Tiny garden

お砂糖とスパイスと何か素敵なもの(1)

 規模の大きな展示会へ行くと、割と豪勢なお土産をいただけたりする。
 本日は市内の有名店のバウムクーヘンをいただいた。バウムクーヘンの語源の通り、木の年輪のような模様がついた丸い奴だ。コンビニで売っているようなのとは違ってサイズも大きく、俺の顔くらいはある。聞いた話によれば大変美味いらしく、甘い物好きの人間であればぺろりと平らげられるそうである。
 仕事で出向くのであっても、展示会でいただいた品は役得としていただいてもいいことになっている。
 そういうわけで俺もボールペンやらクリアファイルやらストラップなんかを会社の机にたくさん溜め込んでおり、それらはいざって時にいくらでも使い道があるのだが、お菓子となると時々扱いに困る。
 何せ俺はお菓子をそれほど食べない。甘い物が嫌いなわけではないし、全く食べないというわけでもないが、さすがに顔ほどあるサイズのバウムクーヘンを一人でぺろりといけるほどの度量はない。かと言って食べ物を粗末にするのは言語同断、それならば誰かに譲るのが道理に適っているが、賞味期限もあるものだし、そうそう譲る先があるわけでもない。全く、ボールペンなんかの方がまだ使いでがあるのに、と内心愚痴ったことも一度や二度ではなかった。
 以前ならこういうお菓子の行き場はそのまま営業課の片隅の机の上か、あるいは冷蔵庫の中と決まっていた。皆に『どうぞ食べてください』と告げて、必要があれば人数分切り分けたり爪楊枝を刺したりラップをかけておいたりして、皆にも始末を手伝ってもらうのが常だった。男所帯の営業課員どももお菓子好きはそれほどいないが、一人一切れ程度なら休憩ついでに食べてもらえて、うちだけで手に負えなければよその課にもおすそ分けしたりして、結果一日もあればどうにかなくなったりする。
 だが今は違う。
 近頃ではお土産にお菓子を貰ってその始末に困ることがなくなった。それどころか待ってましたとにんまりしたくなる。ボールペンやクリアファイルやストラップの方がまだいい、などと罰当たりなことも思わない。諸手を挙げて、お菓子様の我が懐へのお越しを心より歓迎する所存である。
 何せ今の営業課には、甘いお菓子をぺろりと平らげ、俺からのお土産をいい笑顔で喜んでくれる、愛すべき食いしん坊がいるのだ。

