Tiny garden

お砂糖とスパイスと何か素敵なもの(2)

 女の子同士のきらきらしたおしゃべりとはまるで対極にあるのが、男同士の雑談である。
 この雑談の『雑』は乱雑、猥雑、粗雑、その他ありとあらゆるごちゃごちゃとした小ぎれいでもないものたちという意味合いしかない。そのくらい俺たちの会話は無秩序で脈絡がなく品性にも理性にも欠けている。

「……『俺たち』に先輩がたはともかく、俺は含めないで欲しいんですけど」
 霧島はそんな自覚のないことを言うが、奴も同類である事実は誰より俺が知っている。
「まーたそうやって自分だけは違うって顔しやがって」
「違うじゃないですか。俺は先輩がたみたいに始終品のない話はしてません」
「お前なんて二言目には嫁さんの二の腕揉みしだきたいって言ってるだろ」
「言ってないですよ!」
 ぎりっと歯を剥き出しにして反論された。いや、多少の誇張はあるかもしれんが似たようなことは言ってるだろ。違ったか?
「と言うか、やめてくださいよ職場でそういう話は」
 うんざりしたように言う霧島は、これでも一応仕事中だ。営業課の自分の席で年季物のラップトップと向き合っては忙しなくキーボードを叩いている。
 もちろん俺も仕事中、むしろ絶賛残業中であって、今宵は書類の整理に追われていた。我が営業課のかわいこちゃんこと小坂はついさっき退勤してしまったし、他の営業課員も続々と帰宅の途に着いていた。
 ってことで、現在営業課にいるのは俺と霧島の二人だけだ。華もなければときめきもない、何とも冴えないツーショットだった。
「お前と二人きりだとテンション下がるから、あえて盛り上げようとしてんだよ」
「しなくていいです。盛り上げて何になるんですか」
「捗んないか、仕事」
「捗りませんね、全く」
「何が違うんだろうなあ。ガールズトークと、俺たちの会話と」
「もう、何から何まで違いますよ。被ってるとこはこれっぽっちもないです」
 残業も夜十時を回れば開き直ると言うか、疲れもピークなせいでくだらないことばかり口をついて出る。まして相手が霧島となれば言葉や話題を取り繕う必要もないし、脳裏に浮かんだ事柄をそのままろくに考えもせず放ってしまうこともしばしばだった。
 そして本日、俺と霧島が仕事をしながらだらだらと断続的に話しているのは、あのきらきら眩しい小坂と霧島夫人とのガールズトークについてだった。どうやら霧島夫人は家で小坂との話をよくするらしく、霧島にとってもそれは非常に羨ましく、眩しいものであるらしい。
「仲がいいのはもちろんいいことなんですけど」
 と、霧島は溜息混じりに語る。
「女性の友情って、男には理解できない世界でもありますよね。いつの間にそこまで距離縮まったんだろう、みたいに思います。まるで数年来の友達みたいなことを言ったりとか」
「あるある。知人から友達に繰り上がると、途端に近いよな、距離感が」
 俺もつくづくそう思う。
 仲良くなるとあっさり二人きりで買い物に行けたりとか、即座に名前で呼び合うようになったりとか、意外とプライベートな話題まで話せるようになってしまうらしいところとか、男同士にはない距離の縮め方じゃなかろうか。
 しかし常々疑問なのは、藍子ちゃんは霧島夫人とのそのとんとん拍子な発展ぶり、交友を深めるまでのスピード感をなぜ俺に対しては出せなかったのだろう。膝突き合わせてじっくり話し合いたいところでもあるが、それが同性と異性との付き合い方の違いだと言われればそれまでだ。ましてこっちは一応、上司でもあるわけだし。
 だからまあ、そういうものだと思ってはいるんだが。
「お前の奥さんも『法案』って言う? 法案が成立したばかりなので、とか」
 気になっていたことを尋ねると、霧島は笑いを堪えるような声で答えた。
「言いますね。小坂さんとの秘密の暗号らしいですよ」
「暗号なあ……。結構、ばればれなのにな」
 俺の脳裏では秘密を抱えて楽しそうにしている彼女の微笑が鮮明に再生されている。そういう女の子らしい藍子ももちろん可愛い。でもその可愛さは俺の知らない事柄――つまり女の子同士のきらきらした秘密に起因するものだと思うと、やっぱり羨ましいって言うか眩しいって言うか寂しいって言うか、ぶっちゃけ多少は妬けてしまう。
 だがそれでも、俺は藍子が大事にしたがっている秘密を尊重してやりたいと思っている。
「あれって、ダイエットのことなんですよね」
 しかし霧島くんはずばりと答えを口にして、秘密を作られている事実を広い心で受け止めようとしていた俺を大いに呆れさせた。
