Tiny garden

素直(1)

『今日寒いのに送ってけなくてごめんな。さっき家着いて飯食った。しばらくは忙しい時期だし、一緒に帰るのも難しいだろうけど、今週末は必ず時間作るから。土日は心ゆくまで一緒にいような!』

 ――というメールが、俺の携帯電話に届いていた。

 早朝、暖かい布団の中で目を覚まし、時刻を確かめようと枕元の携帯電話を覗き込んだらメール受信のランプが点滅していた。寝る時も眼鏡を外さない俺はそのまま携帯を操作して受信メールを確かめ、その内容に朝っぱらから数秒間フリーズする羽目になった。
 これは何だ。
 どこの誰からだ。
 そもそも土日は無理です俺、妻と二人で過ごすと決めてますんで!
 ぐらぐらする頭を叩き起こしつつ送信先を確認すると、そのメールは石田先輩から送りつけられたものだった。となればこれは送信ミス、俺宛てのものではないだろう。それにしたって何事かと目を剥くくらいには衝撃的だった。おかげで朝の五時だというのにすっきりと頭が冴えてしまった。
 全く、あの人も何をしているのやら。
 このメールは百パーセント確実に、小坂さん宛てに送られたに違いない。
 俺と彼女のメールアドレスを間違うなんて先輩らしくもないミスだ。でもメールにある通り近頃は仕事が忙しい時期だったし、くたびれて家に帰ってから細かい作業なんてしたら間違うこともあるだろう。先輩の携帯がどういう仕組みかは知らないけど、俺も小坂さんも『か行』の名字だから、電話帳から呼び出す際に間違えた可能性もなくはないのかもしれない。
 問題はそこじゃない。どうして間違えたかということじゃなくて。
「……誰からのメール?」
「わっ」
 すぐ横で声がして、俺は携帯電話を落っことしそうになる。
 振り向くよりも早く、隣で寝ていたはずのゆきのさんがむくっと頭を起こした。うつぶせになってメールを見ていた俺に顔を向けると、少しとろんとした顔で微笑む。
「ごめんなさい。メール、見えちゃった」
「いや、いいですよ」
 間違えた送ったのは先輩なんだし、こうして第三者に読まれてしまうのもやむを得まい。さすがに他の人に公開して回ろうなんて思っちゃいないけど、妻に対してはこそこそ隠しておけばかえって誤解を招くだろうし、先輩のメールがきっかけで夫婦の危機なんて起きては困る。こんなことがあったんですよ、と妻に説明するくらい構わないだろう。
 とは言え、ちょっとどきっとした。
 何で俺が焦らなくちゃいけないんだ。先輩のミスのせいで!
「石田先輩からです。間違いメール」
 俺はさりげないそぶりで答える。
 するとゆきのさんは、初めからわかっていたみたいにくすくす笑った。
「映さんが誰かに誘われてるのかと思っちゃいました」
「そんなわけないですから……」
「冗談ですってば。石田さんからなら、藍子ちゃん宛てでしょう」
「そうですね。先輩、返事が来ないってへこんでないといいけど」
 このメールが俺のところに届いて、かつ、俺宛てに『悪い、間違えて送った』的な連絡が来ていないのを踏まえるに、石田先輩はまだ誤送信の事実に気づいていないのだろう。
 メールの送信時刻は昨日の深夜だ。俺は来るはずのない小坂さんからの返信を待つうち泣きながら寝落ちる先輩の姿を想像して、申し訳ないながら危うく吹き出しかけた。あの人なら返事がなければ電話をかけてそうだから、実際にそうはならないだろうけど。
 にしても、石田先輩が小坂さんに宛てるメールを覗き見たのは初めてかもしれない。
 普段はちょっと、俺なら口に出すのも憚られるような過激な発言もする先輩だけど、彼女宛てのメールにはきちんとした温かい文章を書くみたいだ。生活感の窺えるメールは、下手に飾り立てた甘い言葉が並ぶメールよりも愛情が滲み出てくるように思えて、見せられたこっちが恥ずかしくなる。
 誤送信とは言え、見てしまったことに罪悪感もある。
「これ、何て言って切り出そう……」
 俺は携帯電話を置くと、枕に顎を乗せてぼやいた。
 いくら慎みのない石田先輩と言えど、プライベートの、しかも彼女に宛てたメールを他人に読まれたくはないだろう。しかし俺が黙っていたところで先輩の携帯電話には送信履歴も残っているだろうし、知らないふりはできそうにない。メールは受け取っていたけど見なかった、という言い訳はぎりぎり有効かもしれない。ただそれを言うなら俺には嘘をつきとおす豪胆さが求められるだろうし、あいにくと俺はそういう嘘をつくのが滅法苦手な人間だった。
 そうなればもう、正直に言うしかない。
 言って、メールを見てしまったことを詫びるのが一番いいだろう。
「大丈夫。石田さんならそんなことで怒ったりしませんよ」
 ゆきのさんは俺を励ますみたいに言うと、一足先に、するりと布団を抜け出した。
 肌寒い季節の朝方、布団から彼女が消えると一気に温もりまで逃げてしまったように感じられる。俺は少しばかり寂しい気分になりつつ、メールを閉じた後の携帯電話の画面を睨むようにして見つめていた。
 別に怒られるとは考えていない。
 ただ、気まずい。もしかすると先輩自身より、俺の方が気まずく思っているかもしれない。

