Tiny garden

素直(2)

 その日も結局、仕事に追われるばかりの一日だった。

 繁忙期だから仕方ないのだろうけど、午後八時を過ぎても営業課にはまだ大勢が揃っていて残業していた。もちろん俺もそうだ。
 そういう時期だし文句を言うつもりはないものの、やっぱり大人数で一つの部屋に長時間こもっていると空気も濁るし心も荒む。時々席を立つ人がいるのはそのせいで、皆コーヒーを飲みに行ったりタバコを吸いに行ったり、時にはコンビニまで出かけて気分転換を図ったりするようだ。
 俺も机に向かって企画書を仕上げているうち、何となくコーヒーが飲みたくなった。
 タバコは吸わない人間だから、一息入れたい時の選択肢はそのくらいしかない。ただ企画書の方もいよいよ山場に差しかかったところで、ここで一旦中断すると集中が途切れてしまうのではないかという不安もあった。それでなかなか席を立てずに、コーヒーへの欲求だけをひたすら募らせている。
 そこで、石田先輩がふと席を立った。
 財布と携帯電話を手に営業課を出て行こうとするのが見えて、俺は思わず顔を上げる。すると先輩も俺の動きに気づいたか、こっちを向いて口を開いた。
「霧島も行くか? 社食」
 どうやら先輩もコーヒーを飲みに行く気らしい。
「あ……いえ、もう少し後にします」
 一瞬迷ってから答える。
 正直俺も行きたい気分だったけど、もう少し仕事を進めてからでないと後で悔やみそうだ。もう少し、あと一山ってところなのに。
「そうか。早く来ないとコーヒーが売り切れるかもしれないぞ」
 先輩は子供みたいに脅かすようなことを言う。
「簡単に売り切れるようなものじゃないでしょう、自販機にいっぱいありますし」
「いや、わかんないだろ。俺が全部飲み干したらどうする?」
「よくわからない脅しはやめてください。ただでさえ心荒んでるのに」
 俺が冷ややかな視線を送っても石田先輩はどこ吹く風だ。
「はいはい。じゃ、先行ってるからな」
 軽く手を挙げると、先輩は軽い足取りで営業課を出て行く。
 皆がくたくたになるまで働いて、足を引きずるようにして帰宅するほど忙しい時期だというのに、先輩はいつでもマイペースと言うか、無駄に余裕だけはある人だ。そんなに余裕があるなら俺の分のコーヒーも買ってきてくれるとか、そういう優しさがあってもいいのに――荒んだ心で思わずぼやく。
 しかし俺の内心とは裏腹に、先輩が退出した後の営業課には抑えきれないくすくす笑いが広がった。
 どういうことかと瞬きをする俺に、同僚の一人が近づいてきて囁く。
「行かなくて正解だよ、霧島くん。主任、小坂さんを追っかけてったんだから」
 言われてみれば、営業課内に小坂さんの姿がない。
 彼女も当たり前のように連日残業をこなしていて、その為にお弁当まで持参しているという話だった。あんなに若くて可愛い女の子が営業なんてハードワークそのものの部署でやっていけるのかっていつも思うけど、それはきっとあの健啖家ぶりが支えているものなんだろう。恐らく今頃は社食でお弁当を食べているはずで、先輩は休憩がてら、そんな部下の様子を見に行ったというわけか。
 なんて相変わらずなんだ、あの人は。
 別に先輩が何を、あるいは誰を癒しにしようが知ったこっちゃないけど、今朝方見せつけられた誤送信メールやら、その後の俺の謝罪に対する余裕の態度なんかを思い返すと少しだけ苛立たしい。
 いや、どちらかと言えば羨ましいだけなのかもしれない。忙しい時期でも自分を失っていない先輩が、こんな時でさえ恋愛を楽しむ心のゆとりさえあるのが、よくよく考えれば羨ましくてしょうがなかった。俺は仕事が立て込むと頭がそればかりになって、先に帰宅しているゆきのさんのことさえ、なかなか気にかけられなくなってしまうというのに。
 企画書が無事に山を越えたところで、俺は一息つこうと席を立った。同僚たちが『やめとけやめとけ』って目でこっちを見たから、肩を竦めて答える。
「ちょっと、休憩がてらバカップルをデバガメしてきます」
 我ながら口の悪いことだと思ったけど、営業課一同には爆笑をもって受け止められた。