「あー、言っちゃった。霧島くんってば言っちゃった」
 囃し立てるように俺が言うと、奴は食い気味に反論してくる。
「え、だってそうですよね? 間違ってます?」
「間違ってるかどうかという問題じゃなくてだな。デリカシーねえなって話だよ」
「先輩に言われると、むちゃくちゃ傷つくんですが……」
「そこはわかっててもあえて黙ってるのがマナーってもんだろ」
「でも、ばればれじゃないですか。先輩だって気づいてたんですよね?」
 当然ばっちり気づいてましたが、それはそれ。
 あの二人が秘めたがっている単語をずけずけと口にするなんて無神経だろう。知らないふりをしてやるのが男の余裕ってやつですよ。
「お前って学生時代、委員長なんかやってるような口やかましい女子に『霧島くんって本当に無神経なんだからー』とか言われてた方だろ」
 俺は冗談半分で霧島のデリカシーのなさを指摘した。
 だがどうも、その当て推量が実は図星だったようで、こっちを向いた霧島は若干傷ついたような顔をしていた。目が合うと重々しく息をつく。
「……俺、女子にはよく、空気が読めないって言われてました」
「わかるわかる。言われてそうだもんな」
 霧島くんは恐らく、学生時代も無駄に生真面目で杓子定規な子だったのでしょう。ちょいとばかしませた女子たちに糾弾の集中砲火受けてる姿まで想像ついちゃうわ。目に浮かぶようだわ。
 その辺の古傷にはこれ以上触れないことにするとして。
「そういうのも含めて、可愛いよな女の子って」
 しみじみと呟いてみる。
 ばればれの秘密を共有し合って楽しそうにしてるところも、あっという間に仲良くなって男なんて立ち入れないくらいの距離感を形成しちゃうところも、男にやたらと空気を読ませたがる繊細さも。
 というより、男の俺が考えも及ばないような女の子らしさの全てが可愛い。
 もちろんそれらが全部きれいなもんじゃないってことは承知しているし、可愛い子が負の感情を全く持たないかと言えばそうではなく、あの藍子だって時にはどろどろした重いタールみたいな気持ちを抱え込んでは持て余したりもするのだって知っている。それは男でも女でも関係なく、誰にでも持ちえるような当たり前の感情だ。そういうものと女の子の可愛さは、何ら矛盾することなく存在し得る。
 突き詰めて言えば、俺が男だから、女の子は可愛いって思うんだろうな。俺が持ち得ないもの、考えもつかないこと、霧島がさっき言った『何から何まで違う、被ってるところがこれっぽっちもない』数々の相違点が、可愛く思えて仕方がない。
「俺としては、何でよりによって『法案』と呼んでんのかってとこが気になるな」
 仕事を片づけながら、俺は疑問点を述べてみる。
「堅苦しいって言うか、あの二人とはそぐわない単語だよな」
 すると霧島は思い出したように表情を緩めて、
「違法行為だかららしいですよ」
 と言った。
「何が違法?」
「ダイエットの必要な時期に、ケーキやらお菓子やらを食べるのが、です」
 そして奴は憎たらしくなるほど優しい表情を浮かべ、更に続ける。
「ゆきのさんがそれらしいことをうっかり口にしてました」
 どうやら霧島夫人にもスパイの才能はないらしい。俺にはまるで隙のない、完璧そうに見える人なんだが、旦那の前では案外隙だらけで、うっかりすることだってあるものなんだろう。当然だがあの人もまた、可愛い女の子なのである。
「それで法案か。だったらダイエット中にケーキ食べてもいい法案作りゃいいのに」
「そういう問題じゃないと思いますよ、先輩」
「でも、そこまで追い込んで自分を縛ることかよって思うだろ」
「まあ……正直、必要ないですよね二人とも、ダイエットなんて」
 そうそう、断じて必要ない。
 ダイエットと言い、秘密の暗号と言い、女の子は必要のないものが好きなのかもしれない。いや、男にとっては不必要だと思えるものたち、と言うのが正しいか。
「それとも実は、やってみたら案外楽しかったりすんのかな」
「ダイエットがですか?」
「ああ、そっちもあるけど、暗号ごっことかも」
「どうですかね……。俺も小学生の頃はやりましたけど」
 俺もガキの頃ならやってた。さすがにいい大人になってからは考えたこともなかったが、藍子と霧島夫人は実に楽しそうだし、もしかしてやってみたら意外とハマるもんだったりすんのかな。
 ふと思いついた俺は、キーを叩く音を響かせている霧島に切り出した。
「なあ、霧島」
 かたっ、とキーボードの音が止む。
「やりませんよ俺は。先輩と暗号ごっこなんて寒すぎる」
 一刀両断されたことよりも、何も言わないうちから当てられたことにびっくりした。