「ほーら小坂、バウムクーヘンだぞー」
 俺は持ち帰った件のバウムクーヘンを箱ごと彼女に差し出した。
 外回りから戻ってきたばかりの小坂は大きな瞳を丸くしてから、しばらく忙しそうに俺とバウムクーヘンの箱とを見比べていた。
「えっ。これ、どうなさったんですか?」
 少ししてからおずおずと尋ねてきたので、俺は得意になって答える。
「展示会の土産。俺は食べないから、お前が食べていいぞ」
「本当ですか!」
 ぱあっと顔を輝かせた小坂が俺の手から箱を受け取った。そうしてすごく幸せそうに手にしたバウムクーヘン入りの箱を見下ろす。外側に記された店名を認めた途端、その表情が一層輝きを増した。
「すごい……! これ、あの有名なお店のですよね?」
「そうらしいな。俺は食べたことないけど」
「えっ、そうなんですか。ここのバウムクーヘン、すっごく美味しいんですよ!」
 さすがは食いしん坊、そこらの有名店の情報は既にお持ちのようだ。そこまで喜んでもらえたんならこっちとしても贈りがいがある。
「でも、これ、いただいちゃっていいんですか?」
 小坂もまたただの食いしん坊というわけではなく、そこでちょっと遠慮がちにするのが奥ゆかしくていい。俺を気遣うように見上げて、
「主任も召し上がったことがないなら、一度試してみてはいかがですか? 本当に美味しいんですよ。生地はふんわりしっとりで、でも外側のグレーズがぱりっとしてて……」
 と熱心に続ける。
 彼女が本心から俺に勧めてくれているのはわかるし、そういう気持ちもそれはそれで嬉しいものだ。だが熱っぽく語られれば語られるほど、じゃあ今回は俺が、などと今更言う気は起こらない。小坂が本当にこのバウムクーヘンを美味しいと思っているのが伝わってくるからだ。
 そんな彼女からどうして、この美味しい品を奪い取ることができよう。
「いいから、お前が食べろよ。うちの課の連中はほとんどそういうの食べないし、俺もお前の為に持って帰ってきたんだから」
 俺は小坂を宥めるように告げた。
 好きな子にはいつでも心の広い、優しい男だと思われたい。そういうアピールができる機会は逃しません。
「いいんですか?」
 小坂はもう一度、受け取ったばかりの箱と俺の顔を見比べる。バウムクーヘンには大分心を惹かれているが、まだひとかけらの遠慮が残っているというふうだった。だからこっちもダメ押しで言っておく。
「今日は甘い物の気分じゃなくてな。だからお前が食べてくれると助かる」
 その言葉はまあ、概ね正しくはある。
 甘い物の気分でもないのは事実だ。勤務中にこってり甘いお菓子を食べたくなることってそうそうない。だがそれ以上に、今回は小坂の喜ぶ顔が見たいというのが本来の目的であって、俺は小坂がにこにこ嬉しそうにしてくれたらそれだけでもうお腹いっぱいになれてしまう。だからその為ならバウムクーヘンなんてぽんと貢ぐ気でいるし、そうして小坂の笑顔をいただくことによって本日の残りの仕事も乗り切れるであろう。
 いつものことながら、何という低燃費そしてエコロジックな俺。地球環境にだってばっちり優しい。もちろん小坂に対しては更に更に優しい男ですがね。
「そういうことでしたら……」
 俺のダメ押しを聞いた小坂は、ようやく表情を綻ばせた。えへ、とあどけない少女みたいな笑い方をして、大事そうに箱を抱えてみせる。
「ありがとうございます。いただきます、主任!」
 いやはや、素晴らしい笑顔でございました。
 この期に及んでいちいち言うまでもないことだが、本当に小坂は可愛い。天使かというレベルで可愛い。いや、どっちかって言うと犬か。むしろ全面的に犬だ。ぶんぶん振ってる尻尾が見えてしまうような可愛さだ。俺は特別犬好きだというわけでもないんだが、小坂藍子という一個人は本当に、心底、世界に存在するどんなものよりも果てしなく大好きである。あ、これも今更言うまでもないな。
 さておき、そんな可愛くも最愛の彼女にして、やはり可愛くもひたむきな部下でもある彼女を喜ばせる機会は全てものにしたいというのも極めて正常な男性心理というやつであり、だからこそ俺はお土産でお菓子をいただくと、しめしめという気分になる。これを持ち帰って小坂にあげたらきっと喜ぶだろうな、という事前の妄想だけで幸せになれるし、実際渡して喜んでもらえると妄想なんて吹っ飛ぶくらいのときめきを食らってしまう。だから展示会のお土産はいっそ全部お菓子になればいいのに、とさえ近頃では思っている。誰だ、ボールペンの方が使いでがあってまだいいとか愚痴ってた奴は。
 俺が小坂に、さながら餌づけのようにお菓子を進呈する姿は、営業課内でも割と生ぬるい目で見守られているようだった。他の課員からにやにやされるのはいつものことで、最近じゃお菓子を持ち帰ってきたとわかっただけで、
「よかったですね主任!」
 などと冷やかされる有様だ。
 営業課でも随一の口さがなさを誇る霧島はもっと酷い。全くもって遠慮がない。
「俺は先輩の、でれでれとだらしない顔を見るだけで胸焼けがします」
 小坂を構い倒してから意気揚々と仕事に戻る俺に、わざわざそんな可愛くないことをのたまう。
「それはつまり、俺がそれほど甘いマスクだとそう言いたいわけだな」
「断じて違いますよ、先輩」
 おまけに冗談が通じず、ツッコミ一つとっても非常に手厳しい。もっと温かい目で見てくれてもいいのにな。俺が小坂にでれでれなのも、今に始まった話じゃない。

