Tiny garden

それもまたよくある話(2)

 ディナーショーの会場となる大宴会場は、ホテルの五階にあった。
 吹き抜けみたいに高い天井にはエンパイア様式のシャンデリアが惜しみなく設置されていて、円卓がいくつも並ぶ広い会場を照らしている。この宴会場の名前も『ボールルーム』とあって、落ち着いた雰囲気の内装と言い、毛氈みたいな赤みの強い絨毯敷きの床と言い、きりっとボウタイを締めた従業員の皆さんと言い、それこそ文明開化の時代の舞踏室みたいな雰囲気だった。

 会場に入っても私はそこそこ緊張していた。ホテルの雰囲気の荘厳さのせいでもあったし、食事が円卓形式で、全く見知らぬ人たちとテーブルを囲むことになっていたのも理由の一つだ。
 とは言え、石田主任がずっと隣にいてくれたのは心強かった。
「ほら藍子、こっちだぞ。ちゃんとついて来いよ」
 ともすればきょろきょろしたくなる私の背中に手を置いて、席まで連れて行ってくれた。
「ありがとうございます」
 お礼を言えばにっこり微笑んでもくれて、心強さにほっとする。こういう場でも主任の立ち振る舞いは大人っぽくてスマートだった。慣れているんだろうなと態度でわかる。
 同じテーブルの人たちも皆いい人そうで、着席前にした挨拶にも笑顔で会釈をしていただけた。私は主任の隣に座り、とりあえず軽く息をつく。緊張はまだ解れていないけど、意外と居心地よさそうな雰囲気だと感じていた。

 それにしても、当初私がイメージしていた通り、ディナーショーとはまさしく大人の集まりだ。紳士淑女の社交場だ。
 集った人々は礼儀正しく、司会者が話し始めればおしゃべりはやめて姿勢を正し、蔵元の方が日本酒の説明をしている間は熱心に聞き入っていた。振る舞われた地酒を乾杯する際も、やがて食事が始まり、代わりばんこに円卓を回す際も、誰もが品性を保って行動していた。
 事前情報の通りに着飾った人も多く、確かに着物の方、タキシードやカクテルドレスの方もちらほら見かけた。ただやはりそれほど畏まった席でもないからか、男性は普通のスーツ、女性もツーピースの方がほとんどのようだ。年齢層はやや高めで、私みたいな二十代のお客さんはそれほど多くなかった。
 しかしいかに若輩者と言えど、こういうところでお行儀悪い真似はできない。ましてや本日は主任のお供なのだし、気後れして背中を丸めていては格好がつかないだろう。
 だから私は背筋を伸ばして、グラスに注がれた日本酒を飲んだ。
「……どうだ?」
 一口飲んだ後、隣に座る主任が小声で尋ねてきた。
 日本酒をあまり飲まない私を気にかけてくれたのだろう。私自身、口に合わない可能性もあるかなと思っていたけど、その心配は杞憂だった。
「思ってたより飲みやすいです」
 私も声を潜めて答える。
 蔵元の方のご説明によれば吟醸酒らしいこのお酒は、お米からできたものだというのに果物みたいに甘い香りが立ち上っていた。最初の一口は意外にも甘いとさえ感じるほどで、ただ飲み込む時には酸味にも似た、舌や喉にじりっと来るような感覚があった。お正月に家で用意するお神酒よりもくせがなくて飲みやすく、爽やかな味わいだ。
 美味しい、と素直に思った。
 私、日本酒も大丈夫かもしれない。それともこのお酒が特別飲みやすいだけかな。
「それはよかった」
 主任は私の反応に表情を和らげつつ、そっと釘を刺してきた。
「だが飲みやすいからと言って飲みすぎるなよ。帰りが大変になるぞ」
「気をつけます」
 こんな大人の社交場で酔っ払って醜態を晒すのは絶対に避けたい。私は気を引き締めてお酒を味わった。
 でも苦手だろうと思っていた日本酒を美味しくいただけた、という事実は少しばかり私の心を弾ませた。何だかまた一つ大人になれたような気がする。気のせいかもしれないけど。
 おまけに円卓に並んだ食事もお酒によく合う素敵なラインナップだった。かつおのカルパッチョにほたての酒蒸し、サーモンのテリーヌなど、ディナーというよりはまさに肴という趣で、そこに美味しいお酒があれば飲むのも食べるのも大いに捗ってしまう。
「幸せそうな顔だ」
 私の表情を見て、主任が笑った。
 ふとそちらに目をやれば、主任はグラスの持ち方が上品できれいだ。ステムを強く握らず、指先にあまり力が入っていないような感じが、自然で大人っぽく見えた。