 罪悪感というのも、メールを見てしまったことだけに限らない。
 これで石田先輩の打つメールがハートマーク乱舞、砂糖菓子に蜂蜜をかけたような激甘仕様だったならまだしも――って自分で考えておいてどんなものか想像つかないけど、例えば映画みたいに歯の浮くような台詞の連発で、読ませられようものなら全身かゆくなって堪らなくなるメールだったなら罪悪感もまだわずかだっただろうし、何を送り間違えてるんですか妻に誤解されるのでやめてくださいよ! と軽く告げることもできただろう。
 だけど先輩の実物メールは意外なほどおとなしく、日常的で、何より温かいものに感じられた。まず謝罪から入るというのもそうだし、ままならない繁忙期でもきちんと彼女を大事にしようとする意思も垣間見られた。
 だから、かえって恥ずかしいと言うか。
 身近な人間の恋愛する姿を目の当たりにするというのは、何とも落ち着かない気分になるものだ。例えば小さな頃、両親のキスシーンを目撃してしまった時のように。あるいは学生時代、ふざけてばかりの友人が彼女の前で借りてきた猫のようになっている場面に居合わせた時のように。
 人格というのは多面的なものであり、俺の身近な人たちにだって俺の知らない顔があるのは当然だろう。そういう一面をこの度、微量ながらも覗いてしまったことに、俺は罪悪感と身悶えするような気恥ずかしさを覚えていた。
 石田先輩と小坂さんがいちゃいちゃしているのも見たことはあるし、と言うか営業課ではもはや日常、風物詩みたいなものだし、プライベートの二人とも会ったことはあるし一緒にお酒だって飲む機会もあった。だからこういうのも今更なはずなのに――。
 先輩は本当に小坂さんが好きなんだろうな。改めて思った。
 それはそれでいいですから、朝っぱらから見せつけないで欲しいんですが。

