」
 前述の通り、この頃の石田は小坂さんと付き合うか付き合わないか全くもってはっきりしない間柄となっていて、でもまあどうせくっつくんだろうなと俺含む外野は全員そう思っていたし、微妙な関係にある二人がクリスマスプレゼントのやり取りなんぞしていたって別におかしなこともないだろう。そんなことをしている暇があったら、というツッコミも野暮だ。何だかんだでこのくっつくかくっつかないかという微妙な関係もまた楽しいものだという事実は俺も知っている。
 おかしいのは石田の頭だ。三十にもなって、彼女からのプレゼントの空き瓶を捨てられもせず取っておきたいとのたまうんだから。それこそ彼氏からのプレゼントは空き箱から包装紙からリボンに至るまで全部保存して置きたがる女子高生のような行動じゃないか。そういうのは可愛らしい女子高生がするから可愛いのであって、三十男がやって評価されるものでは決してない。
「お前はそういうキャラじゃないと思っていたのに」
 俺は石田の心境の変化を大いに嘆いた。
 すると当人も何か思うところがあったのだろう、多少は気まずげにしてみせた。
「まあ、我ながら馬鹿になったもんだとは自覚してる。でもな、やっぱり……」
「全く、恋をすると男は馬鹿になるものなんだな」
「なるんだよ。お前だってなるぜ、百パーセント間違いなくな」
 既に馬鹿になった奴に脅されると、現実味があって恐ろしい。
 とは言え俺の嘆きもいわばポーズというやつだ。俺はこの通り器の大きい人間だから、石田の幸せを願ってやらなくもない。少なくともこいつは沈んでいるより馬鹿みたいに浮かれている方がまだ似合う男だから、せいぜい浮かれろと生温かい目で見てやることにした。
「で、小坂さんからは何を貰ったんだ」
 俺は最も気になっていたことをついでに聞いてみた。
 ところが、恋の魔力で馬鹿になっているはずの石田は、その点にだけはなぜか黙秘を貫いた。俺は奴がてっきり照れまくって言えなくなっているのかと思ったがどうやらそうではないようで、むしろ小坂さんの為に口を噤んでいるようなそぶりだった。
「何でもいいだろ」
「いやよくない。ここまでぶっちゃけたんだ、言え。惚気ついでに言ってしまえ」
「やめとくよ。別におかしなもんが入ってたわけでもないけどな」
 石田は思わせぶりな口調ながらも、絶対に言わないという意思を匂わせていた。
 もしかすると彼女からの贈り物は、公表すれば彼女の名誉か何かを損なう可能性のある品だったのかもしれない。小坂さんが石田の意に沿わないものをプレゼントするとは考えにくかったが、恋愛に関しては初心者中の初心者である彼女なら失敗することもあるだろう。そうであっても石田は喜んでいるのだから結果オーライだ。
 俺としては石田が言いたがらないようなプレゼントとは何か、非常に非常に気になるところではあったが、結局石田は口を割らなかったし、霧島辺りに尋ねても真相が明らかになることはなかった。
 そして石田が件の空き瓶をどうしたのか、俺は今のところ知らない。
 これはいわゆるお医者様でも草津の湯でもという現象だから、一旦馬鹿になってしまったらもう治しようがない。だから石田がとことんまで馬鹿を貫徹しようが、さすがにはたと気づいて空き瓶くらいは処分していようが、どうでもいいと思っている。

 そんなどうでもいいはずの出来事を、俺はしばらくぶりに思い出していた。
 記憶が蘇った理由は単純だった。今年もまたクリスマスがやってきたのだ。
 俺は呼んでないのに、日本にはやたらこいつを呼び寄せたがる人間が多いから敵わない。おかげで今年も十二月になり、師走の街中にはイルミネーションだの有線放送のクリスマスソングだのが氾濫している。毎年のことながら甚だしい浮かれようだった。
 この季節を楽しめるおめでたい連中はさぞかし喜んでいることだろうが、あいにくと俺の気持ちは深く沈み込んでいる。ただでさえ仕事が立て込む慌しいばかりの年末に、クリスマスを祝う余裕などあるはずがない。
 おまけに俺は今なお独り身だ。俺も付き合うか付き合わないかの微妙な関係というやつを大層楽しく感じるほうだから、普段は彼女の有無などそれほど、少なくとも他人に言われるほどは気にならない。
 だがこの季節はまずい、気温が下がって冷え込むと途端に人肌恋しくなる。その上世間のムードはクリスマスを恋人同士で過ごせと情け容赦なく煽り立ててくるものだから、俺はクリスマスソングを聞いては気持ちをささくれ立たせているわけだ。年の瀬の繁忙期くらい穏やかな気持ちで仕事に打ち込ませてくれればいいものを。
 そして俺の元に、独り身ではないあの男が更にクリスマス的なものをぶち込もうとしてくる。

「悪いな、得意先でどうしても買ってくれって言うから」
 クリスマスも差し迫ったある日の終業後、帰り際に俺を捜しに来た石田は、若干済まなそうな笑顔でケーキ屋のリーフレットを差し出してきた。
「もしよかったら安井も手伝ってくれよ。食べるだろ? ケーキ」
 営業の業務にはそういうお付き合いがつきものだ。普段の取引をより潤滑にする為に、先方の利益となるように自腹切って取り計らうのも良くある話だった。それは元営業の俺にもよくわかる。
 だから石田の頼みなら、聞いてやるのもやぶさかではないのだが――。
「俺に、一人で食えって? このいかにもなオーナメントの乗っかった丸いケーキを」
 思わず聞き返したくもなる。