「だって、すごく美味しいですから。来てよかったです」
 答えた私は主任の真似をして、そっとグラスを持ってみようとした。
 だけどその時、照明が少し落とされて、マイクを持った司会の方がショーの始まりをアナウンスする。一点に絞られた眩いライトが、会場の両開きのドアに注がれる。
「お前のそういうところはいいよな」
 主任がグラスを置く。ちらっとだけ私を見て、短い間目を細めた。
「そうやって楽しそうにしてもらえると、こっちまで嬉しくなるよ」
 それから主任は開いたドアに目をやり、入場してきた地元出身の演歌歌手に拍手を送り始めた。
 ほぼ同じタイミングで会場中が割れんばかりの拍手に包まれ、私も慌ててグラスを置き、手を叩く。
 デビューしてまだ間もないらしいその歌手の方は、傍で見ると写真以上にきれいで華やかだった。長い髪をアップでまとめて、大きく背中の開いた青いロングドレスをまとっていて、しずしずとステージへ上がっていく姿には思わず見とれてしまった。ドレスの表面は人魚の鱗のようにスパンコールが輝いていて、そこにライトが当たるとちかちか煌いて見えた。
 でも、私がショーに集中できたかと言えばそうではなく――歌手の方が持ち歌だという初めて聴く歌を熱唱している間、私は幾度となく、ついつい石田主任の方を見てしまった。
 主任は行儀よく曲に聴き入っていた。一曲終わる度に拍手をする姿はそれだけで何だか格好よかったし、合間にちょっとお酒を飲む時のグラスの持ち方はやっぱり決まっている。そもそも着飾った人もいる中で、仕事帰りのごく普通のスーツ姿でありながら、こんな華やかな場所に違和感なく溶け込んでいるのがすごい。内面にある落ち着きが外側にも表れているのか、純粋にこういう場に何度も来る機会があって慣れているのか。両方なのかもしれない。
 見ている限り、歌手の方の白い背中に目が行きがちなのは、しょうがないかなって思う。私だってちょっと見てしまうくらいだから、男の人は一層だろう。だから別に、そういうのが気に入らないとかいうわけではないけど――。
 別の事柄が唐突に、何の前触れもなく胸をかすめて、少しだけ妙な気分になった。
 主任は、以前は誰と、こういう場所へ来ていたんだろう。

 ディナーショーは午後九時頃にお開きとなり、私たちは会場を出た。
 時計を見たわけではないので今が何時か、正確にはよくわからない。ホテル前のタクシー乗り場は長い行列ができていて、黙って待つにも随分時間がかかりそうだった。
「お前が平気なら、少し歩くか」
 主任は私にそう提案してきた。
「大きい通りまで出れば車拾えるだろ。ついでに酔いも醒ましたいし」
 でも言葉の割に、主任はさほど酔っているようには見えなかった。いつものようにしゃきっとしていたし、足取りだってしっかりしている。こういうところも大人だなあ、と思う。
 私もホテルを出た直後はあんまり酔っ払ってない、つもりだった。でも、普段から外で飲む時は気を引き締めているせいかあまり酔わないのに、飲み会が終わって家に帰ると途端に酔いが回るという、いいのか悪いのかわからない性質も持っていた。
 だから主任に少し歩こうと誘われた時はちっとも平気で、いくらでも歩ける気分でいたのに、夜道を二人でしばらく歩くと、だんだん靴裏で感じる地面がふわふわしてきた。そのうち足がもつれて、何もない歩道の上でつまづきかけたところを主任に抱き留めてもらった。
「大丈夫か?」
「す、すみません、大丈夫です」
 支えられながらどうにか地面に立ってみたものの、頭が妙にくらくらする。気分の悪さはないけど、多分かなり酔っ払っているんだろうなという自覚があった。
 主任はやっぱりな、という顔をして私を見下ろす。
「これはどう見ても飲みすぎだな」
「面目ないです……」
 美味しいお酒だったとは言え、ちょっと加減を読み誤ったかもしれない。今頃になってじわじわと効いてきた。ふう、と息をついたら途端に頭が重くなり、もう一度主任が両腕で抱えてくれる。
「全くもって大丈夫そうじゃないな。どっかで休んだ方がいい」
 そう言うと、主任は辺りを見回した。
 私もすっかり重たくなった頭を上げると、滲む街灯の光の中に公園があるのを発見する。よく街中にあるような、わずかにだけ遊具が置かれた小さな公園だった。