 出勤時も俺はぐずぐずと後ろめたさを引きずっていたけど、ゆきのさんに励まされてどうにか会社まで辿り着く。
 早めに来たにもかかわらず、営業課には既に人がいた。むしろ、あの人がいつも早くに出勤してくるとわかっていたから、俺も時間を合わせて出勤してきたつもりだった。
「おはよう、霧島」
 ドアを開けるなり、軽く片手を挙げてきた石田先輩が見えた。
「おはようございます……」
 俺は気まずい思いで答えてから、まずは室内に入り、きっちりドアを閉めた。
 それから声を潜めて、
「あの、先輩。折り入ってお話が――」
 と切り出したのと同じタイミングで、先輩が思い出したという顔になる。
「お、そうだ。お前んとこに俺のメール、間違って届いてただろ?」
 先に言われた。
 さすがに俺は慌てたけど、言わなくちゃいけないことはわかっているつもりだった。
「届いてました。すみません、中身を開けて読んでしまって……」
「え? ああ、いいよいいよ。普通読んじゃうだろ」
 石田先輩は手をひらひらさせて、俺の謝罪をあっさりかわした。
 そうは言われても俺はこういうのは気になってしまう方だ。
「でも、申し訳ないと思ってたんですよ。プライベートのメールを無断で読んじゃったわけですから、本当にすみません」
 改めて詫びると、そこで石田先輩は驚いたように目を瞬かせた。
 すぐに、口元にはにやりと笑みが浮かぶ。
「何だよ、らしくもなくやけに殊勝だな、霧島」
「ら、らしくもなくって何ですか!」
 こっちは結構気にしていたし、どう切り出そうどう詫びようと考えながら出社してきたというのに。
 俺がとっさに言い返すと、先輩はにやにやしながら続けた。
「むしろこっちは、お前がこのメールをネタに強請ってくるんじゃないかって思ってたくらいだぞ」
「そんなことしませんよ! 俺はものすごく申し訳ないって思ってて!」
 何て言い種だ。こっちは一応気遣おうとしていたのに。俺は心底憤慨した。
 対照的に石田先輩は、声を立てて笑っている。
「気にすんなよ。メールを誤送信したのは俺の方なんだし、それで中身見られたからっていちいち怒んないって。とんでもないもの見せやがって、って抗議も受け付けないけどな!」
 確かに先輩なら、他人にメールを見られたくらいで気にしなさそうだと思う。
 思ってはいても、ちゃんと謝らないといけないと俺は考えていた。だからこうして謝ってるのに、まともに受け取ってももらえないというのはどうだろう。何だか心配していた分だけ一層むかついてくる。
「あ、もしかして、俺のメールに当てられちゃったとかか?」
 申し訳なさ余ってむかつき百倍の俺に、石田先輩は容赦のない追い討ちをかけてきた。
「あの短い文面にも俺たちのラブラブっぷりが溢れてて目の毒だったって?」
「そ……それは正直ありますけど! だからこそ見て悪かったなと――」
「おかげさまでお付き合いも順調なんで! いやー悪いな見せつけちゃって!」
「……わざとミスったんじゃないですよね、先輩?」
 本人がこの場にいるわけでもないのにでれでれと惚気始める先輩に、俺は思わず尋ねずにいられなかった。
 途端、石田先輩は待ち構えていたようにわざとらしく首を竦める。
「お前が気に病むならそういうことにしとくか。今回のは俺の盛大な惚気ってことで」
「いえ、別に、そういうことにしなくてもいいですけど」
「ま、とにかく気にすんなよ」
 そう言って先輩は立ち尽くす俺の肩を叩くと、
「俺も以後は、くたびれてる時でも送信先を厳重確認するように心がけるから。お前も目の毒っていうんだったらさっさと忘れろ。俺は気にしないからな」
 軽くいなすように言い残して、俺の傍を離れていく。
 それならと俺も気を取り直して、携帯に残ってたメールを消去してしまうことにした。
「起き抜けに読んだんで、結構な衝撃でしたよ」
「そりゃ悪かった。大層な目覚めになったな、霧島」
「全くです。小坂さんにはちゃんと送り直したんですか?」
「ああ。今朝起きて、返事ないなと思ってよく見たら、お前に送ってたのに気づいた」
「気づいたんだったら俺にも一言くださいよ……」
「どうせ会うし、その時言うかって思ったんだよ。まさかお前が気に病むなんてな」
 石田先輩は至って軽い調子で主張する。
「何せ俺の中の霧島のイメージったら、メールをネタに俺をからかおうとする小悪党的な感じしかなかったからな。何て言って強請ってくんのか、いっそ楽しみにしてたのに」
「しませんってば!」
 俺は反射的に言い返したものの、一時期は石田先輩に復讐を誓い、いつかぎゃふんと言わせてやろうと思っていたことはあった。ので、あまり強く反論できないところが弱い。
 そこまで言うんなら本当に復讐してやろうか――と思った時にはもう、指が無意識のうちに件のメールを削除していて、結局切り札にもし損ねた格好だ。

 でも、解決してしまったならしたで若干気に食わない。
 俺は早朝から今までという短い間ではあったけどそれなりに悩んだし、メールを見てしまったことへの罪悪感も気まずさも引きずりつつ出社してきたというのに、先輩のこの余裕綽々の態度はなんだろう。腹立たしい。
 大体、先輩なんて小坂さんと付き合う前はあれこれ悩んだり、仕事でどうしても彼女を叱らなくちゃいけなくなって落ち込んだり、小坂さんからビジネスメールかと見紛うような畏まったメールを貰ってまた落ち込んだり、その他いろいろ、恋する男の情けなさを存分に晒していたというのに、付き合い始めた途端にこの世の春みたいな顔で毎日毎日幸せそうにしている。悩みなんて何もなさそうで、余裕たっぷりで――別にもう少し悩め苦しめなんて思っているわけじゃないけど。

 どうせなら俺に恥ずかしいメールを見られて、いたたまれなさに慌てふためく先輩を見てみたかった。
 何で俺の方がいたたまれなくなったり慌てたりさせられなきゃいけないんだ。理不尽だ。
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