「何でわかった!?」
「先輩の言い出しそうなことなんてわかりきってます。長い付き合いですし」
 実際、霧島と俺は無駄に長い付き合いだった。霧島と奥さんよりも、もちろん俺と藍子よりもずっと長い。もっともそんな俺たちが共有してきたのはこれまた実のない、乱雑、猥雑、粗雑なばかりの年月だったりするのだが。
「けど藍子たち見てても楽しそうだろ。やってみたいなって気になったんだよ」
「いえ、先輩? あれは可愛い人たちがやるから許されるんであってですね」
「そう言うけどお前はともかく、俺は普通に可愛いだろ?」
「どこがですか。ちっとも可愛くないです」
「何だよ素直じゃねえなあ。本当はちょっと興味持っちゃったくせに」
「ないですから。大体三十過ぎたおじさんが暗号ごっこなんてどうなんですか」
 口の悪い霧島は、俺の若干デリケートな話題にまで触れてきた。素直じゃないのか、素直すぎるのか、どっちにしてもかちんと来た。
「何だと! お前だってあとちょっとで三十だぞ!」
「でも俺はまだぎりぎり二十代ですし!」
「そんなもんただの悪あがきだ! もうおじさんに片足突っ込んでんだよお前は!」
「片足ならまだいいでしょう! 先輩は頭のてっぺんから爪先までおじさんですよ!」
 男同士の不毛な会話は営業課はおろか、午後十時を過ぎた廊下にまで響いていたらしい。こんな時間でもまだ残っていた奴は他にいたようで、不意にノックがしたかと思うとほぼ同時に営業課のドアが開いた。
「こんな遅くに何をくだらない口論してるんだ、お前ら」
 安井だった。
「喧嘩なら仲裁は人事課で請け合おうか」
 いち早く残業を終えて帰るところなのか、人事課長殿はコートを着込んでいた。戸口に立ち、こっちを見て愉快そうな顔をしている奴に、俺と霧島は口々に訴える。
「聞けよ人事課長、霧島が寄る年波から目を逸らしてんだ!」
「目を逸らしてるのは先輩でしょう! いい年して暗号ごっこがしたいなんて!」
「暗号ごっこ? 何だそれ、石田の新しい趣味か?」
 双方の言い分を聞いた安井はきょとんとした。そりゃそうだろう。
「藍子と霧島の嫁さんがやってんだよ。それがちょっと楽しそうでさ」
 俺が経緯を軽く説明すると、途端に奴は吹き出した。
「だから真似たくなったって?」
「まあな。そういうことやってるのが可愛いんだよな、傍で見てて」
「だからってお前と霧島がやったところで、気色悪い結果にしかならないだろ」
 きっぱりと言い切った安井は肩を竦め、 
「想像するのも虚しいからやめておけ。どうせ何やったって、あの人たちの可愛さには遠く及ばない。そもそも女の子たちと俺ら男どもは違う材料からできてるんだから」
 と諌めてくる。
 それはわかってる。俺がいかに可愛い三十一歳であろうとも、藍子や霧島夫人の可愛さには敵いっこない。暗号ごっこにしたって、俺たちがやってもせいぜいただのサバゲーかぶれ程度にしか思われないことだろう。何なんだこの格差。
「いいから二人とも、低俗な雑談はやめてさっさと残業を終わらせたまえ」
 安井はまるで自分だけは違うとでも言いたげに、やたら偉そうに言い放った。
「低俗なのは先輩がただけですよ。俺は違います」
 霧島もこの期に及んでそんなことを言うが、事実に反しているのはもはや言うまでもなく。
「俺たちの会話と藍子たちの会話って、何が違うんだろうなあ」
 何となく、改めて呟いてみる。
 中身のなさに関してはもう、俺たちの圧倒的勝利だと思うんだが。

 後日、俺はまたしても小坂好みのお土産をいただく機会に恵まれた。
 今回はマドレーヌだ。小坂はまだダイエット続行中なんだろうか、そうだとしてもまた朝飯に食べるとか言うだろうな。食べない、受け取らないという選択肢はないところが彼女らしいし、俺としても持ち帰り甲斐がある。
 営業課に戻った俺は、取るものもとりあえず土産のマドレーヌを小坂のところへ持っていった。もちろんまっしぐらに出向いたというふうに見えないよう、ちゃんとワンクッション置いて、何気ない感じを装いつつ声をかけた。
「小坂、マドレーヌ食べるか?」
「いいんですか? わあ、ありがとうございます!」
 小坂は電気が点いたみたいに表情を輝かせ、俺の手からお菓子を受け取る。
 そしてにこにこしながら俺を見上げた。
「ちょうどお腹空いてたんです。早速いただきますね!」
 眩しい笑顔と見事な食いしん坊ぶりに、俺はときめいていいのか笑っていいのかわからなくなり、結局両方実行した。