「ちょうどベンチがある。あれに座るか」
 主任も公園の存在に気づいたようだ。私の肩を抱きかかえると、そこまでゆっくり連れて行ってくれた。
 その公園はよくあるタイプのこじんまりとした児童公園で、ベンチの他にはシーソーが二台と、あとはブランコが設置されているくらいだった。こんな時間では当然、子供はおろか大人の姿だってあるはずがない。時折風が吹いてブランコが揺れると、黒ずんだ鎖が微かに軋む音を立てる。
 街灯の白い光が差しかかるベンチに座っていたら、主任が近くの自販機で買ってきた水のペットボトルを差し出してきた。
「ほら、飲め。ちょっとは酔いも醒めるだろ」
「あ、ありがとうございます」
 受け取った時にはもう蓋が開いていて、細やかな心配りにはっとする。
 冷たい水を喉に流し込むと少しだけ気分が落ち着いた。お酒のせいか体温が上がっているようで、ペットボトルの水の冷たさも、夜風の涼しさも本当に心地よかった。
 一息つくと、主任が座る私の顔を覗き込んでくる。
「気分は悪くないか?」
「大丈夫です。何かこう、ふわふわしてるだけです」
「そうか。だが明日はどうだろうな。今更言っても遅いが、気をつけろよ」
 主任がにまっとしたので、私も酔いの回った頭で明日の朝辺りに思いを馳せる。二日酔いになってないといいんだけど。
「あの、ご迷惑をおかけしました」
 私が詫びると、主任は笑いながら私の隣に腰を下ろす。
「気にすんな。つい飲みすぎることはあるからな、誰だって」
「そうですけど、一応釘を刺してもらっていたのに……」
「釘刺されてもうっかりするほど美味かったってことだろ」
 主任は私の反省の言葉を遮るように言った。酔いの回った頭には、そのすっきりとした笑顔がことさら眩しく映った。
「堪能してもらえたんならよかった。何だったら今度、今日の酒買って一緒に飲むか」
 それから私の肩に手を置いて、たしなめるように続ける。
「まあ、次に飲む時は程々にしろよ。潰れるまで飲んだっていいことなんてない」
「はい」
 私は深く頷いた。
 これでも一応いい大人なんだけど、まだまだ飲み方がわかってなかった、ってことなんだろう。今夜の日本酒がいくら美味しくても、ビールやカクテルのようにはいかないって、想像つきそうなものなのに。
 石田主任はこんなふうに、酔って私の前で醜態を晒すことなんて全然ないのに。
「正直俺もな、お前が美味い美味いって酒飲んでるの見て、悪い気はしなかった」
 それどころか主任はまるで責任を感じているみたいな口調だった。
「だからあんまり強く釘を刺す気にもなれなくてな……。相手がお前だから、何かあっても俺が連れ帰ればいいしって思ってたのもある」
 相手が私じゃなかったら、主任はもう少し強く止めていたんだろうか。
 相手が私じゃなかったら、――誰、なんだろう。
 酔っているせいだろうか。さっきも一度思ったくだらない考えが再び胸裏に過ぎった。
「それに、お前はああいう集まり、楽しめないんじゃないかとも思ってたからな。見ての通りお前みたいな若い女の子はほとんどいなかったし、出し物も演歌だろ。つまんない思いさせてるかと思いきや、結構楽しんでくれてたみたいでよかったよ」
 先日、誘ってくれた時からずっと、主任はそのことを気にしていた。
 つまり私が、ディナーショーを楽しめないんじゃないか、ということについてだ。
 それは心配りに長けている石田主任らしい気遣いだと思うし、実際私くらいの年齢の子はあまりいなかった。二十代半ばくらいの子が仕事上のお付き合い以外の理由で足を運ぶような場ではないだろう。演歌歌手はとてもお上手だったけど、その詩の世界まで理解したかと言えばそうでもないし、日本酒も私一人きりならこんなに酔っ払うまで堪能することはできなかった。
 でも、何となく、引っ掛かっている。いつもはこんなこと考えないのに、妙な考えが次から次へと浮かんでくる。
 もしかしたら主任は、私じゃない女の子をディナーショーに誘ったことがあるんじゃないかって、ふと思った。
 今回みたいに付き合いでチケットを買う羽目になった時、私がまだ入社する前は、一体誰と行ったんだろう。その人にはつまらないと言われたことがあって、だからそういうのを気にしているんじゃないだろうか。