 もちろん、覗きを働くつもりはない。
 ただコーヒーが飲みたいのは本当で、かなり切実な問題だったし、それを石田先輩の個人的な欲求のせいで断念しなきゃいけないのは実に悔しい。先輩は随分と余裕がおありのようだし、俺が社食にずかずか踏み込んでいって冷やかしめいた言葉の一つや二つぶつけたところで怒りはしないだろう。
 もしかするとまだ、復讐したい気持ちを捨て切れていないのかもしれない。
 それならそれで、社食にいる二人があんまりにも目に余るようであれば何か言ってからかってやろう。
 そんなことを考えながら階段を上がるうち、何だか楽しい気分になってきた。俺もすっかりあの先輩がたに毒されているようだ。啓蒙されてよかったのか、悪かったのか。

 社員食堂には当たり前だけど明かりがついていて、廊下の床にまで白っぽい光が伸びていた。
 自然と足音を殺して近づく俺に、中から話し声が漏れ聞こえてくる。
「……お前、時間は?」
 石田先輩の声だ。辺りはしんと静かだったけど、先輩の声もまた珍しく、聞き取りにくいほどトーンを落としている。
「あと少ししたら戻ります」
 これは、小坂さんの声。彼女の声もまた潜められている。
 俺は思わず足を止め、ほんの少しの違和感を抱いた。
 あの二人がこんなに静かに会話を交わしているのが意外だった。普段の二人はいつも明るくはしゃぎ合っているし、先輩は人目も憚らず小坂さんをからかうのが好きで、小坂さんはびっくりするほどそれを信じて真に受けてしまう子で、総じて賑やかなカップルだという印象があったからだ。
 別に、聞き耳を立てるつもりはなかった。でも聞こえてしまった。
「じゃあ五分……いや、三分だけ」
 先輩が懇願するように言った後、微かに身じろぎをする音がした。
 それから食堂内は潮が引くように静まり返り、二人の声はどちらも止み、何の物音もしなくなる。おかげで自販機の低いモーター音が響いてきて、廊下で立ち止まった俺に本来の目的を思い出させてくれた。
 だけど、気まずい。ずかずか踏み込んでいって邪魔をするには勇気の要る空気だ。
 定時後とは言え、いつ、他に誰が来てもおかしくない公共の場だというのに何をしてるんだろう。俺は呆れながら食堂の戸口に近づく。邪魔をすることになってもここでいい雰囲気になってる先輩が悪い、俺のせいじゃないと言い聞かせ、開放された戸口から中を覗く。
 一区画分だけ明かりの点った食堂で、石田先輩と小坂さんは並んで座っていた。冷たく感じる白い光の中に寄り添う二人の姿は、まるでステージ上でスポットライトを浴びているように浮かび上がって見えた。
 先輩は、目を閉じていた。寄りかかるようにして小坂さんの肩に頭を預けていた。小坂さんは先輩を受け止めつつ、手首を持ち上げる女性らしい仕種で腕時計を見ていた。まだ時間は大丈夫だったのだろうか、やがて腕を下ろした彼女は少しだけ横を向き、眠っているような先輩を温かく見守っていた。その時の彼女の顔は、はっとするほど思いやりに溢れていた。
 俺は再び足を止めた。
 立ち竦んでいたという方が正しいかもしれない。見てはいけないものを見てしまったような気もしていたし、でも考えてみれば、どうして今まで考えつかなかったのだろうとも思った。
 石田先輩のあの余裕は、先輩が一人きりで保っているものではなかったのだ。
 あの人にも支えてくれる相手がいて、くたびれている時に寄りかかれる相手がいて、だからこそあの人はこんなに忙しい時期でもいつも通りの余裕を保っていられるのだろう。
 それにしても、今の先輩は隙だらけだ。普段は吊り上がっている目もしっかり伏せられていて、本当に寝ているみたいだった。そして妙なくらい穏やかな顔をしている。安心しきっている表情に映った。
 先輩みたいな人でも、彼女の前では甘えることもあるのか。俺にとっては何だか新鮮な驚きがあった。先輩のことだから、七つも年下の彼女の前ではやはり余裕たっぷりに接していると思っていたのに。
 身近な人にだって、俺の知らない顔があるものだ。
 それを今、また目の当たりにして、どうにもこそばゆい気分になった。
「……あ」
 微かな、吐息のような声が聞こえて、小坂さんが俺に気づいた。
 彼女はこちらを見て一瞬うろたえたようだ。恥ずかしそうな顔をした後、まるで詫びるように小さく頭を下げてきた。それから唇の前に人差し指を立てて、可愛らしく微笑む。
 俺も邪魔をするつもりはない。黙って笑い返してから忍び足で食堂に入り、なるべく素早くコーヒーを購入し、そのまま足早に立ち去った。
 営業課に戻ると、同僚たちからは『どうだった?』と口々に聞かれた。
 目の毒でしたよと一言で答えた俺は、嘘はついていない。でも先程垣間見た光景を、誰かに言い触らそうなんて思わなかった。
 それよりも一刻も早く仕事を終えて、家に帰りたい気分になっていた。