 ところで、その小坂はバウムクーヘンの箱を営業課にある冷蔵庫内にしまい、家まで持ち帰ることにしたようだった。
 本日もお互い残業となって、長時間のデスクワークに備えて軽くつまむならバウムクーヘンはぴったりだと思ったんだが、結局今日の勤務中に箱を開けることはなかった。
 いや、どうせなら幸せそうに食べてるところを見たいとかそんなことを思ったわけではなくて、なくもないがそれは置いておいて、純粋に疑問を抱いた。小坂くらいの食いしん坊ならバウムクーヘンをつまみながらの仕事というのも普通にやってのけそうなのに、食べないんだな、と。
 ちょうどその日は上がりが同じくらいだったので、車で家まで送ってやる途中、本人に尋ねてみることにした。
「お前、バウムクーヘン食べなかったんだな」
 バウムクーヘンの箱は紙袋に入れられ、俺の車の助手席に座る彼女の膝の上にある。抱きかかえられたり膝の上に載せられたりとつくづく羨ましい箱だ。お前なんかとっとと食べられてしまえ。
「はい。明日の朝ご飯にしようと思って」
 そう語る彼女の笑顔がいろんな意味で眩しい。
「朝飯にバウムクーヘンだと……!」
「あれ、おかしいですか?」
「……お前基準ではおかしくないな。むしろ普通だ」
 小坂藍子は胃腸も滅法タフな子なのである。これが若さか。
「明日まで我慢できるのは偉いな。てっきり途中で味見するかと思った」
 俺がハンドルを握りながらからかえば、藍子はなぜかどきっとしたようだ。少し早口になって言われた。
「いえ、今はちょっと……」
「ん?」
「その、何て言うか、法案が成立したばかりだったので。明日の朝ご飯にするんです」
「ほうあん?」
 彼女の口から聞き慣れない単語が出てきた。
 ほうあんって……法案か? 成立って言うからにはそうだよな。多分。何の話だ?
 ちょうど赤信号で車を停めたので、俺は助手席に目をやる。膝の上の箱に大事そうに手を置く藍子は、ちょっといたずらっ子みたいな可愛い顔をしていた。もちろんいつも可愛いが、今の顔は何と言うか、年相応の愛らしさが覗いているようだった。
「法案って何だよ」
 俺の問いに、彼女は楽しそうに笑いを噛み殺す。
「えっと、一応内緒です」
「何だそれ。俺に隠し事か、藍子」
「だってゆきのさんと、秘密にしようねって約束したんです」
 霧島の奥さんの名前を藍子が口にするのもそう珍しいことではない。二人は思っていた以上に仲良くなったようで、最近じゃ二人だけで休日に出かけたりもするらしい。それはそれで楽しそうでいいと思うし、俺としても霧島の奥さんは知らない相手じゃないから安心もしている。多少の羨ましさはなくもないが、やっぱりそこは同性同士の方がしやすい話とかもあるのかもしれない。俺も霧島や安井とだけできる話とかあるもんな、大体藍子についての話だが。
 ってことは、藍子も霧島夫人と二人でいる時、俺の話とかしてくれたりするのかな。どんな話してるんだろうな。女の子同士の会話って謎めいているだけに、ロマンがある。一度でいいから居合わせて聞いてみたいものだ。
 閑話休題。そんなガールズトークと『法案成立』なんていう単語は若干そぐわない気もするのだが。
「それはいわゆる、女子のノリ的なやつか」
 信号が変わり、俺は車を発進させる。
 助手席では藍子がくすくす笑う。
「そうです。秘密の暗号なんです」
「秘密にするようなことかよ……。気になっちゃうなー俺」
 ねだるように言ってみたら彼女はちょっと慌てていた。
「いえ、全然大した話でもないんですよ。でもずばっと言うより恥ずかしくないから、普通に使っちゃうんです」
 ということは、『法案』とは藍子にとって多少言いにくい、恥ずかしい単語を指していると思われる。
 それでいて、バウムクーヘンを勤務中のおやつにせず、あえて朝ご飯にするという行動も見逃せない。その行動理念は法案なるものに基づいているようだ。
 その二点を踏まえた上で、法案とは何かを推測すると――。
 答えは、割と簡単に出た。
「……女の子って、そういう秘密作るの好きだよな」
 俺は、ずばり言うと『法案』が何を指すのかうっすらわかってしまったのだが、それを藍子に対して告げるのはやめておいた。女の子――まあ、二人とも女の子とは言ったらかえって失礼な年頃ではあるんだが、ともあれそういうきらきらした秘密に男が踏み込んでいくのも無礼で無粋なことだろう。だったら俺は藍子と霧島夫人の秘密を尊重したい。
 にしても、藍子は少々迂闊だ。秘密の暗号って言うけど筒抜けじゃないか。お前はスパイにはなれそうにないな。
 あと、法案を踏まえても、結局バウムクーヘンを丸ごと食べちゃったら意味なくないかというツッコミもしたくはあったが、それも黙っておく。いつも思ってるんだが、藍子はそういうの、気にしなくていいのにな。
「女の子って歳でもないんですけどね。そういうのも、たまにはいいかなって」
 照れて俯く藍子も可愛い。
 確かにそういう歳ではないはずだけど、俯きながらも微笑む横顔は、女の子と呼んでも差し支えないくらいにきらきらしていた。

 女の子同士の会話には謎とロマンが溢れている。
 俺には一生かかっても知ることのできない事柄だろうが、それだけに藍子と霧島夫人の関係が、少しばかり羨ましく、そして眩しく思えた。
▲top