 甘いものは嫌いではない。と言っても男一人で丸いケーキを食べるのは何だか絵的にもシュールだしおまけに虚しい。しかもリーフレットに掲載されたケーキはどれもがクリスマス仕様で、小さなリースを飾ったメッセージ入り板チョコやら、マジパン製のサンタやら、もみの葉や赤い実のピックやらでデコられたケーキばかりだった。そいつを一人の部屋に持ち帰って一人でもそもそと食べる情景は、筆舌に尽くしがたい不憫さ、侘しさではないだろうか。
「いや、食えるだろ。飾りが目障りだって言うんならどかせばいいんだし」
 石田はさらりと無神経な答えを寄越してくる。
 そりゃお前はいいだろう。例の彼女ととうとう付き合うことになって、そこから一年もしないうちに結婚の話まで出て、もはや規定路線というところまで来ているんだから。クリスマスだってさぞかし楽しいに違いない。
「お前はいいよな。一緒に食べてくれる相手がいるから寂しくもないだろ」
 俺が僻み根性を丸出しにすると、石田はなぜか勝ち誇ったように言い返してくる。
「はずれ。あいにく俺もケーキは一人で食べるんだよ」
「はあ? 彼女はどうした、石田」
「こんな時期じゃ仕事の後に会うってわけにもいかないからな」
 と言って、石田は軽く首を竦めた。
「去年はそれやろうとして、連れてく前に寝られたんだよ。だから今年は、繁忙期は無理しない、させないってことに決めたんだ。ってわけで、俺もあいつもケーキ一個ずつ注文してる」
 それは俺にとって意外な話だった。
 釣った魚にはやたらマメな石田なら、忙しいのを押してでもそういうイベント事は外さないだろうと思っていたのに――よく考えれば小坂さんも営業で、この時期の忙しさは言わずもがなだろうから、正しい選択なのかもしれないが。
「空しくないか? 一人で食べるの」
 愚問かと思いつつも俺は更に尋ねた。
 すると石田はふっと表情を緩めて、
「空しいなんてもんじゃないな。おまけに胃がもたれないかって心配もある」
「それは俺にとっても切実な問題だ」
「だろ? そう思って俺はアイスケーキを選んだんだよ。これなんだけどな」
 リーフレットを広げてぱらぱらめくり、石田はアイスケーキのページを指差す。確かに他のケーキ類よりもさっぱりしていそうに見えたので、俺もそれにすることに決めた。注文日は二十四日、当日は石田が店までケーキを引き取りに行き、営業課の冷蔵庫に保管するのだそうだ。俺も金を払う以上は、忘れずに受け取りに出向かなくてはなるまい。
「ご協力ありがとうございます、人事課長殿」
 石田がふざけて礼を言ってくる。
 俺は乾いた笑い声で応じた。
「しかしお前な、独り身の男にこういう頼みを持ってくるものじゃないよ」
 クリスマスを祝わせるんだったらもっと適任の男がいるだろうに。既婚者なら退勤後、疲労困憊のところを押してのデートということにもならないし、さぞかしいいクリスマスを過ごすであろうことが想像できて、憎らしくなった。
「霧島も買ったんだろうけど、あいつはいいよな。奥さんいるから」
 俺が声に出して羨むと、石田も喉を鳴らして笑った。
「帰ったら二人で食べるって言ってたよ。当日は嫁さんがケーキ取りに来るって」
「あいつめ、クリスマスを満喫しやがるつもりだな」
 同い年の奥さんと幸せそうな聖夜を過ごす霧島の姿を想像したら、何だかむかついてきた。石田は彼女ができてこの通り、馬鹿になってしまったが、そういえばあいつはどうだっただろう。どちらかというと結婚前の方が馬鹿と言うか、超天然だったような気もするから、落ち着いてきたようにも思えるのだが。
「安井もケーキを口実に、誰か誘えばいいだろ」
 石田はからかい半分、探りを入れるの半分という口調で言い放つ。
 俺にそういった心当たりがあるかどうかは、どうでもいい。今のところ他人に打ち明けるほどの価値もない情報なので、その点については黙秘するとしよう。
「俺だって忙しいんだよ、この時期まで来たらもう諦めるしかない」
 そう反論すると、石田ももっともらしく頷いた。
「まあな。お互い大変だよな」
 全くだ。俺は運よく、あるいは運悪く人事の課長にまでなってしまったし、あいつは営業課主任だ。忙しさは平社員時代の比ではない。そんなだから師走に何かイベント事を楽しむような余裕なんてひとかけらもありはしない。
 そういう意味では、独り身の俺よりもめでたく彼女持ちとなった石田の方が辛いことだろう。
「お前も、今年はせっかく彼女がいるのに、一緒に過ごせないんじゃ残念だな」
 俺は持ち前の器の大きさで奴を慰めてやった。
 しかし石田はそこで、実に嬉しげに目を細めた。
「いいんだよ。その分、年末年始の休みは一緒に過ごすって決めてるし」
「……同情する必要もなかったか」
 がっくり来た。
 項垂れる俺の頭上に奴の高笑いが響く。
「それにサンタが来ることだけは決定済みなんだよ。弁当作ってきてくれるって言ってな、あいつ。疲れてるだろうからいいっつってんのに、絶対作るって聞かなくて。俺のサンタは健気だし、可愛すぎて困るよ全く」
 石田はすっかり馬鹿になったようだった。もうこれは治しようがない。
 まあそれでも、幸せそうなら何よりだ。
 俺は少しばかり羨ましい気分になりつつ、でも羨むものが手に入ってしまえば俺も馬鹿になってしまうのかもしれないという思いが、諸々の願望をためらわせてもいた。
 同時に、石田が去年可愛いサンタクロースから贈られたプレゼントが気になってもいたが、聞けば聞いたで自慢されそうでそれはちょっとむかつくので、あえて聞かないでおくことにした。
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