 いや、だって、こんなに素直に喜んでもらえるとな。口元が緩んでくるのを隠すのだって難しい。でも営業課では周囲の目もあるし、あんまりにやにやしていると主任としての威厳にも関わるので、ちょっと深呼吸なんかして気を落ち着けてみたりして。
「けど、お前、法案成立したとか言ってなかったか?」
 挙動不審なのを誤魔化す為、俺は小坂にそう尋ねた。
 今日は食べるんだな、という驚きもあった。前回のバウムクーヘン、あれからまだ二週間と経ってない。
 自分の席でマドレーヌの袋を開封し始めていた小坂は、そこでふと手を止めた。俺を見て数秒間硬直した後、にわかに慌て出した。
「あ、あれ、主任、ご存知だったんですか……!」
「――あ!」
 俺も思わず声を上げる。
 そうだった、小坂からは『法案』なるものの存在こそ聞いていたが、その意味までは教えてもらっていなかった。言われるまでもなくばればれではあったものの、知らないふりをしてやろうと決めていたはずじゃなかったか。つい、ぽろっと口に出してしまったが、これは小坂と霧島夫人の秘密だったはずなのに。
 視界の隅には居合わせた霧島の呆れ顔がある。デリカシーないのはどっちですか、と睨まれているようで、全くだと俺は思った。
「ごめんな小坂、黙ってようと思ってたんだが、うっかりして……」
 急いで詫びると、小坂もぶんぶんとかぶりを振る。
「い、いいんです別に! こちらこそお気を遣わせてすみません!」
「けど、せっかくお前が秘密にしてたことなのに」
 本人から打ち明けてもらったならまだしも、勝手に推測しといて口にしてしまうのは本当に駄目だ。デリカシー皆無だ。俺は当然気に病んだ。
「いえそんな、ばればれかなとも思ってましたし、全然大丈夫ですよ!」
 しかし小坂はそう言うと、柔らかく笑んでみせた。
「むしろ、知ってたのに黙っててくださって、ありがとうございます」
 まさかお礼を言われるとは思わなかった。
 虚を突かれた俺が言葉を失えば、まるでとどめを刺すみたいに彼女は、ぽつりと小さな声で付け足す。
「やっぱり主任は優しい方です。私も、主任みたいになりたいです」
 それから小坂は恥ずかしさからか、赤くなった頬っぺたを隠すみたいに俯いた。
 俺は、一応勤務中だし、営業課に居合わせた面々から一連のやり取りについて訝しそうな視線を浴び続けてもいたので、そこで踵を返して自分の席に戻った。
 でも、あんなふうに言われて、平然としていられるだろうか。

 周囲からの視線を振り切るのと、自分の表情を隠す目的もあって、俺は猫背気味に机へ向かうとしばらく項垂れながら仕事をしていた。でも腹の中では失言したことへの動揺と、それを他でもない小坂にフォローしてもらったことへの複雑な感情とがぐるぐる渦巻いていた。
 失言については俺が悪い。それはもう間違いない。
 だが小坂がそれを自ら庇ってくれて、おまけに俺が黙ってた理由を察してくれて、優しいとさえ言ってくれたことには、もう、何と言っていいのか。
 やっぱり好きな子には、いつでも優しい男だと思われたい。
 そんな俺の気持ちを、小坂がどこまで汲んでくれているのかはわからないが――。
 営業課中に漂う妙な空気がいたたまれず、やがて俺は面を上げた。そうしたら即座に、さっきからこちらを見ていたらしい小坂と目が合った。彼女は俺に気づくと改めてにこっとしてくれて、俺もしょうがないので、思いっきりにやにやしてしまうことにする。
 可愛いなあ、と心底思う。
 女の子らしいところももちろんそうだが、それだけじゃなく、こういう時に笑いかけてくれるところも、もしかしたら随分前から俺が顔を上げるのを待っててくれたのかもしれないところも、秘密の暗号を解読した俺を責めるでもなく優しい言葉をかけてくれたその気持ちも、全部がもれなく可愛い。
 女の子は得てして皆可愛いものだ。
 でも小坂の可愛さは特別仕様だ。つまり、俺専用の可愛さだ。

「……先輩、それこそ小坂さんと暗号で会話したらどうですか」
 後になってから、霧島にはうんざりした顔で言われた。
「先輩はあからさまにだだ漏れなので、傍で見ている俺たちの目が眩みます」
 そんなに眩しいってことですか。いや申し訳ない。
 暗号でのやり取りってのもいい案だとは思うが、俺の場合、会話を暗号にしたところでだだ漏れじゃないかって気がしなくもない。
 小坂もそうだけど俺だってお互い相手の前じゃ隙だらけだから、周囲に隠し通せやしないだろう。どうやら俺にもスパイの才能はないみたいだ。
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