 そんなことを、考えてしまった。
「……さて」
 主任が息をつく。
「どうする、もう少し休んだら歩けるか? 無理そうならここまで車呼ぶぞ」
 ぐるぐると思考渦巻く私の心を覗き込むみたいに見下ろしてくる。
 私は唇を引き結んだ。余計なことを言わないようにしようと思っていた。なのにすっかりできあがってしまった頭は感情的で、舌は迂闊すぎるほど軽かった。いつもは気にしないようにあえて努めてきた事柄に、つい、触れたくなった。
「あの、主任は……」
「今は勤務時間外」
 ぴしゃりと主任が言う。
 それはわかっているけど、今は、隆宏さんとは呼びたくない気分だった。そう呼んでしまったらいよいよ取り返しのつかないくらいの気持ちになりそうだったから。
「前は、こういうの、どなたといらしてたんですか」
 何かに取りつかれたような気分で私は、口を開いた。
 主任は一瞬、問いが理解できないというような顔で瞬きをした。それから苦笑を浮かべる。
「どなたってそりゃ……こないだ聞いてた通りだよ。まず霧島、奴が駄目なら安井、それも駄目なら課内の誰かに頼んだり、いっそ二枚とも差し上げたり」
 どうしてそんなことを聞くのかと言いたげな声だった。
 私もそう思う。どうしてそんなこと、気にするんだろう。どうして今頃になって気になっているんだろう。ずっと考えないようにしてきたのに。聞いたところでどうにもならないって、わかっているのに。
「……だ、誰か、女の人と行ったりもしたのかなって……」
 私は恐る恐る、聞いてもどうにもならないことを尋ねた。
 でも口に出してから酷く後悔した。膨れ上がっていた妙な気持ちに針で穴が開いたように、心が音を立ててクールダウンしていく。なぜ口にする前に気づけなかったのか、馬鹿だと自分ですぐに思った。
 もう遅いけど、聞くべきじゃなかった。教えてもらったらもらったできっとそっちの方が堪えるに決まっているし、すごく失礼な質問でもある。ずけずけと他人のプライバシーに踏み込む、最も恥ずべき行為だ。
 石田主任は私よりも七歳も年上だし、おまけにすごく素敵な人だ。今夜のディナーショーにだって自然と溶け込めるような。そういう人だから私と違って、過去にもお付き合いしていた人がいた話は聞いている。ちょっとだけ。その人がどんな人で、今はどうしているのかすら知らない程度だったけど、でも主任みたいに格好いい人なら彼女がいてもおかしくないだろうし、一人や二人じゃなくたって、ちっとも変じゃない。むしろ三十代の男の人なら普通なのだと思っている。いや、私が仮にどう思っていようと世間一般の常識ではそういうものだから、私も思うようにいつも努力している。
 だから、つまり、こんなこと、絶対に聞いちゃいけないんだ。
「はあ?」
 主任はつり目がちな瞳を真ん丸くして私を見る。その驚きように、私の後悔はいよいよ最高潮に達した。
「い、いえいえ何でもないです! 今の、やっぱりやめます!」
 慌ててまくしたてれば、酔いの回った頭に自分の声ががんがん響いた。
「いや、何でもなくないだろ」
 まだびっくりしたようすで、口元だけは軽く笑いながら主任は言うけど。
「じゃあ、ごめんなさい。こんなこと聞きたかったわけじゃないんです」
 私は謝ろうとした。途端、みっともなく声が震え始めた。
「こういうこと聞いたら、失礼だって私もわかってるんですけど……わ、わかってたつもり、だったんですけど……。昔のことだって気にしちゃいけないって思ってて、だから聞くべきじゃなかったって……今更ですけど」
 自分でも何を言っているのかわからなくなってきて、とても惨めな気分だった。この期に及んで言い訳がましいことばかり並べ立てているのも情けなく感じた。
 本当に、聞きたいわけじゃなかったのに。
 どうして迂闊にも口にしてしまったんだろう。
「……別に、聞きたいんなら聞いてもいいけど」
 私の荒れ狂う内心とは裏腹に、主任の声は明るかった。
「しかし、お前でもそういうの気にするんだな。今までまるっきり聞かれなかったから、興味もないのかと思ってた」
「興味あるって言うか、その、たまに気になっちゃう程度ではあるんですけど」
 戸惑う私の目の前で、主任はなぜか嬉しそうに笑んだ。
「へえ。たまに思ってるんなら、何でその都度言わない?」