 残業を終えて帰宅したのは夜の十時過ぎだった。
 ゆきのさんは食事の支度をして待っていてくれた。疲れて帰った後でも温かいご飯が食べられるのは幸せなことだ。俺もまたこうして支えられ、時に寄りかかることで生きている。それなら俺にももう少し余裕があってもよさそうなものだけど、こればかりはあの先輩を見習うべき事例かもしれない。
「石田さん、なんて言ってました?」
 遅い夕飯を食べる俺の真向かいに座ったゆきのさんが、そっと尋ねてきた。今朝方のメールの件を気にしてくれていたのだろう、と温かい気持ちになる。
「先輩はメールくらい、見られても大して気にならないみたいでした」
 俺が答えると、彼女は胸を撫で下ろした。
「やっぱり。そうだろうなって思ってました」
 心配をかけてしまったみたいだ。とは言え、先輩の反応は誰もが予想できる範囲内だっただろうし、俺が気にしすぎていただけというのも事実だろう。
「正直、メール見られて慌てる先輩の顔を見たかったんですけどね」
 そう言ってはみたものの、まるで負け惜しみのようだとわかってもいた。どちらかと言えば醜態を晒したのは俺の方だし、先輩の対応と言ったら憎たらしいほど落ち着き払っていた。
 同じように感じていたのか、ゆきのさんが声を立てて笑う。
「本当にそう思ったんですか、映さん」
「そりゃそうですよ。俺は昔からあの人にからかわれてばかりなんです」
 復讐心が全く消え失せたわけではない。そりゃ今日のはいささか出鼻を挫かれたと言うか、毒気を抜かれた気分にはさせられたけど、だからって先輩の過去の所業が何もかも許されるわけでもないだろう。
「だからずっと考えてたんです。先輩が小坂さんと付き合い出したら、是非ともからかい返してやろうと。あれだけ幸せいっぱいなんですから、俺が冷やかしたって罰は当たらないはず」
 俺は食事を続けながら憤然と語る。
 でもそこで、ゆきのさんは不思議そうな顔をした。
「それって、仕返し……なんですか?」
「もちろんです。やられたらやり返す、それだけのことですよ」
「そうかなあ。私は違うように思います」
 きっぱりと言い切った彼女は、自信たっぷりに続ける。
「映さんのその企みは、復讐じゃなくて、祝福なんだと思います」
「……祝福?」
 予想外の単語が彼女の口から出てきたことに、俺は少々戸惑った。
 彼女は頷く。
「本当は石田さんと藍子ちゃんが上手くいってて、嬉しいから、冷やかしたいって思うんじゃないですか」
 その指摘は――正直、的外れだと思う。
 俺は別に、先輩の恋路がどうなろうとどうだってよかったわけだし。いや、もちろん小坂さんのことは応援していたけど、先輩はちょっとくらい痛い目に遭えばいいとさえ思っていたほどだ。俺は結婚前に散々からかわれていたんだから、先輩のこともからかってやろうと思っていて、だから先輩と小坂さんがやっとのことで付き合い始めて、その時俺はこれはいいからかいのネタになるぞと――。
 あれ、やっぱり、嬉しかったんだろうか。
 いいや違う。ゆきのさんが言った意味で嬉しかったわけではない。断じてない。
「そんなわけないですよ」
 払拭できない一抹の疑問を胸裏に残しつつも、俺はゆっくりかぶりを振った。
「俺は先輩を祝福する気なんてこれっぽっちもないですし。ただ小坂さんのことで思いっきりうろたえたり慌てたり、柄にもなく照れていたたまれない感じになってるところを見てやりたいって思ってるだけです」
 そうして断言したにもかかわらず、我が妻はくすくすと笑う。
「やっぱり、私の言った通りみたい」
「そ、そうかな……違いますよ、多分」
「こんな時、石田さんなら『素直じゃないな』って言うでしょうね」
 ゆきのさんは先輩の発言を予想して見せた後、ほんの少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「ちょっと妬けちゃうな。映さんは本当に、石田さんが好きなんだから」
「……いや、誤解ですから。俺は別に――」
 妬かれるような状況ではない。俺はあくまであの人に復讐がしたいだけだ。
 でも復讐がしたいというそのモチベーションを支える感情がただの悔しさだけでないことは、自分でも薄々感づいている。少なくとも俺はあの人を、見習いたいと思ってもいるのだ。全面的にではないけど、ある意味では。
 ともあれ、反論の言葉を見つけられずに俺が口を噤むと、
「じゃあ、私が石田さんの代わりに言ってあげます」
 いたずらっ子みたいな笑みを浮かべたゆきのさんが、俺に向かって言った。
「素直じゃないなあ、映さん!」
「なっ……何を言うんですか!」
「素直じゃないなあ!」
「もう、ゆきのさん! 違いますってば!」
 咎めると彼女はころころと明るい表情で笑い転げた。
 思いがけず、妻にまでからかわれた気分だ。すっかりしてやられた。俺は気恥ずかしい気分で食事を続けつつ、でも正直なところ、何となく、彼女の言うことも一理あるかもなあという心境にもなりつつあった。
 そういう感情も認めるのが、男の余裕ってやつなんじゃないかって。
 でもって、男の余裕は支えあってこそ生まれるものだ。まだ笑っている彼女の明るい笑顔を眺めつつ、俺もせめて、この表情だけは守り抜ける男でありたいと思う。