「だ、だって、聞くべきじゃないかなって……」
 嫌がられるんじゃないかと思っていたのに、嬉しそうな顔をされると変な感じがする。でも現に、主任は笑いを堪えきれないといった様子でにやにやしているし、すごく楽しそうというか、上機嫌になってしまったみたいだ。
「何だよもう、言えよ、そういうのは! 俺はもうてっきり、お前はそういうのは気にしない子だと思ってましたよ。そうかそうか、藍子もちゃんとやきもちは焼いてくれるのか」
 浮かれ調子でそんなふうに言われて、私は一層まごまごした。
 いや、うん、やきもちだっていうのは事実だけど、否定しないけど――。
「な、何でそんな、嬉しそうなんですか!」
 私の問いに主任は、満足そうな息をつく。
「そりゃ、全く気にされないよりは気にしてもらえる方がいいに決まってんだろ」
「そ……そうですか? 何か、探るみたいで品がない気がしません?」
「赤の他人だったら嫌だけどな。お前にされるんなら一向に構わない」
 きっぱり言いきった主任が、私の頬を指先でつつく。酔っ払いらしく熱の上がった頬っぺたに、主任の指先は少し冷たく感じられた。
「でもな、お前を不安にさせるつもりもないから」
 と、笑んだままで主任は語を継ぐ。
「いいか、藍子。俺は今更お前に隠し事をする気はないし、その必要だってないと思ってる。お前が知りたいんだったら、何でも聞け。いくらでも、お前の望む通り正直に答えてやるよ」
 聞けと言われると、どきっとする。
 うろたえる私を目ざとく察したか、そこで主任は軽く吹き出した。
「そうだな、お前もわかってるだろ。俺は何ら隠すつもりはないが、お前が俺から何か聞いて、それでかえって不安になったり、やな気分になるっていうんだったら、そういうのは聞くな。どうせ実りのある話じゃない」
 今度は小さく頷いておく。
 私も、そう思う。不安が募るような話は聞くべきじゃない。それはわかっているんだ。
「そのくらいだったら昔話じゃなくて、お互いいい気分になれるような未来の話をしよう。そっちの方がずっと有意義だし、何より幸せだ」
 たった今言われたように、石田主任は未来の話ができる人だ。
 私はそういう視野の広さ、そして前向きで明るい心に惹かれた。主任みたいになりたいと思った。だというのに私が過去に――それも私が知るはずもない、知らなくてもいいはずの主任の過去にまで囚われるのは、まるで建設的じゃないだろう。
「すみません」
 私は改めて失言を詫びた。
 すかさず主任がかぶりを振る。
「何で謝る? 気にすんなよ、よくある話だこういうのは」
「そうでしょうか……。酔っているとは言え、失礼なこと聞いたと思ってます」
「失礼でもないって。やきもち焼くお前も可愛いから、たまにならいいぞ」
 やっぱり主任は嬉しそうにして、今頃になって恥ずかしい気分になってきた私の顔をじっと見つめている。私が思わず目を伏せると、押し殺すような笑い声が漏れ聞こえた。
「で、どうする? 聞きたいことはあるのか」
 確かめるように尋ねられ、私は少しためらった。
 でも最終的には素直に、本心から答える。
「……ないです。私、受け止める度胸もないのに聞いたりして――」
 言葉が終わるか終わらないうちに、主任は私の肩をぎゅっと抱いて、頬っぺたをくっつけてきた。私のよりも冷たい頬がまだ笑っているのがわかる。
「はいはい。わかったからそう気に病むなって、よくある話だって言っただろ」
 本当にそうだといいんだけど。
 こんな唐突な不安もそんなに珍しくもないよくある気持ちだというなら、たとえこの先何度同じような思いを抱いたとしても、今日みたいに軽く乗り越えてしまえるだろう。私は、私一人ならいろいろ考えてしまうけど、私の考え事に主任はいつも的確な返事と励ましをくれる。やきもちのやり過ごし方まで教えてもらえるなんて思わなかったな。
 でも、今までだってそうだったのかもしれない。私が普段、主任がいかにしてエスコートの上手さを身につけたのかとか、今までどんな恋愛をしてきたのかとか、気になるはずなのにちっとも考えずにいられたのだって、きっと主任が――隆宏さんがそういうふうに振る舞ってくれたからだろう。私が無意義で不毛なやきもちを焼かないように、不安な気持ちにならないように、いつも心を配ってくれていた。