 翌日、営業課で顔を合わせた石田先輩は、いつものように余裕綽々、元気いっぱいだった。
「おはよう霧島。昨夜はメール誤爆してなかっただろ?」
「当たり前ですよ。今後も末永く気をつけてください」
 俺は溜息交じりに答えてから、先輩の表情を盗み見る。
 昨夜、社員食堂で小坂さんと一緒にいた時は、随分くたびれていたようだった。でも今は疲労の色なんて微塵も窺わせていない。隙を見せるのはあくまで小坂さんの前でだけ、ということなんだろう。
 忙しい時期ともなれば誰だってくたびれるし、心の余裕もなくなるものだ。先輩のような人ですら、メールの誤送信なんて取るに足らないミスをするくらいなんだから。そしてそれだけくたくたになっていても、先輩は小坂さんを大切にしようとしているし、わずかでも繋がっていたいと思ったのだろう。
 俺は初めて、そういう先輩の恋愛ぶりを微笑ましいと思った。
 これは大いなる心境の変化だ。言うなれば既婚者の余裕というやつだろうか。
 だから復讐ではなく、祝福のつもりで告げてみた。
「先輩」
「ん? どうした霧島」
「年下の彼女に甘えられる関係って、いいですね」
 俺の言葉に石田先輩は目を瞠った。
 何か考えるような微妙な間の後、内心を悟られまいとするみたいに目を細めて、でも声はいささか慌てた様子で言った。
「な……何でだよ、急に。何か知ってるみたいな言い方すんなよ」
 どうやら今の指摘は効果覿面のようだ。妙にあたふたしているし、視線が泳ぎ始めている。先輩にとってそういう一面は、人にあまり知られたくないものらしい。
 他人が聞けば羨ましがるに違いないのにな。七つも離れてるのに、年上の男に甘えさせてくれる女の子なんて結構レアじゃないだろうか。
「別に、知ってるってわけじゃないんですけど」
 俺は落ち着き払って応じた。
「でもそうだったら、さぞかし幸せだろうなと思ったんです」
「……どうだか。重たいって思われてないか不安だよ」
 ぼそっと呟いた先輩は、その後で俺を軽く睨んだ。
「けどお前、何か知ってるだろ」
「いいえ、知りませんけど」
「嘘つけ」
「強いて言うなら、そうじゃないかなって予想がついたんですよ、何となく」
「何だそれ。既婚者なりの経験則ってやつか」
「かも、しれませんね」
 俺はにっこりしたせいか、先輩はさも嘆くように額に手を当てる。
「霧島もいつの間にやら性格歪んだよなあ。昔は素直で可愛いルーキーだったのに、とうとう先輩の私生活まで透視するようになりやがったか」
 それはどうだろう。
 もしかすると今の俺は、ここ数年では最も、先輩に対して素直かもしれないのに。
「きっと啓蒙されたんですよ。営業課の先輩がたに」
 ここぞとばかりに言ってやったら、石田先輩は悔しそうに苦笑した。
「うわ、腹立つな……! 何でそういうとこだけ、素直に影響されちゃうんだよお前は」
「全く素直じゃないよりいいじゃないですか」
 俺はその悔しそうな顔を眺めつつ、内心でこっそりと快哉を叫んだ。
 たまには、素直になってみるのもいいものだ。
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