 だから、今まで考えずに済んだなら、これからだって特に考えなくてもいいんじゃないだろうか。
「やっぱり、隆宏さんは大人ですよね」
 ペットボトルの水を飲み干し、私は大きく息をつく。
「そうか? 自分では結構大人げねえな、って思ってるけどな」
 隆宏さんはそう答えつつ、私の頬を軽く抓ったり、揉んだりして遊んでいる。
「だって圧倒的に俺の方が多いだろ。やきもち焼く回数とか、頻度とか、その他諸々」
「それはきっと、私の至らなさゆえだと思います」
「いや、お前を責める気はないけどな。だからお前も遠慮せず、たまには妬いていいんだぞってことだよ」
 そう言われても、私はできればさっきみたいな気分は二度と味わいたくなかった。隆宏さんを疑ったようなのも申し訳なかったし、聞いておきながら全部知る勇気がないのも惨めだと思った。隆宏さんはそういう私を可愛いと言うけど、正直、私はそういう自分に全く可愛さを見出せない。むしろ、格好悪い。
「やきもち焼かれるの、好きなんですか」
 少しだけ酔いが醒めてきた私は、隆宏さんに尋ねた。
 すると隆宏さんはにやっとして、
「わざと妬かせたいとは思わないけどな。何か今日のは、ちょっとぐっと来るやきもちでした」
「そ、そうなんですか」
「何かこう、お前が不安がってるの見るとよしよし、ってしたくなる。不安にさせたくないって気持ちもありつつ、俺が慰めたい的な欲求もあるんだよな」
 犬にするみたいに私の頬の辺りをむにむに撫でる隆宏さんは、確かに、例によって嬉しそうだ。
 でもいくら嬉しいからって、さっきみたいな根拠もないやきもちなんて――思考のループにはまりかけた私は、ふと思いついてもう一つ、尋ねたくなる。
「じゃ、じゃあ、もう一度質問いいですか」
「お、何だ」
「隆宏さんは……」
 思い出すのはディナーショーでの一幕、青いロングドレスを着た演歌歌手の姿だ。
「ああいうドレスを着た女の人、好きなんですか?」
「ドレス?」
 隆宏さんがきょとんとするので、私は説明を添える。
「今日、歌手の方が着ていたものです。時々、熱心に見てたから……」
「ああ、あれな」
 思い出したのか、隆宏さんは声を上げた。それからやっぱり笑い出して、
「ってか、それ知ってるってことは、藍子ちゃんは俺を熱心に見てたってことか」
「お、おかしいでしょうか。だってその、ずっと隣でしたし、お酒も入ってましたし!」
「いやいやいいですよむしろ嬉しいですよ。そっかそっか、俺って愛されてるなー」
 私が居た堪れなくなるようなことを言った後、隆宏さんは私に語る。
「けど、あん時は俺だってお前について考えてたんだよ。藍子がああいう背中の開いたドレス着たら、どんな感じだろうってな。何か口実つけて着せる方法はないものかと」
 ほら。やきもちなんて、全然必要ないみたいだ。
 必要こそなくても、隆宏さんがすごく喜んでいるから、全くないのもよくないのかもしれないのは難しいところだけど。
「俺って案外お前に妬かれちゃってたんだな! よしよし可愛い奴め」
 そうして隆宏さんは満足げに私の頬を撫でると、夜の公園に立つ街灯よりも明るい表情で言った。
「ま、それもまたよくある話だろ。やきもちなんて焼く必要もないからこそ、たまに焼かれるとこう、いいよな、みたいな」
 そうなのかなあ。そういうことかな。
 私は夜空を見上げてみる。丸い月が出た空はひっそりしていて、時折風が吹く以外はとても静かだった。大分酔いは醒めたみたいで、気分もすっきりしている。
 やきもちの必要はちっともなかったけど、何か、何て言うんだろう。
 惚れ直した、って言ったら生意気かなあ。でもすごく、そういう感じだ。
 ベンチに隣り合って座る隆宏さんの顔を横目でそっと盗み見た。隆宏さんもすぐに気づいてこっちを見て、私に向かって笑いかけてきた。
「どうした藍子。今夜は帰さないでください、って気にでもなったか」
「……いい笑顔で何を言うんですか、もうっ」
 私は目を逸らしたけど、別にそれでもいいかな、って気分にもなりつつあった。
 つまらないやきもちを焼いた後だ。この後はそれこそ二人で、有意義かつ幸せな未来の話をすべきだと思う。
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